2020年9月24日木曜日

200924杉亨二胸像献花式資料版パワポ動画

バージョン②

200915我が国初の統計局長:杉亨二法学博士胸像への献花式

国勢調査100年 人口統計 沼津で礎

 市、功績発信へ胸像公開

 第1回の実施から100年を迎えた国勢調査の歴史を語り継こうと、沼津市の市明治史料館で「日本近代統計の祖」とされる杉亨二(18281917)の胸像が1018日まで、国勢調査に合わせて特別公開されている。同市は国勢調査の"原型"である全国初の人口統計が、杉によって行われた場所。特別公開は地元の沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の呼び掛けで実現した。関係者は「多くの人に沼津と国勢調査の関わりを知ってほしい」と語る。

 胸像は高さ約45㌢、幅約30㌢の青銅製。杉の長女で、東京工業大を創設した手嶋精一の妻春子が大正時代に作製し、2009年に遺族から同館に寄贈された。同館は、6年前の企画展で公開して以降は収蔵庫で保管し、国勢調査100年を機に特別公開を決めた。館内の入り口脇に設置され、杉の功績を伝える資料も置いている。

 新型コロナウイルスの影響で、回答率の低下が懸念される今回の国勢調査。特別公開の背景には、スペイン風邪が流行期に実施された第1回調査時の苦労を思い起こしてほしいとの願いもある。沼津史談会の匂坂信吾会長(72)は「当時もスペイン風邪が猛威を振るっていた。そんな中でも行われたのは、人々が豊かに暮らすための基礎データとして、国勢調査は欠かせないという強い意志があったからでは」と推し量る。

 15日に同館で行われた献花式では、市職員や市内の郷土史研究グループ会員など12人が胸像に花を供えた。原ルネッサンスの会の望月宏充会長(81)の祖父は100年前に調査員を務め、自宅に当時の調査員証などが残っているという。望月会長は「杉が沼津で行った統計調査が、国勢調査の原型となったことを知る市民はほとんどいない。胸像の特別公開を通して誇りに感じてもらえれば」と話した。市ICT推進課の真野豊聡課長も「沼津との関係を学び、コロナ禍でも推進しなければと気持ちを新たにした。一人でも多くの市民に回答への理解を求めたい」と訴えた。

 (東部総局・薮崎拓也)

 

☆杉亨二「沼津・原政表」

杉亨二(すぎ・こうじ) 江戸時代末期 長崎に生まれる。勝海舟の私塾で塾頭を務めた後、幕府の開成所教授などを歴任。明治維新後は静岡藩に仕え、沼津兵学校員外教授として沼津に一時移住した。1869(明治2)1国内初の近代統計となる「駿河国人別調(にんべつしらべ)」に着手。調査は新政府を恐れた旧幕臣の反対で頓挫したが、先行実施した「沼津・原政表」は国勢調査の原型とされる。その後、新政府に出仕し、現在の総務省統計局長に当たる太政官正院政表課大主記に就任。退官後も準備委員として国勢調査の実現に尽力し、「日本近代統計の祖」と呼ばれる。第1回国勢調査を3年後に控えた1917(大正6)年に病没した。

【静新令和2923日夕刊】




2020年9月23日水曜日

「国勢調査100年 人口統計 沼津で礎」静新令和2年9月23日夕刊記事

国勢調査100年 人口統計 沼津で礎 

 市、功績発信へ胸像公開
  第1回の実施から100年を迎えた国勢調査の歴史を語り継こうと、沼津市の市明治史料館で「日本近代統計の祖」とされる杉亨二(1828~1917年)の胸像が10月18日まで、国勢調査に合わせて特別公開されている。同市は国勢調査の"原型"である全国初の人口統計が、杉によって行われた場所。特別公開は地元の沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の呼び掛けで実現した。関係者は「多くの人に沼津と国勢調査の関わりを知ってほしい」と語る。
  胸像は高さ約45㌢、幅約30㌢の青銅製。杉の長女で、東京工業大を創設した手嶋精一の妻春子が大正時代に作製し、2009年に遺族から同館に寄贈された。同館は、6年前の企画展で公開して以降は収蔵庫で保管し、国勢調査100年を機に特別公開を決めた。館内の入り口脇に設置され、杉の功績を伝える資料も置いている。
  新型コロナウイルスの影響で、回答率の低下が懸念される今回の国勢調査。特別公開の背景には、スペイン風邪が流行期に実施された第1回調査時の苦労を思い起こしてほしいとの願いもある。沼津史談会の匂坂信吾会長(72)は「当時もスペイン風邪が猛威を振るっていた。そんな中でも行われたのは、人々が豊かに暮らすための基礎データとして、国勢調査は欠かせないという強い意志があったからでは」と推し量る。
  15日に同館で行われた献花式では、市職員や市内の郷土史研究グループ会員など12人が胸像に花を供えた。原ルネッサンスの会の望月宏充会長(81)の祖父は100年前に調査員を務め、自宅に当時の調査員証などが残っているという。望月会長は「杉が沼津で行った統計調査が、国勢調査の原型となったことを知る市民はほとんどいない。胸像の特別公開を通して誇りに感じてもらえれば」と話した。市ICT推進課の真野豊聡課長も「沼津との関係を学び、コロナ禍でも推進しなければと気持ちを新たにした。一人でも多くの市民に回答への理解を求めたい」と訴えた。  (東部総局・薮崎拓也) 

☆杉亨二「沼津・原政表」
 杉亨二(すぎ・こうじ) 江戸時代末期 長崎に生まれる。勝海舟の私塾で塾頭を務めた後、幕府の開成所教授などを歴任。明治維新後は静岡藩に仕え、沼津兵学校員外教授として沼津に一時移住した。1869(明治2)年1国内初の近代統計となる「駿河国人別調(にんべつしらべ)」に着手。調査は新政府を恐れた旧幕臣の反対で頓挫したが、先行実施した「沼津・原政表」は国勢調査の原型とされる。その後、新政府に出仕し、現在の総務省統計局長に当たる太政官正院政表課大主記に就任。退官後も準備委員として国勢調査の実現に尽力し、「日本近代統計の祖」と呼ばれる。第1回国勢調査を3年後に控えた1917(大正6)年に病没した。 【静新令和2年9月23日夕刊】

200923「梅さけうまい」ヘボ短歌

2020年9月22日火曜日

東海道沼津宿図書館企画展

津宿や清水家の古文書、絵画展示  沼津市立図書館  沼津市立図書館(同市三枚橋町)で10月6日まで、企画展「東海道沼津宿と清水本陣が開かれている。  江戸時代、沼津宿には公家や大名が休憩するための本陣が3軒あり、このうちの清水家に関わる資料を展示している。清水家は戦国大名の北条氏に仕えていた家系で、市は昨年度、同家が所蔵していた古文書を購入。企画展では、豊臣秀吉による小田原攻め(1590年)の直前、北条氏政から清水家の武将に送られた書状などを紹介している。  このほか、江戸幕府の3代将軍徳川家光の側室「お万の方」から下賜されたと伝わる帷子(かたびら)、文人画家の谷文晁(ぶんちょう)が当主の米寿を祝うために描いたとされる松の絵も展示している。 【静新令和2年9月22日(火)朝刊】

2020年9月10日木曜日

200910沼津夜曲(望月宏充解説資料版)k

沼津と不二家 仙石 規

 

沼津と不二家 仙石 規

 


今年創業百十周年を迎える大手食品メーカーの「不二家」。この老舗の名に、沼津市民の方々には様々の思い出が蘇るかと思います。

 量販菓子として、「パラソル・チョコレート」「ペンシル・チョコレート」「ホーム・パイ」「ポップ・キャンディ」などの名が記憶から蘇るでしょうが、何といっても愛くるしい「ペコちゃん」が描かれた箱に詰められた「ミルキー」が一番人気でしょう。

 昭和三十年代、賑やかだった市内商店街のお菓子屋さんの軒先には、おまけが付けられたミルキーの箱が、ずらりと並んでいて、子ども達はおねだりをしたものでした。

 先日、折り込みチラシに「不二家ミルキー発祥の地・沼津市」と書かれた宣伝を見ました。残念ながら、発祥の地は沼津ではありません。しかし、沼津と不二家には、長いつながりがありました。

 百十年前に、横浜・元町で洋菓子店として創業した「不二家」は、モダニズムの波に乗って、急成長を遂げ、大正十二年には、銀座に進出して「カフェ・不二家」を開業し、シュークリームなど、西洋の味を日本に広めたのです。

 昭和十一年、沼津市に「不二家食品株式会社」を設立し、トマトペーストの生産を始めました。この工場は、沼津大空襲で焼失しましたが、再建され、主に練乳と水飴を生産していました。

 初代社長は、戦争で楽しみが何もなくなってしまった日本の子ども達に、栄養ある安い菓子を与えることができないだろうかと沼津工場のボイラーを眺め、研究を始めました。そして、横浜鶴見工場で試行錯誤の末に「ママの味・ミルキー」が誕生し、昭和二十六年に「不二家・銀座店」で発売されました。

 名前も当初は「ジヨッキー」でしたが、改名されて名キャラクター「ペコ(東北弁のべコ~牛から発想)」ちゃんと共に戦後の大ヒット商品となりました。

 沼津市杉崎町にあった工場が東海地区の生産拠点でしたが、平成二年に裾野工場が開設され、沼津工場は閉鎖されました。

 不二家は、洋菓子店と洋食屋も全国展開し、沼津の駅ビル二階にも数年前までレストランがあり、老若男女の客で賑わいを見せていました。昭和五十二年までは仲見世にも菓子店舗があり、アップルパイや苺ケーキを甘党の父は、よく買って来たものです。

 十四年前、「賞味期限偽造」などの不祥事で「不二家」は業績が悪化し、大手製パン会社の傘下に入ってしまいました。駅ビルの一階にあった洋菓子店も閉店しましたが、今秋、市内に復活するようで、懐かしの味とペコちゃん人形に再会できることをうれしく感じます。

 「偽り」は、長い歴史を持っていても信用を失墜させます。「プライドある沼津」をモットーとする沼津市も、見た市民がほとんどいなかった市役所壁面へのマッピングに千四百万円もの予算をなぜ支出したのかなど、さまざまな疑問に偽りなく説明をするべきでしょう。(郷工史家、市場町)

【沼朝令和2年9月10日(木)言いたいほうだい】

2020年9月8日火曜日

「軍国少年の回想」濱悠人(令和2年9月8日沼朝)



軍国少年の回想 浜悠人


 少年が生まれた昭和六年は満州事変が勃発し、翌七年に上海事変が起こり、日中間の緊張が高まり、昭和十二年七月、盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まった。
 昭和十三年、市内では五番目の沼津市立第五尋常小学校が創立された。当初、校舎建築中のため新一年生は第一尋常小学校の教室を借り授業をした。翌年三月までには新校舎も落成し、一年生から六年生まで新築となった第五小学校に通学することができた。
 五小への通学路の暗い三ツ目ガードを抜けると坂の上に精華女学校(現中央高校)が見え、左に曲がれば木造二階建の五小の新校舎が目に入る。運動場の北は愛鷹山麓まで緑一面の田圃が続き、五、六月ともなれば山麓は麦畑で茶色に染まった。
 昭和十三年六月下旬、集中豪雨で狩野川が大洪水を起こし黒瀬橋、三園橋は流失し、むじな川も狩野川本流の逆流で三枚橋、平町も床下浸水した。
 昭和十五年、小学校三年生の時には皇紀二千六百年の奉祝の旗行列に参加した。国民歌「紀元二千六百年」は“金鶏輝く日本の栄ある光身にうけて、今こそ祝えこの朝(あした)、紀元は二千六百年、あゝ一億の胸はなる"と高らかに歌った。
 昭和十六年四月一日より沼津第五尋常小学校も沼津第五国民学校と改称され、学校は皇国民練成の場と変わった。心身の練磨と献身奉公が叫ばれ、運動会も体錬大会と改称され、騎馬戦や障害物競走などを体験した。
 昭和十六年十二月八日、突如として太平洋戦争が勃発した。朝早くからラジオは大本営の発表で、午前六時、「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり~」と繰り返し放送していた。
 陸軍はマレー半島を南下し、シンガポールを占領、昭南島と改称。海軍は英国戦艦、プリンス・オブ・ウエールズをマレー沖で撃沈させ、戦域は南方一面に広がり、香港、グアム、フィリピン、ジャワ、スマトラと占領した。
 緒戦は赫々(かっかく)たる戦果を上げ、大本営発表や新聞の一面に釘付けされたが、半年経た昭和十七年五月にサンゴ海海戦を機に敗け戦となり(このことは戦後、初めて知ったことだが)撤退、玉砕と敗退を繰り返し、終戦にたどりつい。
 昭和十七年、五年生の頃の国の祝祭日は一月一日、新年節で校長は奉安殿から教育勅語を取り出し、児童の前で厳かに読んだ。その後、年の始めの例(ためし)とて終わりなき世のめでたさを松竹たてて門(かど)ごとに祝(いお)ふ今日こそ楽しけれ"と声高らかに歌った。
 二月十一日は紀元節で「雲にそぴゆる高千穂の…」、四月二十九日は天長節で「今日の佳き日は大君の生まれ給いし良き日なり」。
 十一月三日は明治節で明治天皇の誕生日にあたる。このほか、毎月八日には大詔奉戴日があり、国民の戦意高揚を図ることを目的としていた。さらに、国の祝祭日としては十月十七日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭がある。
 昭和十七年に入ると、沼津に海軍工廠が出来、五小の北側の田圃一面に愛鷹山の土をトロッコに積み、田圃に下ろして埋める作業をする青や赤の服を着た囚人の群れが多数見られた。
 昭和十八年、小学校の最上級生ともなれば、対外試合があり、五月二十七日の海軍記念日には狩野川でボート大会が催された。永代橋から御成橋の下をくぐり上土の浮影楼(料亭)の辺りをゴールとし下流から上流へと、ボートは四人の漕ぎ手と一人のコックスで、市内五校が五隻のボートで競い合った。
 夏から秋にかけ旧制沼中のグラウンドでは陸上競技大会や相撲大会があり、入賞者は静岡の草薙グラウンドでの県大会へ出場をすることができた。五小は相撲の団体戦で東部優勝、県では三位に入賞した。
 秋の修学旅行は例年、伊勢の皇大神宮だが、時局がら修善寺駅からブラスバンドを先頭に湯ヶ島国民学校まで行進し、一泊して帰るという.宿泊訓練を兼ねていた。
 そして、いつのことだか、天皇陛下が沼津の御用邸に御成りになる日、八間道路を清掃し、路上に額衝(つ)き、お迎えしたことが思い出された。
 昭和十九年四月一日、片浜、金岡、大岡、静浦の四力村が沼津市に合併、新沼津市が誕生した。軍国少年も五小から旧制沼中へ合格、呼び名も児童から生徒と変わり、世間も大人扱いをしてくれた。
 昭和二十年八月十五日の終戦日まで、旧制中学の一年から二年にかけての「一年と五カ月」は授業の合い間をぬって、田植え、植林、伐採と勤労作業に奉仕した。終戦になって初めて敗戦を知り、ポツダム宣言受諾のやむを得なかったことを知った。
 終わりにあたり、戦後から得た平和をいついつまでも続けねばと固く誓っている。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和2年9月8日(火)号寄稿文】

2020年9月1日火曜日

東海道原宿を往く 浜悠人






東海道原宿を往く 浜悠人
 原宿は東海道五十三次の宿場町で品川から数え十三番目に当たる。名称は浮島ヶ原の中にあったことから「原中宿」から「原宿」と呼ばれるようになった。東は片浜、北は浮島、鷹根(現愛鷹)の各村に接し、西は吉原に連なり、南は駿河湾に面し、東西にわたる横長の地形(通称ふんどしと呼ばれる)から成っている。
 徳川家康は慶長五年(一六〇〇)の関が原の勝利により事実上、天下取りなるや、翌六年、東海道五十三次の駅制を定め、また伝馬の制度も確定していった。
 当初、原の宿場は旧国道1(千本街道、旧甲州道)に面した辺りにあったが、慶長十六年(一六一一)七月七日夜の高潮により人家や施設が流されたので旧宿場を放棄し、北に向かって街道を移し現在の街道が出来たと言われる。当時、街道の北側にあったお寺が、現在、一様に通りの南に位置しているのも、そんな訳があったのかと推察できる。
 原宿が東海道五十三次の宿駅になったのは寛永十年(一六三三)で、宿駅の中では一番遅かった。原宿が自然災害により移動したのが遅くなった一因ではなかろうかと思われる。それまで沼津宿と吉原宿の「間(あい).の宿」として原宿の存在価値は高かった。
 宿場町は東から「大塚町」「原東町」「原西町」の三町からなり、正徳六年(一七一六)の記録によれば、大塚町の石高は五百七十六石余、人口四百五十三人、原東町は四百二十四石余、四百十三人、原西町は五百五十一石余、六百八十三人と記され、宿には本陣、脇本陣があり、旅寵屋(はたごや)二十五軒から成っていた。 街道入り口の「大塚町」は昔、この地に大きな塚があったことによる。新田開発で三本松新田、大塚新田、大塚本田の地名が残る。町内の清梵寺は、お地蔵さん、長興寺は金毘羅さんと呼ぼれ、それぞれ由緒ある縁起を持っている。
 お寺が南側にあるのに比して神社は街道の北側にあり、神明宮や秋葉神社、大楠のある高木神社と並ぶ。
 次に、「原東町」には白隠さんで有名な松蔭寺や天神さんと呼ばれる西念寺がある。四月、沼川堤では提灯の下、白隠夜桜見物が楽しめる。町内の白隠の道をたどれば「白隠誕生地の碑」や「産湯の井戸」があり、新たにお堂も建てられている。
 「原西町」には江戸時代、東海に名を馳せた植松家の帯笑園があり、その由来の説明板に「植松家は江戸時代はじめに当地に居を定め、代々花卉(かき)に興昧を持ち国内はもとより外来の園芸植物等を収集し花長者(はなちょうじゃ)と言われていた。東西文化の交流が盛んになった江戸中期には園芸植物の鑑賞に多くの文人墨客、公卿、大名諸侯が訪れるようになり文芸文化の交流の場となりました。約三千坪の園内には盆栽、蘇鉄、桜草、松葉蘭や万年青(おもと)などが展示されていました。その様子は帯笑園を訪れたシーボルトの『江戸参府紀行』にその庭の美しさと豊富な種類に感嘆したと記されています。・・・・」。
 町内には渡辺家の本陣跡や七面さんの昌原寺、子安さんの徳源寺があり、北側には原浅間神社がある。神社入り口には「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を板札に墨書した高札を掲示した所を高札場という。原宿の高札場は、この浅間神社前にあった。規模は高さ一丈(じょう)、巾一間、長さ二間五尺あった」と写真付きの説明板がある。
 駅前公園には原尋常高等小学校跡碑、近くには明徳稲荷があり、建立は本能寺の変の翌年、天正十一年(一五八三)と記されていた。
 原宿の西境の見付(番所)外に六軒の民家があったことから、ここは六軒町と呼ばれた。町内の浅間神社には原停車場記念碑が見出される。
 ここまでで「原宿」は往き着いたが、勢い余り、さらに西に進むと、第二昭和放水路の西には慶長年間から開発された新田の「一本松新田」「助兵衛新田」「植田新田」と連なる。
 一本松の呼称は古い一本の松があったことによる。町内の浅間神社には共進学舎碑がある。羅漢さんと呼ばれる大通寺門前には岡野喜太郎の「少時止宿勉学之寺」の碑があり、明治四年七月から同六年三月まで本堂に泊まり、初学舎で学んだと刻まれていた。
 助兵衛新田は、今は「桃里新田」と呼ばれ、この地の浅間愛鷹神社には鈴木助兵衛父子が元和元年(一六一五)ここを開拓し、明治四十一年、桃の産地となり、知事の認可を得、桃里と改称した。記念として「開關(びゃく)四百年、改称百年の碑」が建っている。
 旧東海道と東海道本線が交わる辺りを植田と言い、近くに植田三十郎の墓や神護寺跡地がある。神護寺は廃寺となり、町名は開拓者の名を植田となる。明治二十二年、町村制施行により、大塚町、原東町、原西町、一本松新田、助兵衛新田、植田新田が一つとなり、原宿の呼び名を継承し原町と名付けた。昭和四十三年、原町は沼津市と合併し今日に至っている。
(歌人、下一丁田)
【沼朝令和291日号寄稿文】