2015年8月23日日曜日

長浜城跡開園記念連続講座第1回

 長浜城設計の工夫、特徴学ぶ
沼津で講座 史跡公園オープン記念
沼津市教委は22日、同市内浦重須の国指定史跡「長浜城跡」に整備した史跡公園のオープンを記念した講座を市立図書館で開き、約140人が長浜城の特徴などを学んだ。
長浜城跡の保存整備事業の成果を紹介する連続講座(全3回)の初回で、城跡の調査などに携わった奈良大の千田嘉博学長と、名古屋工大大学院の麓和善教授が「長浜城の設計」をテーマに、それぞれ考古学、建築史の視点から写真や図面を示しながら講演した。
長浜城は16世紀後半、北条氏が築いたとされる水軍の城。千田学長は、他の水軍の城と比較した上で、「防御に非常に工夫を凝らしている。一般の水軍の城とは異なる特徴があり、山城と言ってもいい面白い城」などと説明した。
第2回講座は9月27日、第3回は10月11日に同図書館で行われる予定。両日とも午後1時半から。
【静新平成27年8月23日(日)朝刊】



2015年8月15日土曜日

榊原弱者救済所などの史実発掘

平成27年8月15日(土)
沼津史談会第5回沼津ふるさとづくり塾

郷土史研究と地域づくり

榊原弱者救済所などの史実発掘をめぐって
講師:吉田政文氏・西まさる氏

会場:沼津市立図書館第1第2講座室

当日画像資料

半田郷土史研究会



2015年8月9日日曜日

すばらしき街・沼津② 匂坂信吾

すばらしき街・沼津② 匂坂信吾
 沼津史談会は、八月三十日(日)午後一時から市民文化センター大ホールで開催される沼津駿河ライオンズクラブ創立三十周年記念事業「すばらしき街・沼津」に他の二団体と共に協賛し、私から郷土史の一端を紹介します。
 史談会では平成二十五年度から毎月、「歴史を生かした沼津のまちづくり」をテーマに市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」を開催しています。
 今、私たちが第一に考えているのは、明治二年一月開設の沼津兵学校が、平成三十一年一月に創立百五十周年の節目の年を迎えるため、二十八年度から三年計画により記念事業を実行することです。
 沼津兵学校附属機関として現在の西条町に設置された陸軍医局(医学所)は、兵学校閉校後は「沼津病院」「駿東病院」となって昭和二十年七月の沼津大空襲で焼失するまで八十年近く存続して地域医療発展のために貢献しました。
 しかし、このことについては今まで十分な顕彰活動が行われていません。そこで本会と沼津医師会とが中心となり、関係機関、団体の皆様と共に記念事業に取り組んでいくため、現在、その準備を始めていますので、当日は初めて、基本的な方針などについて話す予定です。
 もう一つ考えているのは、まちづくりを進める方法として、本会会員や会員以外の有職者の参加を得ながら、郷土史に関連する研究活動を積み重ね、地域資源の発掘や顕彰を進めることです。来年四月に始める新しい講座計画を作成する中で、具体的な進め万を検討しているところです。
 その契機となったのは、愛知県半田市の「はんだ郷土史研究会」の取り組みです。
 同会は発足後十年の若い組織ですが、地元の人たちが毎月第三日曜日の「ふるさと講座」に参加し、楽しく、真剣に活動を続けています。
 来たる十五日(土)午後一時三十分から市立図書館四階、第一・二講座室で「はんだ郷土史研究会」幹事の西まさる氏、吉田政文氏が講師となり、明治三十二年から昭和初期まで半田に存在し、約三十年間で一万五千人の社会的弱者を支援した「榊原弱者救済所」の史実発掘などに関する講話をされます。
 同旧才女は、日本の更生保護制度の歴史上、重要な一ページを飾るものですが、平成二十一年六月に事実を突き止め、関係者や地域住民、自治体や国に働きかけて保存・顕彰に至る原動刀となったのは、この研究会でした。
 今回の講話は、第5回「沼津ふるさとづくり塾」の講座として行いますが、福祉関係者をはじめ、皆様の積極的な参加をお待ちしています。
 先着百人、資料代五百円(会員無料)が必要です。
 問い合わせ先=匂坂(さぎさか)電話〇九〇ー七六八六ー八六一二。(沼津史談会副会長、小諏訪)
【沼朝平成27年8月9日(日)言いたいほうだい】

2015年8月8日土曜日

第4回沼津ふるさとづくり塾「帯笑園と江戸の園芸」

平成27年7月19日沼津史談会「第4回沼津ふるさとづくり塾」
「原・植松家の帯笑園と江戸の園芸」
講師:台東区立中央図書館専門員・平野恵
会場:沼津市原地区センター





当日画像資料



帯笑園 江戸の植木屋と同様の活動
 それに通じるもの現在に残す
 沼津史談会は、第4回沼津ふるさとづくり塾を、このほど原地区センターで開いた。東京都台東区立中央図書館の郷土・資料調査室専門員、平野恵氏が「原・植松家の帯笑園と江戸の園芸」と題して話した。約八十人が聴講した。
 海外品含む珍種や温室
 植物園の機能持ち専門家に評判
 平野氏は、江戸時代に原の植松家によって造営された帯笑園と、江戸で発達した植木屋業界との比較を行い、帯笑園が持っていた植物園の機能について解説した。
 記録上の帯笑園と温室
 はじめに平野氏は当時の医師や学者の旅行記などに登場する帯笑園の記述を取り上げ、そこには海外輸入品を含む珍しい植物があったこと、帯笑園の存在は当時の専門家の間で評判になっていたことなどを紹介した。
 そして、帯笑園について書かれたシーボルトの文章に登場する「温室」に着目し、解説した。
 それによると、当時、帯笑園には複数の温室があり、植松家では「窒(むろ)」と呼んでいた。温室と言っても現代的なガラス張りのものではなく、開閉できる棚を壁などで囲ったものだった.寒さに弱い植物を寒気から守ったり、早咲きをさせたりするために用いられていた。
 帯笑園の窒は一種の名物になっていたようで、「常春房」や「蔵春洞」などの名が付けられ、見学者が窒で和歌を詠んだり茶を飲んだりした記録が残っている。
  植木展と帯笑園 江戸時代には江戸で植木屋が登場し、繁盛していた。植木屋は植物の売買だけでなく、観覧目的の花屋敷(植物園)の運営や菊人形などの菊細工の展示を行い、現代で言うところの遊園地のようなアミューズメントパークとしての機能を持っていた。さらに、花屋敷を出版物で広報したり、植物品評会などの行事を開催していた。
 平野氏は、こうした植木屋と同様のことが帯笑園でも行われていたと指摘。植松家でも近隣の植物愛好家と共に「植木会」などと呼ばれる行事を開いていたことを説明。また、当時の著名人だった学者の海保青陵(かいほ・せいりょう)に園についての文章を書いてもらったことは、園の格式を高めるための広報の側面もあったのではないか、とした。
 さらに平野氏は、植松家が大名に貴重な植物を献上する代わりに「御挨拶」という名目で金銭を受け取っていた記録や、明治の植物学者が日記の中で植松家を「有名なる植木屋」と呼んでいたことなどを取り上げ、帯笑園においても植物の販売が行われていたことにも触れた。
 江戸の植木屋と帯笑園との共通性について解説し終えた平野氏は、まとめの言葉として、江戸時代に流行した園芸文化の担い手だった江戸の植木屋の庭は現存していないが、帯笑園はそれに通じるものであり、帯笑園が現存していることの意味は大きい、と話した。
【沼朝平成27年8月8日(土)号】

歴史とは・・・・ 鈴木数雄(沼朝投稿記事)

歴史とは・・・・ 鈴木数雄
 『昭和天皇実録』が第二冊まで刊行されている。明治三十四年のご誕生から大正九年(十九歳)までの動静が記されていて、驚くのは沼津御用邸滞在が頻繁で、長期にわたったこと。ほぼ毎年、暮れに沼津にお越しになって新年を迎えられ、春になると東京へ御帰還という日程が繰り返されている。
 滞在中の生活など知る由もなかったが、今回分かったことの一つが「御運動」。桃郷や我入道、千本の松林や海岸に精力的にお出かけになる。貝拾い、クラゲ捕り、松露採り、凧揚げなどもされた。ご成長とともに徳倉山、鷲頭山、香貫山と行動範囲は広がる。
 七面山、土筆が原、雷山、大平越え、香貫山の十三本松などの地名が詳しく記されている。現在、沼津アルプスと呼ばれる山々だが、昭和天皇ほど何度も足を運ばれた方は珍しいと思われる。本邸の馬場で練習に励まれ、馬で重寺や黒瀬方面にもお出かけになった。
 また、牛臥山と海の景色など沼津滞在中は、しばしば水彩画を描かれたという。
 大正七年、御用邸前の浜で採集された緋色のエビが新種とされ、和名ショウジョウエビと命名されたこともあった。
 沼津の海、山、川が、昭和天皇の自然観を育んだ可能性は高い。十二歳の時には博物博士になりたいと希望されている。しかし、その願いは叶わなかった。大正十年、大正天皇の摂政となり、昭和の激動に巻き込まれていったからだ。昭和天皇にとって沼津は、まさに揺籃(ようらん)の庭であった。
 今回、「実録」が公になったことで昭和天皇と沼津との絆が想像以上に強く、興味深いものになった。昭和天皇に限らず、沼津御用邸に出入りしていた人々や、そのつながり、縁の場所を「御用邸文化」と、ひとくくりにすれば、非常に多彩で歴史的にも価値のある「沼津の宝物」となる。
 敗戦後の一九四六年に「人間宣言」された後、昭和天皇は全国を巡行された。沼津巡行の際に「沼津は小さい時から馴染みの地だが、こんなに焼けては感慨無量だ」と述べられたという(沼津広報沼津市史)。

 平和憲法の下で象徴天皇となられてからは、公務の傍ら、ヒドロ虫類やウミウシ、貝類の研究で業績を挙げられた。「博物博士」という少年時代の夢は、平和な時代になって叶えられた。
 その平和憲法も、戦後七十年にして揺らいでいる。開戦を回避しようとされた昭和天皇なら、どうお考えになるだろう。

 昭和天皇のほかには、沼津に縁の人物で国家の存亡に関わった例はない、と思っていた。ところが、高尾山古墳が「日本国家誕生時の重要遺跡」で、「卑弥呼のライバルというべき東国の王の墳丘」の可能性が出てきた。日本考古学協会会長による、保存を求める異例の声明も出された。
 西暦二一二〇年頃に築造され、被葬者は二五〇年頃に埋葬されたという。三世紀前半と二〇世紀に日本の国の歴史に深く関わる人物が、沼津という風土の中で生活していた。予想を超えた歴史の展開は実に面白い。
 高尾山古墳の価値は今後の研究で、さらに高まるだろう。道路建設のために破壊するなど断じて許されるものではない。昭和天皇没後二十五年経って刊行された「実録」から新たな事実が分かり、市民にとっての御用邸文化の価値も大いに高まったのだから。
 歴史とは、そういうものらしい。(大岡)
【沼朝平成27年8月8日(土)投稿記事】

2015年8月7日金曜日

木簡にみる古代地名

木簡にみる古代地名
沼津あれこれ塾で変遷たどる
 NPO法人海風47による郷土史連続講座「沼津あれこれ塾」の第3回講座が、このほど商工会議所会議室で開かれた。元市教委学芸員で日本考古学協会会員の瀬川裕市郎さんが「堅魚(カツオ)木簡からの情報カツオ製品づくりと沼津周辺の古代地名」と題して話した。
 内浦のカツオ、税で都へ
 納税者の住所など解読
 奈良時代、全国各地から特産品が税として平城京の都に運ばれていた。これらの品々には荷札として木簡(木札に字を書いたもの)が添えられていた。こうした木簡が平城京の跡地などから多く見つかっていて、それらには現在の沼津市南部一帯から運ばれたカツオの加工品に関するものも含まれている。
 かつて内浦周辺では、入り江の入口を網で封鎖してマグロやカツオなどを捕える「建ち切り網漁」が行われていた。捕えたカツオは、煮たり、火であぶったりして加工し、「荒堅魚」や「煎」という品目で都へと運ばれた。「煎」とは、カツオを煮た汁から作られる煮こごりのようなものだと考えられている。
 都への税の木簡には納税者の氏名や住所が記されていて、カツオ木簡には駿河国駿河郡宇良郷の「榎浦里」「菅浦里」、伊豆国田方郡棄妾郷の「瀬埼里」「御津里」「許保里」などの地名があったことが確認されている。
 瀬川さんは、これらの地名を現在のものと照合させた結果について、「榎浦」は江浦、「菅浦」は志下、「瀬埼」は大瀬、「御津」は三津、「許保(こほ)」は古宇(こう)に相当する、と説明。また、「田方郡棄妾「(きしょう)郷」については、現在の西浦地区には木負(きしょう)という地名があり、棄妾郷が木負の由来になっているとの説に言及する一方、当時の棄妾郷は現在の内浦地区と西浦地区を含む広い地域一帯の名称であることから、西浦の一部地域の地名である現在の木負と棄妾は一致しないとする説もあることを話した。
 そして、後者の説の場合、木負という地名は古代の行政単位である「保(ほ)」と関係していると話し、同じ西浦地区の古宇が、かつては「許保」であったことから、木負もかつては「○○保」という地名だったのではないかとする説を紹介し、同じ西浦の久料(くりょう)も同様であった可能性についても触れた。
 これらを踏まえた上で、かつて西浦の地には「きし保」や「くり保」と発音される地名があり、これらがなまって「きしょう」や「くりょう」となったのではないか、という仮説があることを述べた。
 木簡に残された記述から地名の変遷についての解説を終えた瀬川さんは、講座の最後に「地名は変わってしまうことが多い。現代でも区画整理などによって新たな地名が誕生しているが、地名が変わってしまうと、かつての地名は失われ、そこに込められていた意味も忘れられてしまう。これは古墳も同じことで、古墳は一度その場所から失われると、その存在までもが忘れ去られてしまう恐れがある」と指摘した。
 次回の講座は二十九日午後二時から同会場で。市教委学芸員が「沼津城と三枚橋城」をテーマに話す。
 参加費は資料代として五百円。
 申し込みは、田村寿男さん(電話〇九〇ー三三八九ー〇五六七)、または瀬川さん(電話〇九〇ー四七九三ー○七九七)。
【沼朝平成27年8月7日号】