2019年12月2日月曜日

幻の駿富電気鉄道株式会社


 駿富電気鉄道株式会社
 (昭和二年・沼津市)
 
 昭和二年(一九二七)沼津市と富士郡吉原町地区の有志が駿富電気鉄道株式会社を設立した。事務所を沼津市三枚橋字惣作一五三番地の一に置き、取締役社長に杉山周蔵が就任する。計画路線は、沼津から根方通りを経て富士郡今泉村下和田付近を通り、富和六所浅間神社の北側の旧大宮街道の近くを北進し、同郡鷹岡村を経て同郡大宮町至る一三マイル四チェーン(約二二キロ)である。
 わずかの記録をたよりにこの計画を追ってみると、昭和二年九月二十六日沼津市において発起人会が開かれたようである。富士郡吉永村役場の同目の日誌に「村長発起人会出席のため沼津へ出張」とある。同日誌にはその後昭和五年八月十三日までの問に幾度かの会合を記し、会社の計画の推進状況が記されている。それによると関係町村はこの鉄道建設について真剣に取り組み、会社理事者と各村当局は打ち合わせ会を重ね、あるいは村議会を開いて設置委員会を結成し土地買収をはじめるなど、関係町村では機を得た事業として賛成であった。
 富士郡伝法村の記録には、和田橋付近に設置する踏切、法寿寺の山門の並木の東側を横切る問題、また旧隔離病舎に対する補償問題などで、会社との交渉が難航していることが記されているが、敷地に反対していることではなかった。さらに同誌の記録によると、昭和五年八月二十一日付の会社より村長遠藤峯太郎宛ての「村内土地立入測量期日の延長」という通知を最後に、駿富電気鉄道株式会社の関係文書は一切見当たらない。
 この鉄道会社の設立理由は、東海地区と甲斐・信濃とを結ぶ広域商業圏をつくることであった。計画には反対者もなく全く順調な進展であったが、計画が挫折してしまう最大の原因は建設資金の調達問題であったと考えられる。当時の日本経済は、大正十二年(一九二三)の関東大震災以来先行きは暗く、昭和二年には金融大恐慌に襲われた。同五年には金解禁によって大不況時代を招来し、農産物の低価格による農業恐慌など、一体どこまで沈むのか皆目見当がつかない深刻な不況に見舞われていたからである。
(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著平成9年12月27日発行よりの資料)


※杉山周蔵(初代沼津商工会議所頭取)は沼津駅停車場~三ツ目ガード(この時代建設)を通って根方街道を使い、門池公園(当時テーマパーク構想あり)や富士郡への鉄道を計画した。(※監理者加筆)

杉山周蔵
 1869(明治2)、沼津・三枚橋に生まれる。沼津中学校を卒業。
 1907(明治40)10月、駿東郡会議員当選(1)
1908年、沼津町議会議員に当選(1923年まで就任)
1919(大正8)、静岡県会議員に当選(1)1923(大正12)、沼津市会議員・静岡県会議員に再選。その他多数の公職を歴任。
 また、1903年沼津倉庫株式会社取締役。1908年、沼津銀行取締役、1912年、愛鷹肥料店取締役、1910年沼津町商工会長就任。1917(大正6)、富士煉乳を創立(森永煉乳と合併、解任)1919年、沼津運輸取締役、東京麻糸紡績取締役等々、実業面でも多数の役職を歴任した。
 1928(昭和3)、駿富鉄道株式会社を設立し、沼津駅から現在の学園通りを北上し、根方街道を東西に通る鉄道を計画した。これは、門池周辺を公園とする計画と連携するものであった。この鉄道計画の名残が三つ目ガードである。

 1939(昭和14)、逝去。
↑昭和初期の門池公園の遊覧公園チラシ



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