2018年11月17日土曜日

勝家、光秀の動向つかめず 「本能寺の変」直後に書状新潟で発見





勝家、光秀の動向つかめず
「本能寺の変」直後に書状新潟で発見
 織田信長の重臣、柴田勝家が、明智光秀に信長が討たれた「本能寺の変」の8日後に、織田方の武将に宛てた直筆の書状が16日までに、新潟県新発田市で見つかった。勝家は光秀の動向を把握できておらず、調査した三重大の藤田達生教授は「勝家が光秀討伐で後れを取った理由の解明につながる貴重な発見だ」と評価している。
 書状は本能寺の変の8日後の天正10610日、現在の福井市にあった居城にいた勝家が織田方の溝口半左衛門宛てに書いた。冨沢信明新潟大名誉教授が、新発田市の溝口家に伝わる資料から発見した。
 藤田教授によると、書状は光秀が拠点とした近江(現在の滋賀県)にいるとみて、織田方の丹羽長秀と連携して討伐する計画を明かしている。
 実際には光秀は京都から大坂に展開して勢力拡大を図る中で羽柴(豊臣)秀吉に敗れており、勝家が居場所を正確につかめていなかったことが分かる。
 書状には本能寺の変について「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」とつづられていた。同時に見つかった勝家の家臣からの書状には、大坂にいる丹羽長秀との連絡の仲介を頼む記載もあった。
 藤田教授は「本能寺の変の後、勝家が光秀の居場所に言及した記録は初めてで、情報収集の水準が分かる。勝家の動きを抑え込むという点では、光秀の作戦は成功していたのではないか」と語った。
【静新平成301117()朝刊】

2018年11月16日金曜日

よみがえる「豊臣の駿府城」 天守外観を推理する




よみがえる「豊臣の駿府城」
天守外観を推理する
大坂城模した五重天守か
 織田信長が統一のシンボルとして1579(天正7)年に築き上げた安土城天守。これこそが史上初の五重天守だった。信長の後継者となった豊臣秀吉も信長をならい、1585(天正13)年、大坂城に五重天守を築いた。豊臣政権下では、特別な大大名にだけ五重天守造営が許されていたようで、秀吉の城以外では弟秀長の大和郡山城、五大老・毛利輝元の広島城、養女豪姫の婿・宇喜多秀家の岡山城ぐらいしか見当たらない。
 今回発見された「豊臣の駿府城」は天守台の規模からその特別な五重天守が想定される。さらに政権中枢の実力者以外に許可されなかった豊臣一門と同様の金箔(きんぱく)瓦まで使用され、まさに特別な役割を持つ天守だった。
 では、その姿形を考えてみたい。関ケ原合戦以前の天守であるため、「望楼型天守」と呼ばれる安土城に起源をもつ古式な形式は確実だ。その基本構造は、入母屋造(いりもやづくり)の大屋根に物見と呼ばれる望楼を載せた建物で、現存する彦根城や犬山城天守がこの形式の代表だ。
 駿府城の巨大天守台には、巨大な2階建ての入母屋造が想定される。その屋根に3階建ての望楼を載せた天守で、広島城天守とほぼ同じ構造であろう。高さは広島城の約26㍍より高く、徳川の駿府城の約34㍍より低いはずである。なぜなら豊臣天守を凌駕(りょうが)することが家康の狙いだつたからに他ならない。従って、現存する姫路城天守の約32㍍が最も近い高さになろう。
 外観は、同時期に築かれ戦前まで残っていた岡山城(1597年完成)と広島城(1598年完成)天守の姿がヒントになる。両天守の壁は黒漆塗りの下見板(したみいた)が張られ、軒先と(しゃちほこ)が金色に輝いていた。最上階には格式を上げるための装飾的華頭(かとう)(まど)を採用。広島城天守最上階には、さらに重要な飾りの「廻縁」が設けられていたが、不等辺の天守台を持つ岡山城では設置が困難だったようで見られない。
 もう一つ、重要な資料が嫡男中村一忠が築いた米子城天守だ。規模こそ四重だが、やはり下見板張りの外観で、当初は最上階に廻縁が設けられていた。破風(はふ)は千鳥破風と唐破風が見られるため、駿府城にも採用されていた可能性が高い。こうした特徴を重ね合わせると、豪華さでは劣るもののまるで大坂城天守のようだ。豊臣政権は大坂城を模した天守を築き上げ、徳川に無言の圧力をかけたのである。(加藤理文・日本城郭協会理事)
【静新平成301116()夕刊】




2018年11月11日日曜日

平成30年11月11日(日)沼朝「直線曲線」


直線曲線
 ▽栃木県東部の那須地方に位置する大田原市湯津上地区に二つの大きな前方後方墳がある。上侍塚古墳と下侍塚古墳である。上侍塚古墳は全長一一四㍍、下侍塚古墳は全長八四㍍。築造時期は、下侍塚が四世紀末で、上侍塚はそれ以前とされている。ただし、四世紀後半に収まる範囲内だという。
 ▽両古墳は沼津の高尾山古墳と同じ前方後方墳である。さらに言えば、湯津上地区は私の亡き祖父の故郷であった。この二点が私の強い興味を引き、先日、ついに私は両古墳を見に行くことができた。この二つの古墳は、水戸黄門こと徳川光圀によって我が国最初の考古学調査が行われたことで知られる。調査後、光圀は古墳の補修を命じ、墳丘に松を植えさせた。今も松が茂って林となっている。
 ▽古墳の近くには資料館があった。学芸員の館長氏に、古墳と近畿地方勢力との関係などについて質問した。館長氏は、私が静岡から古墳を見に来たことに驚いていたが、私が前方後方墳に興味があることを伝えると、すぐに高尾山古墳のことを察してくれた。そして、那須地方でも東海系の土器が多く出土していることを教えてくれた。
 ▽既に閉館時刻が迫っていて、そして館長氏の専門は考古学ではなく民俗学だったので、館長氏は私の質問に答える代わりに、両古墳を扱っている研究者の名前を教えてくれた。国士舘大学准教授の眞保昌弘氏という方だった。帰宅後、眞保氏の著作を探し、市立図書館を通して県立中央図書館から取り寄せて読んだ。それは『侍塚古墳と那須国造碑下野の前方後方墳と古代石碑』という題で、出版年は二〇〇八年だった。
 ▽同書は、古墳築造当時の那須地方の政治状況について、「まず東海地域、その後に畿内地域の有力首長と東日本の首長とのきわめて強い政治的な結びつき」があったと述べている。また、「古墳時代前期をとおして畿内政権と一定のかかわりをもちつづけた王権の存在をうかがうことができる」とも記している。
 ▽いわき明星大学教授や栃木県又化財保護審議会会長などを務めた前澤輝政氏(一九二五~二〇一八)の『概説東国の古墳』という一九九九年出版の書籍には、もう少しはっきりと書かれている。「西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合の激突が起こり、勝利したとみられる邪馬台国連合の盟主国たる邪馬台国が発展し、初期大和政権なる統一政権が樹立され、一方敗れたであろう狗奴国連合の主勢力であった狗奴国は主に関東方面に逃れ、毛野の地にその多くが新天地を得たとみられる」と。毛野とは、現在の群馬県と栃木県を合わせた地域である。前澤氏は、関東の新天地も最終的には邪馬台国系の勢力によって支配されたと論じ、毛野の前方後方墳は、支配された人々の代表者か、あるいは近畿からやって来た征服者の墓である、と提唱している。
 ▽前澤氏の仮説は、邪馬台国(やまたいこく)近畿説と狗奴国(くなこく)東海説を前提としている。これは、三世紀中期の日本列島の政治的状況を記録した中国の歴史書の一節、いわゆる魏志倭人伝の記述の解釈の一つである。倭人伝には邪馬台国と狗奴国という国家が登場し、双方は戦争をしていたと記されている。狗奴国東海説に従うと、高尾山古墳は狗奴国と関係のある勢力によって造られた古墳とされている。
 ▽ここで話は資料館での出来事に戻る。実は、私は館長氏に、もう一つの質問をしていた。それは館長氏の専門が民俗学だと知ったからだ。私の祖父が生まれた集落には、平家の落人伝説がある。その伝説の真偽を尋ねると、館長氏は「家系を立派に見せるための粉飾です。史料の裏付けがありません。この辺りは、そういう伝承を持つ家は多いです」と明解に答えた。
 ▽沼津に高尾山古墳が造られたのは三世紀前半。その百数十年後、遥か遠い那須地方に同じ形式で上侍塚古墳と下侍塚古墳が造られた。那須が狗奴国の新天地だったとすると、私が見てきた古墳は、邪馬台国との戦いに敗れ、沼津から逃れた人々の子孫と関係がありそうである。そして、私の祖父は平家の子孫ではなかったけれど、狗奴国の末裔ではあったのかもしれない。私にとって悠遠のものであった高尾山古墳が、より身近に考えられるようになった旅であった。〈田〉
【沼朝平成301111()号】

平成30年11月11日(日)静岡新聞社説「秀吉の城跡発見」


「秀吉の城」跡発見 
埋もれた歴史光当てた
 静岡市の駿府城跡天守台発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた天守の遺構が約330点に及ぶ金箔(きんぱく)瓦と共に見つかった。秀吉が、駿河など5力国を領有していた徳川家康を関東に移封した後、豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な城を築いて権威を示したことをうかがわせる発見だ。市は発掘を終える2019年度中に駿府城公園の新たな整備方針を決定する意向だが、今回の成果を十分反映させる必要がある。
 家康のイメージが強い駿府城だが、「秀吉の城」跡発見は埋もれていた歴史に光を当てた。全国的に注目され、発掘現場を訪れる人も急増している。
専門家は秀吉と家康の天守台の遺構が共存する希少性や、さらなる遺構・遺物が下に眠る可能性を指摘する。今後の発掘や公園整備の在り方を見直す良い機会だ。長期的な視点に立った議論を求めたい。
 市は1991年に策定した駿府公園基本計画に、公園内の天守台跡に盛り土して天守台広場を造成する構想を盛り込んだ。駿府城再建を求める市民団体の声が高まったことなどを受け、2014年度策定の第3次総合計画で、天守台の整備に着手するとした。
 今回の発掘は16年度から4年計画で実施している。秀吉没後、幕府を開いた家康が大御所となって1607年から行った駿府城大改修で、秀吉の城の天守台を壊し、ほぼ同じ場所に江戸城を上回る日本一の規模の天守台を築いたとみられることも分かった。
 市の有識者検討委員会は2010年、詳細な資料のない天守閣の復元に否定的見解を示す一方、天守台については明治期の測量図や写真など現存する史料で復元は可能だとした。田辺信宏市長も石垣造りの天守台復元に意欲を見せる。市は新たな整備方針に復元を盛り込む検討をしているが、拙速に結論を出すのは避けるべきだ。
 今回の発見で、5力国時代の家康が築いた城や、今川氏の館跡が下に残っている可能性が高まったと指摘する専門家もいる。復元すれば、その下を発掘するのはほぼ不可能になる。逆に発掘でさらなる新発見があれば、駿府城の価値が一層高まる可能性がある。市の試算によると、石垣造りの天守台復元にかかる費用は60億~100億円。費用対効果も精査したい。
 市のシンボルとなり、観光面の効果も期待できる駿府城再建を望む市民の熱意は理解できる。ただ、既定のスケジュールにこだわって議論をおろそかにすべきではない。発掘は計画通り19年度までで十分か、今回発見した遺構・遺物をどのように生かすかなどをもう一度、多角的に検討してほしい。
【静新平成301111() 社説】


沼津兵学校附属小学校が及ぼした他藩・他県への影響:講師樋口雄彦





当日配布資料↓





兵学校附属小学校の規約
 各地の小学校に大きな影響
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は、フレッシュ150沼津ふるさと講座を、このほど市立図書館視聴覚ホールで開催。九月十二日に開催された一小創立一五〇周年式典に合わせ、国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏が「沼津兵学校附属小学校が及ぼした他藩・他県への影響」と題して話した。
 兵学校附属小学校は、一小の前身。明治元年(一八六八年)十二月に学校規約が作られた。政府は明治五年に学制を定めて小学校から大学校までの学校制度を整えたが、兵学校附属小学校は学制に先立つものだった。
 樋口氏は、兵学校附属小学校の規約と、学制発布前後の各地の小学校の規約を比較し、先行していた兵学校附属小学校の規約が他校の規約にも類似した形で採用されている例を挙げ、他校に及ぼした影響を指摘した。
 こうした影響の背景には、兵学校附属小学校を設立した静岡藩の「御貸人」制度があるという。これは藩内の優れた人材を各地に派遣する制度で、兵学校の設立に関与した阿部潜も御貸人として鹿児島に行っていた。こうした人脈が、各地の学校設立時に沼津式の学校規約の導入に寄与したと見られる。
 樋口氏は「わずか三年半で附属小学校はなくなってしまった。一瞬の輝きを放っただけだと思われがちだが、実際は各地の小学校に大きな影響を与えた」「ローカルからローカルへと広まった影響は、その直後に中矢政府が定めた方式に書き換えられたが、沼津と各地には思わぬつながりがあったことを知ってほしい」などと話した。
【沼朝平成301111()号】

2018年11月10日土曜日

よみがえる豊臣の駿府城


よみがえる豊臣の駿府城
天守台から見える戦略 
徳川抑えるランドマーク
 平成最後の年に突如、「豊臣の駿府城の天守台」が地上に姿を現した。予想もしなかった展開に、多くの人が度肝を抜かれたことだろう。そこで発掘調査でこれまでに分かった事実から、豊臣の城の真の姿について考察してみたい。
 天守台は石垣の特徴や遺構とともに出土した金箔(きんぱく)瓦から、1590(天正18)年に秀吉から駿府支配を託された中村一氏時代が確実だ。従って、一氏が城主であった同年から転封する1600(慶長5)年の間に造られたことになる。諸記録や周辺の状況から完成は文禄年間(15931596)中と言える。
 改めて、調査で確認できた規模を検証しよう。南北約37㍍×東西約33㍍だが、上部数㍍が破壊されていた。石垣の高さは地下に埋まった部分を含め1015㍍が想定される。関ケ原合戦前の石垣で最も高いのは岡山城本丸の約16㍍で、毛利輝元の広島城天守台が約12㍍だった。そう考えれば破壊を受けた石垣の高さは最大でも5㍍程度になる。それによって天守台も若干狭まり、1階部分の平面は南北35㍍×東西30㍍ほどと見るのが妥当だろう。
 ちなみにわが国最大規模の床面積を誇る城は3代将軍徳川家光が築いた江戸城で約38㍍×34㍍。次いで名古屋城の約37㍍×33㍍になる。現存する天守台では姫路城の約27㍍×20㍍が最大だ。

 同様に、豊臣政権下の代表的天守台を見ておこう。秀吉が築いた大坂城天守台は幕府大工頭を務めた中井家が所有する「本丸図」から約30㍍×28㍍と判明している。伏見城は「諸国古城之図」の記録に約36㍍×32㍍とある。秀吉の弟・秀長が築いた大和郡山城の天守台は約18㍍×16㍍、120万石の太守、毛利輝元築城の広島城でも約24㍍×18㍍でしかなかった。これらと比べると「豊臣駿府城」天守台の巨大さが際立つ。一氏はわずか14万石。大大名に遠く及ばない石高で広島城より巨大な天守台を築けるはずがない。豊臣政権が領国の東端と、関東に移した徳川家康を抑える目的で総力を結集し、豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な駿府城を完成させたとしか思えないのだ。規模は伏見城に及ばないものの、100万石の大大名の天守を凌駕し、わが国5指に入るほどの規模を誇っていた。
 関東の(のど)元を押さえる駿府に築かれた巨大天守は、徳川家に敵対行為の無謀なことを知らしめるランドマークだったのだ。
(加藤理文・日本城郭協会理事)

 ※かとう・まさふみ1958年、浜松市生まれ。博士(文学)。袋井市立浅羽中学校教諭。20168月に始まった駿府城発掘調査に関する専門家による視察及び意見交換メンバーの一人。袋井市在住。
【静新平成30119()夕刊】

2018年11月4日日曜日

沼津兵学校の器械学




シリーズ沼津兵学校とその人材96
 沼津兵学校の器械学
 沼津兵学校の資業生が学んだ学科のうち、英語・フランス語・漢学・数学・図画・体操(操練)などは教科書・ノートなどが現存しており、その内容が明らかになっているが、唯一よくわからないのが「器械学」である。『徳川家兵学校掟書』の第四十六条に「器械学本源ノミ」とあるのがそれである。また、本業生の学科としても砲兵科では「器械学大略」、築造科では「器械学」が教えられることとなっていたほか(第四十九条・第五十条)、歩兵科でも小銃の組立てや弾丸・薬包の製造方法などが指導されるとされていた(第四十八条)
 同時期、「器械」の名称を付した組織は、幕府陸軍の砲兵に「器械製造方」、上野戦争を戦った彰義隊に「器械掛」、箱館戦争を戦った榎本武揚軍に頭・頭並・頭取からなる「器械方」があった。いずれも兵器・弾薬の製造・修理などを担当した部署・役職だったと思われる。
 沼津兵学校の器械学も、そのような分野、すなわち造兵について学ぶ科目であったと考えるのが自然であろう。実際に資業生たちは「鋳丸稽古」として称して弾丸の製造実習を受けたという。先述の歩兵科本業生の授業が前倒しで行われたものか。教授陣には火工方が置かれたほか、軍事掛の中にも器械鍛工制作教授方といった役職が存在しており、彼らが兵学校の器械学を担当したのではないかと推測される(「沼津兵学校と造兵」『沼津市明治史料館通信』第44)。明治三年五月に軍事掛附出役(翌年沼津学校附出役と改称)に任命された坂上鉄太郎は、「器械掛附」という肩書も有しており(大庭晃「旧幕臣坂上鉄太郎「日記」」『沼津市博物館紀要』30)、同出役には他に胝市十郎・国友勇次郎ら幕府鉄砲師だった者も含まれることからも、軍事掛附出役の中に器械担当がいたことがわかる。なお、機械の固まりともいうべき軍艦を操り、その修理・建造技術などを学んだ赤松則良のような海軍出身の人材も沼津兵学校にはいたが、真のエンジニアである彼らには直接的な出番はなかったであろう。
 しかし、そもそも器械学という分野や器械を担当する専門家が最初に誕生した幕府の蕃書調所・開成所では、必ずしも造兵(兵器の製造・修理)だけを任務としていたわけではなかった。蕃書調所では、万延元年(一八六〇)十月に教授職市川兼恭が器械掛に任命され、初めて器械学が専門科目として設けられたが、それはペリーから献上された電信機・模型蒸気機関車、プロシア使節から献上された電信機・印刷機・写真機等の使用法を習得するのが目的だった。文久二年(一八六二)六月には津藩士広瀬自懿が器械御用出役に任命され、慶応元年(一八六五)閏五月には新規召し出しとなり、慶応三年(一八六七)八月開成所器械御用を命じられた。慶応元年十一月には佐野東蔵が新発明の測量杖の仕立て方を命じられた。慶応二年末には教授手伝並出役佐野東蔵・化学教授手伝出役肥後七左衛門が器械方の兼務を命じられ、津田時之助が文久二年九月、近藤宗左衛門が文久三年八月に器械御用出役に任じられた(倉沢剛『幕末教育史の研究一』)。慶応二年九月、市川は「テレガラーフ」(電信機)とともに上洛し、将軍慶喜にその使用法を説明した。もちろん、市川が関口鋳砲場、広瀬が鉄砲製造所での仕事に従事するなど、開成所が軍事技術研究とも密接に結び付いていたのは事実であるが、広瀬が速力儀や電信機などに詳しかったとされるように(宮地正人「混沌の中の開成所」『学問のアルケオロジー』)、彼らが軍事に直結するテクノロジーのみを研究していたわけではないことも確かである。
 明治二年四月、沼津兵学校に文官コースを併設することをめざし西周が起草した「徳川家沼津学校追加掟書」では、利用科本業生の科目として「器械学 気体動静学ヨリ流体動静学ニ至ル」が、同じく西が三年(一八七〇)二月、出身藩である津和野藩に提案した「文武学校基本并規則書」でも、やはり利用科本業生の科目中に「器械学」が置かれていた。いずれも、軍人が学ぶべき器械学とは違う、文官(理工系の技術者)が学ぶべき器械学が別途考慮されていたのである。
 『徳川家兵学校掟書』第二十五条第九項には、兵学校頭取は学校に属す「文庫並器械馬匹」をも所轄すると規定されており、学校の備品として器械があったことがわかる。造兵関係の器械として実際にどのようなものがあったのかは不明であるが、スタンホープ活版印刷機や石版印刷機があったのは確かなようである。また、「測量器械御買上代」として一二一両二分といった支出簿の記載も残されていることから(拙稿「下張から発見された沼津兵学校関係文書」『沼津市博物館紀要』25)、新たに購入された測量器もあったらしい。廃校後、明治五年(一八七二)五月、政府の兵部省武庫司の役人が「器械受取」のため来沼し、沼津兵学校にあった器械を東京へ持ち去った(『沼津兵学校の研究』)。はたしてその時、印刷機・測量器以外に何があったのであろうか。
 とはいえ、沼津兵学校で教えられた器械学とは、兵器・弾薬の製造・修理に関することに限られ、印刷機の使用法まで教えたとは考えられない。そもそも開成所では、活字御用という印刷機担当の部署があり、器械方とは区別されていた。軍事関係以外の器械学に可能性があったとしても、それは「追加掟書」による文官養成構想とともに幻に終ったのである。
 沼津兵学校火工方だった柏原淳平(?~一八七四)は、明治政府に出仕してからは陸軍省造兵司権大令史・九等出仕をつとめ、造兵分野で仕事を続けた。津藩士から幕臣に取り立てられたものの維新後は徳川の臣籍を離れた広瀬自懿は、明治五年九月に自作の「コロノグラピー奇器」を海軍兵学寮に寄贈したいと申し出るなど(防衛省防衛研究所蔵「公文類纂」)、軍事分野で貢献しようとした。
 一方、慶応四年七月に新政府に移管された開成所の少得業生に採用され、翌年五月同校の器械御用掛に任命された「静岡藩久江養子近藤如水」なる人物がいるが(国立公文書館蔵「太政類典」)、彼が幕府開成所に勤務した近藤宗左衛門のことだとしたら、軍事部門ではない分野で器械学を活かした数少ない例になる。
 沼津兵学校の生徒の中からは、工部大学校(東京大学工学部の前身)に進学し機械科を卒業した二人、明治三十年(一八九七)発足の機械学会の初代幹事長や工学博士となった真野文二、海軍造船大監となった臼井藤一郎のような人物も輩出している。沼津兵学校を「当時の日本で唯一最強の理工科大学というべきもの」と評価する向きもあるが(三輪修三「幕末・明治期の理工学書とその系譜「機械工学書を中心に」『日本機械学会論文集(C)』第63巻第609)、彼ら本格的な機械屋が誕生した直接的背景に沼津兵学校の素朴な器械学の存在を見ることが妥当なのかについては確信がない。(樋口雄彦)

(沼津市明治史料館通信13420187月発行)