2011年3月10日木曜日

入江長八作品





入江長八作品

「雲龍図」(県教委提供)



「飛天図」(県教委提供)


 江戸から明治にかけて「しっくいの名工」として活躍した入江長八が手がけた、浄感(じょうかん)寺(松崎町松崎)本堂の「雲龍図」「飛天図」が、県指定文化財に指定されることになった。9日、県教育委員会定例会で議決され、月内に指定される。
 県教委文化財保護課によると、浄感寺は長八の菩提(ぼだい)寺で、「雲龍図」「飛天図」は1846年頃の本堂再建に伴い、制作された。
 「雲龍図」(縦約3・5メートル、横約5・5メートル)は天井に描かれた水墨画で、大きく渦を巻く龍の姿は躍動感がある。参拝者から幸運を招く「八方にらみの龍」と呼ばれている。
 「飛天図」は2面(縦はいずれも約80センチ、横は約2・7メートルと約3・5メートル)あり、欄間を彩っている。しっくいでレリーフ状に描かれ、衣は朱色や緑、青で彩色されている。
 長八は1815年に松崎町で生まれた。しっくい細工に長(た)け、東京都足立区の橋戸稲荷神社や港区の泉岳寺などに作品が残る。
 指定作について同課は、「いずれも長八の代表作で高い技術がうかがえる。しっくいは本来、壁などを塗るため実用的なもの。飛天図のように芸術的な価値を持つほど細密な作品は全国的に珍しい」としている。
(2011年3月10日 読売新聞)

三の丸から供養塔 義元移設の「興国寺」か



三の丸から供養塔 義元移設の「興国寺」か
沼津市教委城跡地調査 12日に一般公開



 沼津市教委が調査している北条早雲の旗揚げ城「興国寺城跡」(国指定史跡、同市根古屋)の三の丸周辺で、地下排水溝の底部から、寺院の供養塔の一部とみられる石が見つかった。その下層には建物の基礎に用いる石組やたたきしめた土の層も確認され、今川義元がほかへ移設したとされる「興国寺」との関連が浮上している。発掘調査を手掛けている市教委は12日、これらの調査結果を一般公開する。
 義元は1549年から2年間城を改修し、その際に「興国寺を移転させた」との文書が残されている。それより60年さかのぼる早雲の旗揚時には同所に寺があった可能性もあるが、存在や場所を裏付ける出土物はこれまでなく、実態は明らかになっていない。
 排水溝は、丘の斜面に広がる城跡の低地から外に21㍍にわたって伸び、中に水を通すよう管状に積んだ石が見つかった。供養塔の台座とみられる石はその中にあり、正方形で模様が入っている。
 その下層部で確認された石組みや土塁は、構造から一定以上の建物の基礎と推測される。また早雲の旗揚げと時期が重複する瀬戸・美濃焼の丸皿「腰折皿」も出土し、周辺には焼けた土や炭化物が大量に見つかったことからも、同所で神事が行われていた可能性もあるという。出土物は全体的にほかの調査箇所より圧倒的に古く、市教委文化振興課は「時期や特徴からも、早雲の生きた時期、興国寺がそこにあったという仮説に結び付くかも。今後詳細を調べたい」と話している。
 12日の現地見学会は、午前10時と午後1時半から。調査を担当した専門職員が説明する。問い合わせは市文化財センター〈電055(952)0844〉へ。
 【メモ】興国寺城北条早雲が姉(妹の説もあり)の嫁ぎ先だった今川家の家督争いを納めた功績に、1487年に今川に与えられた城。早雲を祖とする後北条氏は、5代目氏直が豊臣秀吉の征伐に遭うまで、小田原を拠点に関東を支配した。領土の西端に位置する沼津市周辺をめぐる武田、今川との争いは絶えず、興国寺城もその後12人城主を変えた。幕府を開いた徳川家康が駿府に隠居した1607年に廃城になった。市教委は2003年から調査している。
(静新平成23年3月10日朝刊)