2020年7月31日金曜日

200731アーカイブス「沼津商店街イラストMAP」昭和61年版

沼津藩の街道をめぐる 浜悠人


沼津藩の街道をめぐる 浜悠人
 
沼津の大岡木瀬川と下石田の境に江戸時代の沼津藩の領域を示す傍示石(当初は杭だったので傍示杭と呼ばれた)「従是西沼津領」が建っている。一六一四(慶長一九)年、三枚橋城が廃城、沼津は天領(幕府の直轄地)となり、韮山代官江川太郎左衛門の支配下にあった。
 一七七七(安永六)年、水野出羽守忠友は初代沼津藩の藩主となり、二万石の大名で出発した。その上、徳川将軍から沼津城の築城を命じられた。沼津城は平和な江戸時代の城郭なので戦闘的な山城ではなく、平地に築かれた平城であった。狩野川沿いの上土にあった三枚橋城より北に進んだ地に築かれた。
 下石田から街道を西に進めば「歴史マップ沼津市大岡」なる説明板が見当たる。江戸時代の、この地の状況がよく説明されているので感心した。
 二ツ谷(ふたつやは近くに二軒、家があり二ツ家と呼ばれたのに由来)を過ぎて浪人川を渡ると、黒瀬橋のたもとに平作地蔵がひっそりと立っている。沼津の平作は浄瑠璃の「伊賀越道中双六」で有名で、歌舞伎にも上演されてファンに広く知られている。
 日枝神社参道入り口には「一里塚」がある。幕府は街道一里ごとに塚を築き、榎を植え、旅人の標識とした。ここは江戸から二十九番目の塚にあたる。
 ほかに玉砥石(たまといし)と呼ばれる大小二つの柱状石で数条の直線的な溝があり、古代、玉を磨いた痕跡と伝えられる。
 平町を過ぎ狢川(むじながわ)に架かる三枚橋を渡る。当時は三枚の大きな石で橋が架けられていた。川廓(かわぐるわ)は狩野川と沼津城の城郭に挟まれた土地から由来し、中央公園(沼津城本丸跡)から川廓の街道に出た所に「川廓通り」と標示された大きな説明板がある。
 左側には一雄斎国輝画の沼津城をバックに長州征伐に上洛する幕府軍が川廓通りを行進する様子が描かれている。中央には東海道分間延絵図、右側には沼津略画図と大変参考になる。
 川廓を上り左へ曲がると上土(あげつち)となる。ここは戦国時代、武田勝頼により三枚橋城が築かれ、城の堀を掘り、土を揚げた地域から上土(揚げ土)と呼ばれた。江戸時代は商家が多く、東側の狩野川べりは商店名や屋号の付いた河岸が並び(狩野川の水運を利用する問屋町が発達した。
 上土から右に曲がれば通横町である。人馬継立てでにぎわった。飛脚などもおり、今日の郵便や運送の業に当たると思われる。
 短い通横町を左に曲がると沼津宿の中心部、本町と下本町にさしかかる。参動交代をする大名や旗本、幕府役人、宮家など泊まった本陣(間宮本陣、清水本陣、高田本陣)や脇本陣(中村脇本陣)、それに旅寵(宿屋)五十五軒が数えられ、にぎにぎしく繁盛し、た町だった。
 下本町を右に曲がると浅間町があり、丸子神社と合祀の浅間神社や近くには多くの寺々が見受けられる。さらに西へ進めば出口町となる。沼津宿の出口にあたるところから名付けられた地名で、当時、宿(しゅく)の出口には見張りの番所として「見付」があった。西の見付が、ここ出口町で、東の見付は平町にあった。
 江戸時代、沼津宿は東から三枚橋町、上土町、本町と三町に区分され、それぞれ北へ向かって町域を広げていた。現在それら三町名が大字(おおあざ)として残っている所もある。市道から間門へ向かえば、三枚橋城主だった大久保忠佐の墓がある妙伝寺が左手に見られる。
 間門と小諏訪の境に「従是東沼津藩」なる傍示杭がある。沼津藩の西境に立てられたもので明治末期頃に折られて下半分が失われ、「従是東」なる上部の石柱だけが見られる。
 今回、ステイホームのさなかではあるが、癒しを求め、沼津藩領域を東から西へと歩みを進め、紹介させていただいた。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2731日(金)寄稿文】

2020年7月30日木曜日

虎狼痿(コロナ)禍にもお参り。




新玉神社 安政五年のコレラ
 日本でコレラが最初に流行したのは文政五年
(一八二二)のことです。安政五年(一八五八)こま・長崎に来たアメリカ軍艦の乗組員から広まり、全国に及ぶ大流行となりました。江戸での死者は三~四万人にのぼったといい、「虎狼痢」(コロリ)「虎烈刺」(コレラ)として大変恐れられました。
 沼津宿ではその年七月に伝染が始まりました西国の大名が江戸へ参勤の途中、その従者が沼津で発病したことから始ったといいます。九月ド句には下火になりましたが、一○九人が死亡しました。厄除けで名高い各地の神社・仏閣には急使が派遣され、盛んに勧請されました。下河原の新玉稲荷はこの時妙覚芋内に勧請されたものでした。(「ぬまづ江戸時代図誌」明治史料館解説書 平成5年三月三十一日発行)

2020年7月27日月曜日

アーカイブス第3回代戯館まつり「田邊朔郎博士展」平成18年3月17日沼朝記事


「沼津の明日つくるきかっけに」
29日まで第3回代戯館まつり
テーマは「田邉朔郎」・兵学校附属小で学び琵琶湖疏水手掛ける
上本通り商店街などで組織する代戯館まつり実行委員会は、三度目となる同まつりを開催している。同日から二十九日午前中まで大手町のぬましんストリートギャラリー(沼津信用金庫本店)での展示、二十五日は、午後一時二十分から記念講演会、二時二十分から討論、映写会(午前十時半と午後三時十五分からの二回)を同本店四階ホールで行う。
今回は沼津兵学校附属小学校で学び、琵琶湖疏水(舟運、発電、給水などのために新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること)工事を完成させた田邉朔郎博士(一八六一~一九四四)を取り上げた。
実行委では、「沼津はいろいろな面で活気がない。維新の時、沼津で育って大きなプロジェクトを成し遂げた人が大勢出ている。日本の活性化に関わった人物に光を当てることで、明日の沼津を担うような人になることを感じてもらいたい。物見遊山で行うのではなく、沼津の明日をつくるきっかけになれば」と話している。
朔郎は幕臣、田邊孫次郎の子として江戸に生まれ、沼津兵学校一等教授の田邉太一の甥に当たる。明治二年(一八六九)に太一に従って沼津に移り住み兵学校附属小学校に入学。その後、上京し、同六十年に工部大学校(現・東京大学)を卒業するが、卒業論文が琵琶湖疏水に関するものだったため、その年に京都府知事北垣国道に琵琶湖疏水工事を委嘱される。同二十三年に、この大工事を完成させるが、工事で開発した舟運、水力発電所などの技術が世界的にも注目された。この後、東京帝国大学工科大学教授、工学博士となり,同工科大学長も務めている。関門海峡の海底トンネルにも立案・設計者として携わっている。
二十五日の記念講演会・対談・映写会では、「京都インクライン物語」の著者、田村喜子氏が講師を務める講演会「(仮題)明日をつくった男・田邉朔郎」が開かれる。
また、田村氏と、琵琶湖疏水事業にも詳しい岩井國臣・元国土交通省副大臣との対談「(仮題)近代土木技術の祖・田邉朔郎」。アニメーションと実写を交えた映画「明日をつくった男~田辺朔郎と琵琶湖疏水~」(虫プロダクション制作)の映写会が開かれる。映画は、文部科学省選定作品で、第3回世界水フォーラム参加作品。明治維新の際の東京遷都で衰退しかけた京都の再生を図ろうとした琵琶湖疏水建設事業を、工事責任者だった朔郎を主人公に描いている。
展示では、朔郎の孫にあたる陽一氏(京都市在住)から借りた品と琵琶湖疏水記念館(同市)にあった品を展示している。陽一氏から借用した品では、展示中央にある琵琶湖疎水の全体像を鳥瞰(ちょうかん)した大きな「台覧掛図」(全体俯瞰図)がある。琵琶湖が画面右上に描かれ、手前の山を通して水を流そうとした計画の様子がうかがえる。今回初めて陽一氏が持ち出しを許した貴重な品でもある。
「琵琶湖疏水の百年画集」(京都市編)では、山にトンネルを掘る際、土木作業員の酸素を確保するために、山の上に抜ける縦穴も掘らなければならなかったが、縦穴を横に描いた断面図などがある。縦穴の断面図は作業で出た石などを縦穴から運び出す作業が描かれている。「京都インクライン物語」など田村氏の著作三冊と琵琶湖疏水工事と朔郎のことを記した小学校社会科の教科書二冊も。
また、工部大学校で優秀な成績を納めたため授与された書籍、琵琶湖疏水事業のトンネルなどを描いた断面図「琵琶湖疏水図譜」、工事に携わる人が共通した知識を持つために朔郎が著した当時珍しいマニュアル「工師必携」(携帯ハンドブック)、著書の題字を徳川慶喜に書いてもらった本「明治工業史」も並ぶ。朔郎が所持していた、文化勲章受章の日本画家、堂本印象による「大津三井寺下疏水図」、アインシュタイン博士が京大に講演に来た際に、サインしてもらったという同博士の著作、叔父の太一が使っていた手書きの英語辞書は当時として大変貴重なもので、記念館から出されるのは初めて。日本画が趣味であったという朔郎の画五点も出品されている。
琵琶湖疏水記念館からの品(陽一氏が同記念館に寄託している)では朔郎が水力発電などを学ぶため渡米した際の出張目的を記した「米国へ出張取調を要する条項下書」、琵琶湖疏水事業の発端となった朔郎の卒業論文、同工事の問題点と、それが解決したことを記す「済」が書かれた「疏水工事記録」、金色の巻物である「工部大学校卒業証書」、レプリカは館外に出たことがあるものの本物は初めてという「琵琶湖疏水工事図巻」などがある。夜間は十時までライトアップされ鑑賞できる。(沼朝 平成18年317日号)

200727アーカイブスシリーズ「技能五輪国際大会沼津」平成19年11月21日撮影

2020年7月25日土曜日

沼津ふるさと講座「岡部長民と小川信」資料









シリーズ沼津兵学校とその人材○67
長崎奉行を父にもつ岡部長民 二百名余の沼津兵学校資業生の中には、自分の代で頭角を現した者も少なくないが、その一方、先祖や父祖が立派な足跡を幕府内で残した、名家の出身者もいる。第四期資業生岡部長民は、長崎奉行をはじめとする顕職に就いた父を持っていた。

長崎奉行は、江戸幕府が遠く長崎で、外交・通商・司法などの仕事を行わせた旗本の重職である。歴代の中には名奉行と称される者もいた。第一一三代として安政四年(一八五七)から文久元年(一八六一)まで在職した岡部駿河守長常もそんな一人である。彼の奉行時代には、踏絵の廃止、綿羊の飼養奨励、外国人居留地の設置、人足寄場の開設、長崎製鉄所の建設といった施策が行われた。また、オランダ人医師ポンペに対し解剖を許可し、蘭方医松本順らをしてコレラ予防に尽力させたり、病院を建設するなど、西洋医学に多大な理解を示した。長常には安政六年に撮影された裃姿の写真が残る。その開明的な立場から、攘夷派に狙われたという。

岡部家は、戦国時代には駿河今川氏の家来だった。後に徳川家康に仕え、娘が秀忠の御乳人になっている。長常の家は、分家のそのまた分家であるが、武蔵・相模で一三〇〇石の禄を食んだ。
長常は養父内蔵助の養子であり、実父は日光奉行・留守居などをつとめた五〇〇〇石の旗本太田隠岐守資寧。長崎奉行就任前は、御小納戸、御小姓、御使番をつとめた。長崎離任後は、外国奉行、大目付、御作事奉行、神奈川奉行、御鎗奉行、軍艦奉行を歴任した。慶応二年(一八六六)四十二歳で没。開明派幕吏の代表岩瀬忠震の次女幸子を養女に迎え、山高信徳の妻に配した。信徳は、堀利熈(外国奉行・箱館奉行)や山高信離(横浜語学所生徒・幕府フランス留学生)の実兄である。
岡部長民は、弘化元年(一八四四)七月十日に長常の長男として生まれた。少年時代は長崎で過ごしたと思われる。父の跡を継ぎ第十代当主となる。先祖代々襲名の五郎兵衛が旧名だった。慶応三年二月に新砲兵差図役勤方に就任、戊辰時には一ランク昇進していたようで、徳川家の駿河移封に随行すべき家来の名簿(「駿河表召連候家来姓名」)には、「大砲差図役岡部五郎兵衛」とある。後の階級で言えば砲兵中尉である。
明治二年九月、大砲差図役として同役だった瀬名義利・林正功とともに沼津兵学校第四期資業生(全五十九名)に及第した。移住後には、廉と改名したらしく、静岡藩の名簿「沼津御役人附」「静岡御役人附」には「岡部廉」(あるいは「簾」)で掲載されている。
学校の政府移管後も最後まで残留し明治五年陸軍教導団に編入された六十三名の中に彼の名前はない。つまり途中で沼津兵学校を退学したことになる。しかし、八年(一八七五)の官員録には、陸軍砲兵少尉として掲載されており、やはり陸軍に入ったことがわかる。十二年時点では中尉、十四年時点では教導団教官・七等出仕。
日清戦争に出征した静岡県出身兵士の氏名・略歴を町村毎に載せた『日清交戦静岡県武鑑』(一八九六年、佐野小一郎編、松鶴堂)には、駿東郡楊原村の箇所に「同砲兵大尉岡部長民氏下香貫ニ出廿七年八月四日応召渡清各地累戦シテ廿八年七月十日凱旋スルモ論功行賞未定」とある。すでに東京在住だったにもかかわらず、同書に収録されたということは、本籍地が楊原村に残っていたということである。また、維新時の移住地が下香貫村だったと推測できる。
自身も出征したらしいが、三男を日露戦争で亡くしている。砲兵少佐で退役した。大正七年(一九一八)五月十七日没。法名は広徳院殿真月浄照大居士、妻の高子(瞭然院殿高雅妙燦大姉)は、昭和十三年(一九三八)まで長生きした。(参考文献)鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』(一九三三年、一九九四年復刻、大空社)、『長崎事典歴史編』(一九八二年長崎文献社)、『爽恢-岩瀬忠震顕彰碑建立記念誌ー』(一九八六年、岩瀬肥後守忠震顕彰会)、『横浜開港の恩人岩瀬忠震』(一九八〇年、横浜歴史研究普及会)、『江戸幕臣人名事典一』(一九八九年、新人物往来社)(樋口雄彦)
(明治史料館通信Vol.19No.2通巻第74号2003,8,25)

2020年7月17日金曜日

200717アーカイブス「松籟の宴」御用邸平成27年10月31日

「瀬川裕市郞追悼集」高尾山古墳を守る会 2020年7月発行


展く

 

 正月気分も抜けきらない中での、副会長の突然の卦報に驚いた。年末の役員会では、時折の不調を、私たちにも告げていたのだが、臥して療養していたわけでもない中で、その報せは思いもよらなかった。

 古墳を守るという活動の中での瀬川さんの役割は非常に大きかった。他のメンバーが歴史は趣味と云う域を出ない中で、会の運営を史学という面から支え、意味付ける事は、保存運動を実のあるものにしていく上で欠かせなかった。 郷土史の歴史家、研究者である彼は、何よりも事実の足跡を大事にしていた。歴史好きの私たちのような者は、歴史の残してきた事実のように見える物語が好きだ。一片の歴史的事実が告げるたくさんの物語に夢を馳せる。しかし、彼は物語よりも事実を重んじた、だから、彼にとっては歴史は科学であったのだと思う。彼の仕事は事実の種を見つけだすことで、その果実や花を楽しむのは、私たちのような愛好家だと思っていただろう。そのせいか、ああも考えられる、こうも考えられるという面白い話を、私たちにはあまりしてくれなかった。 インターネットの普及で、誰でもが知りたいことに簡単にアクセスできるようになった。適切な単語をいくつか並べれば、目的の情報を誰でもが得られるし、情報を発信することもできる。昔だったら何冊もの書籍を買い込み、図書館に通い詰めて得た知識が、自分の部屋に居ながらにして手に入る。 この追悼集を「つちを展(ひら)<」としたのは長年郷土史の発掘こたずさわって来た彼への想いからだ。それは、郷土のつちであり、何層にも重なった発掘現場のつちである。「展(ひらく)」とは、平らに広げ並べる、巻いたものを開く、隅から隅まで調べる、などの意味がある。発掘現場の土を一枚一枚はがし、遺物を丁寧にマークしてゆく。虫食いでなくした文字を考え、読みづらい字を写筆してゆく。土器や石器の細かい形状を記録する。とんでもない手間と根気を必要とする作業である。しかし、だからこそ誰もが納得する事実を示し得る。それが彼のプライドであり人生であったと考えている。                       高尾山古墳を守る会 会長 杉山治孝                                 会員  一同


2020年7月14日火曜日

200714アーカイブス子持川に架かる橋名探索散歩PPT動画

沼津兵学校について学ぶ 明治史料館ギャラリートーク


沼津兵学校について学ぶ
明治史料館ギャラリートーク
 明治史料館(西熊堂)11日、「近代教育の源流沼津兵学校」をテーマにしたギャラリートークが行われた。
 同史料館の常設展示から月替わりにテーマを選んで行っているもので、同日は第2回。4階展示室の沼津兵学校に関するコーナーで、木口亮学芸員が解説した。
 沼津兵学校は、教科書への記載もなくあまり知られていない存在だが、沼津の歴史において重要な意味を持っている。
 明治維新によって政権から退いた徳川家は、静岡藩の一大名となり、沼津城があった場所に開設したのが、士官を養成するための沼津兵学校。守旧派が主流となる静岡の中心、駿府ではなく、沼津に置いたことには意味があるという。
 兵学校とは言っても、頭取を務めたのは、哲学者の西周(にし・あまね)であり、教育の内容は近代的だった。英語、フランス語、数学をはじめ、洋式の作図を行う図画、日本で初めて授業として行った体操など、当時の水準としては国内でもトップレベルの学問を行った。
 教師陣も徳川幕府における優秀な幕臣など、そうそうたる顔ぶれで、教科書は自ら印刷したといい、これが「沼津版」と呼ばれる。
 沼津兵学校に入る前の予備教育機関として、附属小学校があった。ここで学ぶのは主に徳川家臣の子弟だが、庶民も入学することができたことは先進的だった。
 西には、沼津兵学校を「文学」と「兵学」それぞれを学べる総合大学化する構想があったという。「これが実現していれば、沼津に日本で最初の大学が出来ていたかもしれない」と木口学芸員。
 しかし、その後、明治政府は優秀な人材を求め、沼津兵学校からは多くの教授達が新政府へと移って行った。明治5年に廃藩置県が実施されると、徳川家の学校だった兵学校は中央政府に移管され、3年半の短い歴史に幕を閉じた。
 また、沼津兵学校と共に徳川家が沼津に開いた陸軍医局は、沼津病院と名を変え、その後は公立の駿東病院となった。ここには帝大を出た医師が勤めたが後に沼津で開業することもあり、医療においても沼津は先進的な地となった。
 また、兵学校の遺産として、「日本で一番古い近代的小学校」がある。附属小学校は江原素六翁の尽力もあり、「集成舎」として残され、その後、名を変えながら現在の一小となって続き、同校は明治元年から152年の歴史を数える。
 同史料館には、沼津兵学校関係者の肖像画が237枚展示されていて、「これ程に集まっている博物館は珍しい」という。
 参加した市内の50歳代の男性は、歴史に興味があって同館を度々訪れるというが、「自分で展示の説明を読むよりも、学芸員の話を聴くことで、よく理解できたし、内容も新鮮だった」と話した。
 来月8日の第3回は、戦争をテーマにしたギャラリートークを予定している。
 問い合わせは同史料館(電話923-3335)
【沼朝令和2714日(火)号】

2020年7月12日日曜日

200712アーカイブス沼津商店街の立地PPT資料動画

通水350周年記念 世界かんがい施設遺産深良用水 20200520






箱根・芦ノ湖―裾野 通水350周年
深良用水の偉業動画で地域の宝後世にネット公開
 県芦湖水利組合(事務局・裾野市)は、神奈川県箱根町の芦ノ湖と裾野市深良地区を水路トンネルで結ぶ「深良用水」の通水350周年記念動画を、同市のウェブサイトや公式ユーチューブチャンネルで公開している。
 動画は4月25日に予定されていた記念式典のオープニング用に制作した。新型コロナウイルス感染拡大を受けて式典は中止になったため「地元の人に地域の宝に誇りを持ってもらい、地域外の人にも価値を知ってほしい」(同市行政課)と一般公開を決めた。
 動画は約12分間で、人の手だけで1280㍍のトンネルを掘り進めた先人たちの偉業を振り返り、今も芦ノ湖からの水を農業、生活、防火用水や水力発電に利用していると説明。地元では、用水の恩恵に感謝して祭りが開かれたり、中学生が演劇を上演したりしていることなども紹介した。
 地域に水の恵みをもたらす用水の学習に役立ててもらおうと、裾野、御殿場、長泉、清水4市町の小中学校に動画DVDを配布した。(東部総局・八木敬介)
【静新令和2年7月12日(日)朝刊】

2020年7月9日木曜日

沼津空襲の思い出 浜悠人


沼津空襲の思い出 浜悠人
 昭和十九年七月、南太平洋マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァムにアメリカ軍が進攻し、島に飛行場を建設、大型爆撃機B29で直接、日本本土空襲を企てた。
この年の十一月五日昼日中、突如としてB29一機が一万㍍の上空を怪物が異様な煙を吐くがごとく、白い飛行機雲をなびかせ沼津上空を去っていった。実は、これが日本本土の基地や軍需工場への偵察飛来であった。
翌二十年一月九日、B29一機が爆撃、大手町、上本通で死者五、重軽傷二十九。爆弾は岡藤ガラス店裏の倉庫を直撃、大きな爆撃跡を残した。さらに大手町角のトラヤ薬局も直撃、建物全壊、計十カ所に及んだ。爆撃跡を直接見て、その威力に恐怖を覚えた。
三月十日の東京大空襲は沼津から箱根山越しに東の夜空が明るく染まった。四月十一日昼、B29一機飛来。通横町、吉田町爆撃、死者十四、重軽傷三十九。当時、旧制沼中二年の私は空襲警報で下校となり、御成橋たもとのうなぎ屋寿々㐂の爆撃跡を見、その悲惨さに驚いた。御成橋の柱の傷跡は、その時によるものだと思う。
四月二十三日昼、B29一機が下香貫宮脇の技研を爆撃、死者九、重軽傷二十三。この時、犠牲になった十七歳の少女、菊池ひで等七人の慰霊碑が三中の傍らに建っている。
五月十七日昼、B29一機が三枚橋、平町を爆撃、死者十一、重軽傷十七。この日、空襲警報で下校となった私は三園橋を渡っていた。百雷の一時に落ちるような爆弾の落下音で橋の上に伏せると狩野川に水柱が立ち上った。平町の焼き芋屋が吹っ飛び、跡形もなかった。
七月十六日、この夜も、毎晩恒例になった薄気味悪い空襲警報のサイレンが長く尾を引き発令された。防空壕に退避していたら、B29は沼津上空を過ぎ、平塚方面に向かったとラジオは報じた。これは陽動作戦であると後になって知った。警報も解除となり、私は自宅の二階に戻り、うとうとしていると突然、「空襲、空襲」の叫び声、急いで飛び起き窓を開けると、南の香貫方面の空は照明弾で真昼のような明るさだった。
家の中も明かりを点けたくらいに明るく、父が「防空壕に大切な物を収め土をかぶせていくから先に逃げろ」と言うので、私は母と姉と一緒に、ひとまず逃げようと外に出た。香貫山や千本浜の方は真っ赤に燃え、町にも火の手が上がった。
焼夷弾は豪雨のようにザァーという音を立てて落下し、時折、ヒューという異様な音が混じり肝が冷やされた。私達は、まだ燃えていない平町から日枝神社裏の日吉へと逃げた。その頃、田圃越しに東京麻糸工場の建物が真っ赤に燃え、火の海と化しているのが見えた。
既に時刻は十七日の午前一時から三時間ほど経ち、短い夏の夜は白々と明けてきた。この夜の状況は次のように発表されている。
B29百三十機が駿河湾を北上、沼津を空襲。死者二百七十四人、焼失家屋、九千三百四十一戸。沼津は文字通り焼け野原と化した。この夜、須田病院の一家六人が犠牲となり、現在、聖隷病院傍らに戦災犠牲者記念碑が建っている。
また、空襲警報が発せられると香貫地区の沼中二十三人の友人等は、いつもの如く校舎を守るべく登校し警備体制に入っていた。空襲が現実となり焼夷弾が校舎に落下。教師と生徒が一緒に消火に奮闘したが敵(かな)わず避難せざるを得なかった。
八月三日、昼日中、焼け跡に立ち、東の箱根山に目をやるとエンジンを止め私の方に向かって来るグラマン艦載機が近付いていた。側の掩蓋(えんがい)のない防空壕に飛び込むと、一瞬遅れてダダダと機銃音がし、私の二、三㍍近くを弾がかすめた。
その後、沼津駅方向を見ると黒煙が立ち上り、駅構内にあったガソリンタンクが機銃掃射で爆発炎上した。この時の被害は死者三、重軽傷三。
ところで先頃、アメリカ公文書館が保存していたグラマン艦載機の機銃掃射を記録したガンカメラの映像(カラー)を見る機会を得た。当時、グラマン機の翼には戦果を記録するためガンカメラが取り付けられ、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。
前述の八月三日、私を襲ったグラマンと並行して線路上からプラットホームを襲ったガンカメラ装填の他の一機がいたことが画面から分かった。その機は焼け跡の藤倉電線の二本の煙突も掃射し、さらに駅機関区の転車台を襲った。画面には転車台の扇形車庫が映り、機銃掃射の白煙が焼け跡に立ち、さらに、その先には千本松原も映っていた。
私は、命拾いした八月三日の昼時に襲って来たグラマン機が機上から克明に写していたことに唖然とした。戦後七十余年を経、あの戦時の恐ろしい体験を画面で観ることができ興奮し一晩眠れなかった。
最後に、私は戦時中の代え難い体験を幾度でも書き、平和の尊さを市民に訴え続けていきたいと思っている。(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年7月9日(木)寄稿文】


2020年7月2日木曜日

200702渡辺水哉岳陽少年団長③









彰徳苑 遺品殿21頁

『 遺品殿
この遺品殿に納まっている品々の多くは、旧札幌歩兵第二十五聯隊歴史記念館の陳列品の一部で、当時樺太に移駐していたが、八月九日ソ連軍の参戦となり、記念品は聯隊の歴史を物語る責重な史料であるため、梱包して終戦後、稚内の宗谷要塞司令部に送り届けた。しかし、送り届けた後、行方不明となり、三十六年後の昭和五十六年秋、突然札幌護國神社で発見されたのである。その間にあっては先々代宮司で管理されていた事で、第四代宮司反橋宏氏によれば終戦後神社としては軍事に関する所有が困難な時代であった為であった事が判明された。しかし誰が持ち込んだかは、今に到るも一切不明なのである。
陳列品として、歩兵第二十五聯隊初代聯隊長渡辺大佐の軍服を始め、日露戦役着用の軍服、乃木大將の感状、征露記念寄書、山海関の戦闘で戦死した児玉・古田両大尉血染ぬの軍服。満洲事変で戦死した加藤中尉・斉藤少尉の血染めの軍服。ノモンハン事件で戦死した金野・小野・大尉の血染めの軍服等々、歩兵第二十五聯隊関係の数多くの遺品、記念品を展示しており、他にも、海軍戦没将兵の遺品や記念品、アッツの小石、ノモンハンの桜とハイラルの砂、沖縄戦場の電線、硫黄島の砂、サイパン島の砂と小石、ノモンハンにて採集した戦没将兵の遺品等々のほか、当時の写真多数を展示してある。
(「彰徳苑」札幌護国神社 平成28年3月改訂21頁)』

渡辺興氏住居と作品