2019年12月23日月曜日

沼津と牧水 大悟法利雄(だいごばうとしお)(初代館長)




沼津と牧水 大悟法利雄(だいごばうとしお)(初代館長)


 東京の生活にやや疲れた歌人若山牧水が
沼津に移ったのは大正九年八月、まだ市に
ならぬ沼津町郊外の楊原(やなぎはら)村上香貰(かみかぬき))だった。
その頃の上香貫は実に静かな田園であった。借りた家も割合に大きく、真向いの愛鷹山(あしたかやま)の上に富士が仰がれ、裏は野菜畑のつづく環境がすばらしかった。気候は温暖だから、とかく病みがちだった妻子も次第に元気になり、牧水は安心して仕事に打ち込むことができるようになった。
 壮年時代で歌も円熟期に入った牧水は、沼津とその周辺の風物を盛んに歌い、また旅にもよく出かけて力作を発表し、『くろ土』『山桜の歌』という堂々たる二冊の歌集を出版するとともに、紀行文随筆などの散文にも数々の秀作を残している。この頃担当する諸新聞雑誌歌壇の数が急に増えていた牧水は、横浜の義弟長谷川銀作に頼んであった歌誌『創作』も沼津から出すことにした。
 こうして牧水は、沼津に永住することを決意し、住宅新築を考え始めたが、大正十二年九月の関東大震災後ひろがって来た住宅難のため立退きを迫られ、翌年八月、千木浜の小さな家に移った。住宅難が益々厳しいので、新築の資金集めに、自作の歌を書いた短冊・色紙・半折などを頒布(はんぷ)する会を始め、九月にその第一回を沼津で催し、それを全国各地にひろげることになる。牧水には他に多年抱き続けた詩歌総合雑誌の発行という大きな夢があり、ついでにそれもやることになった。
 ここで牧水の生活が一変する。それから
旅の回数と日数は急増しているが、資金稼ぎの揮毫(きごう)旅行では歌などできはしない。それでも無理をつづけた牧水は、大正十四年千本松原の蔭(かげ)で当時は沼津の西のはずれだった市道町(いちみちちょう)(現在の本字千本)に約五百坪の土地を買い、住宅兼雑誌事務所を新築し、十月そこに移るとともに、大がかりな新雑誌発行の準備にかかり、十五年五月、遂に宿願の月刊誌『詩歌時代』を創刊した。
 独力で、しかも人口三万余りの小都市沼津で、大雑誌社にも例のない華やかな詩歌総合雑誌を出し得たのは奇蹟とも言えよう。『詩歌時代』が資金不足のため六号で廃刊となったのは実に惜しいけれど、ひとつの時代へ問いかけた牧水の熱烈な意気込みは、今も輝いているのである。
 この大正十五年夏には静岡県当局に千本松原の一部伐採(ばっさい )の計画があり、沼津に反対運動が起ると牧水はその急先鋒となって、地方や東京の新聞に堂々たる文章を発表し、九月一日夜の劇場国技館の「千本松原伐採反対市民大会」で松原愛護の熱弁をふるい、遂に県の松原伐採計画を中止させたことも忘れ難い。
 牧水は、よい歌さえ作れば満足という小さな歌人ではなく、好きな酒を飲み、旅を楽しみ、常に詩歌全体の向上隆盛を自己の天職と考えていた。
 『詩歌時代』廃刊後、その負債償還のため昭和二年朝鮮各地にまで長期の無理な揮毫旅行をつづけ、すっかり健康を害してからの最晩年もそれは変らなかった。
牧水は九州日向(ひゅうが)の生れだが、壮年からの半生を沼津市民として過ごした。沼津で最も愛したのは千本松原で、最後までその朝夕の散歩を楽しみ、沼津周辺の風物を歌いつづけて、昭和三年九月十七日に没した。
 今は松原に縁(ゆかり)の深い千本山乗運寺の墓に静かに眠っているが、その歌と心は、はっきりと沼津に生きている。
 没後六十年にして成った「沼津市若山牧水記念館」のオープンに当り、改めてそれを思う私は、記念館が益々内容を充実し、規模をも拡大して、沼津というより日本の文化の向上に役立つことを祈らずにはいられない。
【新牧水記念館案内より】

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