2016年12月22日木曜日

沼津藩


沼津藩

 
駿河 譜代 沼津藩 五万石 静岡県沼津市(藩庁所在地) 水野家(大名名) 城主・子爵(大名の格) 外桜田(上屋敷) 帝鑑間(江戸城詰所) 丸二立沢瀉(まるにたちおもだか)(家紋の名称)

 慶長六年、上総茂原で五千石を知行する大久保忠佐(ただすけ)が三枚橋(さんまいばし)城主となり、二万石を領したことにより当藩は成立した。慶長十八年、忠佐の死後、無嗣絶家となり廃藩。
以後、頼宣(よりのぶ)領、幕領、忠長(ただなが)領となったが、寛永九年に忠長が除封になると、その後の約一五〇年間は幕領となった。
安永六年、若年寄水野忠友(ただとも)が側用人に昇進すると同時に七千石を加増され、城主として沼津の地を賜った。また、城の再築を許され、二万石を領して沼津藩を再び起こした。田沼時代の老中となり、二度の加増で三万石となった。養子忠成(ただあきら)が継ぎ、大御所家斉(いえなり)の時代に老中首座として活躍し、加恩により五万石を領した。

忠友=忠成(岡野知暁【ともあき】二男)=忠義(ただよし)=忠武(ただたけ)=忠良(ただよし)(忠武弟)=忠寛(ただひろ)(水野忠紹【ただつぐ】嫡男・側用人)=忠誠(たたのぶ)(本多忠孝四男・老中)=忠敬(ただのり)(水野忠明二男)

二代忠成は将軍世子家斉の小納戸(こなんど)役から次第に累進し、老中格にまで出世した。文政元年に老中首座に任じられると、家斉の信任を得、幕政を縦横に左右した。最初に手がけた事業は貨幣の改鋳で、益金は六十万七〇〇両余りであった。この功により一万石を加増された。五六人を数える将軍家斉の子女の縁組や婚儀もまた、忠成の裁量によるところのものが多かった。文政十二年、一万石の加増を受け五万石となった。

 沼津水野家は水野忠政の二男忠重の四男、忠清(ただきよ)を家祖とする。元和二年に刈谷二万石、次いで三河吉田四万石、松本七万石となった。忠職(ただもと)=忠直(ただなお)=忠周(ただちか)=忠幹(ただもと)=忠恒(ただつね)と在封し、忠恒が江戸城中で毛利師就(もろなり)に刃傷したため除封となったが、伯父忠穀(ただよし)が佐久七千石の旗本として家名存続を許された。嫡子忠友が竹千代(のち家治)の御伽(おとぎ)衆となり、累進して沼津城主となったものである。

 維新時は尾張藩と行動をともにし、新政府に帰順した。現在の沼津駅が城跡であるため何も残っておらず、街を歩いていても、ここが城下町だったという感じはしない。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じる。

(「ふるさとの藩」前田勤著 朝日出版社 平成81125日発行)

2016年12月10日土曜日

あす現地説明会 興国寺城跡で 土橋遣構確認 日吉廃寺跡の調査経過も

沼津市、あす現地説明会
 興国寺城跡で 土橋遣構確認
 日吉廃寺跡の調査経過も
 沼津市は11日、国指定史跡「興国寺城跡」(根古屋)7世紀後半~9世紀初頭にかけての寺院跡「日吉廃寺跡」(富士見町)で進めている発掘調査の現地説明会を開く。興国寺城跡では2016年度調査の結果、二の丸と三の丸をつなぐ土橋の遺構や外堀の痕跡を確認した。 (策部総局・中村綾子)
 興国寺城跡は戦国時代に関東一円を支配した小田原北条氏の祖、北条早雲の旗揚げの城として伝えられる。市は03年度から本格的な発掘を開始し本丸など大枠の調査を終了。16年度調査で見つかった土橋は、石積みの列などから数回にわたって改修。補強されたことが分かったという。
 日吉廃寺跡は豪族が立てた氏寺と考えられていて、これまでに塔址(とうあと)の礎石列や柱穴列、仏像の一部などが出土したが、基礎部分などの重要遺構は確認されていない。16年度調査では一帯が水田耕作で大規模に改変されていたことが分かり、市文化財センターの担当者は「寺院があったことは間違いないと思われるが、推定していた伽藍(がらん)配置などは再検討する」と話している。
 説明会は日吉廃寺跡が午前10時から、興国寺城跡が午後1時半から。希望者は直接会場へ。

【静新平成281210()朝刊】

2016年10月24日月曜日

ふるさと大平 第9回歴史講座・座禅・史跡めぐりウオーク












静止画像資料




大平の歴史学び、座禅とウォークも
 中将岩伝説の主人公に二説
 大平郷土史研究会(杉本武司会長)は「第9回歴史講座&座禅・ウォーキング」を二十三日、大平で開き、同地区以外の十四人を含む二十九人が参加した。
 歴史講座と座禅体験、史跡めぐりウォーキングの三つを合わせた取り組みで、最初に地区センターで開かれた歴史講座では、前大平地区連合自治会長で、同研究会の会長も務めたことがある的場達雄さんが「再び『中将岩伝説』の背景を追うー重衡か維盛かー」と題して話した。
 鷲頭山の大平側山中には中将岩と呼ばれる大岩があり、この岩について中将岩伝説(中将岩物語、中将姫伝説)と言われる物語が伝えられている。
 その物語の主人公である中将が、平重衡(本三位中将、清盛の五男)ではなく、平維盛(清盛の長男重盛の長男)であるとする説もあり、二人の生涯をたどるなどして、この二説を対比し、解説した。
 引き続き、二㌔程離れた鷲頭山麓の臥雲寺に移動。住職から座禅の組み方や座禅に関する話などを聴いた後、二十分程の座禅を行った。参加者達は、時計を見ることができないため、いつ終了時刻になるのかと考え、時間が長く感じられたという。

 同寺を後にすると、同寺とも深い関係のある近くの徳楽寺に移動、さらに山際を移動しながら大平の東端まで行き、そこから北上して道祖神や、点在する史跡などを見て回り、地区センターまで戻った。


【沼朝平成28年10月31日(月)号】

2016年10月1日土曜日

大正15年大火復興記念火鉢の画像 (〇家所蔵)









大正15年沼津の大火、大火復興に多くの市民からの寄付や皇族からの見舞金や国や他都市からの支援金で、復興がなされた。
この復興事業で、現在の沼津市中心街道路の形が築かれた。
そのときの復興事業部長は「名取栄一氏」であった。
きっと、その時に復興資金寄付をなさった方々が復興完成記念式で賜った記念の火鉢と思われる。
(掲載者自説)

沼津市史通史編近代より↓

2016年6月19日日曜日

3年後の兵学校創立150周年へ 記念事業実行委員会が総会

3年後の兵学校創立150周年へ
 記念事業実行委員会が総会
 沼津兵学校創立150周年記念事業(フレッシュ150)の実行委員会総会が十二日、市立図書館講座室で開かれ、人事や事業内容が決定された。二〇一九年の記念年に向けて、兵学校に併設された沼津病院の顕彰碑建設などに取り組む。
 沼津兵学校は静岡藩によって明治二年(一八六九)に開設された軍人養成学校で、廃藩置県で同藩がなくなるまで約三年半存続した。校舎は沼津城(現在の大手町周辺)の内部に建てられた。
 静岡藩は、明治維新によって倒れた江戸幕府の将軍家が移って生まれた藩で、幕府に仕えた武士達が藩士となった。兵学校の教職員も、かつては幕府に仕えていた人達で、全国区レベルの一流の人材が沼津に集まった。兵学校では先進的な理系教育が行われ、同校在籍者からは、軍人だけでなく様々な分野で活躍する人が世に出て、近代日本発展に貢献した。
 沼津病院は、兵学校消滅後は個人経営や会社組織化を経て駿東郡立となり「駿東病院」と改称。昭和二十年(一九四五)六月に医師不足などにより閉院となった。建物は翌月の空襲で焼失している。
 実行委員会は、教育史家で元国士舘大学教授の四方一瀰氏が委員長を務める。副委員長には、事業協力団体である沼津医師会の坂芳樹副会長、沼津香陵ライオンズクラブの大場俊雄氏、沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の千野慎一郎副会長がそれぞれ就任した。
 記念事業としては、西条町の沼津病院跡地での記念碑建立のほか、市民向け講座の開催や記念誌発行、兵学校ゆかりの地を巡るスタンプラリー実施などを計画している。
 記念碑の建立は、昭和十六年(一九四一)に史談会創設メンバーの一人である故大野虎雄氏によって計画されたが、未完に終わった。当時、大野氏は碑文原稿の揮毫を病院頭取(院長)だった杉田玄端の子息六蔵氏に依頼していて、その原稿は現存しているという。
【沼朝平成28年6月19日号】
 
意義深い沼津病院記念碑建立
 沼津史談会郷土史講座
 講師3人が位置付けなど解説
 一方、沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による沼津病院をテーマとした郷土史講座が同日の実行委員会総会終了後、会場を市立図書館視聴覚ホールに移して開かれた。
 四方氏、医学史研究者で順天堂大学特任教授の酒井シヅ氏、元明治史料館学芸員で国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏の三氏が講師を務めた。
 沼津の医と文化四方氏は、沼津病院が兵学校併設の医学所として始まり医師の養成機関としての側面も持っていたことを話し、当時の沼津は医療水準が高い地域であったことを解説した。そして、この医療水準が沼津の文化に与えた影響を論じた。
 明治以降に衛生学などの考え方が普及すると、開業医が多くて気候環境の良い沼津が保養地として発展した。多くの人が沼津を訪れるようになり、その中には横山大観などの画家に代表される文化人の姿も少なくなかったという。晩年を沼津で過ごした若山牧水も、こうした保養地文化人の系譜
に連なる。 来訪者に娯楽を提供するため、千本浜には新聞縦覧所や音楽堂が行政によって造られた。また、文化人の流入は、市内での絵画展覧会開催や、画壇結社の結成につながったという。
 四方氏は、沼津病院の存在による地域医療水準の高さを「医学遺産」と呼び、医学遺産が地域文化に与えた影響を高く評価した。
 杉田玄端とその時代
 酒井氏は、沼津病院の頭取を務めた杉田玄端を中心に、当時の病院関係者の社会的位置付けについて話した。
 明治八年に医師の免許制度が導入されるまで、医師は誰でもなることができる自称の職業だったという。そのため、当時の医師の社会的地位は低かった。
 しかし、「奥医師」など幕府に仕える医師は別格で、杉田玄端や副頭取の林洞海は、こうした幕府勤務の医師であった。
 また、杉田は西洋医学普及の先覚者として知られる杉田玄白の孫に当たり、当時の医学界の重要人物だった。他にも医学や蘭学研究の名門として知られる桂川家出身桂川甫策(かつらがわ・ほさく)も医師として沼津病院に勤務していた。
 幕末から明治初期にかけて、各地の藩では医学校を設置する動きが広がった。こうした動きの中で、当時の沼津病院は勤務者の顔ぶれから見ると、際立って大きな存在だったという。
 医学史の研究者でテレビドラマの医事考証も担当している酒井氏は、兵学校医学所や沼津病院の関係者について解説した後、「医学所の存在が地域の人々に、どのような影響を与えたか興味がある。明治初めの医学教育を知る上で沼津のケースは重要」だと話した。
 沼津病院顕彰の意義
 兵学校研究の第一人者として知られる樋口氏は、沼津病院が果たした役割についてまとめた。
 沼津病院は我が国最古の近代的病院ではなく、当時存在した幾つかの病院のうちの一つだが、江戸幕府が準備を進めた近代的な医療制度と明治時代以降の医療制度との架け橋になる存在だったという。
 現在、兵学校や附属小学校(現在の一小)の記念碑は存在するものの、沼津病院の記念碑はない。
 この状況について樋口氏は、沼津城と縁の深い兵学校の関連施設の記念碑が建立されることは、城跡の痕跡すらない沼津城の存在を市民に伝える一助ともなる、として、その意義の深さを指摘した。
【沼朝平成28年6月19日号】

2016年6月7日火曜日

フレッシュ一五〇シンポ 千野慎一郎

 フレッシュ一五〇シンポ 千野慎一郎
 平成三十一年(二〇一九)は、沼津兵学校が明治二年(一八六九)一月に開校してかち百五十年を迎えます。三年半と短い年月でしたが、沼津地域における教育・文化・医療など多方面で大きな恩恵と影響を与えました。
 これまで兵学校や附属小学校については、かなり市民に認知されていますが、附属施設として開設された、我が国でも最初の洋式病院の一つであった沼津病院(後の駿東病院)については、あまり知られていません。
 そこで、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)、一般社団法人沼津医師会、沼津香陵ライオンズクラブを中心に、沼津病院が存在した地元の第一地区コミュニティや沼津観光まちづくり市民の会も加わって沼津兵学校創立百五十年記念事業実行委員会(略称・フレッシュ一五〇)を立ち上げ、今年度から三年計画で、主に沼津病院を中心とした沼津の近代医療にスポットを当てた記念事業に取り組みます。
 六月十二日(日)午後一時から市立図書館四階講座室でフレッシュ一五〇の設立総会を行い、記念事業をスタートさせます。終了後、会場を視聴覚ホールに移して公開の記念シンポジウムを開催します。三人の講師を迎え、各々基調講演をしていただいた後、沼津史談会の匂坂信吾会長の司会で意見交換とまとめを行う予定です。
 講演1は四方一泓先生による「沼津の医と文化」です。四方先生は元国士舘大学教授(社会科学博士)で近代教育史の権威です。沼津市史編纂委員をされ、また、長年にわたり沼津兵学校の医療と文化の歴史についても研究されてきましたので、今回設立されるフレッシュ一五〇の委員長を務めていただくことになっています。
 講演2は酒井シズ先生による「杉田玄端とその時代」です。酒井先生は順天堂大学医学部特任教授で、順天堂大学内の日本医学教育歴史館館長でもあります。日本医史学会前理事長を務められた医史学の第一人者です。
 最近のNHKテレビ「花燃ゆ」や「とと姉ちゃん」などの医事考証や岩波文庫『ベルツの日記』の巻頭言など意外な分野でも活躍されています。ご両親は昭和の初め、千本に住んでいたこともあり沼津との縁もありました。
 講演3は、樋口雄彦先生による「沼津病院顕彰の意義」です。樋口先生は国立歴史民俗博物館教授で、明治史料館学芸員の経歴もある沼津兵学校研究の第一人者です。これまでも沼津では何度も講演されていますし、四月の沼津史談会の総会で「明治文化史のなかの沼津病院」という演題で講演されたばかりです。
 このように第一線で活躍の歴史研究者が揃う機会はそうありませんので、当日、ぜひ会場にお出かけいただきご聴議下さい。
 シンポジウムは六月十二日(日)、図書館四階視聴覚ホールで、受け付け午後二時から、開演は二時半です。入場無料。定員二百人で先着順です。
 問い合わせは事務局の関順一(電話〇九〇-三四五三-七四八九)まで
(フレッシュ一五〇準備委員会委員、宮本)
(沼朝平成28年6月7日「言いたいほうだい」)

2016年6月5日日曜日

三枚橋城と4人の武将:沼朝記事

 三枚橋城と4人の武将
城の歴史と武将の生涯に迫る
NPO法人海風47による郷土学習講座「沼津あれこれ塾」の第12回が先月、市立図書館講座室で開かれた。市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城主列伝」と題し、現在の大手町にあった三枚橋城の歴史と、城を治めた四人の武将の生涯について話した。
城誕生と上杉謙信 三枚橋城は、戦国時代末期の天正七年(一五七九)に武田信玄の子の武田勝頼によって築かれた。それまで城のなかった地に新たに城が築かれた背景には、上杉謙信の死が大きく関わっているという。
天正六年(一五七八)三月、越後(新潟県)の上杉謙信が病死すると、景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)という二人の養子による跡目争いが発生した。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの争いには、武田氏と小田原の戦国大名北条氏が介入し激しく対立。
争いは武田氏が支援した景勝派の勝利に終わったが、それまで同盟関係にあった武田氏と北条氏の仲は破綻し、一転して緊張関係となった。
当時、駿東地方では、黄瀬川を境界として武田領と北条領が隣り合っていた。勝頼は北条側への備えとして国境近くの地に三枚橋城を築いた。当時の常識では、国境近くに城を築くことは敵対宣言と見なされていたことから、武田氏と北条氏は戦闘状態に入った。北条氏は三枚橋城に対抗するため、現在の内浦地区に長浜城を築いた。
①春日信達 完成した三枚橋城の指揮官に選ばれたのが春日信達だった。高坂源五郎という別名でも知られる信達は、信玄家臣の名将として知られる高坂昌信の子で、兄の昌澄が長篠の合戦で戦死したため、後を継いでいた。
春日氏(高坂氏)の一族は、川中島の戦い以来の宿敵である越後の上杉氏への備えとして信濃(長野県)北部の海津城(長野市)を守っていた。しかし、御館の乱で武田氏が支援した景勝が当主となり両者は和解。信達は新たな敵となった北条氏への備えとして三枚橋城に派遣された。
駿東地方における武田と北条の戦いは、北条側の戸倉城(清水町徳倉)が城ごと武田側に寝返るなど、武田側の優勢で推移していたが、天正十年(一五八二)二月に織田信長が武田氏への攻撃を開始すると、状況は一変する。
信達は三枚橋城を放棄して甲府の勝頼のもとへ向かうが、疑われて合流を拒否されたため、かつての本拠地だった海津城へと退去した。勝頼が自害して武田氏が滅亡すると、旧武田領は織田氏や徳川氏によって分割され、海津城周辺の地は織田家臣の森長可(もり・ながよし)の領地となった。
信達は長可の家臣となるが、ここで再び状況が一変する。数カ月後の同年六月に本能寺の変が起きて織田信長が急死すると、旧武田領の織田氏の勢力は後ろ盾を失って大混乱となった。長可も本拠地の美濃(岐阜県)への避難を決意し、信達のような旧武田氏系勢力による報復を恐れて人質を取りながら美濃へと回かった。この時、信達など春日一族や他の旧武田家臣らは一斉に立ち上がって長可の帰国を妨害し、長可は戦いながら帰国を果たして人質を処刑した。信達の子は、この時に殺されている。
織田氏の勢力が信濃から消滅すると、北から上杉氏、東から北条氏が侵攻を始めた。信達は上杉氏の家臣となるが、上杉と北条との戦いの際に、北条側にいた真田昌幸の弟信尹(のぶただ)の誘いを受けて北条に寝返ろうとした。しかし、この企みは失敗し、信達は処刑された。
この信達の晩年の日々は、二月二十八日に放映されたNHKの大河ドラマ「真田丸」の第八回で大きく取り上げられている。
後に森長可の弟の忠政は信濃に領地を持つ大名となった。忠政は信濃に移ると、かつて兄を妨害した春日一族への報復を行い、一族を皆殺しにしたという。
②松井忠次 武田氏が滅亡すると駿河は徳川氏の領土となった。徳川家康は四男の松平忠吉を三枚橋城主に任命した。
しかし、当時の忠吉は一歳児であったため、後見人の松井忠次が忠吉の領地である河東二郡(富士川の東にある富士郡と駿東郡)を代理として治め三枚橋城を守った。
忠次は三枚橋城に入ってから一年余りで死去し、子の康重が後を継いだ。忠次の墓は市内の乗運寺にある。
松井氏は家康実家の名字である松平氏を名乗ることを許されたため、子は松平康重の名で知られる。豊臣秀吉による北条攻めでは、康重は豊臣軍に参加した徳川軍の先鋒を務めて箱根の間道を進んで小田原に向かった。
その後、北条氏が滅びて徳川氏が旧北条領の関東地方に移ると、康重も三枚橋城から武蔵騎西城(埼玉県加須市)に移された。江戸幕府成立後も康重は領地が移り、篠山(兵庫県篠山市)や岸和田(大阪府岸和田市)の藩主となった。このため、松井系松平氏の墓所は各地にあるという。
③中村一栄北条氏が滅亡して徳川氏が関東に移ると、駿河は秀吉家臣の中村一氏の領地となった。一氏は北条攻めの際に山中城の戦いで活躍している。
駿府(静岡市)を本拠とした一氏は、弟の一栄(かずひで)を三枚橋城主とした。
一栄は、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川(くいぜがわ)の戦いで負けた武将として知られている。
慶長五年(一六〇〇)、一氏は東軍に参加することを決めるが、病気のため軍勢を率いることができず、代わりに一栄を派遣した。
江戸を出発して美濃にたどりついた東軍は西軍とにらみ合いとなった。この時、西軍の中心人物だった石田三成に島左近(しま・さごん)という重臣がいて、左近は東軍を誘い出して待ち伏せ攻撃を行うことにした。これに誘い出されたのが一栄の部隊で、待ち伏せを受けて大敗。
しかし、翌日の関ヶ原の戦いでは東軍が勝利したため、東軍に参加した中村氏は領地を増やされて米子(鳥取県米子市)に移った。当主の一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去したため、子の一忠が後を継いだ。一忠は叔父の一栄を八橋(やばせ)城(鳥取県琴浦町)の城主とした。一栄は幼い一忠を補佐したが、まもなく死去した。
その後、大名としての中村氏は、一忠が跡継ぎを残さず早世したため、改易されている。
④大久保忠佐 中村氏が米子に移ると、家康家臣の大久保忠佐が三枚橋城主となり、沼津藩主となった。
忠佐は勇猛果敢な武将で、元亀元年(一五七〇)の姉川の戦いや、天正三年(一五七五)の長篠の戦いで活躍。姉川では松井忠次や、忠佐と同時期に興国寺城主だった天野康景も揃って活躍してる。長篠では、兄の忠世と共に鉄砲隊を指揮し、その戦いぶりは織田信長に高く評価された。
慶長六年(一六〇一)に沼津へやってきた忠佐は、政治家としても手腕を発揮し、牧堰を建設して水不足に苦しむ大岡地区一帯に農業用水を供給した。
忠佐は慶長十八年二六一三)に七十七歳で死去し、子の忠兼(ただかね)は先に死んでいたため跡継ぎがなく、大久保氏の沼津藩は改易された。市内の妙伝寺に墓があるほか、一小校庭の一角には忠佐を祭る道喜塚が建っている。
忠兼の墓は現在確認されていないが、市内の寺に葬られたという記録があることから、今後、市内で発見される可能性もあるという。
その後の三枚橋城主を失った三枚橋城は、慶長十九年(一六一四)に破壊された。この直前、忠佐の兄の子の小田原藩主大久保思隣(ただちか)が幕府内の権力争いに敗れて失脚していることから、「大久保一族への制裁の一環として三枚橋城も破壊されたのだろう」と鈴木館長は指摘する。
三枚橋城からは、歴史上の有名人も登場している。江戸時代初期のシャム(タイ)で軍人や政治家として活躍した山田長政は、大久保忠佐の六尺(駕籠を担ぐ係)をして
いたという記録が残されていて、沼津藩改易による失職が海外雄飛のきっかけとなったと考えられている。
おわりに 三枚橋城の歴史と四人の武将の生涯を解説した鈴木館長は、同城の特徴として、①国境の城であり最前線を守るために武闘派の要人が配置された、②城内に
町屋を取り込むなど城下町を持つ近世的な城の性格を持っていたが、軍事的な役割の城と見なされて行政の中心地として長続きできなかった、などの点を指摘した。
そして、「後に三枚橋城の跡地には沼津城が築かれたが、新たな藩主となった水野氏は、ほとんど江戸にいて沼津には不在だった。それに対して三枚橋城は城主が長らく住んだ城で、沼津の地と城主が身近だった時代の城。もっと市民に知ってもらい、顕彰の機会が増えていけば」と話して講演を終えた。
(沼朝平成28年6月5日号記事)

2016年5月9日月曜日

沼津街中ウオッチング(沼津史談会・フレッシュ150沼津ふるさと講座)

好天の中、平成28年5月8日(日)行われた、街中ウオッチング。




当日スライド資料




平成28年5月15日沼津朝日新聞記事

維新後の沼津の町並み形成
 史談会企画で市街地歴史探訪も
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第2回が八日、市立図書館講座室で開かれた。「沼津街中ウォッチング」と題し、同会会員の長谷川徹氏による講演の後、市街地の歴史探訪が行われた。
 講演で長谷川氏は、明治初期まで残っていた沼津城の構造や、城跡が民間に払い下げられて田畑となり、鉄道開通によって市街地形成が進んだ歴史などを話した。
 また、現在の西条町にあった沼津病院(駿東病院)についても紹介。
 同病院は沼津兵学校の関連施設として開業し、杉田玄白の孫の杉田玄端が頭取を務めた。沼津史談会創始者の故大野虎雄氏は、病院記念碑を建立するために玄端子息の六蔵氏揮毫の碑文を得るところまで事業を進めたが、記念碑の建立は実現しなかった。
 長谷川氏の講演の後、参加者一同で沼津城ゆかりの場所や、沼津兵学校附属小学校跡地、沼津病院跡地、三枚橋城主大久保忠佐を祀った道喜塚などを巡った。
 
再び沼津病院をテーマに
 沼津ふるさと講座の第3回、講師3人で
 「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第3回は、六月十二日午後二時半から市立図書館四階の視聴覚ホールで開かれる。
 二〇一八年の沼津兵学校創立百五十周年の記念事業の一環で、四月の第1回に続いて「沼津病院」がテーマ。
 内容は、教育史家で元国士舘大教授、四方一彌氏による講演「沼津の医と文化」、順天堂大教授の酒井シズ氏による講演「杉田玄端とその時代」、国立民俗博物館教授で元明治史料館学芸員の樋口雄彦氏による講演「沼津病院顕彰の意義」の三部構成。
 参加費は資料代として五百円。
 申し込みは沼津郷土史研究談話会の上柳晴美さん(電話〇九〇・一四一八・〇四三五)。
【沼朝平成28年5月15日(日)号】

2016年5月3日火曜日

史談会記念講演:「明治文化史のなかの沼津病院」樋口雄彦教授

明治文化史のなかの沼津病院
記念講演:樋口雄彦教授










2016年4月10日沼津病院樋口講演画像資料


平成28年5月3日(火)沼朝関連記事


一流の医師集めた沼津病院
静岡藩陸軍医局として開院
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による「フレッシュ150沼津ふるさと講座」の第1回が先月十日、市立図書館視聴覚ホールで開かれた。2018年に沼津兵学校百五十周年を迎えるにあたっての企画で、国立歴史民俗博物館教授で元明治史料館学芸員の樋口雄彦氏が「明治文化史のなかの沼津病院」と題して話した。
斯界リードする医師輩出
井上靖の祖父も学ぶ
沼津病院は沼津兵学校に併設された病院。建物は現在の西条町にあった。明治維新に伴い、徳川将軍家が江戸から駿河に移されて静岡藩が成立すると、藩士の軍事教育のため、一八六八年十二月に沼津兵学校が開校。開校時に陸軍医局が設けられ、これが翌年、一般人も受診可能な沼津病院となった。病院利用者は薬代の支払いのみで診察を受けることができたという。
沼津病院には、旧幕府に仕えた医師達が勤務していて、代表である頭取には杉田玄端が就任した。玄端は西洋医学書を翻訳して『解体新書』を著したことで知られる杉田玄白の孫に当たる。
また、地元出身の平民医師も在籍し、旧沼津藩の嘱託医師だった荻生洪斎のような人物もいた。
樋口氏によると、沼津兵学校を創設した西周(にし・あまね)は、兵学校を、軍人だけでなく官僚などの文官も養成する総合学校にする構想を持っていて、沼津の病院には医師養成機能も持たせようとしたが、教育機能は現在の静岡市に設けられた駿府病院に一本化された。
しかし、沼津からは多くの医師が誕生した。
兵学校附属小学校を卒業して医師への道を進んだ人物の中には、日本の精神医学の草分け的存在である榊淑(さかき・はじめ)や、荻生洪斎の子で後に現在の千葉大医学部の幹部となった荻生録造などがいる。
勤務医の杉田玄端らは当時一流の医師であったため、その弟子になろうとする人達もいて、そこから医師となった人物も多いという。その中の一人に作家井上靖の祖父井上潔がいる。
甲斐(山梨県)などの遠方からも患者が来るなど、その名が知られた沼津病院だったが、一八七一年の廃藩置県で静岡藩が消滅し、兵学校も閉鎖されると、病院も組織の改変を迫られた。以後は杉田玄端が経営する私立病院となり、経営安定のために会社化も行われ、運営資金の寄付も募られた。
さらに一八七九年、駿東郡長だった江原素六により郡立の公立病院となり、駿東病院と改称され一九四五年まで存続した。
沼津病院の意義について樋口氏は、一八六〇年代初頭の文久年間に長崎で国内最初の近代的病院が設立されて以降、江戸幕府が整備しようとした医療制度が本格的に始動したものであると指摘。また、当時一流の医師と最新の医療設備が沼津に集まっていた点についても触れた。
【沼朝 2016年(平成28年)5月3日(火曜日)】

2016年5月1日日曜日

ナゾのマチ沼津 渡邉美和

 ナゾのマチ沼津 渡邉美和
帰り新参である。長く沼津を離れ、三年前に戻ってきた。あらためて気が付くことも多い。以前、沼津に住んでいた時には当たり前だったことが、再発見とナゾの連続に変わるのだ。
たとえば、市街地の道路。この規模の市にしては、道幅も広い。安心して歩くことのできる広い歩道もかなり完備されている。もちろん、一歩市街地から外れれば、道路行政に対する不満は、まだまだ多い。でも、三叉路は少なく、道はほぼ東西南北に走り、まっすぐである。
郊外型ショッビングモールに押され気味の商店街だが、アーケード名店街のマチも、改めて見ると建築当時のモダンさが感じられる。どうしてこのような様式を取り入れることができたのだろうか。
ナゾはつきない。帰り新参の目からは、かつての三枚橋城(後に沼津城)は、決して攻防に秀でた施設ではないように見える。そもそも狩野川の水害を受けやすい比較的平らな土地である。そこに単なる砦ではなく、石垣を備えた本格的な城として三枚橋城が築かれたのだ。なぜ?後の沼津城は、城地の脇を東海道が通るという、本来の城の機能を完全に放棄している。
そして、その城跡はどこに行ってしまったのだ。
明治維新により、沼津は城という軍事施設との関連をすっぱりと断ち切ってしまったように見える。その代わりに人材育成に励むことになる。もともと甲斐の武田氏が築いた城は、築城後へ数百年を経て、「人な石垣、人は城」という武田氏本来の形を復活させたようにも思える。
沼津兵学校、その附属施設での日本で初の小学校教育、さらに近代的な沼津病院(後の駿東病院)などが明治維新後に立て続けに沼津に設置されたことにも合点がいく。沼津は城でなく、人を育成することで近代への貢献の道を選んだのだろう。
軍事施設と縁を切れば、道はまっすぐな方がよほど便利である。そして、それが商業の近代化も促進させたのではないだろうか。
来たる五月八日(日)午後一時半から市立図書館四階、第一・二講座室で第2回「沼津ふるさと講座」が開催される。今・回の講師は、本会会員で上本通り商店街理事の長谷川徹氏。同氏の豊富な沼津のマチに関する情報による、「ナゾ解き」が楽しみである。同氏を支えるスタッフも多く参加される。講座の後、沼津の歴史を探訪する「沼津街中ウオッチング」と併せて楽しみたい。
なお、「街中ウオッチング」では、会員以外は資料代五百円とスポーツ保険料百円が必要。申し込みと問い合わせは、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)研修部長の上柳晴美(電話〇九〇の一四一八の○四三五)まで。
(沼津郷土史研究談話会会員、南本郷町)
【沼朝平成28年5月1日(日)言いたいほうだい】

2016年4月16日土曜日

狩野川仲町岸の堤石垣出現


動画です





画像資料

2016年4月16日新居家河岸石堤画像資料



平成28年4月19日のマチケン隊新居家河岸石堤を探検





大正時代の仲町河岸の風景



沼津名所絵はがきより


丸子神社本町絵図(狩野川ダシが描かれている)


2016年4月3日日曜日

新幹線開通と停車駅など

 新幹線開通と停車駅など
 ふるさと塾 長谷川徹氏が解説
 一方、ふるさとづくり塾では、史談会会員の発表として、上本通り商店街理事の長谷川徹氏が「沼津の商店街-戦後昭和史3」と題し、昭和三十年代以降の市街地の歩みについて話した。
 その中で長谷川氏は、新幹線の開通と停車駅の問題について取り上げ、当時の国鉄は当初から沼津市街地を新幹線のコースから外していて、そこに沼津市や市民の意向は反映されておらず、市民や各種団体の反対のせいで沼津に新幹線駅が出来なかったという主張は誤りである、と強調した。
 当時の報道を調べた長谷川氏によると、昭和三十三年に新幹線の路線計画が報道され、そこでは沼津を避けたルートになるとされていた。
 三十五年二月に新幹線の建設予定ルートが国鉄から行政関係者に示されると、そこには沼津近辺のルートについて『石田北側-西熊堂―椎路北側―鳥谷ー青野ー井出・と説明がなされたとの報道があった、という。
 その後、三十九年に東京ー新大阪間が開業し沼津近辺は当初の説明通りのルートとなった。この時、新幹線の三島駅は存在しておらず、後に費用を地元が負担する形で建設され、四十四年に開業している。
 長谷川氏はこのほか、昭和四十年に開業した、現在の仲見世商店街と新仲見世商店街の間の旧国道一号の下にあった地下街「味のちか道名店街」についても話した。
【沼朝平成28年4月3日(日)号】

平成28年3月19日「異国船と村人」講師:青山学院文学部教授・岩田みゆき

平成28年3月19日「異国船と村人」講師:青山学院文学部教授・岩田みゆき


画像資料


2016年3月19日異国船と村人岩田みゆき教授画像資料



資料pdf




沼朝平成28年4月3日(日)関連記事
幕末期異国船への対応
戸田にも動き、勝呂家で記録
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第12回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館で開かれた。漁村史などが専門で沼津市史編さんにも携わっていた青山学院大学教授の岩田みゆき氏が「幕末期の沼津-異国船と村人」と題し、主に現在の市内南部地区の人々が異国船とどのように向き合ったのかについて話した。
当時も国際情勢への関心高く
ふるさと塾 青学大教授が解説
異国船への対応一八五三年のペリー提督によるアメリカ艦隊の来航以前にも、欧米の艦船は日本近海に出没しており、江戸幕府は対応を迫られていた。
一八四六年、アメリカ使節のビッドルが軍艦二隻を率いて浦賀に来航して日本との通商条約締結を求めたが、幕府の拒絶を受けた。一八四九年にはイギリス船マリナー号が相模湾の近海で測量を実施した。
こうした「異国船」が出現するたびに、幕府は警戒態勢を整えた。各藩に防衛部隊の出動を命じ、各藩は藩士を派遣するだけでなく、藩内の領民も動員した。
ビッドルの来航時、沼津藩は藩士を下田に派遣したほか、その一部が藩領となっていた戸田村では「郷筒」に出動準備を命じた。
郷筒とは、害獣駆除のために猟銃の所持を認められた人達のことで、沿岸警備の応援に投入される予定だった。しかし、ビッドルが帰国したため、実際に出動することはなかった。
マリナー号の際には、沼津藩は警備を担当していた東伊豆沿岸の台場(砲台)に藩士を派遣するとともに、戸田村では様々な作業に従事するための人足の動員が行われた。
また、いずれの際にも物資輸送のために船の動員も行われた。この動員は「取船(とりふね)」と呼ばれた。
飛び交う情報戸田村では名主の勝呂家によって異国船に関する様々な情報が記録された。村に対する命令や、それへの対応を備忘的に記しただけでなく、様々な風聞も記録した。ペリー来航時には、アメリカ政府の国書の和訳文を入手して転載している。
こうした村々の情報源となったのは、異国船対応のために動員された人達だった。
ビッドル来航の際には、取船の乗組員として現場に動員された船乗りが、緊迫した情勢を伝えている。それによると、異国船は「アミリカ」から来た大小二隻の軍艦で、大型の艦は大砲九十門を搭載していた。これに一対し日本側は、不測の事態に備えてアメリカ船を焼き討ちにする準備を進めた。火薬を積んだ船をアメリカ船に衝突させる計画だったという。
また、遭難して異国船に救助されて生還した船乗りの話も記録された。
文右衛門という船頭は一八五〇年一月六日に下出を出港した後、遠州灘で遭難。偶然発見した無人船に乗り移って漂流を続け、三月十日になって異国船に救助された。
この間に文右衛門は船乗り仲間に対して、「外国の捕鯨船に出会うこともあるから心配するな」と励ましていた。文右衛門は、それまでにも異国船に救助された経験があったという。
そうした過去の経験の中で、文右衛門は外国語をある程度理解していて、救助してくれた相手に「イキリス」の船かと尋ねたところ、「フラシヤ(フランス)」という答えが返ってきたという。その後、身振り手振りを交えて帰国協力の依頼をし、現在の岩手県の浜辺に送り届けられた。
文右衛門は異国人の生活を観察していて、フラシア人は米を食わずに「パン」という小麦の焼き餅を食べる、などと述べている。
終わりに岩田氏は講演のまとめとして、異国船の来訪に対して、村々では労働力提供などを命じられて負担も大きかったが、動員されて異国船の現場へと近づいた人達から貴重な情報を得ていたこと、日本人の船乗りは異国船や異国人に対して同じ船乗りとしてある種の親近感があったことなどの特徴を指摘。
そして、地域社会においても国際情勢への関心に高く、地域社会の歴史研究では、こうした新たな視点も重要になってくると話した。

歴史とまちづくり 匂坂信吾

 歴史とまちづくり 匂坂信吾
 沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の新たな市民公開講座第1回「フレッシュ150・沼津ふるさと講座」は、四月十日(日)午後二時半から市立図書館四階の視聰覚ホールで開催されます。
 今回は本会の平成二十八年度総会の記念講演として行うもので、国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏による「明治文化史のなかの沼津病院」と題する講座を「沼津兵学校創立百五十周年記念事業」の一環として計画しました。
 記念事業は、本会と一般社団法人沼津医師会、沼津香陵ライオンズクラブが中心となり、関係団体の皆様と共に、平成三十一年の沼津兵学校創立百五十周年に向けて、杉田玄端や林洞海、室賀録朗や佐々木次郎三郎など時代の最先端を歩んだ医師達が活躍した沼津病院(江原素六が関与して駿東病院となり約八十年間存続)の歴史的意義を探ることを中心テーマとしています。
 この取り組みは、沼津兵学校の重要な遺産である、明治・大正・昭和、そして現在に至る地域の医療と文化、教育や産業振興などの関わりを学び、「歴史を生かした沼津のまちづくり」に結び付けていこうとするものです。
 これに先立ち、午後二時頃から同じ会場で、お楽しみマチづくりセレモニー、及び本会の最高齢会員である矢田保久氏によるスピーチなどを予定しています。
 総会で会員に配布する会誌『沼津史談』第67号には、現在満百歳の矢田氏が昭和二十一年から数年間、旧制沼津中学の同窓生と共に、終戦後の焦土と化した郷土を再びよみがえらせようと、市民のための文化運動として取り組んだ「沼津自由大学」に関する特集が二十四ページにわたり掲載されています。
 大中寺の下山光悦住職(本会会員)が以前、矢田氏と行った対談の前半を掲載した昨年発行の会誌66号で、自由大学の話題が注目されました。本会では矢田氏が保有されている七十年前の、自由大学に関する資料が貴重なものであるため、関連する情報と併せて会誌に掲載するとともに、昨年開設したホームページの活用などにより、情報発信を図ることといたしました。
 講座の当日、会場の受付で会誌の第66・67号を展示・頒布(各千円。前者は残部僅少)しますので、購読を希望される方は受付でお申し出ください。
 市民公開講座への参加は定員二百人、先着順で、資料代五百円が必要です。
 また、入会希望者は事前に、あるいは当日、受付で入会手続きを行い、午後一時からの総会にご参加ください。年会費は一人四千円、夫婦会員は二人で六千円です。会員は会誌・会報、講座受講料など(一人当たり年間八千円相当)が無料となり、学習や旅行企画などの活動に参加しやすくなります。
 問い合わせと講座受講の申込みは、担当の上柳(かみやなぎ)晴美(電話〇九〇ー一四一八ー〇四三五)まで。
 (沼津郷土史研究談話会会員小諏訪)
【沼朝平成28年4月3日(日)「言いたいほうだい」】

2016年3月18日金曜日

陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲ資料・画像:講師 井口賢明氏


平成28年2月20日
第11回「沼津ふるさとづくり塾」
陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲの資料(pdf)と画像






資料です












画像です
2016年2月20日井口省吾の足跡3画像
 沼津史談会ふるさとづくり塾
 井口賢明氏が講師務め
 酒津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第11回沼津ふるさとづくり塾が先月開かれ、同会会員の井口賢明氏と長谷川徹氏が講師を務めた。井口氏は「陸軍大将井口省吾の足跡その3」と題し、大岡地区出身の陸軍大将の生涯について話した。弁護士で同地区在住の井口氏は、井口省吾の同族に当たる。井口日記を活字化して出版する準備を進めていて、年内に刊行予定だという。今回の講演は全三回の最終回で、明治三十五年(一九〇二)の参謀本部総務部長就任の経緯の説明から始まった。
 参謀本部総務部長就任から
 日露戦争経て戦後のキャリアへ
 参謀本部へ 陸軍大学校教頭を務めていた井口は、陸軍省に転任して課長として動務。上司である陸軍大臣を児玉源太郎が務めていた頃は円満な勤務状況だったが、大臣が寺内正毅に変わると、新大臣と激しく意見対立するようになった。
 この遠因には、当時の陸軍内の派閥抗争があるという。当時、明治維新で活躍した長州藩出身者が一大派閥を形成していて、井口は、それを批判的に見ていた。寺内だけでなく児玉も長州出身だったが、児玉は派閥にこだわらずに接することができたという。
 省内にあって不遇な井口に助け船を出したのは田村怡与造(たむらいよぞう)だった。参謀本部の総務部長だった田村は、同本部次長に昇任するのに伴い、井口を後任の総務部長に推した。
 井口は職務上に不可解な点があれば遠慮をしない性格だったので、日頃から井口は田村に対しても異議を唱えて両者は口論が絶えなかった。大声で怒鳴り合うこともあったため、田村が井口を後任に据えたことに対して、陸軍内では驚きの声が上がったという。
 山梨出身のため「今信玄」とも呼ばれた田村は井口に好意的で、その才能も評価していたという。田村は来るべき対露戦に備えて、参謀本部に優秀な人材を集めようとしていた。
 日露戦争このころ、中国大陸や朝鮮半島を巡る情勢から、日露の対立は激化。開戦は時間の問題で、戦争を始めるなら早い時期が有利、という主張が軍部や政府の内部に存在していた。
 これはシベリア鉄道の整備状況を見据えた議論で、ロシアが欧州の兵力を極東に派遣するのに必要な鉄道の整備が終了する前に開戦すれば、日本にとって有利になるという考え方だった。早期開戦論者の集まりは、会合場所の料亭の名から「湖月会」と呼ばれた。日記の記述によると、井口も湖月会と関わりを持っていたという。
 日露戦争の準備を進めていた田村だったが、明治三十六年(一九〇三)に急死。参謀本部トップの総長を務める大山巌は縁戚の伊地知幸介を後任の次長に望んだが、陸軍内の反対も強く、内務大臣を務めていた児玉源太郎が大臣を辞職して次長とまった。
 その翌年に日露戦争が始まると、児玉は満州軍(戦地派遣軍)の総参謀長となり、井口は参謀となった。井口はウマの合う児玉と文字通り寝食を共にし、作戦立案について議論を重ねた。
 戦局が日本軍優勢となり、重大決戦である奉天の会戦に日本軍が勝利した時、井口は腎臓病に苦しんでいた。奉天城を占領した日本軍が入城式を挙行した際、軍の高官は揃って馬に乗って城門をくぐったが、病身の井口は城の近くまでカゴで担がれて移動し、それからようやく馬に乗り換えて式典に参加できたという。
 戦後のキャリア戦後の井口は病気を理由に辞職を願うが、慰留されて明治三十九年(一九〇六)に陸軍大学校校長となり、大正元年(一九一二)には第十五師団の師団長となった。
 校長時代には、軍上層部から落第者への温情を求められたものの、これを断固拒絶するという逸話を残している。
 愛知県豊橋に本拠を有し、静岡県も管轄区域に持つ第十五師団の師団長就任は、井口にとっては喜ばしいものだった。
 参謀本部総務部長や陸軍大学校校長も軍の高官だったが、直属の部下は少ない。一方で師団長は一万人を超える将兵を部
下に持つ、いわば「一国一城の主」であり、公務員としてのランクも県知事より格上と見なされていた。
 この第十五師団は、沼津とも多少の縁があった。当時、師団誘致は地域経済に大きなメリットをもたらすと考えられていて、各地が誘致に熱を入れていた。同師団開設の話が持ち上がると、当時の沼津町も誘致に乗り出七、陸軍大学校校長だった井口を町長が訪問し、誘致への口添えを依頼したという。
 皇室観と人柄 師団長就任までの井口の経歴を解説した井口氏は、特に師団長時代に顕著だった井口の皇室観についても紹介した。
 それによると、井口は明治天皇への敬愛の情が強かった。そのため、自分が信仰する宗派は「明治天皇宗」だと話したり、式典の祝辞で明治天皇をナポレオンや豊臣秀吉を超える才能の持ち主だと述べて物議を醸したりなどの特異なエピソードを残している。
 また、大正天皇と面談する機会を得た際には、天皇に対して酒とタバコの害を伝え、節制するよう進言したという。
 井口省吾の生涯を語り終えた井口氏は、講演の最後に井口の人柄を評し、「正義感が強い硬骨漢で、裏表がない人物だった」と話した。

 不二家工場や上水道の整備
 長谷川徹さんは沼津の戦後史を
 一方、沼津史談会会員の長谷川氏は、前回に続いて「沼津の商店街ー戦後昭和史」と題して話した。
 その中で、戦後間もなくに第五地区に建設された不二家の水飴工場が、後に同社の主力商品である「ミルキー」の生産工場となり、製品が全国に向けて出荷されていたことを取り上げ、「これこそ沼津初の全国ブランドと呼べるものではないか」と話した。
 また、沼津市の上水道整備についても話し、戦時中の海軍用水源の水利権を市がいち早く取得したことを紹介し、「当時は予算の関係で市議会には反対もあった。しかし、この時に水利権を得たからこそ、現在も柿田川の湧水を正当に使用することができている。当時の人々の先見の明は素晴らしい」と指摘した。
【沼朝平成28318()号】