2016年12月22日木曜日

沼津藩


沼津藩

 
駿河 譜代 沼津藩 五万石 静岡県沼津市(藩庁所在地) 水野家(大名名) 城主・子爵(大名の格) 外桜田(上屋敷) 帝鑑間(江戸城詰所) 丸二立沢瀉(まるにたちおもだか)(家紋の名称)

 慶長六年、上総茂原で五千石を知行する大久保忠佐(ただすけ)が三枚橋(さんまいばし)城主となり、二万石を領したことにより当藩は成立した。慶長十八年、忠佐の死後、無嗣絶家となり廃藩。
以後、頼宣(よりのぶ)領、幕領、忠長(ただなが)領となったが、寛永九年に忠長が除封になると、その後の約一五〇年間は幕領となった。
安永六年、若年寄水野忠友(ただとも)が側用人に昇進すると同時に七千石を加増され、城主として沼津の地を賜った。また、城の再築を許され、二万石を領して沼津藩を再び起こした。田沼時代の老中となり、二度の加増で三万石となった。養子忠成(ただあきら)が継ぎ、大御所家斉(いえなり)の時代に老中首座として活躍し、加恩により五万石を領した。

忠友=忠成(岡野知暁【ともあき】二男)=忠義(ただよし)=忠武(ただたけ)=忠良(ただよし)(忠武弟)=忠寛(ただひろ)(水野忠紹【ただつぐ】嫡男・側用人)=忠誠(たたのぶ)(本多忠孝四男・老中)=忠敬(ただのり)(水野忠明二男)

二代忠成は将軍世子家斉の小納戸(こなんど)役から次第に累進し、老中格にまで出世した。文政元年に老中首座に任じられると、家斉の信任を得、幕政を縦横に左右した。最初に手がけた事業は貨幣の改鋳で、益金は六十万七〇〇両余りであった。この功により一万石を加増された。五六人を数える将軍家斉の子女の縁組や婚儀もまた、忠成の裁量によるところのものが多かった。文政十二年、一万石の加増を受け五万石となった。

 沼津水野家は水野忠政の二男忠重の四男、忠清(ただきよ)を家祖とする。元和二年に刈谷二万石、次いで三河吉田四万石、松本七万石となった。忠職(ただもと)=忠直(ただなお)=忠周(ただちか)=忠幹(ただもと)=忠恒(ただつね)と在封し、忠恒が江戸城中で毛利師就(もろなり)に刃傷したため除封となったが、伯父忠穀(ただよし)が佐久七千石の旗本として家名存続を許された。嫡子忠友が竹千代(のち家治)の御伽(おとぎ)衆となり、累進して沼津城主となったものである。

 維新時は尾張藩と行動をともにし、新政府に帰順した。現在の沼津駅が城跡であるため何も残っておらず、街を歩いていても、ここが城下町だったという感じはしない。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じる。

(「ふるさとの藩」前田勤著 朝日出版社 平成81125日発行)

2016年12月10日土曜日

あす現地説明会 興国寺城跡で 土橋遣構確認 日吉廃寺跡の調査経過も

沼津市、あす現地説明会
 興国寺城跡で 土橋遣構確認
 日吉廃寺跡の調査経過も
 沼津市は11日、国指定史跡「興国寺城跡」(根古屋)7世紀後半~9世紀初頭にかけての寺院跡「日吉廃寺跡」(富士見町)で進めている発掘調査の現地説明会を開く。興国寺城跡では2016年度調査の結果、二の丸と三の丸をつなぐ土橋の遺構や外堀の痕跡を確認した。 (策部総局・中村綾子)
 興国寺城跡は戦国時代に関東一円を支配した小田原北条氏の祖、北条早雲の旗揚げの城として伝えられる。市は03年度から本格的な発掘を開始し本丸など大枠の調査を終了。16年度調査で見つかった土橋は、石積みの列などから数回にわたって改修。補強されたことが分かったという。
 日吉廃寺跡は豪族が立てた氏寺と考えられていて、これまでに塔址(とうあと)の礎石列や柱穴列、仏像の一部などが出土したが、基礎部分などの重要遺構は確認されていない。16年度調査では一帯が水田耕作で大規模に改変されていたことが分かり、市文化財センターの担当者は「寺院があったことは間違いないと思われるが、推定していた伽藍(がらん)配置などは再検討する」と話している。
 説明会は日吉廃寺跡が午前10時から、興国寺城跡が午後1時半から。希望者は直接会場へ。

【静新平成281210()朝刊】