2017年12月13日水曜日

高尾山古墳「トンネル構造で両立」沼津市



高尾山古墳と都市計画道
 トンネル構造で両立 沼津市方針
 沼津市の都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にあり、古墳時代初期に造られたとされる前方後方墳「高尾山古墳」(同市東熊堂)の現状保存と道路の両立案について、市は片側をトンネル構造にして古墳を回避する2本の2車線道路を整備する方針を固めた。12日までに複数の関係者に伝えた。
 整備案は有識者を交えた協議会が2015年度に検討した9案の中の一つで、国道1号から北上し古墳西側の地下を通るトンネル構造の2車線と、東側の地上2車線の組み合わせ。整備費用は当時26億円と見積もったが、地盤の課題から一部を橋脚付き道路とする方向で検討しているため、さらに膨らむ可能性が高い。
 市は、協議会が「事業費や建物補償が少ない」などとして推奨した4車線の信号機付き丁字路案の検討を開始したが、県公安委員会から安全性の懸念を指摘されるなどして断念。丁字路案を除いた案を再検討し、国土交通省などと実現可能性を協議していた。
 沼津南一色線は国道1号と同246号をつなぐ都市計画道路。古墳の全容は08、09年度の発掘調査で明らかになり、3世紀前半の東日本最大級の前方後方墳と判明した。市は当初調査発掘のため墳丘を取り壊す方針だったが、保存活用を求める声の高まりを受け、史跡指定も視野に現地保存する方針で両立案を模索してきた。
☆高尾山古墳沼津市の愛鷹山の麓に位置する前方後方墳で、全長約62㍍、最大幅約34㍍、周囲の溝幅8~9㍍。築造は230年ごろ、埋葬は250年ごろとされ、東日本最古級、初期古墳としては最大級。墳丘上から掘り込んだ墓坑の中に木棺を直接納める「木棺直葬」が行われたとみられ、発掘調査では埋葬者の権力を示す鉄製の武器や土器が出土した。
〔静新平成29年12月13日(水)朝刊〕







2017年12月5日火曜日

旧海軍島田・牛尾実験所を語る パネルディスカッション














↓当日配布資料


↓展示資料動画





「島田・旧海軍牛尾実験所」郷土史家ら知見
湯川・朝永博士軍研究で対照的
「科学者と戦争考えさせる好例」
太澤戦争甲にマグネトロン(発振用真讐〕などを用いた兵器開発研究をしていた島田市の戦争遺構「第二海軍技轡尾実験所」について語る会が3目、同市金谷代官町の金谷公民館で開かれた.研究者や郷土史家5人が、最新の知見を持ち寄り、市民ら約100人が耳を傾けた。2人のノーベル賞学者の対照的な開与も判明した。
牛尾実験所は、2013~14年、大井川改修工事に伴い発掘された。約550平万㍍の電源室と、直径10㍍のパラボラアンテナ用の台座2其、約100平方㍍の発振室などが見つかった。戦争遺跡として保存を求める署名が市に提出されたが、15年、工事に伴って取り壊された、
東京工業高等専門学校の河村豊教擾〔科学史〕によると、牛尾実験所の総面積は推足約3万平㍍'本体にあたる島田実験所は約6万平方㍍と、他の思の研究施股に比べ大規便で、敗載直前の所員数は約1500人、うち研究員は50人だった。
研究の中心は、マグネトロンでマイクロ波を発生させ、上空の幌撃機B29に照射して撃ち落とすという計画。物理的に未解明の要素が多く、研究には理論系の物理学舎が多数参加していたという。
その中には後にノーベル賞を受賞した朝永振一郎や湯川芳樹の姿もあった。1944年4月に島田実験所で撮影された集合写真にも2人の姿が写っている。
当初、湯川はたまたま島田であった物理学会に参加しただけで、実験所には関与していないとみられていた。だが、同年12月から実験所員だった飯島泰蔵・元東京工業大教授の証言(今年4月、河村教授が採録)によると、湯川はしはしば実験所に呼ばれていたという。
「湯川先生が全然、戦争反対で、会合に来られる予定になっているのに、いつも欠席になっている」「それで阪大の菊池(正士)先生が、湯川はけしからんと」
一方、朝永は研究に積極的だったといい、戦後、当時を振り返って、書き残している。
「私自身も1943年以後はしばらく素粒子論から離れて電波関係の仕事などをはじめ・・・・マグネトロン(磁電管)の研究といい、立体回路の研究といい、どちらも量子力学の延長のようなこと……」(77年『日本物理学会誌』)
72年の講演では、大戦から戦後の科学技術の利用について「無条件に科学ザ技術が本当に人間を幸福にするか、いま一度よく考えなければいけない」と語った。
河村教綬は「朝永の科学観に島田実験所での経験が与えた影響は大きかった」とみる。その上で、「島田、年尾の両実験所は、当時の科学技術の到達点を見るだけでなく、科学看の戦争責任を考える上でも、格好の素材となる。さらに検証を進め、継承したい」と話した。
会では実験所跡地に記念碑を建てることを求める意見も出された。市教委はさらに関係者や遺族の証言などを募っている。
(阿久沢悦子)《朝日新聞平成29年12月5日号》


産経ニュースより
海軍島田実験所(島田市)





 ■電波兵器開発に「日本の頭脳」集結

 太平洋戦争末期、島田市河原にあった「第二海軍技術廠(しょう)島田実験所」では、後にノーベル賞を受賞した科学者らが集結し、最新の電波技術で米軍の爆撃機B29を撃墜することを目的とした「Z研究」を行っていた。最終兵器を意味する「Z」と名付けられたこの研究は、戦況悪化に伴って疎開先施設として「牛尾実験所」を建てた後も継続された。両実験所とも当時の遺構はほぼ残っていないが、牛尾実験所のジオラマ模型を市内の高校生が製作するなど、地元の歴史を語り継ごうとする試みは広がっている。

 島田実験所は、海軍技術研究所の島田分室として昭和19年に開所。約6万平方メートルの敷地に戦争末期には約440人の科学者らが勤務していた。大出力の磁電管「マグネトロン」を使った強力電波兵器の開発・実験のために大量の電力が必要で、付近を流れる大井川水系の水力発電所を利用しやすいことなどから島田に設置された。

 戦後にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏や朝永振一郎氏も研究に参加し、運転中のエンジンを電波で停止させる実験や、ウサギへの電波兵器照射実験なども成功したが、B29を撃墜できるほど強力な電波を発射する兵器の実戦投入には至らなかった。

 ◆冗談言う先生も

 当時、島田実験所で掃除などの庶務を担当していた有光文江さん(88)は「研究内容は全く知らされていなかった。ノーベル賞学者がいたことも、受賞後に『そんなに立派な先生と一緒だったのか』とびっくりしたほどです」と振り返る。一方で「『研究所内のことを口外するな』といわれたこともなく、冗談をよく言う先生もいたり、厳しい雰囲気ではなかった。青春時代の良い思い出です」と話した。

 昭和20年になり、島田実験所の周辺も空襲が激しくなってきたため、研究を続けるための疎開先として、2カ所の実験所が建設された。その内の1カ所が、大井川流域を望む山中に建設された牛尾実験所で、直径10メートルのパラボラアンテナも設置された。東京工業高専の河村豊教授によれば、高射砲から発射された砲弾にマイクロ波を照射して、B29の近くで起爆させる研究が実験段階にあったという。

 ただ、大井川の拡幅工事に伴って、発掘調査で見つかった牛尾実験所の電源室などの基礎部分は現在、解体工事が進められている。牛尾実験所の遺構は変電室などを除いて、すべて取り壊される見通しだ。

 ◆高校生が模型製作

 これに伴い、島田市では、毎年、市にちなんだ施設のジオラマを製作している島田工業高に、牛尾実験所のジオラマ製作を昨年5月に依頼。3年生7人が約半年かけて、建物の全体像がわかる資料もない中で、当時、実験所建設に携わった大工や実験所に勤務していた人に話を聞きながら、史実に忠実に作り上げた。

 製作者の一人の大学1年、大畑一歩さん(19)は「牛尾実験所は初めて名前を聞いたぐらいで全く知らなかった。実験所の遺構があれば、戦争を知らない世代にも島田に海軍の実験所があったということが証明できるので、壊してしまったのは少し残念だ」と話した。

 ジオラマや牛尾実験所の発掘調査で見つかった、実験に使った陶器やガラス製の部品などは、島田市博物館で30日まで展示されている。(大坪玲央)