2019年12月25日水曜日

戦前の中ノ島水族館と淡島水族館解説動画





 
 絵葉書に残された幻の淡島(あわしま)水族館
 内浦地域には、昭和前期に二つの水族館が開設されました。内浦長浜の二又(ふたまた)の網戸(あんど)の東側の入江を網で塞(ふさ)いだ中(なか)ノ島(しま)水族館(昭和5年開館)と内浦重寺の島合(しまあい)の網戸に設置された淡島水族館です。
 長浜の中ノ島水族館は、後に三津天然水族館、そして伊豆三津シーパラダイスと受け継がれて現在に至っています。それとは対照的に淡島水族館は、わずか3年ほどで営業を終えています。このため、資料がほとんどなく、幻の水族館となってしまいました。この度、その姿が絵葉書に残されているのが発見されました。
 右下に示した明治史料館で保管する戦前期の内浦村全図では、淡島ではなく、その対岸の重寺字島合に位置していたことが分かります。(同じく長浜字二又に中ノ島水族館も記されています。)
 重寺と小海の境は、岩山の小さな岬で、小海ではゲンキョサンノ轟、重寺では鵜(う)ヶ崎と呼ばれていました。ここからは 建切(たちきリ)網漁が盛んな頃には淡島の瀬石(せいし)に向けて塞ぎ網が設置されていました。また、淡島の獅子(しし)岩に向かって岩礁が海中に延びているのが見えます。
 写真からは今では埋め立てられていますが、旧道に添って塀が設けられ、海中に張り出して建物が建てられているのが分かります。海は網で塞がれており、魚類が飼育されているようです。もう一枚の絵葉書には右端の建物から網囲中のメジを竿で釣る様子が写されています。
 文部省の資料によれば、昭和10年8月開館、管理者は小松霍(鶴)吉、収容水族は海洋魚類約2000、職員数6、昭和11年の利用者10,500人でした。昭和14年には既に閉館しています。 



 内浦長浜の中ノ島水族館は、山本三朗さんの『三津の覚書』によれば、昭和5年に大村和吉郎、小松鶴吉の両氏により開館、日本で三番目の水族館であったという。
 当初は本館と入り江を網で仕切った天然の生け簀だけで、昭和5年には世界で初めてイルカの飼育に成功、昭和9年には5mに及ぶジンベイザメの飼育、昭和10年にはミンククジラの飼育にも成功した。
 昭和11年には人手に渡り、昭和16年3月からは伊豆箱根鉄道の経営となり、昭和32年に三津天然水族館と改称した。現在の伊豆三津シーパラダイスの前身である。
 下の写真は生け簀内を遊泳する「えびすざめ」の合成写真で、記念スタンプにもなっている。渋沢敬三の『日本魚名集覧』には、伊豆内浦ではジンベイサメをえびすざめと呼んでいることが載せられている。同書には、「昭和八年伊豆三津水族館に生獲されしことあり。実見」と記されており、敬三自身がここで、このサメを見たことがあった。
 三津と長浜境の尾根を貫通する旧不二見トンネルが開通したのは大正6年のことであり、二又への道路は既に整備されていた。その尾根上に岡部長景が別荘を購入したのは、水族館の開館の前年、昭和4年のことである。
(「沼津市歴史民俗資料館だより」2019・9.25発行VoI.44No.2(通巻223号)

2019年12月23日月曜日

沼津と牧水 大悟法利雄(だいごばうとしお)(初代館長)




沼津と牧水 大悟法利雄(だいごばうとしお)(初代館長)


 東京の生活にやや疲れた歌人若山牧水が
沼津に移ったのは大正九年八月、まだ市に
ならぬ沼津町郊外の楊原(やなぎはら)村上香貰(かみかぬき))だった。
その頃の上香貫は実に静かな田園であった。借りた家も割合に大きく、真向いの愛鷹山(あしたかやま)の上に富士が仰がれ、裏は野菜畑のつづく環境がすばらしかった。気候は温暖だから、とかく病みがちだった妻子も次第に元気になり、牧水は安心して仕事に打ち込むことができるようになった。
 壮年時代で歌も円熟期に入った牧水は、沼津とその周辺の風物を盛んに歌い、また旅にもよく出かけて力作を発表し、『くろ土』『山桜の歌』という堂々たる二冊の歌集を出版するとともに、紀行文随筆などの散文にも数々の秀作を残している。この頃担当する諸新聞雑誌歌壇の数が急に増えていた牧水は、横浜の義弟長谷川銀作に頼んであった歌誌『創作』も沼津から出すことにした。
 こうして牧水は、沼津に永住することを決意し、住宅新築を考え始めたが、大正十二年九月の関東大震災後ひろがって来た住宅難のため立退きを迫られ、翌年八月、千木浜の小さな家に移った。住宅難が益々厳しいので、新築の資金集めに、自作の歌を書いた短冊・色紙・半折などを頒布(はんぷ)する会を始め、九月にその第一回を沼津で催し、それを全国各地にひろげることになる。牧水には他に多年抱き続けた詩歌総合雑誌の発行という大きな夢があり、ついでにそれもやることになった。
 ここで牧水の生活が一変する。それから
旅の回数と日数は急増しているが、資金稼ぎの揮毫(きごう)旅行では歌などできはしない。それでも無理をつづけた牧水は、大正十四年千本松原の蔭(かげ)で当時は沼津の西のはずれだった市道町(いちみちちょう)(現在の本字千本)に約五百坪の土地を買い、住宅兼雑誌事務所を新築し、十月そこに移るとともに、大がかりな新雑誌発行の準備にかかり、十五年五月、遂に宿願の月刊誌『詩歌時代』を創刊した。
 独力で、しかも人口三万余りの小都市沼津で、大雑誌社にも例のない華やかな詩歌総合雑誌を出し得たのは奇蹟とも言えよう。『詩歌時代』が資金不足のため六号で廃刊となったのは実に惜しいけれど、ひとつの時代へ問いかけた牧水の熱烈な意気込みは、今も輝いているのである。
 この大正十五年夏には静岡県当局に千本松原の一部伐採(ばっさい )の計画があり、沼津に反対運動が起ると牧水はその急先鋒となって、地方や東京の新聞に堂々たる文章を発表し、九月一日夜の劇場国技館の「千本松原伐採反対市民大会」で松原愛護の熱弁をふるい、遂に県の松原伐採計画を中止させたことも忘れ難い。
 牧水は、よい歌さえ作れば満足という小さな歌人ではなく、好きな酒を飲み、旅を楽しみ、常に詩歌全体の向上隆盛を自己の天職と考えていた。
 『詩歌時代』廃刊後、その負債償還のため昭和二年朝鮮各地にまで長期の無理な揮毫旅行をつづけ、すっかり健康を害してからの最晩年もそれは変らなかった。
牧水は九州日向(ひゅうが)の生れだが、壮年からの半生を沼津市民として過ごした。沼津で最も愛したのは千本松原で、最後までその朝夕の散歩を楽しみ、沼津周辺の風物を歌いつづけて、昭和三年九月十七日に没した。
 今は松原に縁(ゆかり)の深い千本山乗運寺の墓に静かに眠っているが、その歌と心は、はっきりと沼津に生きている。
 没後六十年にして成った「沼津市若山牧水記念館」のオープンに当り、改めてそれを思う私は、記念館が益々内容を充実し、規模をも拡大して、沼津というより日本の文化の向上に役立つことを祈らずにはいられない。
【新牧水記念館案内より】

2019年12月19日木曜日

建切網漁の伝統を引き継ぐ内浦湾最後のマグロ漁内浦長浜


建切網漁の伝統を引き継ぐ内浦湾最後のマグロ漁内浦長浜 菊地敬二さんの話

 今回は、昭和308月末に内浦長浜で行われたマグロ漁について、菊地敬二さん(昭和6年生まれ)から聞き取りを行った内容をご紹介します。
 1.戦後1回きりのマグロの群れ
 戦後(第二次世界大戦後)にマグロの群れが来たのは、昭和308月末の1回きりだった。マグロが10年以上来ていなかったので、当時は戦前のマグロ建切網漁で使ったオオアミ(大網)は使っておらず、魚群を見張る魚見小屋のあるオオミネにも誰も登っていなかった。
 このときのマグロ漁で使った網は、戦前のマグロ建切網漁で使っていたシメアミ(締網)だった。シメアミは、マグロの群れが来なくなった戦後も、バショウイカ(アオリイカ)・ウズワ(マルソーダガツオ)・シブワ(ヒラソーダガツオ)などを捕るために使っていた。網代の締網場(しめあみば)のそばに専用の網小屋があり、引っ張り出せばすぐに浜へ出すことができた。このシメアミを使った漁は、漁期になると、建切網漁でマグロを捕ったときと同じ網代の締網場で行われ、昭和3738年頃まで続けられた。
 この昭和308月末のマグロ漁は、建切網漁と同じシメアミを使ったことから、建切網漁の伝統を引き継いでいたが、このような漁法は、内浦湾全体をみてもこのときが最後といってよいだろう。昭和30年は、自分が4月に結婚した年でもあり、50年以上たった今でも、この年に起こった出来事は忘れられない。
 2.マグロの群れの発見
 オオミネに漁師が登っていなかったのにマグロの群れを発見できたのは、自分の父(傳治郎)のマグロ漁の経験に基づく感覚によるものだった。
 父から聞いた話では、この日の朝、小沢の網干場で年配の漁師2人と一緒にイワシ網の補修をしていたところ、岸の近くでゴションという音がしてマグロが跳(ねたのではと感じた。そこで、小峰台(こんめんであー) にあった2階建ての資料館(現在の伊豆三津シーパラダイスのラッコ館のところ)の屋根に上がり、マグロが来たことを確認して、仲間に指示を出した。
 それから、マグロが来たと村中が大騒ぎになり、前夜のイワシ漁から帰ってきて家で寝ていた漁師たちも起こされて、網代の締網場に集結した。父は、このときにマグロを発見し、網代のミネ(12m)で漁の指示を出したことを亡くなるときまで誇りに思っていた。
 3.初めてのマグロ捕り
 この日、自分たち仲間3人は、前夜の漁で捕れたイワシを沖でイケスに入れた後、そのまま発動機船でイワシを活かしたまま引っ張ってきて、昼前後ぐらいに内浦長浜前のイケス係留場に着いた。そのとき、いつもイケスをつなぐためにあったロープが外されていたので、おかしいなと思ったが、まさかマグロ漁が始まっていたとは知らず、当番の家でイワシの大漁の祝い酒を45人で飲んでいた。すると、年配の漁師から、「マグロが来ているのがわからないのか。」と怒鳴られたため、席を立ち、網代ですでに始まっていたマグロ漁に加わった。イケスをつなぐロープが外されていたのは、マグロの通り道になっていたからだった。
 6075kgぐらい(体長:1.52m)の大型のキハダマグロが、5本、8本、10本というように次々と来たので、2艘の船で交互にシメアミを使った。先の網を締め終わると同時に、次の網を建てるといったように、繰り返して行った。
 網で締め込まれたマグロを捕るときには、シビカギとカケヤを使った。自分はマグロ漁が初めてだったので、シビカギの使い方は、先輩の菊地茂晴さんが手本を見せてくれた。
 腰丈ぐらいまで海に入ってマグロが来るのを待ち、マグロが泳いできたところを、鼻面がかわった時点(構えたシビカギのカギの上を鼻面が通った瞬間)でシビカギを上に向けて引き上げると、ちょうどシビカギでマグロのノドを引っ掛けることができた。マグロは泳いでいるので、ノドが来た時点でシビカギを上げると、タイミングが遅れて腹の方に引っ掛かり、人間が逆に沖へもっていかれるため危険だった。
 シビカギをノドに引っ掛けた後も、マグロはそのまま泳いでいて勢いがあるので、シビカギを引っ掛けられたままで浜まで上がってきた。
 シビカギを使うのはベテランでないとできなかったが、自分の場合は、菊地茂晴さんが見ていてシビカギを上げるタイミングを教えてくれたので、初めてだったがうまくノドに引っ掛けることができた。
 マグロが浜に上がってくると、浜にいる仲間の漁師がカケヤで眉間を一発バーンとたたいた。たたいてパッと一気に仕留めないと、体に血が回ってしまい、鮮度が落ちて値段が下がってしまうためであった。
 4.沼津市場への運搬
 マグロが盛んに捕れ始めると、自分は発動機船のエンジンの係だったので、マグロを沼津の市場へ運ぶ役に回った。発動機船は2隻あり、1回に1隻あたり1020本ぐらいを56人で市場へ運んだ。
 10数年ぶりでマグロが捕れたので、意気揚々として船に大漁旗を立てて市場へ運んだが、すでに妻良・子浦(南伊豆町)で捕れたマグロもたんと上がっていた。マグロの全体数が多かったので、思ったような値段がつかなかった。
  市場に着くと、マグロを船から下ろして競り場まで
運んだ。その後、競りで仲買人に買われたマグロは、ハラワタ(内臓)を抜かれ、長細い箱へ入れられ氷をいっぱい詰められて、東京の築地市場へ貨物列車で直送された。
 5.夕方と翌日のマグロ漁
 最終便の運搬が終わって夕方帰ってきたら、マグロは見えなくなっていたので、これで今日の漁はおしまいだということになり、網代の浜でマグロのハラワタを鍋で煮て、これを肴にマグロが捕れたお祝いをしようということになった。
 自分たち一番年下の漁師(下番士〉が、45人でハラワタを煮ていたところ、海でコシャンという音がした。すぐに「マグロが入った。飛び込め。」という号令がかかり、自分たちは海に飛び込んだ。このときに捕れたマグロは、10本だった。この10本は、発動機船のカメ(船槽)の中に氷と一緒に入れておいて、翌日の朝に市場へ持っていった。
 翌日は、マグロが続けて来るだろうということで、網を張り、早くからオオミネにも登って待っていたが、前日のように大型のキハダマグロは来ず、4㎏ぐらいの小さなキハダマグロが来た。
 前日からの2日間で捕れたマグロの合計は200本ぐらいになったが、この後、再びマグロの群れが、網代の締網場に来ることはなかった。
 6.マグロ漁を見た菊地昭代さんの印象
 この年に菊地敬二さんと結婚した昭代さんは、1日目のマグロ漁が始まった頃に見に行った。
 マグロが来たと村中で大騒ぎをしていたので、内浦長浜の人たちはほとんどが見に行った。漁師がみんな海に飛び込んで、マグロを横に抱えて浜へ上げるところが豪快で、今でも一番印象に残っている。
(「沼津市歴史民俗資料館だより」2012325発行通巻193号)

2019年12月14日土曜日

沼津ふるさと講座12月講座案内


令和112月 沼津ふるさと講座案内
◆沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催
「市民公開講座」
1221()
Ⅰ部  沼津史談会調査研究チーム ◆高島茂樹
 『我が故郷片浜の歴史』(平成313月、高島茂樹著)について、編集の過程で分かったこと、刊行以来の反響などを著者自ら語る。
 1330分~市立図書館4階第3講座室

Ⅱ部 ◆駿豆電気鉄道(三島・沼津間チンチン電車)の歴史を写真でたどる作品を上映・解説。
◆長谷川徹、飯田善行
 1330分~市立図書館4階第3講座室

2019年12月12日木曜日

沼津ユネスコ協会文化財めぐり戸田コース 2019年12月10日(火)





当日の行程
沼津駅北口→造船郷土資料博物館→宝泉寺→大行寺→昼食→松城家住宅→長浜城跡→沼津駅北口

吉良邸、赤穂側が「包囲」 新潟大名誉教授 討ち入り成功要因指摘


吉良邸、赤穂側が「包囲」
 幕府大目付ら関与か
 新潟大名誉教授 討ち入り成功要因指摘
 「忠臣蔵一として知られる元禄15(1702)1214日の赤穂浪士討ち入りについて、現在の東京都墨田区両国にあった吉良上野介邸は、刃傷事件を起こした浅野内匠頭の親戚だった大名や旗本の屋敷に囲まれていたことが、討ち入り成功の要因だったとする説を新潟大名誉教授で郷土史家の冨沢信明氏(77)が唱えている。
 吉良は、刃傷事件後に幕府から命じられて両国に屋敷を移しており、富沢さんは「吉良邸は討ち入り時は四面楚歌(そか)だった。浅野と親戚だった幕府の大目付らが赤穂側の多くいる地区に吉良邸を移させて討ち入りをさせやすくしたのではないか」と話している。
 吉良邸が江戸城内から、警備が手薄な城外の両国へ移ったことで討ち入りが容易になったことは、これまでも指摘されてきたが、冨沢さんは当時の屋敷を記した地図に注目。大名、旗本の系譜集一寛政重修諸家譜」を基に、住んでいた武家の家系を調査した。
 吉良邸周辺には、浅野や、浅野の「またいとこ」だった幕府大目付・溝口宣就と親戚関係にある武家の屋敷が32軒もあったことが分かった。吉良の親戚は6軒しかなかった。溝口は四十七士の堀部安兵衛とも「はとこ」で、安兵衛は知人への手紙で「宣就の屋敷に行って、亡君の憤りについて心の内を打ち明けたい」と記していたことや、吉良邸の移転を命じた老中も溝口の親戚だったことが分かっている。
 冨沢さんは討ち入りや、その後の浅野家菩提(ぼだい)寺・泉岳寺までの行進が順調に行われるなど、あだ討ち成功には幕府側の配慮があったと考え、調べていたという。
【静新令和11212日(木)朝刊】

2019年12月11日水曜日

2019年12月9日月曜日

沼津の水道の歴史資料


沼津の水道の歴史資料


「海軍の遺産・沼津水源地」
  著:今井 三好 
昭和54年発刊
「沼津技研物語」より

昭和十六年四月といえば大平洋戦争ぼっ発の直前であった。
 当時東京恵比寿の海軍技術研究所では、沼津へ音響研究部を移すことは既に決まっていて、電気研究部四科の(航空無線研究室)宮沢技術大佐と私は音響研究部に出向を命ぜられ、先発として私は単身沼津に着任いたしました。着任早々沼津市長名取栄一さん宅を訪れ一緒に市議会を訪門して海軍が沼津に研究所を新設することについて議会の協力を要請しました。
音響研究部の施設は全部水陸施設班が担当したが、その概要を述べると次のようなものであった。沼津市下香貫の本部の施設としてはエレベーター付の本部、直経一〇米の回流水槽、長さ一〇〇米巾一〇米の矩形水槽、空中実験用の防音室、回流水槽については沖電気品川工場の小林勝一郎技師長の実地指導を受け、防音室のグラスウールは日本ビクター工場の御世話になりました。特に第三研究室は古河電線が開発したアルミニューム電線で施工し東洋一と称せられた。
臨海実験場としては、牛臥、江ノ浦、淡島、長井崎、大瀬崎等があり、特に江ノ浦基地には二五〇トン、順幸丸、小型潜水艇(農林省所属)等がありましたが、突堤は海が深いため一メートル四角のブロックを積上げて三〇米長さのものを造りました。多比には伊豆石を切り開いた約三〇〇〇坪の大地下壕があり、空襲を避けて作業工場をここに移しました。変電所の受電は、山地のため苦労いたし工作機械等は道板を使って引込みました。蝙蝠が沢山いた地下工場でした。
 戦争末期、本土の空襲も次第に激しくなって来たので、研究所の疎開も真剣に考えなくてはならなくなり佃業務主任の命を受けて竹見技大尉と私が日本海側を探しに探して最終的に決まったのが石川県の穴水でした。そこでは、町役場警察署北陸配電等と交渉した結果歓迎して受け入れてくれることになりました。
扨(さ)て沼津に着任したところ日に話を戻そう。
 後日聞いたところによると、音響研究部の沼津での最初の候補地は柿田原であったと云う。ところがこの広漠たる土地に農家が一軒もないのは不思議だと思って調べたところ、なる程ここは富士颪(おろし)をまともに受けて吹きさらしだということで、予定を変更して香貫に決めたわけであったが、大切な水源についてはまことに迂濶(うかつ)であった。それと云うのも、千本から香貫へかけても所々自然湧水が出ている位だから、この一帯で井戸を掘れば水に困るなどということはあるわけがないと思い込んでいた。ところがいよいよ土地を確定してさてボーリングを三ヶ所もやって見たが、全然予想外れで水が出ない。そこで大慌てで水源探しが始まったというわけである。そこへ私が着任した。
 ちょうど其の頃、東京水道局はこの地方の水源から水をとって箱根越えで東京迄水を引く計画があるのを知って、水道局を訪れ情報を聞こうとしたが海軍に取られては困ると考えてか詳細には教えて貰えず、やむなく自力で現地を調べることになり、沼津駅から徒歩で半日も歩いて現在の沼津市水源池である柿田川湧水にたどりつきました。それまで写真伝送や伊豆大島でラジオビーコンの送信所の建設をしていて、水に悩まされ続けていた私を驚かせたのは、一日の水量が何と一二〇万トンという清らかな水が渾々と湧き出していることであった。
 早速この豊富な水を利用することに決まり、艦政本部ではすぐ予算をつけてくれたが、同時に地元の利害をも考え市と相談し、経費節減の意味からも半額を出して貰って市にも水をやるようにとの事であった。早速、名取沼津市長に其の旨申上げて議会に上程したが、急なことでもあり市財政の赤字を理由に断って来たので止を得ず海軍だけでつくる事になった。
 水源地は静岡県駿東郡清水村八幡泉で清水製紙焼跡一帯がえらばれた。工事は横須賀海軍施設部が直営で、私はオーナー格で指揮に当っていた。工事の中途で、韮山の江川代官がつくったという用水取水口が出て来た。当時ここから田方平野に水を引いていたと思われる代官の偉大さと遠大さにうたれました。
 工事については狩野川の底を通す送水管の前例が我が国にはないので、技研の文献室にドイツの文献を取り寄せて貰い、ライン川の川底の事例を頼りに川底工事に成功いたしました。送水管の径一二〇ミリのものであった。こうして川底を渡した水をいったん高台の五〇〇トン入り貯水池にポンプアップして、最高時で一五〇〇人もいた技研の人達の生活用水と、研究用プールの使用にあてた。その外の水源地としては江の浦の基地用と多比の工場用をつくりました。
 その頃沼津海軍工廠が出来ることになって、東京市水道局から嘱託として海軍工廠に猿渡さんが来られ、私に協力を求められましたので音響研究部の工事の忙しい中を許可を得て香貫山中腹海抜五〇米のところに配水池を建造した(送水管径五〇〇ミリ)。工事はカンテラを吊して素掘工事であった。現在の市水道の水瓶である(現在貯水池を香貫山の中腹に貯えてポンプアップして大容量の準備が出来ている)当時は海軍工廠に引く迄には至らなかったが貯水池は完成していた。
終戦直後沼津市としてもこの水道を移管して貰い度いとの事で芝辻一郎沼津市長から混乱のさなか市産業課長青木昇平(県会議員)さんを随行させるからという事で横須賀海軍施設本部の焼津の疎開先又横須賀の鎮守府にと懸命に廻り管財局に仮移管を御願した。そのことは沼津市水道事業の沿革の一節に沼津市が旧海軍から水道の移管を受けた当時の経緯が記されている。今にして思えば、沼津市の皆さんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水が出ていたので、何も高い施設費を払って水道をつくることはないという一般的な考えがあって、当時赤字財政を理由に水道投資の辞退を申出たのでしょうが、それにしても朝に晩にこの水を飲むことが出来る市民は幸である。
現在二〇万人口で八五パーセントが日量一〇万トンのこの水でうるおって居り、水道料金も全国一安いといわれている。

(一)清水村八幡に水を洩らす話
或る日、八幡の代表数名の方が見えて地元の私達に海軍の水を分けて貰い度いとの要求がありました。地元という事で上司に報告したところ、公然と水を分けてやる事は出来ないが、洩れる分には致し方なかろうという事で、私は地元に水を洩らすことになり、これが現在の清水町に水が行くことになった元だと思います。
(二)熱海に水道を
昭和四〇年の春、突然、熱海の市議三枝敏三郎さん(元技研作業班事務)が青木館社長青木弘光市議を伴って水道について話を聞き度いという事で見えました。熱海に水が少いので泉の水を引き度いと云うのです。当時熱海では日量五万トンで不足という事で、恰も当時熱函道路の計画が出ていたのでその道路の下に水路をつくり度いとのことでした。
機会ある毎に三人で夢のような話をして居りましたが、昭和四五年頃、熱海市川市長当時、用地買収が始まり翌年着工、五〇年一部給水が始まりました。その間県の工事所長が漆畑八三さんで芝浦工大の後輩に当たるところから先輩の後を自分が引継いだと所長はよろこんで、種々の話合をいたしました。現在市水源地の隣家に深沢姫鱒養殖をしていた用地を買収して(自噴している)日量一〇万トンを熱海六、三島三、函南一、と分けるようになり熱函道路の下を通って居ります。
(三)泉水源地とは
富士山の東南麓一帯に降った雨や雪どけ水などが地下水となって、富士山の溶岩の空隙を通りこの附近一帯に湧出しています。泉水源地は日本最大の湧出量を誇る柿田川湧水日量一二〇万トンの一部であり、現に空タンカーで中近東へも水を運ぶことが話題になっている所以であります。
終わり



【昭和4561日沼朝記事】

戦争の落し子 沼津の水道
生みの親、今井さん
 昭和十六年四月といえば太平洋戦争ぼっ発の直前で日本の陸海軍は日夜戦争への準備に大わらわであったのだが、当時東京の恵比寿駅近くにあった海軍技術研究所が手狭となったことから沼津へ音波や電波の研究部門を移すことになり、今井三好海軍技手は宮沢海軍大佐(着任時に少将となった)について沼津へ出向くことを命ぜられたのであった。
 技研は艦政本部のもとにあった部門で、海軍が新らしく施設をつくるときは①本拠地を早く探すこと②水源地を確保すること③道路を整備すること、の三つが絶対条件であったので、陸上施設になぜ水源が絶対条件なのかなと思いながらも命令だから今井さんは引きうけたのである。
 註=日本海軍の音波、電波研究は非常にすぐれ世界一といわれたが、残念ながら生産の段階で間に合わず実戦に間に合わなかったものも多いという。
ちようどその頃、当時の東京市当局は、この地方の水源から水をとって箱根こえで東京まで水をひく計画があることを知って水道局を訪れたが、海軍にとられては困ると考えてか、詳細には教えてもらえず、やむなく現地をしらべることになって、沼津駅から徒歩で半日も歩いて、いまの沼津市上水道第一水源地である柿田川湧水にたどりついたという。それまで伊豆大島で、ラジオビーコンの仕事をしいて水になやまされていた今井さんを驚かせたのは一日二百万㌧(当時そういわれていた)もの清らかな水が、こつ然として湧きだしていることであった。
 今井さんから、この豊富な湧水を利用したいとの報告をうけた艦政本部では、すぐさま予算をつけてくれたが、同時に、地元の利害をもつ市町村と相談し、半額をだしてもらってその市町村へも水をやるようにとの指示があった。
 当時の沼津市長は名取栄一さん、庶務課長が山本広さん(後の助役)であったが、市財政が赤字で貴意にそいかねるとの市議会の決議書を、赤字を説明する資料数冊といっしょに今井さんのところへもってきたので、やむをえず海軍だけでつくることになったわけである。
 水源地は清水製紙の焼跡近くがえらばれたが、工事の中途で韮山の江川代官がつくった用水掘取入口のあるのを知り、江川代官の偉大さと遠大さにうたれたという。
工事といっても、当時の日本には河を渡す送水管の前例がなかったので、ドイツからとりよせた文献を頼りに、狩野川の底を通す難工事を成功させたのだが、そのときの送水管は百二十㍉経のものであった。こうして川を渡した水を一たん高台の貯水池(五百トン入り)に入れて最高時で千五百人もいた技研の人たちの生活用水と研究用プール(木ノ宮地先)の使用にあてた。
 そのうちに海軍工廠が沼津へできることになって水が不足することになるので現在残っている香貫山のトンネル式配水池を建造したのだが、この送水管は五百㍉級のものであった。
 この配水池が完成して間もなく終戦を迎えたのだが折角つくったものを米軍に渡すことはないから爆破すべぎだとの意見が技研部内に強かったが、当時市の産業課長であった青木昇平さん(いまの県議)といっしょに今井さんは懸命に施設本部などを説いて回り、やつとのことで無事に、しかも無償で沼津市に引言渡す,ことができたのである。
今井さんは「いまにして思えば、沼津市のみなさんは生れながらにして良い水に恵まれ、どこを掘っても豊富に水がでていたので、何も高い金をだしてまで水道をつくることはないという一般的な考えがあって、赤字財政が水道投資の辞退を決定づけたのでしょうがそれにしても今日、私が努力した水道の水を、朝に晩に飲むことができるということで、報われたという気持ちです」といっている。
 そんなわけで、沼津市の上水道と今井さんの関係は密接なものがあり、いままで何回も感謝状でもやりたいというような非公式な話はあっても、一度も実現していないのに「いまさら何も……」と笑っている。
(今井さんはいまアーケード名店街で富士電業を経営している)
 
「沼津の空襲と戦跡」展
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日までパレットで
 昭和二十年の、きょう七月十七日は沼津が大空襲に見舞われた日。これを忘れないようにと、県による「沼津の空襲と戦跡」展が二十日まで、沼津駅南口前のパレット一階ギャラリーぷらざで開かれている。
 沼津市は同年一月から八月にかけ延べ八回の空襲を受けたが、その中で、最も規模の大きかったのが七月十七日。
 この日だけで二百七十四人の死者を出し、九千五百戸余りを焼失。市街地面積の八九・五%が破壊された。これは富山市に次いで全国でも二番目に高い焼夷率だという。
 会場では、被害の様子を写真パネルで紹介。
 沼津海軍工廠や沼津の海軍特攻部隊の基地、海軍技術研究科の電気五科をルーツに設立され「沼津の技研」と呼ばれた沼津音響研究部(本部・下香貫)などが取り上げられ、分かりやすく解説した資料が並んでいる。
 東椎路の男性(81)は、「(沼津大空襲があった)

当時は、音響研究部の寮にいて、周囲は一面が火の海となったが、仲間と敷地内の消火にあたったものだった」と資料を目にしながら振り返っていた。
 開場時間は午前十時から午後五時。
 問い合わせは県東部パレット市民活動ネットワーク(電話九五一ー八五〇〇)
(沼朝平成20717()号)


 
海軍技研址(ぎけんし)の碑 (下香貫木の宮)
海軍技術研究所とは、大正12(1923)に東京に設立された海軍の兵器開発・研究機関です。
沼津に設置されたのは同研究所の中の音響研究部という部門で、昭和16(1941)11月のことでした。
場所は下香貫で、現在の第三中学校とその周辺地域約82,000坪が敷地でした。
この中に研究所・工員宿舎・実験用水槽・作業場・倉庫などが配置されました。
これ以外に江浦・淡島・大瀬崎・長井崎・多比・下土狩などにも用地・設備を持っていました。

また、実験用の船舶も
10隻以上ありました。
この研究所では、空中・水中聴音機、潜水艦探知機などの開発が行われました。
海軍の武官・文官をはじめ、徴用工員・女子挺身隊を含め多い時で約2,000名の人員が働いていました。
昭和48(1973)には三中前に「海軍技研址」という記念碑が建てられました。当時の遺構として、

三中の北東の山の上に配水槽が残っています。
また近年までレンガ造りの倉庫が残っていましたが、老朽化し危険なため取り壊され、

平成
17年にはその部材を使用して三中の正門東側にモニュメントが作られました。
(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)

海軍技研址碑陰刻文
(上段)
太平洋戦争中海軍技術研究所音響研究部は本拠をこの下香貫に基地を江ノ浦淡島牛臥大瀬崎等に置く
 国を愛する若人一千八百各持場に心血を注ぎ 純情の学究南波醇三身を挺して南海の戦場に殉じ 又十七才の
(下段)
少女菊地ひで等七名空爆の犠牲となりてこの処に散華す
往時を偲び記念碑を地元の有志榊原平作氏の好意によりこの地に建つ
昭和四十八年 桜咲く頃 音響会
碧洞 佃定雄撰井書

(平和を考える戦争史跡めぐり:明治史料館)
【平成1416日沼津新聞・日曜特集より】
「柿田の泉」再現を
今こそ先人を見習おう
 
旧海軍の遺産ねらう
競い合った過去の歴史
ここで振り返って柿田川湧水をめぐる歴史的な動きを見ると、今から半世紀以上も昔、東京都がこの地からはるばる東京まで送水する構想を打ち上げたが、それが実現される前に海軍が目をつけ今は亡き今井三好氏(のちのイマイ電機社長)らを派遣し調査に乗り出した。この結果、香貫山北斜面にトンネル型貯水池を作って海軍の諸施設へ送水したのだが間もなく終戦となり、柿田川水源は一旦国有地となったところで、その権利をめぐって、元の所有者の京都の西川孝太郎氏をめぐって清水村(当時)と競願いとなった。
当時の沼津市は戦災直後とあって財政にゆとりがないことを知っている当時の市議会議長、塩谷六太郎氏が二十万円を都合して、辛うじて先手が打てて沼津市のものになったいきさつがある。
このような先人の努力で勝ち得た水源だが、実際に上水道に使っている水の量は、湧水量の一割程度で残りは狩野川への流れに任せている状態である。
従って、その一部を商品化することは、今日の緊迫した財政事情の下では、その努力によっては充分可能なはずだと言うのが「柿田の泉」再現論の骨子なのだが、市当局は、どう受け止あるのだろうか。