2020年8月23日日曜日

金属製の橋の欄干が戦時中供出され、代替の木製やコンクリート製でしのいだ戦後

金属製の橋の欄干が戦時中供出され、代替の木製やコンクリート製でしのいだ戦後。
各次の画像はフリーソフトを使って色づけした画像です。

御成橋の木製の欄干

永代橋のコンクリート製欄干

200823三島館絵葉書集PPT資料動画

2020年8月20日木曜日

 沼津市史・通史別編・民俗


 沼津市史・通史別編・民俗

 第一節
 宿場町と城下町
 沼津の市街地というのは、駿河湾の東部にのぞむとともに、狩野川の下流域にあたるところで、江戸時代の初期から、東海道の宿場町として開かれていた。そのような沼津の町は、箱根山をこえて江戸と結びつき、浮島が原をへて上方ともつながっていただけではなく、根方を過ぎて甲州ともゆきかよい、海路によって西伊豆ともかかわりあっていた。明治二二年にいたって、あらたに鉄道の開通のために、直接に京浜や阪神と結ばれることとなり、それからも引き続いて、ひさしく交通の要衝として、その独自の位置を保ち続けてきた。
 江戸時代の沼津の宿場は、一四町すなわち一五〇〇メートルにわたっているが、大きく三枚橋と上土と本町とに分けられながら、全体として市街地の骨格をつくりあげている。東の三島から西の原にむかって、当時の東海道をたどってみると、まず山王前から三枚橋に入り、ついで川廓から上土を過ぎ、さらに通横町から本町を通って、出口で沼津宿から離れるというものであった。
 さかのぼって、江戸初期の慶長一八年に、領主の大久保家が絶えて、旧来の三枚橋城がすたれてから、この沼津の町は、ひさしく幕府の直轄領として、代官の支配下におかれていた。江戸後期の安永六年に、それが水野氏の所領と変って、新しい沼津城が建てられることによって、ただ宿場町だけにとどまらないで、しだいに武家屋敷もたち並んで、改めて城下町として整えられたのである。
 明治の初年からは、この沼津城にあたる地区が、城内という町域として認められたので、これまでの三町とあわせて、あらたに四大字がおかれることとなった。また、明治の中期には、東海道線の鉄道が通じて、その城内の北側に、沼津の停車場がもうけられ、現在の大手町を中心に、しだいに市街地の形態が整えられていった。さらに、明治の末年からは、旧駿豆鉄道のチンチン電車が、三島広小路と沼津駅前との間を通いはじめたが、この電車の単線の軌道は、三枚橋までほぼ東海道沿いに敷かれており、大手町角から駅前通りにつながっていた。

 第二節
 町場の構成 町内の組織
 いわゆる沼津の三町にあたる、三枚橋と上土と本町とは、旧来の宿場の伝統を受け継ぎながら、近代の都市化の過程をたどることによって、今日のような市街地の中核を形づくるとともに、それぞれの地域ごとの特色をあらわしてきた。実際には、それらの三町に城内を加えた、四つの大字にあたる地域は、それぞれにいくつもの町内に分けられており、さらに細かな組からなりたつものであった。
 そのような町内ごとの自治会は、会長などの役員を中心に、さまざまな事業や行事を営んでおり、沼津市の当局との連絡を保ちながら、その地域の住民の結束にも役だってきた。この自治会の組織というのは、祭りの運営などにあずかる、神社の氏子の集団ともかさなっており、また冠婚葬祭などの贈答をおこなう、親密な交際の範囲にもあたるものである。しかしながら、その一つ一つの町内は、かならずしも明確にくぎられるわけではなく、たがいに密接につながりあっており、そのような町内の区分をこえて、何らかの商店街や商店会をつくっているものも少なくない。
 先行の文献の中では、『沼津市博物館紀要』の二〇集における、川口和子氏の「沼津の町並みの移り変わり」をはじめ、『沼津朝日新聞』の各年度の新年号における、同氏執筆の記事には、戦前の沼津市の町並について、きわめて精細に示されている。また、沼津市教育委員会の『三枚橋の民俗』、上土町内会の『上土町のあゆみ』、西川菊義氏の『花街本町昔話』などには、沼津の各町の実態について、それぞれ的確にとらえられている。ここでは、それらの文献の記事を参照しながら、改めて実地の調査を進めることによって、第二次大戦前から今日にいたる、それぞれの地域の様相についてまとめておきたい。
 三枚橋の各町内
 明治年間の三枚橋は、三枚橋町、平町、新田町の三町に分けられており、第二次大戦中の三枚橋は、三枚橋町、横宿、寺脇、山王前、平町の五町からなりたっていた。平成一七年度の地区委員の名簿には、この地域の町内にあたるものとして、第五地区南の連合に属する、三枚橋町、平町一丁目、平町二丁目、山王台、三芳町、山王前、富士見町、伝馬町、シティコープ平町という九自治会があげられている。
 大岡地区から沼津地区に入ると、旧東海道の電車道に沿って、山王前と平町と三枚橋町という、三つの町内が連なっていた。その平町の北東部には、氏神の日枝神社が祀られており、俗に山王さんという名で親しまれてきた。その入口の鳥居の脇には、東海道の一里塚が残されており、一本のマキの木が植えられていた。今日でも、この平町から三枚橋町にかけて、電車道の南北の両側には、多くの商店や事務所などがたち並んでいる。かつては、特にこの通りの南側は、問屋町や問屋場などといって、穀物商、肥料商、石炭商、酒造業などを営む、かなり大きな店が集まっていた。それらの店の南側は、そのまま狩野川の河岸につながっており、その河岸に着いた船と、店ごとにもうけた倉との問を行き来して、それぞれさまざまな荷をあげおろしするようにつくられていた。
 江戸時代の末期までは、三枚橋町の北側の一画は、俗にゴゼノ町と称するところで、盲目の瞥女(ごぜ)という芸人が集まっていたというが、明治維新によって、まったくそのおもかげは失われてしまった。それでも、電車道の両側と違って、三枚橋町の北方の横宿では、いくらかの小売の商人のほかに、大工、仕事師、瓦屋、石屋、馬力引き、車引きなど、さまざまな分野の職人が住んでおり、浪花節語りなどのような、旅の渡世の芸人もまじっていた。しかも、それらの職種の人々には、兼業で農業を営むものが少なくなかったのである。
港の築造が進められるとともに、南方の狩野川の河口にむかって、第二地区や千本地区の連合に属する、いくつもの新しい町内がつくられていったのである。
 城内の各町内
 明治年間の城内は、条内、片端、添地、町方、西条の五町に分けられており、第二次大戦中の城内は、大手町、上本通町、町方町、添地町、西条町の五町から成り立っていた。平成一七年度の地区委員の名簿には、第一地区の連合に属する、町方町、西条町、添地町、大手町、上本通町の五自治会があげられるのである。
 明治五年に沼津城が廃されてからは、その跡地も荒れたままにおかれていたが、明治二二年に東海道線の沼津駅がもうけられて、駅前通りが上土町と結ばれると、この大手町の一帯には、郡役所や裁判所などのような、いくつもの官庁がたちならんで、その大通の両側には、旅館や飲食店をはじめ、多くの商店などが連なるようになった。
 大正二年の大火後には、大手町の西側から町方町にかけて、あらたに本通りという道路がつくられて、ただちに上本町や下本町とも結ばれることとなった。今日では、そのような本通りの両側は、上本通りやアーケード街と称して、それぞれ独自の商店街として知られている。また、大手町や上土の商店街と、それらの二つの商店街との問には、仲見世や新仲見世などのような、いっそう繁華な商店街も連なっている。

 第四節
 商店街の変遷
 旧来の沼津の町は、陸海の交通の要衡にあたっており、江戸時代から明治年間を通じて、いくらかは農業や漁業ともかかわりながら、何よりも商業の取引を中心に、きわめて顕著な発展をとげてきた。明治二三年の統計によると、一八六五戸の戸数に対して、三〇戸の宿屋、八戸の料理店、五六戸の飲食店、一八戸の卸売商、四〇戸の仲買商、三八八戸の小売商などが数えられており、その繁栄の実情をうかがうことができる。そのような沼津の商圏は、ただ市内やその周辺だけにとどまらないで、広く駿河東部の一帯から、伊豆半島のほぼ全域にも及んでいった。さらに、大正から昭和初年にかけて、繊維工業などの軽工業を受け入れており、第二次大戦の時期には、機械工業などの重工業を受け入れている。
そして、終戦から今日までには、ただ商業都市の性格を保つだけてはなく、軽工業と重工業との両面にわたって、あきらかに工業都市の実態をもそなえるようになった。
 そのような市街地の発展にともなって、それぞれの商店街の様相も、年代ごとに顕著な変遷をとげてきたと認められる。旧来の東海道にそった、上土の本通りなどは、新しいセンター街としてととのえられながら、むしろ停滞の状態におかれているといえよう。同じような街道筋にあたる、上本町や下本町なども、第二次大戦の終結とともに、まったく繁華街の面目を失っており、かならずしも顕著な特色を示してはいない。それに対して、沼津駅の周辺に開かれた、駅前名店街や大手町商店街などは、大型店の進出などにささえられて、何とか独自の繁栄を保ってきた。それより駅から離れた、上本通りやアーケード名店街などは、これまでに相当の充実をはたしながらも、すでに再開発の必要にせまられている。それよりも、二つの通りの中間にあたる、仲見世の商店街などは、終戦の直後におのずから集まった、露天商の闇市から始まったものであるが、現に随一の繁華街としてにぎわっている。さらに、いわゆる駅北の開発とともに、リコー通りや中央へ通りなどの商店街も、やはり大型店の進出などとあいまって、いっそう新しい発展をとげようとしている。いずれにしても、その市街地の商店街は、明治初年から今日まで、東海道の宿場から始まって、沼津駅の南部の一帯に広がり、駅北の方面にむかってのびてきたといえよう。
 商人の伝承
 そのような市内の商店街では、しばしば火災や戦災などをこうむって、ほとんど戦前の様相をとどめてはいない。それにもかかわらず、旧来の東海道に沿って、何軒かの老舗の商店が、明治大正から今日まで、その位置や業態をかえながらも、何とか独自の営業を続けており、いくらかは貴重な伝承をもち伝えている。
 三枚橋町の商店として、旧東海道の南側には、いくつもの問屋が並んでおり、丸京という石炭の問屋が、もっともよく知られていたが、また丸源という同業の店は、その丸京の番頭をつとめた人が、大正年間に始めたというもので、最近までその営業を続けていた。すぐ裏手の狩野川には、その専用のダシが設けられており、清水から船で石炭などを運んできた。そこで、沼津の周辺の工場に、この石炭をおろすとともに、近隣の蹄鉄屋や鍛冶屋には、おもにコークスを商ったもので、近年には、そのように石炭を使わなくなったので、おもに石油をあつかうようにかわっている。
 この街道の北側の裏通りには、糠屋とよばれる店があったが、米のヌカを商うのではなく、材木のオガクズをあつかっていた。沼津や裾野の製材所から、そのようなヌカをもらいうけ、竹籠に入れてかつぎだし、会社や商店や家庭などに、絶好の燃料として送り届けた。昭和の初年までは、おおかたは竹籠にヌカを入れて、馬力やリヤカーなどで運んだものであったが、また麻袋にこれをつめこんで、伊豆から船で届けてもらい、港から馬力で運ぶこともおこなわれたという。今日では、一軒の製材所からいくらかのヌカを分けてもらって、長泉などの農家にこれを送り届けており、もっぱら牛舎の床にこれを敷きつめている。
 上土町の商店街では、実際に何軒もの商店が、明治の初年から受け継がれてきたが、その一つの前山履物店は、近年に貸店舗の経営にかわっている。本来は、鹿島屋という回船問屋が、ニビキの商標を用いていたので、そこからのれんを分けてもらって、カクニの商標を用いたものである。街道筋の店頭に並べた、履物や傘などを商っただけではなく、また伊豆の方面にも出かけて、あらかじめ注文をとっておいて、あとから商品を送り届けることもおこなわれたという。
 同じ町内の八代眼鏡店も、東側から西側に移ってはいるが、明治の初年から今日まで受け継がれている。その当初には、もっぱら桶屋を営んでおり、明治の中期から、改めて小問物屋にかわって、装身具や小物類とともに、既製品の眼鏡をあつかうようになったが、特に防塵用の眼鏡を売ってもてはやされた。昭和の初年には、眼鏡の専門店として知られており、駿河東部や伊豆方面からも、かなり多くの客を集めていた。
 上土通りの東側にあって、通横町の町内に属する、布沢呉服店という老舗は、三島宿の出身の初代が、上本町の布屋に奉公していたのが、江戸末期の安政二年に、そこからのれんを分けてもらったものである。昭和の初年には、数人の大番頭のもとに、何人もの中番頭や小僧などをおいて、かなり盛大な商売を営んでいた。東京や京都などの問屋から、さまざまな好みの品を仕入れて、本町の花街をはじめ、市中の得意の客に売りさばいていたが、また伊豆の方面などに出むいて、広い範囲の注文をとりあるくこともおこなわれた。
 上本町の古安という店は、大通りの角地にあって、明治の初年から、天然の氷をきって売っていたが、同二〇年の前後から、食肉店と西洋料理屋とを営んでおり、牛鍋などのご馳走を食べさせたものである。その座敷には芸妓などもよんだりしたが、さらに大正の初年からは、あわせてカフェ「を開いてにぎわっていた。その開業の当初には、おもに西伊豆の方面から、商品の牛肉を仕入れていたが、昭和の初年には、港湾の方に牛小屋を設けており、終戦の直後から、市内の双葉町や函南町に、いっそう大規模な牧場をもつようになって、きわめて堅実な営業を続けてきた。
 下本町の開花という店は、すでに明治二〇年代から、浅間神社の裏にあって、料理屋として知られていた。この店の初代は、宮町で魚吉と名のって、魚の小売を営んでいたが、魚市場の仲間にささえられて、下本町で料理屋を開いたのである。その全盛の時期には、十数人の奉公人をかかえており、座敷で芸妓をよんで、料理を出してもてなすとともに、仕出しで料理を届けることもおこなわれた。戦時中の昭和一九年から、その店を閉じていたが、戦後の二五年から、旭町の方に移って、ふたたびその営業を始めている。




 職人の組織
 市街地の東端の三枚橋町から、その西端の出口町などを中心に、さまざまな分野の職人がすみついており、それぞれ独自の稼業を続けてきた。それらの職人の種類としては、染物屋、仕立屋、桶屋、樽屋、鍛冶屋、カナグツ屋など、生活の用具の製作とかかわるもののほかに、大工、左官、仕事師、畳屋、石屋、瓦屋など、建築の関係の仕事にあたるもの、床屋、髪結など、理容や美容のわざとかかわるもの、馬力引き、車引きなど、運送の関係の仕事にあたるものを含めて、きわめて多くの職種にわたっており、ここにたやすくあげつくすことはできない。おおかたは一軒の家族だけで、それぞれの専門の仕事に携わっているが、ただそれだけではなくて、ある一人の親方のもとに、何人もの弟子をかかえているもの、またささやかな規模ではあっても、いちおう工場の形態をそなえているものもあって、かなりまちまちな経営のあり方を示している。
 そのような職人の仲間では、それぞれの職種ごとに分かれて、互いに何らかの連絡を取り合うだけであって、いくつかの職種にわたって、かならずしもまとまった組織をつくっているわけではない。ただ一つ、建築の職人の仲間では、明治年間を通じて、大工、左官、石屋、仕事師、畳屋、建具屋、ブリキ屋が、俗に七職という名でよばれており、それぞれ職種ごとの組合をつくっていたが、大正の初年からは、それらの七つの組合がまとまって、たがいに連絡をとりあうようになった。さらに昭和四年には、そのような七職の組合が、出口町の永明寺の境内に、工匠の祖神の聖徳太子を祀っており、大戦中の太子堂の焼失までは、正月、五月、九月の一一日に、その定例の祭典を営むのとあわせて、太子講の会合をもよおしたものであった。
 戦後の昭和二七年には、さきの七職の組合に、表具師、庭師、ペンキ屋、瓦屋の四職と、金岡、内浦、西浦の三地区の大工とを加えて、改めて沼津連合建設組合の組織を整えたのに続いて、またこの組合の共同職業訓練所を設けて、大工、建具工、板金工、石工の四つの職種について、それぞれの技能者の養成にあたることとなった。それとともに、千本の長谷寺の境内に、新しい聖徳太子廟を建てており、今日まで、正月、五月、九月の一一日に、各組合の役員などがより集まり、それぞれの聖徳太子の掛軸をかけておいて、この寺の住職に経を読んでもらい、みなで太子講の会食をおこなうのである。

 職人の伝承
 そのような職人のくらしぶりは、それぞれの職種によって異なっているが、三枚橋町の瓦屋の家では、江戸時代には志多町で鍛冶屋を営んでおり、明治以降に現在の場所に移って、二代続けて瓦屋の仕事に携わったという。その先代にあたる人は、一四歳から徳倉で修業をつんで、二〇歳には一人前にあつかわれるようになったという。志多町の問屋から頼まれて、市内やその近辺における、家々の瓦葺きやその葺きかえを引き受けていた。いつも四人や五人の弟子をかかえており、少なくとも三人がかりで、一つの家の仕事にあたっていた。たいがいは清水瓦や三州瓦を使っており、その下には香貫などのネバツチを敷いたものである。
 また、下本町の明治四三年生まれの髪結は、一九歳で結髪所に弟子入りして、七年間は師匠の仕事を手伝いながら、髪結のわざをおぼえていった。おもに芸者衆の髪結をつとめたが、若い人ならば高島田に結い、年増ならば銀杏がえしやつぶし島田に結ったものである。その主要な道具としては、横型の櫛と縦型の櫛とを使いわけたが、群馬県高崎市の櫛屋が、毎年のようにその行商に来ていたという。時勢の変化にともなって、この髪結の娘にあたる人は、あらたに美容院を営むようになった。
 明治から大正にかけて、何人もの大工の棟梁が、本町区の出口町をはじめ、東宮後町、西宮後町、下小路町、下河原町などにすんでいたという。当時の大工などの弟子は、はじめの二年ほどの問は、もっぱら子守、弁当運び、木片運びなどのような、さまざまな雑用にかりたてられた。それから数年の年期をつとめたうえで、一年の礼奉公をすませるまでは、ひたすら忍耐と服従とをしいられて、ようやく一人前の仕事ができるようになったのである。その後もひき続いて、どこかよその親方の家に寝泊まりしたり、またサイギョウなどと称して、あちらこちらの普請場を渡りあるいたりして、何とかみずからの腕を磨こうとしたものは少なくなかった。


 第五節
 社寺の祭りと行事
 日枝神社の祭り
 沼津のような町場のくらしでは、その鎮守の神の祭りも、町風ににぎやかに営まれてきた。明治以降の氏子の組織は、三枚橋と上土と城内とが、平町の日枝神社を祀り、また本町だけが、浅間町の丸子・浅間神社を祀るというように、大きく二つの区域に分かれていた。そのほかに、三枚橋区の杉崎町の浅間神社、上土区の高島町の山神社、本町区の本田町の愛鷹神社、城内区の大手町の城岡神社などのように、それぞれ独自の神社を祀るものもあったが、今日では、その杉崎町と高島町と大手町とは、日枝神社の氏子から離れており、もう一つの本田町も、丸子・浅間神社の祭りにあずかってはいない。
 それらの神社の中で、平町の日枝神社というのは、明治の初年までは日吉山王社という名で、大岡庄一四か村の総鎮守としてあがめられており、その氏子の区域は、沼津駅の三枚橋町、上土町、城内に、在方の日吉村、高田村、下石田村、木瀬川村、中石田村、上石田村、下小林村、上小林村、岡一色村、岡宮村、東熊堂村、西熊堂村を加えたものであった。その後の変遷を経て、現行の氏子の組織は、第一の山王前、平町一丁目、平町二丁目、山王台、富士見町、第二の三芳町、三枚橋町、第三の志多町、川廓町、上土町、町方町、第四の西条町、八幡町、添地町、上本通、大岡の日吉、高田、下石田、木瀬川、中石田、上石田、南小林、北小林というように、大きく五つのブロックに分けられて、交代で祭りの当番をつとめるのである。
 九月二三日・二四日の例大祭は、その年の当番町から選ばれる、俗に当殿(とうどの)という少年と、また御前女(おまえじょ)という少女とによる、厳粛な白砂運びの神事をはじめ、一〇万石の大名の格式をたもつ、豪華な神輿の渡御など

文化財センターの展示室紹介vol 1













愛鷹山麓に人々が住み始める
旧石器時代は時によっては今より5~6度も気温が低い氷河期にあたり、極地方周辺での氷床や氷河の発達によって、海水面は現在より100メートル以上も低くなったことがあったという。日本列島と大陸は「陸橋」で結ばれた状態となり、ここを通ってやってきたナウマン象やオオツノ鹿などを追って人類が移り住むようになった。その年代は中期旧石器時代の後半~後期旧石器時代の初め(約5万年前~3万数千年前)と言われている。

中期旧石器時代の人類の痕跡はきわめて断片的なものにすぎないが、後期旧石器時代初めには列島全域に活動の場所を広げていくようになる。愛鷹山麓には西大曲遺跡・西洞遺跡・中見代第1遺跡など、この時代の遺跡が数多く残されている。これらの遺跡には遠く信州や神津島産の黒曜石がもたらされていて、その活動や交易の範囲が予想以上に広範囲に及んでいたことが明らかになった。

後期旧石器時代は約1万3千年前まで続くが、その間にナイフ形石器、石槍、細石器など、環境や動物相の変化にあわせて石器の形や種類も工夫されていった。細石器は旧石器時代の終わり頃に出現し、薄くしかも細かく剥ぎ取られた石片が、木や骨の軸に埋め込まれて用いられた。国指定史跡である休場遺跡からは、この細石器が大量に出土し、付近からは石囲炉が発見されている。縄文時代を間近にしたこの時代に、石器製作技術が一段と進歩し、火の利用が本格化したしていたことが窺える。

愛鷹山麓出土旧石器

休場遺跡出土細石器(加藤学園)

休場遺跡石囲炉(明治大学)

2020年8月7日金曜日

◆沼津ヒラキ物語⑥「干物加工と伝統技術」その1 加藤雅功


◆沼津ヒラキ物語⑥
「干物加工と伝統技術」その1 加藤雅功
 ●マアジとムロアジ 地場産業のヒラキ加工が農家の副業的なものから開始されたことを、下河原地区の萌芽(ほうが)期としてすでに語ったが、その後の専業化の過程で、地元の「開き屋」の大半はマアジ(真鰺)が中心で、ムロアジ(ムロ鰺)を扱う家は少なかった。元々狩野川河口(川口)の「河口港」として発展した我入道(がにゅうどう)の漁船によるサバ()の水揚げに支えられた側面が強く、またサバとともにムロアジも多く獲れて、大正半ばまでは沼津のヒラキ(開き干し)の魚種ではサバとムロアジが先行していたことを知る。
 やがて「小田原方式」の導入でマアジが中心となるが、ムロアジの塩汁(しょしるづ)漬けでの加工はムロを扱う商店で営々と引き継がれ、親類の木塚(サス上)や山本(ヤマ本(ほん))などの身近な家で伝統の味が保たれてきた。ムロアジの開きでは八丈島・新島のクサヤが
有名だが、魚の腸(わた)(内臓)などを入れた塩汁に潰けてから干したヒモノで、焼くと独特な強い臭みがある。伊豆諸島特産の干物で、体形が細長いクサヤムロ(アオムロ)などを加工している。乾燥度の高い「上干(じょうぼ)し」は保存が利くが堅かった。マムロもアオムロに次いで原料魚となるが、魚肉の蛋白質(たんぱくしつ)を分解し、「クサヤ菌」が旨味を強くして出来た「クサヤの原液」は意外にも塩度は8(8%)ほどの甘い液であり、一方、普通の開き干しの塩水は18度から20度位の塩分濃度の辛さになっている。
 やはり若い液では、液を腐らせないためには塩を余分に使わざるを得ず、あのアミノ酸の独特な風味の「クサヤの香り」は出せない。あのアンモニアの臭気に耐えながら、数十年経ると「クサヤ液」も本物となる。
 近所の田代さんの貴重で高価な「クサヤ液」を移入する体験談として、「かつて八丈島から参考にする目的で、クサヤの原液(クサヤ液)を運んできたが、途中で腐って失敗してしまった。」と残念そうに話した。
 干物(塩干魚)でも夏などは漬け桶(おけ)に氷を入れて調整をするが、塩汁は温度管理も難しく、微生物(細菌群)で発酵が行われ、微妙なアミノ酸バランスが保たれるが腐敗細菌の増殖で腐りやすい。撹拌(かくはん)をしたり、時には塩を加えて、魚肉部分に対して浸透圧を活(い)かしつつ、一方で旨味(うまみ)成分の流出も防ぐ必要がある。
 食塩を中心とした調味液の塩汁に漬けることによって、調味するとともに水分活性を下げ、雑菌の繁殖を抑制する。食塩以外については各商店により独自の工夫がされている。なお、最近では塩汁の濃度は低くなる傾向があり、以前は1524%程度であったが、現在では1020%となっている。また塩汁に2040分間漬けるが、この時間は原料の魚の質にも左右され、経験に裏打ちされた判断が的確に行われている。
 現在、塩汁は5℃程度の低温で循環させるなどして管理され、1ヶ月程度使用できる。塩漬けでは1回ごとに新しい塩水に全替えするのと、汚れを取り除いて少し「増(ま)し塩(じお)」しながら数回使うのとがある。艶(つや)は1回ごとが良く、45回使うと塩味に「軟(やわ)らかさ」が増すが、それ以上では臭みが出てしまう。
 商店によっては加熱処理して汚れと滓(かす)を凝固・沈殿させたり、漉(こす)したりして取り除き、「きれいで澄(す)んだ塩水」に蓄え、塩汁にして長期に使用した。魚への塩の浸透が平均になり、また良く浸透する長所がある。さらに風味や、軟らかな味が生まれ、荒い塩味の辛さよりも甘さを期待し、拘(こだわ)りと工夫を独自に追求した。塩の大切な時代の伝統であったが、今では行う人も少なくなってしまった。ムロが中心であった木塚(サス上)では、伯父(おじ)の弘さんが八丈島で「コンチ製」と呼んだ方法で、外の竈(かまど)で薪(まき)を焼(く)べながら塩汁を煮立てていた姿(昭和30年代)が、今も脳裏に強く焼き付いている。
 ムロアジの干物の独特な歯応(はごた)え、弾力感は捨てがたいものがある。個人的には、あっさりしたマアジの味覚も好きだが、ムロアジ類の「開き」の身の凝縮した旨味もまた味わい深い。ムロアジは血合いが多く、「脂(あぶら)のり」が少ないため、干物にするのが一般的である。かつては近海の伊豆諸島で大量に獲れ、今では和歌山以南で獲れたムロアジは鮮魚(なま)で沼津に多く入荷して、「ムロ開き干し」として関東各地に送られる。
 研究熱心だった近所の田代さんは若い頃、沼津のライバルの「小田原の開き」の実力を確認するべく、早川の小田原漁港周辺の加工場を訪れている。小田原方式の製法の本格的な技術導入を図った沼津だが、小田原から後に沼津へ講習所も移転してだいぶ経(た)った戦後、マアジの干物の「品定め」を現地で実施した。その結果、相模湾で獲れるマアジの小粒さもあったが、干物の品位を比較して「これならば絶対負けないそとの確証を得て、自信を強くして沼津に帰って来た。」と私に語った。アジの干物を専門的に取り扱う「ひもの加工組合」設立以前の出来事で、業者の「小田原に続け、追い越せ」の心意気や研究の熱意さが感じられる。
 ●製造過程からの特色 今では一般的な「腹開き」に対して、古くから加工生産されてきた干物は、武家社会では縁起を担いで、切腹につながる腹を切ることや戦で負ける兜(かぶと)割りに通じる頭を割ることが禁句とされてきた。この頭を残す背開きの「小田原開き」では、細長い紡錘形の魚体をもつカマス・サヨリ・サンマなど、全国各地でその姿を残している。西日本でも長崎などのアマダイは「背開き」で、「色物塩干品」ゆえに黄赤色の色調の退色に気を使っている。なお静岡県の興津鯛(おきつだい)で有名なアマダイは腹開きであった。
古くに鰺開乾(あじひらさぼし)と記した「アジ開き干し」はアジを腹開きにして、塩水に浸して干したものであり、日本の食卓に並ぷ最もポピュラーなおかずの一つで、海辺の観光地のお土産としてすぐに思い浮かべる品物である。近年では消費者の嗜好(しこう)の変化から、塩味の薄いものが好まれる傾向にあり、昭和30年代半ばは塩分3%であったのに、40年近く後には1.7%程度となっている。
 なお、すでに生産が減少傾向にあった平成14年当時のアジの塩干品生産量は、静岡県が4割強程度となっており、千葉、神奈川、茨城、三重などが続いていた。
 原料魚のアジはある程脂肪がのっているものが好まれ、脂肪量が7%から16%位の原料が使われているが、10%以上のものが良質と言われている。かつてマアジ、マルアジ(アオアジ)、ムロァジなどが使われていたが、現在ではマアジとヨーロッパマアジとになっており、その他ムロアジが多少ある程度である。
 マアジは東シナ海や五島(ごとう)列島、対馬(つしま)近海産(長崎、(はまだ)佐賀県唐津(からつ)、福岡で水揚げ)や日本海の境港(さかいみなと)、浜田、千葉県の銚子(ちょうし)などで水揚げされた天然魚が主に用いられており、養殖魚はあまり使われない。ヨーロッパマアジは昭和50年代前半から使われ始め、安定的に供給される利点がある。国内産のマアジの漁獲量が減少し、補完関係をより強めて、今や国外産が上回っている。平成22年度の沼津の干物業者に対するアンケート結果でも、アジの仕入れ先の約46%が国内で、約54%が国外であった。また国外産の70%近くを北海のオランダが占め、国内では90%近くを九州産が占めていた。
原料魚は水揚げ後、-38℃前後で急速凍結し搬送される。「水氷(みずごおり)」は最近では使われなくなっており、ヨーロッパアジも漁獲直後に急速凍結されて日本に輸出される。搬送された原料は一30℃以下で保管されている。以前塩汁に潰けて解凍することもあったが、今では流水によって解凍し、解凍機を用いる所もある。
 ★アジ加工の全工程 原料を「解凍」して「内臓処理」し「開き」の作業をする。その後に乾燥・凍結して出荷する。
 ①「内臓処理・開き」の工程は全て手作業で行う。内臓や鰓(えら)を除去して腹開きにする。一部の大きなサイズでは「割裁機」などの機械により二枚に開く。かつて天日干しの時代に魚の肛門部分に黄色く脂(あぶら)が残りやすく}蝿(はえ)が卵を産む結果、蛆(うじ)が湧(わ)くことがあって、衛生上で注意を要する「ハエ取り」には腐心した。 ②「前洗浄・血抜き」では水槽内で洗浄する。洗浄では、残った内臓などの除去を行うが、骨の際(きわ)に付着する汚れ部分をブラシで取り去る作業は厄介(やっかい)で、身に傷を付けやすく、製品とするには品質が落ちる。洗浄後は十分に「水切り」を行う。その後 ③「塩汁浸漬(ひたしづけ)」をして、調味する。水分活性を下げ、雑菌の繁殖を抑制する。 ④「後洗浄」浸潰後に水槽内で洗
浄する。塩抜きの意図もあり、再び「水切り」を行う。 ⑤「乾燥」温風の乾燥機が使われる。乾燥することによっても水分活性を下げ、保存性が増すとともに色合い()が良くなる。
 ⑥「放冷」の後に ⑦「凍結」急速凍結をする。 ⑧「包装」「真空パック」 ⑨「出荷」市場の場合は発泡スチロール箱に20枚程度を詰めて出荷する。小売店に直接卸す場合はトレーなどに23枚入れて包装する。冷蔵車を使って出荷される。
 以上の全工程を踏まえると、機械化も一部で進んだが、各商店ごとの創意工夫がそこには詰まっている。
(沼津市歴史民俗資料館だより2020.6,25発行 VoL45 №1(通巻226)編集・発行 〒4100822 沼津市下香貫島郷2802-1沼津御用邸記念公園内沼津市歴史民俗資料館TEL O55-932-6266FAX O55-934-2436