2019年8月25日日曜日

道の記憶 旧楊原地区における古道の意義 神田朝美論文(平成25年3月 静岡県民俗学会誌)


沼津あれこれ塾「伊豆石の行き先と使われ方」講師 原田雄紀(沼津市文化財センター)





江戸城や寛永寺に伊豆石
 沼津あれこれ塾で文化財センター職員が解説
 NPO法人海風47は24日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」を市立図書館で開催。市文化財センターの原田雄紀さんが「伊豆石の行き先と使われ方」と題して話した。約30人が参加した。
 伊豆石は伊豆半島一帯で採掘された石のことで、硬い安山岩と柔らかい凝灰岩の2種類がある。安山岩は伊豆北部、凝灰岩は南部と沼津市の一部(静浦、内浦、大平)に主に分布している。こうした地域には丁場(ちょうば)と呼ばれる採石場が古くからあった。
 伊豆石は、古くは古墳石室の材料として使われ、後には三枚橋城の石垣にも使われた。
 江戸時代には、徳川家康による江戸城の造営に使われ、現在の戸田地区などには造営に協力する諸大名の丁場が設けられた。丁場跡に残された石には、採掘者を示すための印が刻まれたものがあり、江戸城の石垣にも同じ印が刻まれた石があることが分かっている。
 江戸城が完成した後も、臨時の需要に備えるために丁場は維持された。駿府城の修築工事や、寛永寺の将軍墓所の灯寵(とうろう)の製作などで伊豆石が使われている。後に寛永寺の灯籠の一部は各地に譲渡されており、その一つが市内の日緬寺(下香貫牛臥)に現存している。
 この灯籠は11代将軍徳川家斉の墓所にあったものだった。原田さんによると、戸田産の石が使われている可能性があるという。
 市内南部にあった諸大名の丁場は、当初は公用のために使われていたが、18世紀以降は商業化し、大名と商人によって石材が江戸に運ばれた。採石作業は地元の漁民が副業として行った。
 幕末以降は、市内一帯で産出された伊豆石が品川台場や横須賀ドックの石材として使われた。戸田地区の井田では近代になっても多くの石工が暮らし、採石業が盛んだったという。
 最後に原田さんは、西浦地区のミカン畑の石垣の写真を見せ、これらが農家自身の手によって造られたことを紹介し、市内南部は石材と身近な地域であった、とまとめた。
【沼朝令和1年8月28日(水)号】

2019年8月22日木曜日

明治天皇 皇城見取り図発見


明治天皇 皇城見取り図発見
焼失4年前、使節団が作成
オーストリァ、手記も保存
 
1869(明治2)年に明治天皇の住まい「皇城」(旧江戸城西丸)でオーストリァ・ハンガリー帝国使節団が天皇と謁見(えつけん)した際、詳細な見取り図を作成していたことが21日分かつた。見取り図は手記と共にオーストリアで保存されていた。皇城は73年に火災に遭い、皇城に関する文書なども焼失。元宮内庁書陵部編修課長の岩壁義光氏は「謁見の場所を具体的に描いた視覚的な史料は見たことがなく、一級の史料だ」としている。
 見取り図と手記はリンツ市司教区文書館にあり、同市郊外シュタイレック城の宮田奈奈研究員とドイツ・ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調査で確認した。手記には謁見4日後のピアノ御前演奏の様子も描かれ、明治天皇の素顔の一端がうかがえる。
 皇城は二重橋(正門鉄橋)に近い現在の宮殿の南側にあった。見取り図は、皇城の玄関から謁見に使われた大広間(手記によると500平万フィート=約46平万㍍)を描写。天皇が謁見時に用いた御帳台や雅楽奏者、グランドピアノなど贈り物の位置のほか、使節団が茶菓の接待を受けた殿上の間も描かれていた。
 学習院大史料館の客員研究員を務める岩壁氏によると、皇城の火災で73年までの主な公文書の原本はほぼ残っていない。
 見取り図と手記を記したのは、日本と修好通商航海条約を締結するため69年に来日したオーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊の3等書記官オイゲン・フォン・ランゾネ男爵。
手記や日本側の外交史料「墺地利使節参朝並条約調印一件」によると、使節団は公使アントン・フォン・ペッツ男爵を全権代表とし、1016日に皇城で当時16歳の天皇に謁見。ランゾネは、すだれである御翠簾(こすいれん)で顔を隠した天皇が使節団のお辞儀に答礼するため身をかがめて立ち上がつた際「若々しいお顔を拝見する機会にあずかった」とも記した。(共同)
【静新令和1年8月22日(木)朝刊】



群青の海 四方一彌


群青の海 四方一彌
 八月六日、長らく続いた梅雨の空は一点の雲もなく晴れ渡っている。忘れていた海への想いに駆られ海岸へ急いだ。足を速めて松林を駆け抜けると、湿気の残る林の砂は軋(きし)む音を立てながら後を追ってくる。
 砂丘の堤防に立って冨士山に目を向けると、先日まで松林越しに見えた残雪も今日はスッカリ消えて、濃い紫いろの山肌を浮き彫りにしている。言葉も忘れて、しばらく富士山に見入っていると、林の奥から一声、二声小鳥の囀りが聞こえてくる。
 夜明けの空は雲が多いが、この日、西の空には碧い空が広がっている。波打ち際に立つと田子浦、蒲原、薩唾峠、興津を経て三保の松原、日本平に続く海辺沿いの家々が一望のうちに見渡せ、海辺の家々は簷(のき)を連ね、朝餉(あさげ)の仕度に立ち働く女衆の声が伝わってくるようだ。
 明かりの点き始めた浜辺の家々の上には朝の光を受けて連なる簷から頭を西に向けるとその上には毛無、天子の山々、七面山、十枚の峰を際立たせて甲斐身延の山脈が連なり、赤石の山と二重、三重に重なり合って北から南へと延びる。
 三保の松原から目を左に移すと、まだ明けやらない伊豆の山懐に抱かれた海辺の村々は大瀬の岬から江梨、久料、足保、立保、久連、木負、重須、三津の入り江の浦々の朝霧が掛け軸の軸をゆっくりと捲き上げるように夜明けを告げる。
 一方、大瀬崎の白亜の灯台から伊豆の山々の稜線は真城、金冠、葛城と東に延び、田方平野を横切って箱根に連なる。
 海辺には釣り人の数も増している。しばらくして波打ち際にいた女性が、こちらに向かって歩いてきた。堤防に腰を下ろしていた私は、「どちらからお出でになりましたか」と尋ねると、その女性は「新宿から参りました」と明るく応えた。朝の六時ということもあって、「では昨日、お出でになったのですか」と改めて尋ねると、「いいえ、今朝、出て来ました」と、海辺で釣り竿を投げ込んでいる若い男性を指さしながら爽やかに応えた。
 「そうですか。私も東京には二十年、沼津から通いました」と応えると、「そうですか」と親しげに応えてくれた。
 気がつくと沖には群青の海が広がっている。遅い夏が、そこに来ていた。
(松下町)
【沼朝令和1年8月22日(木)「言いたいほうだい」】

2019年8月19日月曜日

高尾山古墳発掘調査報告書 39・40頁 第23図 主体部遺物出土状況

沼津市文化財調査報告書 第104集
高尾山古墳発掘調査報告書
2012 沼津市教育委員会 平成24年3月30日発行
39・40頁 第23図 主体部遺物出土状況
報告書表紙

2019年8月15日木曜日

小田原式沼津のひらき製法の事


小田原式ひらき製法

・・・・すでに大正七~八年頃になると、下河原の地元漁師たちがひらきの製造をしていたともいわれている。
 当時の製法は、魚の腸を手で出し、水樽に塩を入れ掻き混ぜ、ひらいた魚を水樽の中に入れておいたために、夏場などは早く傷むことが多かった。
 大正十年、問屋制度に終止符がうたれ、沼津魚仲間も大きな変化をきたすのであった。
 丁度その頃、小田原から沼津の下河原入町に移り住んだ飯沼佐太郎氏が、大正十二、三年頃、小田原方式のひらき加工をはじめた。従来の製造方法との大きな違いは、①包丁で腸を出すようになった。②塩汁を使用した。③生ぼし天日乾燥であった。この方式(地元漁師の女将さんにこの方法を指導し公開した)が次第に普及し、下河原の農家の人々の副業となり、ひらき加工の商売の道が順次開かれていった。
 下河原の半農半漁民は、さ)小田原屋が製品化して売り出す話を聞いて、ひらきならば家内工業として成り立つことを知り、夏は養蚕業、春と秋はひらき加工業として歩み出した。
(沼津魚仲買商協同組合三十年史)


◆沼津ヒラキ物語② 「下河原町(しもがわらちよう)と河岸(かし)」その2 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語②
「下河原町(しもがわらちよう)と河岸(かし)」その2 加藤雅功
●「ひらき」の始まり江戸時代の明和5(1768)において、仲町(なかちよう)の池田與三郎家文書に「ひらき物」があり、
これは開いた魚の干物を指していると考えられ、それより以前に「ひらき」の製造が行われていたことが分かる。
当時の魚仲間組合(「五十集(いさば)衆」)の沼津宿裏町(うらまち)の魚座(うおざ)の規則である「古例式」に記されている「ひらき」(1)という言葉が、沼津での初出と思われる。大火の多かった沼津では、水産加工品の史料があまり残っていないために「塩切り」か、または保存目的の「堅乾(かたばし)」と推定されるが、詳しくは分からない。
 下河原の統計から見ると、明治中期にはマグロ類の塩蔵品「盬鮪(しおまぐろ)」が生産量・生産額ともに突出しているが、その後の明治36(1903)には沼津本町で煮乾鰹(にいぼしいわし)・盬鯖(しおをば)など、イワシの煮干しや塩サバの生産が見られる。大正期に入ると西天王(にしてんの)網が沖引網漁法を取り入、巾着(きんちゃく)網の船団で駿河湾内に出漁し、狩野川から宮町河岸(がし)に乗り入れている。宮町から新玉(あらたま)神社付近までの河岸ではイワシの加工問屋が立地し、賑(にぎ)わいを増していった。
 ●干物からヒラキへ 魚を塩漬けする塩蔵品に対して、日乾(ひぼし)により完成させる「干物」(1)としては、腹開きの「興津鯛(おきつだい)」が有名である。駿河湾の沖合で採れたアマダイの胸骨・背骨を取り去り、塩漬けの後に日干ししたもので、明治28(1895)刊の『沼津案内』では産物の項で、魚類として鱲子(からすみ)とともに「甘鯛の干物」が都会の人々の嗜好品(しこうひん)であることを紹介している。昭和3(1928)の『沼津商工案内』掲載の広告からは、「沖津鯛」として仲町の濱田屋が製造販売していたことが分かる 内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)にも出品しているが、静岡・興津・清水・城之腰(じょうのこし)(現焼津市)が高評価なのに比べて、新興の沼津産の評判は芳しくなかった。
 明治27(1894)の『静岡県水産誌』では、西浦村で「鰺開乾(あじひらきぼし)」の製造が行われていたことが分かる。自家消費用のアジの干物であって、外に向けての販売目的の金額には達していないことを指摘している。静浦(しずうら)村の口野(くちの)・馬込(まごめ)、楊原村(やなぎはらむら)の我入道(がにゅうど)では開乾が生産されており、東京や甲信地方、沼津に販売されていた。
 とくに、幕末期以降に我入道などで干物の加工が行われるようになり、志下(しげ)のほか獅子浜(ししはま)・多比(たび)では塩物、干物、節物(鰹節など)を扱う加工業者が増加した。この地域では大正期に大量に採れたイワシなどが「煮干し物」のほかに、一部で干鰯(ほしか)として周辺の農村部の肥料に用いられている。
 一方下河原においては、明治期にはすでに仲買人の買い残した魚を地元の漁師が「ひらき」にして、自家消費の形で作っておかずにしたり、得意先に分けていた。また、大正8年頃には下河原の地元漁師たちが「ひらき」の製造をしていたと言われているが、「ひらき」の販路が十分には確保されていなかった。
 当時の製法が「魚の腸(はらわた)を手で出す」(2)とした指摘には、検討の余地がある。包丁を使った加工がムロ鰺(アジ)や鯖(サバ)などですでに実行されていた点から、イワシなどは「手開き」であったとしても、魚の腸を手で出す作業が中心であったかは甚(はなは)だ疑問である。しかし「水樽(みずだる)に塩を入れ掻(か)き混ぜ、開いた魚を水樽の中に入れておいたために、夏場などは早く傷むことが多かった。」(2)という点は、加工技術や食品管理面の稚拙(ちせつ)さからも容易に理解できる。
 戦前に前身の「大十(だいじう)」と後の沼津魚市場に勤めていた亡き父が「沼津の下河原はヒラキの発祥の地である。」ということをよく言っていた。日本橋や築地(つきじ)の市場(いちば)にアジ(真鰺)のヒラキが干されている写真を見るにつけ、納得することはできないが、半分は当たっていると思う。

(1)干物(ヒモノ)は一般的な呼称で、「開き」(ヒラキ)も市場に出回る際には「干物」で統一される。「開き」は形状から来たもので、魚を切り開いた状態を指す。「ヒラキを干す」というように、天日で干す(日干し)作業を経て「干物」となるが、沼津では製品となってもヒラキと拘(こだわ)る傾向が強い。江戸中期に「ひらき物」の呼称があるが、塩汁(しょしる)に潰ける過程を経て塩を洗う「塩切り」のヒラキに対し、塩蔵品ではない、日乾(ひぼし)により完成させる「干物(ひもの)」があり、さらに保存性を高めた「堅乾(かたぼし)」さえもある。
 また地元では、水産加工業者を「開き屋」と呼んだように、全般的な取り扱いの「干物屋」とは明らかに形態が異なる。専門特化した中で技術力を高め、差別化を図った背景がそこには存在する。
 (2)ひものに関する本文の一部は、「入(い)り町」の曽祖父の家に関わった親類、故加藤角次郎の叔父が語った談話を参考にしている。(「沼津魚仲買商協同組合三十年史」から一部引用。)
(沼津市歴史資料館「資料館だより」2019625日発行第222号)

◆沼津ヒラキ物語①「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語①
「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功
 今回から地元の水産加工業の干物と「開き」の歴史について少し語っておきたい。まず最初に、下河原の集落の性格と生活の舞台を中心にして記す。
 ●集落の性格 すでに紹介した江戸時代後期の文化3(1806)作成の「沼津本町絵図」から夫役(ふえき)を読むと、宮町(みやちょう)・下河原町とも歩行(あるき)屋敷と船手(ふなて)屋敷が多く、野(の)屋敷も10数軒を数える。宮町は船手が28軒、歩行が7軒で、家数48軒の下河原町では船手・歩行がほぼ半々であった。ともに狩野川河畔の「河岸(かし)」に位置し、道沿いに短冊型の土地割をなし、人足役を勤める歩行役以上に集落を特色づけたのは船手(ふなて)役で、船舶の管理や運送の任務に当たっていた点にある。
河川の港湾をなす「河岸」は船の荷物の積み下ろしをする岸であり、古くに北側の上土(あげつち)のほか、「魚町(うおちょう)」から「仲町(なかちょう)」にかけてがその中心で、問屋・仲買の人々が活躍する場でもあった。大正から昭和初期の絵葉書や新版画に描かれた蔵の連なる倉庫街と「河岸」の風景は、今もその片鱗(へんりん)をわずかに残している。
狩野川右岸では「河岸」の景観だけではなく、「川除(かわよけ)」の機能が重要であり、古くから洪水制御を目的に「出し」が築かれていた。下流側へ斜めに突き出す「石突き出し」(石出し)は単に「出し」と呼ばれ、細い河岸道(かしみち)の先に構築されて、普段は船の係留に役立てられていた。長さは6間程度、幅も5間前後あったが、基礎の材木に太い松などを矩形(くけい)の格子(こうし)状に組み、間に捨て石を置くために堅固で、新旧の堤防工事ではその撤去に難儀した。なお、明治末期には、宮町から下河原町にかけて7つの「出し」があったことを知る。
 これらの「出し」のほか、「河岸」に降りる坂や階段、舟繋(ふなつな)ぎの松、石垣・擁壁(ようへき)等から、川に依存する河港(かこう)の機能だけでなく、洪水災害常襲地の護岸の特異さを反映し、生活に根差した文化的景観をなしていた。
 ●生活の舞台 明治初頭の宮町・下河原町の絵図面を見ると、妙海寺(みょうかいじ)へは不動院に接した妙海寺通り(妙海寺門前)からで、「中(なか)の寺」と呼ばれた妙海寺の大門より先には、「ゑんぎ館」(ゑんぎ旅館)などが進出した。祖父が青年期に過ごした沼津本町の南端で、よく会話の中で「ゑんぎ館」の裏にあった「入町(いりちょう)」の実家のことが語られた。移転後に親類の加藤角次郎(山加)が住んだ地で、黄瀬川の被圧地下水を上総掘(かずさぼ)りで鉄管を貫いて得る「掘り抜き」の共同井戸を挟んで、友人の前田勉(丸リ)の家があり、ともに古くからヒラキの水産加工業を営んでいた。アジを代表とした魚の加工では、洗いや塩汁(しよしる)に潰ける際に井戸水などを大量に使用し、また近くにヒラキの干し場を求めるのが常であった。
 狩野川は柿田川の湧水が大量に注ぎ、清流のために沖合(流心)から汲み上げた水は腐らず、外洋に出る船舶が航海前に永代橋の下流で汲んでいたことを、よく父が話していた。「出し」と「出し」の間は「水の流れが一時的に止まって静かになり、魚の洗い場として好適であった」ことを山加の伯父が語っている。
また、新玉(あらたま)神社北側にあった「新玉(サス六)の出し」でも昭和7年頃、露木家(サス六)が魚の洗い場に利用していた。いずれも戦前の穏やかで、清らかな河の流れの頃の話である。
 絵図面に戻ると、下河原町の旧道から西側に入る道は「天王(てんのう)道」と呼ばれ、「中(なか)の寺」の妙海寺と「下(しも)の寺」の妙覚寺(みょうかくじ)の境内が接する位置に天王社が祀(まつ)られていたことに因(ちな)む。疫神(えきがみ)の牛頭(こず)天王を祭った天王社は、紙園(ぎおん)社とも呼ばれ、かつ下河原(下川原)の地名由来とも関係して、一時「下河原神社」とも呼ばれた。
また、天王道から入って突き当りの妙海寺に「古表門」の標記が別の古絵図にあり、この分岐した道が古くから成立していたことを知る。
 この天王道と旧第六天社(現川辺神社)とに挟まれた一画は、私の曽祖父が居住していた頃の通称「入り町」で、絵図では家が5軒ほどある。旧道からの文字通りの入り込んだ部分で、「入町」とも記した地は異形の区画を占めている。狭小ながら旧下河原として特異な部分をなし、クランク状の道の先には、天王社(祇園社)のほか、耕作地の中に千本への浜道が3本延びていた。
 ●下河原町の生業 宮町から下河原町にかけての住民の生業(なりわい)は、元々魚仲買の「五十集(いさば)衆」が多く、魚町や仲町などから移行して、商工業は活気を呈していく。古くは魚町に「魚座(うおざ)」とともに「魚河岸(うおがし)」があり、やがて大正から昭和初期にかけて宮町の「魚河岸」に魚市場が整備されると、問屋・仲買・小売りなど、関連の仕事への依存度が高まっていった。
下河原の千本浜での地先漁業は、古くにマグロ・カツオ・サバ・ブリなどの回遊魚を対象とした地引き網漁で、地元の天王社に因んで、網組名は「天王網」(しもあみ)(下網とも)である。祖父まではこの天王網組に所属し、下網は下河原を指す略称の「下(しも)」から来ている。やがて魚種も減って小規模となり、後に東西に別れてもいたが再統一され、現在まで継続している。沼津本町全体では明治中期に漁業を営む漁家が80戸程度にしか過ぎず、中でも五反田(ごたんだ)(市道) (いちみち)の人が多かった。魚町の小池屋を津元とした「小池屋網」とも言った「小池網」の網組が北側の市道の漁場を占めていたが、それでさえも半農半漁の生活を余儀なくされていた。
 明治20年代において下河原の農家は小舟を持っており、河ロ一帯で手繰(たぐ)り網漁を共同で行ったり、狩野川の船倉(ふなぐら)からも船を繰り出して、千本浜で地引き網(天王網)などを20人から30人の漁師で引いていた。60戸ほどの集落では、漁業は農閑期に限られ、やがてお蚕(かいこ)さんを飼う養蚕(ようさん)業にカを注いでいくこととなった。
 土地利用面を見ると、下河原や本町分の畑地では、養蚕が明治期に盛んとなって、明治20年代から戦前まで、狩野川寄りに蚕の飼料となる桑の葉を得るため、一面に桑畑が広がっていた。半農半漁の暮らしが続く中で、祖父が「入町」から妙覚寺裏に移転して、農業
で生計を立て始めていた大正末期頃には、下河原に郡是製(ぐんぜ)糸場も進出していた。現在の下河原団地付近にあり、地元から多くの女工が採用されて活気を呈していた。さらに昭和8年に「港湾地区」に掘込式の港湾(沼津港)がほぼ完成し、昭和10年頃からは耕地整理事業も進められた。
 昭和30年代からは都市化が進展し、かつて「下河原野良(のら)」と呼ばれた土地も普通畑さえなくなった。現在の内港(ないこう)付近で低湿地が目立った港湾周辺の水田も、観音(かんのん)川 【子持(こもち)川】沿いから千本中町付近まで分散してあったが、埋め立てられて消滅している。
(沼津市歴史資料館「資料館だより」2019325日発行第221号)



私の終戦 海野佳子


私の終戦 海野佳子
 昭和2023日、私は動員学徒として奈良の学校の寮から1年生150人で西舞鶴の海軍工廠へ向かうことになった。先輩は既に全員出動していた。
 急な話で、指示されるまま、それぞれ自分の布団や教科書の類を全て布団袋に詰め、寮の別棟の大部屋に名札を付けて順序良く詰めていく。これからの生活に必要なものだけ持って国鉄奈良駅から京都駅へ。ここで山陰線に乗り換えて一路、未知の北国舞鶴に向かった。
 京都ではパラパラの雪だったが、綾部を過ぎると雪景色は進むほどにドンドン深くなっていく。西舞鶴で下車。地元の人は2㍍の雪だと言っていた。改札から出ると目に入ったのは雪に埋まった家々の屋根と灰色の空だけ。雪空のどこかに太陽が隠れているのか、夜ではないようだった。
 雪を削って人1人が通れるように、道が出来ていた。前の人の足元を見つめながら宿舎に到着。真新しい板張りの大きな建物が何棟か並んでいた。部屋割りも出来ていた。案内されて入った部屋に奈良の寮の同室の先輩が1人いて、肉親に会ったような安心感を味わった。
 冬の真っ只中。奈良の冷たさも沼津とは比較にならないほど鋭く厳しいものだったが、日本海に面した雪国の冬は生まれて初めての体験で、言葉に表せない衝撃だった。暖を取るものはマッチの一本もなく、暖かな白湯一杯さえなかった。着たままで布団にもぐるほかになかった。
 翌朝、工場へ出かける前、男物の黒長靴と大きな黒の洋傘を持って「これがなければ道は歩けませんよ」と係の男性は笑いながら11人に渡していた。工場に行くにも雪の壁を左有に見ながら一列になり、黙々と歩いた。
 工場に着くと私達に割り当てられた仕事は、手りゅう弾の皮になる鉄を流し込む砂型作りであった。砂を詰める型があり、うまく形を保つように砂が出来ているのか、何百かの並んだ砂の型に男性の工員さんが真っ赤に溶けた鉄を柄杓状のものに汲み、次々と流し込む。翌日にはしっかり冷えて鉄は型通りのモナカの皮にように出来ていた。
 その砂をきれいに払って作業は始まる。砂を外した皮を1つずつ組み合わせ、1人で抱えられないほどの木の箱に入れて出荷。毎日同じことを繰り返していた。
 作業が終わると砂を払って寮に帰るのだが、衣類に残った砂を寮の入り口でしっかり落とし、それぞれ部屋に帰っても、暖を取ることもできない。
 食べることより先に皆で浴室へ向かう。別棟に大きな浴室が出来ていたが、寮の皆が一斉に駆け込んで入るので、湯舟などは見えず人の頭の塊しか見えない。
 どうして入ろうか、などと見ていたら夜中まで入れない。強引に割り込んで足を差し込み、徐々に押し込み、なんとか肩までお湯に浸かる。誰もが体の芯まで暖まってから出たが、よくケガ人が出なかったと思う有様であった。
 トイレも別棟。窓には格子があるだけで雪は容赦なく中に舞い込み、1回毎に靴下はビショビショ。窓からどんどん舞い込んで来る雪蛍を払いながらの用足し。
 洗濯には広い洗い場と干し場が軒下にしっかり出来ていたが、太陽が顔を出さないこの時期、氷気は切れるが乾かない。それを夜中に抱いて暖かくして着替えをしていた。
 食事は三度三度頂けて湯気の上がる有難いものであった。主食はコーリャンを潰したお粥状のもの。おかずは舞鶴の海の幸。魚のあらを海水で炊いた栄養たっぷりの汁。211日の紀元節には薄紅色のお米のご飯で嬉しかった。
 そんな生活の中、「欲しがりません勝までは」と張り切っていたが、体が悲鳴を上げてしまった。2月末、起きようとしたが目が開かない。体が動かない。這うようにして医務室へ行く。待つ時間も床に寝ていた。診断は急性黄疸。
 関西の人で帰宅させられる人もあったが、私は帰ることもできず、大部屋に寝かされ、約1カ月間、治療を受けた。私と同じように十人ぐらいがゴロゴロ寝ていた。
 許可が出て出勤した時には、あの大雪は殆ど消えて道路脇の小川に清らかな水が、明るい太陽に踊るように流れていた。自然界には苦しい暗い影はなかった。
 5月に入り、手りゅう弾は使う場が無くなったと、新しい製作が一始まった。それまでのように砂で型を作り、今度は大きな細長い鉄、の塊が出来上がった。それは人間魚雷だということだった。大人1人が腹ばいになって操縦桿を握り、そのまま敵艦に当たり撃沈させる物体であつた。
 仕組みの細かいことは分からないが、砂をきれいに払い、朱色の塗料で塗られた鉄の物体を見つめ、胸が締め付けられる思いで言葉を失った。
 工員の1人が「これに入るのは動員学徒が多い。兵隊の訓練は受けていないが頭を使って操縦するから」と囁いた。思えば知覧の特攻隊も、このようだと聞かされた。
 6月には休日がありクラスの3人で舞鶴の街中へ出てみた。何かお金を出して買うものがないかなと左有を見て歩いたが、チリ紙一枚も売っているものは無かった。値札と思われるものを付けて路上に並べられたものがあったので近づいて見ると、ヘチマのたわしと軽石が23個ずつ。
 7月のある夜の8時ごろ、「空中戦だ」と叫ぶ声がして、慌てて外に出て空を見上げると、飛行機に向かって高射砲が撃ち込まれていた。全く当たらず2機の敵機は悠然と去って行った。
 815日、仕事場に着くと、管理官の将校が「きょうの正午に大事な放送があるから場内の中央に集合して聞くように」と告げて急ぎ足で去って行った。正午、集まった工員と職員で放送を待った。
 スピーカーから流れる声は雑音のようで殆ど聞き取れなかった。将校は「戦争は終わった」と吐き出すように.言うと、さっさとその場を去った。
 皆、言葉も出さずボーっと立ちすくんでいたが、やがて人の輪は崩れた。日本は敗戦という形で、長い苦しい時代の幕を下ろしたのであった。
 (南本郷町)
【沼朝2019(令和1)815(木曜日)号】