2019年2月28日木曜日

日本統計学の祖「杉亨二(すぎこうじ)」杉亨二伝駿河国時代の一部






杉 亨二 こうじ (沼津兵学校員外教授方)

文政11年長崎に生まれる。初名純道。大坂の緒方洪庵や江戸の杉田成卿の門に入り蘭学を学ぶ。勝海舟の知遇を得、その推薦で老中阿部正弘に仕える。やがて蕃書調所に出仕し、その教授をつとめた。維新後は駿府に移住し、藩首脳に政表(統計)調査の必要を訴え、明治2年に沼津と原で我が国最初の近代的な戸口調査を実施した。また静岡学問所でも教鞭をとったが、明治2年末には沼津兵学校員外教授方に転じ、やがて二等教授方となった。明治4年に政府に出仕、以後左院・太政官・統計院などで統計調査・戸籍調査を推進した。明治15年には共立統計学校を設立して、一層の統計学普及につとめた。また、明治初期には明六社のメンバーとしても活躍している。大正6年没。我が国統計学の始祖、国勢調査の先唱者として知られる。




↓杉亨二伝駿河国時代の一部


明治史料館で企画展振り返る企画展


明治史料館で企画展振り返る企画展
開館35周年記念し324日まで
 市明治史料館で、企画展「史料館のキセキⅡ」が三月二十四日まで開かれている。
 同館は一九八四年十月に開館。今年で開館三十五周年となることにちなみ、これまでの企画展七一回を振り返る。同様の回顧展は二十五周年の二〇〇九年にも開かれており、今回で二回目。
 展示会場の四階には、第一回の「間宮喜十郎展」から第七一回の「御一新!?」までの各企画展のあらましや、史料館の様々な行事などを紹介する展示が行われている=写真。その中には、二〇〇七年に五日間だけ開かれた山本勘助(*)史料の展示も含まれている。
 また、「企画展総選挙」と題し、歴代企画展の人気投票を受け付けている。見学者は入館時に投票シール三枚を受け取り、展示中の企画展ポスターの中で気に入ったものに貼ることができる。
 開館時間は午前九時から午後四時半。月曜と月末の平日は休館。入館料は、一般二百円、中学生以下百円(市内の小中学生は無料)
 問い合わせは電話九二三の三三三五。
 (*)武田信玄に仕えた戦国武将。長らく架空の人物と考えられてきたが、近年の研究では実在が証明されている。その子孫は、明治期に沼津に移住している。
【沼朝平成31228()号】

2019年2月24日日曜日

駿府城跡 秀吉の城興味津々 見学会盛況 堀の底で遺構


駿府城跡 秀吉の城興味津々
見学会盛況 堀の底で遺構
 静岡市は23日、同市葵区の駿府城跡天守台発掘現場で、2018年度の調査成果を紹介する見学会を開いた。来場者が多く詰めかけ、初めて見つかった本丸の出入り口や豊臣秀吉が家臣に築かせた"秀吉の城"の遺構など、貴重な発見に目を輝かせた。
 18年度の調査では、家康と秀吉が関わった二つの天守台が同じ場所に現存していたと確認▽三つある本丸への出入り口のうち「升形」と呼ばれる構造の出入り口を初めて発見▽天守台の基礎に当時一般的だった木材ではなく巨石が使われていたと判明ーなどの成果があった。来場者は普段立ち入ることができない堀の底に下りて遺構を見学し、天守台の迫力に驚いていた。
 駿府城跡天守台は天守や門などの建物が既にないため、発掘調査により、天守台自体の構造を調べることが可能になっている。秀吉と家康、二つの時代の天守台が同時に存在することで、築城技術の変遷も確認できる。調査員は「全国にいろいろな城はあるが、巨大城郭の築城過程を知ることができるのはここだけ」と駿府城の価値を来場者に説明した。
 発掘調査は19年度が最終年度で、駿府城築城以前の今川期の遺構を確認する。
【静新平成31224()朝刊】

正午知らせた午砲の銘板


正午知らせた午砲の銘板
 明治期沼津のよすが 半世紀ぶりに公開
 旧沼津町時代に正午の時報として使われていた大砲「午砲」のネームプレートが、昨年末から西熊堂の明治史料館敷地内の噴水脇に置かれている。一般に公開されるのは、約半世紀ぶり。
 午砲は日露戦争(一九〇四~〇五)の戦勝記念として千本の長谷寺裏に設置され、一九一一年(明治四十四)六月十八日に落成式が開かれた。正午に空砲を発射し、その爆音を時報とした。
 一九二三年(大正十二)に沼津町と楊原村が合併して沼津市が誕生すると、市域全域に砲音が届かないため午砲は廃止となり、市場町の八幡神社で打ち上げる花火が新たな時報となった。午砲に使われた大砲は戦時中に供出されたと見られる。
 ネームプレートは、午砲を設置した台に添えられていたもので、「明治三十七八年戦役記念」と記されている。この文字は、静岡藩主も務めた徳川家達(とくがわ・いえさと)公爵の揮毫によるものだという。表面積は一八六㌢×九二㌢、重さは約ニトン。花崗岩製。
 ネームプレートは、午砲廃止後に千本公園八角池の脇に移され、一九六八年(昭和四十三)に始まった千本浜公園整備事業で同公園入り口付近の市有施設(旧沼津文庫)近くに移された。その後、人目に触れることもないまま、約半世紀にわたって同所に置かれ続けてきた。
 昨年が明治一五〇年に当たることから、明治期沼津の遺物として広く公開するために、明治史料館敷地に移設された。
【沼朝平成31224()号】

2019年2月22日金曜日

駿府城本丸入り口発見




駿府城本丸入り口発見
あす見学会 升形虎口石垣の一部
 静岡市が同市葵区の駿府城公園で行つている2018年度の発掘調査で、徳川家康が築いた駿府城本丸の入り□の建造物である天守下門(したもん)を含む升形虎口(ますがた
こぐち)の石垣が見つかったことが21日、関係者への取材で分かった。市は23日に市民向けの現場見学会を開いて解説する。
 発掘された遺構は天守台の石垣とは石の積み方が異なり、角度がより垂直に近い。天守台東側の石垣と接続した状態で見つかった。
 現存する駿府城の絵図から、本丸には三つの入り口があったとされ、発見されたのはその一つとみられる。本丸入り口の遺構が見つかったのは初めて。石垣から分かる構造や大きさは、絵図から推察される虎口とほぼ一致するという。
 市歴史文化課は「城を守るための構造がしっかり造られていたことが分かる発見」と指摘している。18年度の発掘調査では、このほか豊臣秀吉が家臣に築かせたとみられる天守台跡や金箔(きんぱく)瓦が見つかっている。
 23日の見学会は、普段、立ち入れない北東の堀の底から天守台と升形虎口の石垣を見比べ、発掘調査員の解説を聞く。解説の開始時間は午前9時半、11時、午後1時半、3時の計4回で各回約30分。参加無料。小雨決行。
 問い合わせは市歴史文化課〈電054(221)1085>へ。雨天時の開催可否は発掘現場事務所〈電054(255)5866(23日のみ)へ。(政治部・内田圭美)
【静新平成31222()朝刊】

2019年2月10日日曜日

城内服装文化学院入學案内





フランス貴族が征服 英国に王国つくる


フランス貴族が征服 英国に王国つくる
 百年戦争③
 リョーマ「なぜイギリス王家の先祖は、フランス貴族じゃったかや」
 カツ先生「フランス貴族がイギリスを征服したからさ」
 イギリス本土には5世紀から、今のデンマークやドイツ北部で暮らしていたゲルマン民族のアングロ・サクソン人が移住しました。その後先住民のケルト民族を征服。9世紀にイギリス南部を統一し、王国を建てました。
 しかし、この王国は、8世紀末に始まった別のゲルマン民族の侵入に苦しみました。侵入してきたノルマン人は、今のノルウエーやスウエーデン、デンマークから船で移動して略奪をくり返し、海賊と恐れられました。
リョウ(RYOU)ちゃん「ノルマン人はバイキングと呼ばれるね」
 先生「略奪した土地を占領して国をつくることもあったぜ」
 ノルマン人はフランスにも侵入し、10世紀に北フランスに国を建てましたが、フランス国王は追い出す力がなく、自分に従う条件で認めました。このノルマンディー公国の王のノルマンディー公は、フランス国王につかえる貴族になりました。
 1066年にイギリス国王が死去すると、親せきに当たるノルマンデイー公ギヨームは、イギリスの新国王ハロルド2世を認めないで、王の位をねらいました。
 この年ギヨームは軍隊を率いてイギリスに上陸。へースティングズの戦いでハロルド2世軍をやぶり、イギリス南部を征服してノルマン朝王国をつくりました。
 リョーマ「ギヨームは初代国王ウィリアム1世になったぜよ」
 先生「この後イギリスはフランスに領地を持ち、両国の争いの種になったのさ」

『ノルマン人が侵入
5世紀 アングロ・サクソン人がイギリスに移住
8世紀末~ノルマン人がイギリスなどに侵入
9世紀 イギリス南部が統一され、王国できる
10世紀 ノルマン人が北フランスにノルマンアィー公国を建てる
1066年 ノルマンディー公ギヨームがイギリス何部を征服。ノルマン朝王国つくる』
【静新平成3129()「リヨーマ!世界を歩く」】



2019年2月8日金曜日

沼津兵学校創立150周年記念展事業の動画集

平成31年1月4日からの「ぬましん特別展」



平成31年1月20日「沼津兵学校創立150周年記念講演」




平成31年1月20日 「沼津病院・駿東病院跡碑」除幕式




平成31年1月20日「史跡巡り・城岡神社記念写真」



平成31年1月20日 「城岡神社境内大手町会館での懇親会」






2019年2月5日火曜日

190205東映映画OP

190205月月火水木金金

平成15年12月の沼津丸井撤退新聞ニュース


(沼津朝日平成15年1210日号より)
全店大型化の波に乗れず
丸井「検討したが難しかった」
大手町地区再開発への影響必至
さらに商業空洞化進む中心市街地
先週末、市街地の一等地に位置する大型店閉店・撤退の情報がもたらされた。既に帰宅した社員もいたが、残る社員の間に激震が走った。ショックだった。沼津駅前の再開発を計画している沼津市にとっても痛手だろうと思った。「寝耳に水」「晴天のへきれき」とは、まさにこのこと。沼津市が描く再開発の青写真に大きな影響を与えることは必至だ。
丸井本社広報部の話来年五月上旬をもって閉店する。沼津店は全店の中で唯一エスカレーターのない店で各店の大型化が進む中、品揃えなどの面からもお客様の満足のいくものがご用意出来なかった。大型店化を検討した時期もあったが難しく、やむをえず閉店することになった。

(静岡新聞平成15年1210日朝刊より)
丸井沼津店5月閉店
忠商業地集客力低下は必至
丸井(東京)が沼津市大手町の丸井沼津店を来年五月の大型連休明けに閉店し、撤退する方針を決めたことが九日、分かった。同店はJR沼津駅南口に広がる商店街の中核店舗。市が進める駅前再開発ビルが商業施設から住居中心の構成になったことに加え、撤退で中心商業地としての集客力低下は確実で、地元商店街や沼津商工会議所は深刻に受け止めている。
同店は七階建て、売り場面積三干八百六十八平方㍍。一九六六年(昭知四十一年)九月にオープンした。しかし、売リ場が狭い上にエスカレーター設備もなく、「店舗大型化を進めている中で、品ぞろえや設備面で十分なレベルにすることができなかった」(広報部)という。一時は駅前再開発ビルの核テナントとして入居する話も浮上したが折り合わず、最終的に閉店を決めた。跡地利用は決まっていない。
中心商店街に衝撃
「街の真ん中に爆弾が落ちたような衝撃」。沼津市の中心商店街を引っ張ってきた丸井沼津店の閉店が明らかになった九日、地元商店街は驚きを隠さなかった。歳末商戦を迎える中、商業関係者からは「沼津全体のイメージ低下が気掛かり」「駅前という立地がもはや有利に働かないということか」と不安視する声が相次いだ。JR沼津駅南口から同店を経て仲見世商店街に抜けるのが、市内でもっとも通行客の多い場所と言われる。しかし、駅前では近年、十字屋、ニチイ、長崎屋が撤退するなど大型店が振るわない。
同市商店街連盟の芦川勝年会長も「これからの商業地は立地ではなく、魅力ある個店がどれだけ多くあるかが問われるのではないか」と指摘する。同市が中心商業地再生の目玉として、駅南口で進める再開発ビルの専門店誘致にも、丸井の撤退がイメージ的にマイナスに働くことを市関係者は危ぐする。山田寧助役は「商店街のにぎわいには買い物客の回遊性確保が重要。影響は大きい」と懸念している。