2016年3月18日金曜日

陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲ資料・画像:講師 井口賢明氏


平成28年2月20日
第11回「沼津ふるさとづくり塾」
陸軍大将 井口省吾の足跡Ⅲの資料(pdf)と画像






資料です












画像です
2016年2月20日井口省吾の足跡3画像
 沼津史談会ふるさとづくり塾
 井口賢明氏が講師務め
 酒津郷土史研究談話会(沼津史談会)による第11回沼津ふるさとづくり塾が先月開かれ、同会会員の井口賢明氏と長谷川徹氏が講師を務めた。井口氏は「陸軍大将井口省吾の足跡その3」と題し、大岡地区出身の陸軍大将の生涯について話した。弁護士で同地区在住の井口氏は、井口省吾の同族に当たる。井口日記を活字化して出版する準備を進めていて、年内に刊行予定だという。今回の講演は全三回の最終回で、明治三十五年(一九〇二)の参謀本部総務部長就任の経緯の説明から始まった。
 参謀本部総務部長就任から
 日露戦争経て戦後のキャリアへ
 参謀本部へ 陸軍大学校教頭を務めていた井口は、陸軍省に転任して課長として動務。上司である陸軍大臣を児玉源太郎が務めていた頃は円満な勤務状況だったが、大臣が寺内正毅に変わると、新大臣と激しく意見対立するようになった。
 この遠因には、当時の陸軍内の派閥抗争があるという。当時、明治維新で活躍した長州藩出身者が一大派閥を形成していて、井口は、それを批判的に見ていた。寺内だけでなく児玉も長州出身だったが、児玉は派閥にこだわらずに接することができたという。
 省内にあって不遇な井口に助け船を出したのは田村怡与造(たむらいよぞう)だった。参謀本部の総務部長だった田村は、同本部次長に昇任するのに伴い、井口を後任の総務部長に推した。
 井口は職務上に不可解な点があれば遠慮をしない性格だったので、日頃から井口は田村に対しても異議を唱えて両者は口論が絶えなかった。大声で怒鳴り合うこともあったため、田村が井口を後任に据えたことに対して、陸軍内では驚きの声が上がったという。
 山梨出身のため「今信玄」とも呼ばれた田村は井口に好意的で、その才能も評価していたという。田村は来るべき対露戦に備えて、参謀本部に優秀な人材を集めようとしていた。
 日露戦争このころ、中国大陸や朝鮮半島を巡る情勢から、日露の対立は激化。開戦は時間の問題で、戦争を始めるなら早い時期が有利、という主張が軍部や政府の内部に存在していた。
 これはシベリア鉄道の整備状況を見据えた議論で、ロシアが欧州の兵力を極東に派遣するのに必要な鉄道の整備が終了する前に開戦すれば、日本にとって有利になるという考え方だった。早期開戦論者の集まりは、会合場所の料亭の名から「湖月会」と呼ばれた。日記の記述によると、井口も湖月会と関わりを持っていたという。
 日露戦争の準備を進めていた田村だったが、明治三十六年(一九〇三)に急死。参謀本部トップの総長を務める大山巌は縁戚の伊地知幸介を後任の次長に望んだが、陸軍内の反対も強く、内務大臣を務めていた児玉源太郎が大臣を辞職して次長とまった。
 その翌年に日露戦争が始まると、児玉は満州軍(戦地派遣軍)の総参謀長となり、井口は参謀となった。井口はウマの合う児玉と文字通り寝食を共にし、作戦立案について議論を重ねた。
 戦局が日本軍優勢となり、重大決戦である奉天の会戦に日本軍が勝利した時、井口は腎臓病に苦しんでいた。奉天城を占領した日本軍が入城式を挙行した際、軍の高官は揃って馬に乗って城門をくぐったが、病身の井口は城の近くまでカゴで担がれて移動し、それからようやく馬に乗り換えて式典に参加できたという。
 戦後のキャリア戦後の井口は病気を理由に辞職を願うが、慰留されて明治三十九年(一九〇六)に陸軍大学校校長となり、大正元年(一九一二)には第十五師団の師団長となった。
 校長時代には、軍上層部から落第者への温情を求められたものの、これを断固拒絶するという逸話を残している。
 愛知県豊橋に本拠を有し、静岡県も管轄区域に持つ第十五師団の師団長就任は、井口にとっては喜ばしいものだった。
 参謀本部総務部長や陸軍大学校校長も軍の高官だったが、直属の部下は少ない。一方で師団長は一万人を超える将兵を部
下に持つ、いわば「一国一城の主」であり、公務員としてのランクも県知事より格上と見なされていた。
 この第十五師団は、沼津とも多少の縁があった。当時、師団誘致は地域経済に大きなメリットをもたらすと考えられていて、各地が誘致に熱を入れていた。同師団開設の話が持ち上がると、当時の沼津町も誘致に乗り出七、陸軍大学校校長だった井口を町長が訪問し、誘致への口添えを依頼したという。
 皇室観と人柄 師団長就任までの井口の経歴を解説した井口氏は、特に師団長時代に顕著だった井口の皇室観についても紹介した。
 それによると、井口は明治天皇への敬愛の情が強かった。そのため、自分が信仰する宗派は「明治天皇宗」だと話したり、式典の祝辞で明治天皇をナポレオンや豊臣秀吉を超える才能の持ち主だと述べて物議を醸したりなどの特異なエピソードを残している。
 また、大正天皇と面談する機会を得た際には、天皇に対して酒とタバコの害を伝え、節制するよう進言したという。
 井口省吾の生涯を語り終えた井口氏は、講演の最後に井口の人柄を評し、「正義感が強い硬骨漢で、裏表がない人物だった」と話した。

 不二家工場や上水道の整備
 長谷川徹さんは沼津の戦後史を
 一方、沼津史談会会員の長谷川氏は、前回に続いて「沼津の商店街ー戦後昭和史」と題して話した。
 その中で、戦後間もなくに第五地区に建設された不二家の水飴工場が、後に同社の主力商品である「ミルキー」の生産工場となり、製品が全国に向けて出荷されていたことを取り上げ、「これこそ沼津初の全国ブランドと呼べるものではないか」と話した。
 また、沼津市の上水道整備についても話し、戦時中の海軍用水源の水利権を市がいち早く取得したことを紹介し、「当時は予算の関係で市議会には反対もあった。しかし、この時に水利権を得たからこそ、現在も柿田川の湧水を正当に使用することができている。当時の人々の先見の明は素晴らしい」と指摘した。
【沼朝平成28318()号】

2016年3月17日木曜日

明治40年3月21日沼津電話開通 その頃の電話番号と店名

明治四十年三月二十一日 沼津電話開通

【電話番号:壹番沼津郵便局(下)・貮番郡役所(追手二)・参番若松屋呉服店(上土)・長四番米儀杉山周蔵(平)・五番山本旅館(追手一)長六番沼津銀行(追手二)・七番北川米店(魚)長八番日野屋(上土)・九番江三茶店(上土)・十番小栗商店(仲)・長十一番煙草会社(魚)・長十二番中埜分店(市場)・十三番中埜酒店(魚)・十四番食塩会社(川廓)・長十五番清水旅館(追手二)・長十六番片浜銀行(本)。・長十七番宮坂呉服店(魚)・長十八番岳陽運送会社(追手一)・丸大河邊運送店(追手一)・二十番山田足袋店(上土)・十二番丸一高橋薬局(上本)・長二十二番駿東実業銀行(通横)・二十三番高梨鎌次郎弁護士(條内)・二十四番室賀医院(追手二)・二十五番室賀薬舗(上土)・二十六番耕文社(追手一)・長二十七番御厨銀行(上土)・長二十八番小松屋魚問屋(宮)・二十九番朝市肥料市場(仲)・長三十番中埜酒店(魚)・長三十一番杉本旅館(本)・三十二番角木屋材木(出口)・長三十三番朝市加藤市平(新)・三十四番伊勢市酒油乾物商(通横)・長三十五番三十五銀行(上土)・三十六番三河屋魚問屋(仲)・三十七番丸二薬局(通横)・三十八番伊勢為洋品舗(通横)・三十九番あみや醤油店(上土)・四十番駿東病院(西條)・四十一番長澤質店(宮後)・四十二番商業学校(西條)・長四十二番丸京(三枚橋)・長四十三番丸京斎藤運送店(追手一)・長四十五番岡市米塩商(平)・四十六番亀田屋材木商(志多)四十七番木村荘次郎(條内)・長四十八番近半漁網商(魚)・四十九番魚保てんぷら(下本)五十番浮影楼(湊橋)・五十一番寿々喜鰻料理(湊橋)五十二番臨川館料理店(向岸)・長五十三番桔梗屋旅館(上本)・五十四番藤井活版印刷所(鵰)・五十五番勢力料理店(上本)・五十六番奥田楼貸座席(下本)・五十七番甲菊の家(下本)・五十七番乙新菊(上本)・五十八番花月(下本)・五十九番旭園和洋菓子店(上土)・六十一番紀市材木店(志多)・長六十二番櫛部荒熊弁護士(川廓)・六十三番大阪屋支店(通横)・六十四番布澤呉服店(通横)・六十五番須田茂馬医師(上土)・六十六番浜島支店竹材(平)・六十七番村木小間物店(上本)・六十八番美好屋(下本)長六十九番杉傳魚問屋(宮)・七十番山平魚問屋(宮)・七十一番恵澤屋呉服店(浅間)・七十二番高砂屋紙油(浅間)・七十三番花の家(上本)・長七十四阿波屋石原支店藍砂糖石油(上土)・七十五番市川時計店(上土)・七十六番開花楼料理店(下本)・七十七番岡田屋砂糖(浅間)・七十八番龜屋呉服店(浅間)・七十九番大阪屋紙店(通横)・百番蘭契社(通横)・百一番岩田寛弁護士(條内)・百二番紀藤醤油問屋(川廓)・百三番小玉屋錦糸店(魚)・長百四番和多仁瓦石灰(志多)・百五番和多仁石油部(松の木田)・百六番芹澤屋旅館(出口)・百七番丸肥駿豆肥料(三枚橋)・百八番復明館(條内)・長百九番沼津倉庫會社(片端)・百十番沼津町役場(條内)・百十一番三桝家(下本)・百十二番大門堂薬舗(通横)・百三十五番浜田屋本店(仲)・百三十六番森川菓子舗(通横)・百五十四番桃中軒(停車場前)長百五十一番梅田兄弟商会乾物問屋(上土)沼津の栞より

薬王山寺報第182号

2016年3月8日火曜日

第1回狗奴国サミットin沼津:高尾山古墳に葬られたのは、物部氏第6世代の伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)と推定されます




高尾山古墳に葬られたのは誰か
一日本歴史に占める高尾山古墳の位置一
原秀三郎

はじめに
平成2年度から平成21年度までの19年間行なわれた沼津市史編纂に私は原始古代部会長として参画し、また最後の5年間は、佐々木潤之介委員長死去の後をうけ、総括の任に当たってきました。高尾山古墳の本調査は平成20~21年度であったため、その成果を市史の叙述に生かナことはできませんでした。
本サミットの基調講演を要請されたこの機会に、訂正することも含めて、沼津市史の叙述を補足し、高尾山古墳の被葬者と、その歴史的意義について考えるところを述べてみたいと思います。

1 高尾山古墳の被葬者は誰か
1 .高尾山古墳に葬られたのは、物部氏第6世代の伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)と推定されます。命は開化・崇神両朝(AD230年頃~258)の大臣(オオマエツギミ)として、天ッ社・国ッ社の制を定め、物部氏族の祭神布都(フツノ)大神の社を大和の石上邑に遷し建て、併せてニギハヤヒ天授の瑞宝も蔵(おさ)め斎(まつ)って、大和王権と氏族の神を崇め祠(マツ)る石上神社を創設した、と伝えられています。(先代旧事本紀天孫本紀)
2. 伊香色雄の政治的活躍の場は、大和王権の膝下にあったのですが、その軍事的・経済的基盤である領地(封地)は、西は大井川から、東は足柄・箱根両山にかけての駿河・伊豆(七島を含む)の地域にあって、東方海上交通を押え、その治所(チショ)(本拠地)は駿河湾の喉元、金岡の地にあり、死後はその丘陵上に葬られたと推定しています。
3. 高尾山は後の駿河郡と伊豆の田方郡とを押える地点にあり、眼下は観音川の原流、子持川の水源地帯で、沢田から明治史料館の辺りまでが在地の生活基盤としての居館集落(沢田遺跡、或いは柵か。)であり、近隣に通ずる陸路は根方街道、また大和に通ずる海路は子持川・観音川を使って外海に通じていました。埋葬に使われた小船(棺)は、おそらくこの外海に通ずる川筋で、彼の封地治所滞在中は、日常的に使用していた遺愛品ではなかったでしょうか。
Ⅱ高尾山古墳と中信濃弘法山古墳
1 中信安曇野・松本平を一望に収める松本市丸山の弘法山古墳は、高尾山古墳と規模や築造年代の共通点が多い古墳として注目されています。今回の調査で同形式の鏡を共有していたことが明らかとなったのは重要です。この弘法山古墳も、恐らく物部氏族の有力人物の墳墓であり、個人名を特定するには至りませんが、物部氏第三世代の出雲醜大臣命(イズモシコオオミノミコト)(懿徳(イトク)天皇の国政大夫)に始まる、三河国造の系譜に連なる人物ではないか、と推定しています。
2. 弘法山古墳からは布に包まれた鉄斧が出土しています。これは大和王権が辺地や戦地に派遣した将軍に与えた斧鉞(フエツ)ではないかといわれています(一志茂樹)。この点から言えば、弘法山古墳は北信や関東などに残る「将軍塚」のひとつと見てもよいでしょう。
又、甲斐の銚子塚(前方後円墳、全長169m)からも鉄製の手斧(チョウナ)が出土しています。私は伊豆を含む東駿河一甲斐一中信松本平・安曇野のラインが、大和王権の東方統治の第一次前線ラインで、その後、立ちはだかる足柄山や甲武信岳・浅間山に連なる山々を越えて東方へ、更に北方へと延びていったと考えています。
3. 田中卓氏は、前方後方墳は物部氏族、より広くは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)系氏族の墳墓か、と言っていますが(「古代信濃の謎」『続著作集』1)、聴くべき見解であり、今後の検証が期待されます。
皿 富士吉原浅間古墳と駿河国造
1.浅間古墳は高尾山古墳につづく前方後方墳(全長103m、未掘)で、そこに葬られた人物は伊香色雄の子、物部氏第七代の十市根命(トオチネノミコ)であり、更にその子の片堅石命(カタガタシノミコト)が、成務朝(没年355)に珠流河(スルガ)(駿河)国造(クニノミヤツコ)となった(国造本紀)と伝えられています。
十市根命は、開花・崇神朝(AD230頃~258)という大和王権成立
期の重臣五大夫の一人で、崇神朝の出雲の神宝検校に関わり(崇神紀・出雲(イズモ)振根(フルネ)事件)、また石上神宮の神宝管理にも当たったとされています。また、物部の姓はこの時はじめて十市根命とその兄大新川命とに与えられ、ともに大連となったと伝えられています(天孫本紀)。
片堅石命の墳墓は、浅間古墳の西方、谷一筋隔てた丘陵上の東坂古墳(全長約60m)と推定しています。
2・浅間古墳は高尾山古墳の西方約12kmの丘陵上にあり、眼下には浮島ヶ原(かつては沼)が東西に延び、そのほぼ中央部の丘の上に位置しています。直下の集落が須津(スド)の名をもち、かつては沼の北岸、根方街道の津・港の一つであったことを偲ばせます。湖沼内の移動は勿論、外海への水路はここから通じていたと思われます。
墳丘南の平坦地に立てば、左に伊豆西海岸の雲見山、右は三保ヶ崎辺りまで、鳥が翼を広げたごとく駿河湾を展望できます。
3.ところで、浮島の名は何に由来するものでしょうか。和名抄郡部の富士の読み方に「浮(フ)志(ジ)」と記してあることから、浮島とは元来は浮はフ、島はシマのシをとって、フシまたはフジと読ませたのではないか。つまり浮島沼とはフシ沼=富士沼ではなかったかと思います。では、富士とはなぜか。まだ解明し切れていませんが、沼・湖の縁辺にその地域の中心的な生活居住区が集中していたことからフチ(渕または縁)の地名が生まれ(例えば、大阪の河内はカワフチ⇒カワチが元義)、それが郡名にまで昇化したのではないでしょうか。富士山はフヂ(ジ)郡にある山だから富士山なのです。(都良香「富士山記」)
おわりに
1.今日の私の話を聞かれて「ほんまかいなあ」(関西)「ほんとかなあ」(関東)と思われた方がいるかと思います。しかし、ここでお話したことは日本書紀や古事記、とりわけ先代旧事本紀や国造本紀などの古典を虚心に読解し、遺跡・遺物などの考古学的所見などと突き合わせ、総合した結果であります。古代史学者・古代史家とは、言って見れば歴史の通訳です。古典の語るところ、遺跡・遺物のツブヤキを素直に聞き取り、肯定的に理解して、それらを総合して現代人に判り易く伝える者のことです。
2.そこで今一番問題になってくるのは、8世紀に成立した律令国家より以前、大和王権の時代とは、中国古典にいうところの「封建制」(秦漢帝国以前、周王朝の時代がその原型です)なのだということです。私はこの律令国家成立以前の社会の仕組みを、江戸時代の封建制と区別して「分封制」あるいは「将軍分封制」と呼んでいます。江戸時代から明治時代までの漢学者や国学者、或いは明治の史学者たちには常識的で理解しやすかったこのことが、近年ではほとんど忘れられるか、理解できなくなり、また市民的常識からは全くかけ離れてしまいました。
私は古典は古典として、まず素直に肯定的に理解すべきであると考え、また歴史の通訳という立場から、大和王権の時代をその社会の仕組みである将軍分封制の時代として理解し、およそ1700~1800年前の駿河・伊豆の歴史のひとこまを、高尾山古墳を中心に、浅間古墳や南信の弘法山古墳と関わらせて読み解いてみたのであります。
ご静聴ありがとうございました。
※原 秀三郎
1934年(昭和9年)、下田市生まれ、静岡大学名誉教授、元沼津市史編纂委員長、著書、『日本古代国家史研究大化改新論批判』(東京大学出版会)『地城と王権の古代史学』(塙書房)『日本古代国家の起源と邪馬台国 田中史学と新古典主義』(國民會舘叢書)共著、『古代の日本第7巻新版 中部』(角川書店)『大系日本国家史1古代』(東京大学出版会)

【平成28年2月13日第1回狗奴国サミットin沼津「高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る」当日配布資料より】


狗奴国サミット
古代史ロマンに400人 沼津で第1回開催 /静岡

毎日新聞2016年2月14日 地方版




約400人が集まった狗奴国サミット=沼津市民文化センターで

「第1回狗奴国(くなこく)サミット」が13日、沼津市民文化センターで開かれた。存廃に揺れた高尾山古墳(沼津市東熊堂(ひがしくまんどう))の保存を応援しようと会場を沼津に選んだ研究発表会。古代史への関心が高まる中、約400人が耳を傾けた。

狗奴国は邪馬台国と対立していたと考えられる魏志倭人伝に登場する国。サミットで原秀三郎・静岡大名誉教授が「高尾山古墳の被葬者は物部氏だ」とする独自説を発表。森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員が「狗奴国は天竜川以東にある」とする説を発表した。原名誉教授の熱弁に会場がどよめく場面もあった。また「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表はあいさつの中で「古墳保存の署名では全国のみなさんに協力をいただいた」と感謝を述べた。

主催した全国邪馬台国連絡協議会の鷲崎弘朋(ひろとも)会長(73)は「古代史の解明が最終目標だが、多くの人が集まり地域おこしの点でサミットは成功した。高尾山古墳の保存活用方法の検討には会としても協力したい」と話した。【石川宏】


静岡)高尾山古墳は物部氏の墓か 静大名誉教授が仮説
2016年2月14日03時00分(朝日新聞webニュース)

東日本で最古級、最大級の古墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の被葬者は、古代の豪族「物部(もののべ)氏」の有力者とする仮説を、静岡大名誉教授の原秀三郎さん(81)が、沼津市で13日開かれた「第1回狗奴国(くなこく)サミット」の中で発表した。

サミットは、邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国への関心を高めようと、古代史を研究する個人や団体でつくる全国邪馬台国連絡協議会が主催。高尾山古墳の被葬者は狗奴国王とする説もあり、沼津での開催が決まった。

原さんは元沼津市史編纂(へんさん)委員長。物部氏の系譜や、高尾山古墳から見つかった近江の土器、長野県松本市にある規模や築造年代が共通する弘法山古墳と富士市の浅間古墳との関係などから、被葬者は物部氏第6世代の伊香色雄命(いかがしこをのみこと)と推定したという。

伊香色雄命の政治的拠点は近畿の大和王権だったが領地は箱根にまで及び、沼津は海上交通の要衝だったことから近畿との間を度々往復しただろうと推測している。

原さんは「日本書紀や古事記などの古典を読み解き、出土品など考古学的所見を突き合わせれば答えは出てくる」と話した。



高尾山古墳は物部氏の墓? 原・静大名誉教授が仮説
東日本最古級の古墳の主(あるじ)は誰なのか-。沼津市の道路建設予定地で見つかったことから、一時は取り壊しの危機にあった高尾山古墳(沼津市東熊堂)について、原秀三郎(ひでさぶろう)静岡大名誉教授(81)が古代の有力豪族・物部(もののべ)氏の有力者が埋葬されたとする仮説を打ち出した。築造時期が三世紀で邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)と重なるため、敵対した狗奴国(くなこく)の有力者とする説もあり、議論になりそうだ。

仮説を主張する原さんは、元沼津市史編纂(へんさん)委員長で下田市在住。高尾山古墳は、二〇〇八年に始まった市の調査で見つかったため、原さんらが〇五年に出した沼津市史に記載はない。高尾山古墳が三世紀の築造と分かり、古典などを手掛かりに仮説を立てた。

原さんは、古墳の主を、物部氏の第六世代である伊香色雄命(いかがしこをのみこと)と推定した。大和王権初期から政権に近く、近畿の河内国周辺を本拠にした。伊香色雄は三世紀の開化、崇神(すじん)両天皇の親族にあたり、大臣として神社制度をつくったとされる。

伊香色雄が活躍した場所は王権中枢の近畿だったが、領地が西は大井川から東は箱根におよんでいたという。とくに駿河湾内奥部にある沼津は交通の要衝で、死後に葬られたとみる。

仮説の根拠は、平安初期にまとめられた物部氏らの系譜を記した文献。高尾山古墳から近江国の土器が出土したことも理由とする。原さんは「古典を虚心に読解し、遺物などの考古学的所見と突き合わせた」と話した。

一方で、中国の歴史書「魏志倭人伝」に「女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)ともとより和せず」とあることから、卑弥呼のライバルの有力者の可能性を挙げる人もいる。近畿などの前方後円墳と異なる前方後方墳は東海地方以東に多く、邪馬台国畿内説を前提にした場合、宿敵の狗奴国は東海説が有力視される。だが、狗奴国をめぐり、大和説や熊本説の異論がある。

原さんは十三日、考古学者らが集まり、沼津市で開かれる「狗奴国サミット」で仮説を発表する。狗奴国の研究発表もある。

<高尾山古墳> 墳丘全長62メートル、幅最大34メートルの前方後方墳。沼津市教委の発掘調査で、230年ごろに築造され、250年ごろに当時の有力者が埋葬されたと年代を特定した。古墳時代初期では、国史跡になっている弘法山古墳(長野県松本市)と並び、東日本最大級とされる。

(築山英司)(中日新聞webニュース)

高尾山古墳に「物部氏」
原名誉教授 被葬者を指摘 沼津
古代史専門家や歴史研究家でつくる全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)がこのほど、沼津市民文化センターで「狗奴国サミット」を開き、講演した原秀三郎静岡大名誉教授(81)は、3世紀前半に築造されたとみられる高尾山古墳(沼津市東熊堂)の被葬者を有力豪族物部氏第6世代で開化天皇、崇神天皇の大臣だった「伊香色雄命(いかがしこをのみこと)」とする持論を発表した。
沼津市史編さん委員長も務めた原名誉教授は、古墳の出土品に日本書紀や古事記などの文献を照らし合わせて結論を得たという。埋葬に使われた棺は、「古墳がある現在の金岡地区周辺の水路で使った小舟」と推論した。
高尾山古墳と築造年代や規模が似る弘法山古墳(長野県松本市)にも着目。沼津周辺と中信州エリアを結ぶ南北の地帯が大和王権の東万統治の最前線だったとし、「物部氏がここに配置されていた可能性は十分ある」と指摘した。
同サミットは初開催。邪馬台国と対立していた狗奴国の所在に関する研究発表も行われた。全国の会員ら約450人が聴講した。
【静新平成28年2月17日(水)朝刊】


会場満席、関心の高さうかがわせる
狗奴国サミット高尾山古墳と狗奴国の魅力
 古代史研究家などで構成される全国邪馬台国連絡協議会(鷲崎弘朋会長)が主催する「第1回狗奴国サミットin沼津~高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る~」が先月、市民文化センター小ホールで開かれ、約四百五十人が来場。ほぼ満席となり、この分野への市民らの関心の高さをうかがわせた。
 狗奴(くな)国は、三世紀ごろの日本列島に存在した国。中国の歴史書『三国志』の一章、いわゆる「魏志倭人伝」に登場し、女王卑弥呼(ひみこ)で知られる邪馬台(やまたい)国と対立関係にあったとされる。
 東熊堂で発見された高尾山古墳は、狗奴国と関連があると見る説があることから、沼津でのサミット開催となった。
 サミットでは、来賓として「高尾山古墳を守る市民の会」の杉山治孝代表があいさつ。古墳の存在は沼津の気候や地理的環境の優位性を示すものではないか、と話した。また、サミットが多くの来場者に恵まれたことに触れ、こうした関心の高さが古墳保存に対する市長の判断を後押しすることを期待した。
 続いて、市内の考古学専門家らで構成される「高尾山古墳を考える会」の瀬川裕市郎代表が古墳保存問題の経緯を説明。先月二日の第3回協議会で古墳を回避する道路整備の諸案が出されたことを話した。その上で、古墳の保存や活用にとっては、同古墳と隣接神社境内を分断しない道路整備が望ましいことを強調した。
 この後、講演や発表が行われ、高尾山古墳に関しては、静岡大名誉教授で元沼津市史編集委員長の原秀三郎氏が高尾山古墳の被葬者について仮説を述べたほか、「魏志倭人伝」の記述では明確でない狗奴国の位置について、東海関東説、大和説、九州熊本説の三説が発表された。
 高尾山古墳 被葬者は誰?
 原秀三郎氏が持論を展開
 狗奴国サミットの基調講演者として登壇した原秀三郎氏は、「高尾山古墳に葬られたのは誰かー日本歴史に占める高尾山古墳の位置ー」と題して話した。その中で、同古墳の被葬者として、古代氏族の物部(もののべ)氏に属する伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)ではないかとの見方を示した。
 沼津市史と高尾山古墳
 原氏は平成二年度から二十一年度までの十九年間にわたって実施された『沼津市史』の編さんでは、主に原始古代史部会長として携わった。高尾山古墳の本格的な調査は二十一年度まで行われたため、市史の中で同古墳を扱うことができず、非常に心残りだったという。
 また、原氏は考古学の研究成果を柱として論じられることの多い同古墳を、文献史料研究の側から論じることに強い意欲を示していて、今回の講演に当たっては「きょうは考えていることを率直にお話ししたいと思う」と力強く言い放った。
 物部氏と伊香色雄命
物部氏は、天上の神の一人だとされる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を先祖とする一族。大和朝廷に仕え、主に軍事を担当した。朝廷の高官として繁栄したが、六世紀末に仏教受け入れなどを巡る争いの中で破れ、本流は滅亡した。
 伊香色雄命は、その第六世代に属する。古代の歴史について書かれた『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、第九代開化天皇と第十代崇神(すじん)天皇に大臣として仕え、石上(いそのかみ)神社を創立した。同神社は石上神宮として奈良県天理市に現存している。
 原氏は、伊香色雄命は近畿地方で活躍した人物であると認めつつ、現在の静岡県中・東部に当たる大井川から伊豆半島までの土地を領地としていた、と論じた。
 その根拠としては、伊香色雄命の孫の片堅石命(カタガタシノミコト)が第十三代の成務天皇によって珠流河(スルガ=駿河)国造に任命されたとの記述が、『先代旧事本紀』の中の一章を構成する「国造本紀」に登場することを挙げている。国造(くにのみやつこ、こくぞう)は、現在の県知事のような役職。
 また、高尾山古墳からは近江(滋賀県)の土器が出土していて、近江には古代より伊香郡があったことから、同古墳と伊香色雄命との関連が読み取れるという。
 原氏は、崇神天皇の時代は三世紀前半、成務天皇の時代は四世紀前半だと推定している。
 前方後方墳と物部氏 原氏は、高尾山古墳と同時期の三世紀前半に築造され、同じ「前方後方墳」という形状である弘法山古墳(長野県松本市)も物部氏系の人物と関連があると論じた。
 それによると、現在の長野県から静岡県東部にかけてのラインは、当時の大和朝廷の東の国境地帯であり、国境を守るために軍事の専門家である物部氏が派遣された、と見ている。
 また、原氏は栃木県東部にある前方後方墳の侍塚古墳(*)が、那須国造(**)に任命された阿倍氏と関連があると見ていて、阿倍氏も物部氏の血を引いていることから、前方後方墳と物部氏とのつながりは深いと考えている。
 原氏は、こうした東日本に存在する前方後方墳と物部氏とのつながりから、現代の言葉で「将軍分封制」と呼べるような地方支配制度が当時の大和朝廷にはあったのではないか、と提唱した。これは、物部氏のような軍事を得意とする氏族に国境最前線の領地を与え、その土地の行政や防衛を任せるという制度だという。
 終わりに 高尾山古墳に葬られたのは伊香色雄命である、という仮説に対し、多くの疑問の声が上がるであろうことを原氏は理解している。
 しかし、原氏は『日本書紀』や『古事記』『先代旧事本紀』などの古典文献を丹念に読解し、これらの記述を素直に理解するという前提に従って、「歴史の通訳」として議論を展開したという。

 (*)栃木県大田原市にある上侍塚古墳・下侍塚古墳の総称。同市教委のホームページによると、いずれも前方後方墳で、五世紀以前に築造された。下侍塚が先に築かれたという。
 両古墳は徳川光圀(水戸黄門)が発掘調査を行ったことで知られている。実際に調査を担当したのは佐々宗淳(さっさ・むねきよ)という人物で、介三郎(すけさぶろう)という別名のある宗淳は、時代劇に登場する「助(すけ)さん」のモデルとされている。
 (**)那須地方(栃木県東北部)を支配した国造。
【沼朝平成28年3月8日(火)号】