2020年12月25日金曜日

沼津俳壇史談会会員作品「佐野利夫氏、仁王一成」作品追加動画

 

信玄貴重な正面肖像画

 

■信玄貴重な正面肖像画

 


甲冑(かっちゅう)姿で箪配を持ち、正面を見据える威厳のある姿一。岐阜県瑞浪市の古刹(こさつ)、明白寺が所蔵する武田信玄の肖像画が、26日に同県土岐市で開かれる「美濃源氏フォーラム」に併せて1日限りで初公開される。専門家は「信玄の肖像画は横向きがほとんどで、正面を向いた姿はかなり貴重だ」と指摘する。

 フォーラムの井沢康樹理事長(67)によると、11月に寺が保管している史料を調査していたところ、縦約70㌢、横約30㌢の掛け軸に描かれた信玄の肖像画を発見した。鑑定に出していないため、描かれた年代や作者は不明という。

 明白寺は室町時代に創建され、織田信長と武田家の戦いによって焼失。江戸時代に寺を再興した雲峰元沖が信玄のやしゃこに当たることから、肖像画を保持していたと考えられるという。

【静新令和21225日(金)朝刊】



2020年12月10日木曜日

201210明治期の交通事情:パワポ動画

明治期の交通事情 浜悠人(沼朝令和2年12月10日寄稿文)画像入り加工

 




明治期の交通事情 浜悠人

 明治維新(一八六八年)により江戸時代から明治時代になると、東海道をはじめ諸街道の輸送を担ってきた「伝馬所と助郷」が廃止となり、それまで徒歩のほか駕寵(かご)や馬に頼っていた交通手段も人力車と馬車の登場、そして、その普及によって様相は一変し、往来は、ますます盛んとなった。地方により人力車や乗合馬車はバスや鉄道に代わるまで利用されてきた。 参考までに鉄道の開設状況を年代順に記すとともに、沼津駅の働きも紹介する。

 明治五(一八七二)年、新橋~横浜間、開通。

 明治七年、大阪駅~神戸駅、開通。

 明治十年、大阪駅から京都駅まで延伸。

 明治二十二年、東海道線全線開通(新橋~神戸)

 明治二十二年、沼津停車場開業。



 




明治二十六年、沼津御用邸完成。

 昭和九年、丹那トンネル開通、東海道線が熱海経由となる。


 東海道線は開業当時
、御殿場経由だったので途中の経路には
25%(パーミル)という急勾配があった。車両は、この勾配を越えられる機関車に沼津駅で付け替えを行い、さらに車両数が多い時は補助機関車を列車後部に追加連結する必要があった。ために沼津駅には上り列車は必ず停車していた。

 昭和九年に丹那トンネルが開通すると東海道線は熱海経由となった。


東京、沼津間が電化され上下線とも列車を牽引(けんいん)する電気機関車と蒸気機関車を沼津駅で付け替えることになり、全ての旅客列車、貨物列車が何分間か停車することになった。

 テト馬車これは明治三年に開業した乗合馬車を指し、庶民の乗り物として親しまれた。馬が四輪車を引き、その中に六~十人の乗客が乗れた。

 立場(たてば鱒停留所)も一応あったが、手を挙げれば乗車することができた。手綱を引く別当(馬の口とりをする御者=運転手)は馬車の通過をラッパで知らせた。その音が「テートーテートー」と鳴るから、乗合馬車は通称「テートー馬車」または「テト馬車」と言われた。

 沼津には明治期、馬車の立場が三カ所あり、市道から原町方面に行くものと、上香貫吉田から静浦方面に行くものと、山王前から三島方面に行くものとがあり、いずれも相当に繁盛した。

 乗合馬車・荷馬車を含めて大正十五年には百七十八台あったが、昭和十三年には六十七台と約三分の一に減少。乗合馬車は昭和十年ころには全く見られなくなった。

 ところで先日、テト馬車の遺跡を探し求め、たまたま吉田町の御嶽神社境内で馬車にかかわる碑を発見した。碑文は長年、自然にさらされて剥離し、殆んど読めない状態だった。

 吉田町にある第四地区センターの協力を得て一部分だが次に紹介する。

 馬塚碑


 この碑は明治十六年九月瓦山西のふもとの馬車の停車場に建設した。その時の思いを関係者と相談し残そうと思っていたところ、明治二十二年東海道に汽車が開通したため、忽ち街道は寂しく人の往来が減っていくような状況が招来した。以前に建てた碑も草.むらの中に見えなくなる始末となったので今回このところに移し裏面を使って往.来の人々への案内に提供したいと思っていた。…… 明治三十年七月 三島館世古某記

 終わりにあたり、戦後、東海道も国道一号として道路整備されて車時代に突入した。鉄道も新幹線は沼津通過と、思えば「明治は遠くなりにけり」の言葉が想起されてならない。

 (歌人下一丁田)

【沼朝令和21210日(木)号寄稿文】

2020年12月9日水曜日

現生人類いつ日本列島に  鍵握る石器 長野で出土

 

現生人類いつ日本列島に

 鍵握る石器 長野で出土



 日本列島ではどのように人類の歴史が始まったのかー。長野県の山中の遺跡でこの夏、考古学や人類学の一大テーマに関わる貴重な発見があった。アフリカを出て、ユーラシア大陸を東に移動した現生人類に特有の、旧石器時代の石器のセットが国内で初めて出土。謎解明の鍵を握る石器の年代が焦点となっている。

 群馬県境に近い、標高約1100㍍の香坂山遺跡(長野県佐久市)89月、奈良文化財研究所の国武貞克主任研究員が発掘調査を実施した。地表から約3㍍を掘り、3万年前の火山灰層のさらに下から、約800点の石器が出土した。

 特徴的なのは、幅3㌢、長さは10㌢を超え、鋭い刃を持った短冊形の「大型石刃(せきじん)」、カミソリ刃のような「小石刃(しょうせきじん)」、三角形の「尖頭器(せんとうき)」の3点。1万カ所以上ある日本の旧石器時代の遺跡で、3点そろう出土は初めて。国武氏は「ユーラシア大陸の各地で見つかった、初期の現生人類が持つ石器の組み合わせと共通する」と説明する。

 現生人類は20万年前ごろまでにアフリカに出現。6万年前には各地に拡散する「出アフリカ」が起き、ユーラシア大陸を西から東に移動したとされる。中央アジア、南ロシア、中国などでは5万~4万年前にかけての、香坂山と同様の石器群が見つかつている。国武氏自身、タジキスタンのフッジ遺跡などの発掘で確認。香坂山と比べ「混ざれば見分けがつかないほど」と話す。

 類似点は遺跡の立地にも及ぶ。大陸の遺跡も標高千㍍程度に位置し、石器の材料が付近で採取できる。似た気候や環境で暮らし、移動した可能性があるといい、国武氏は「こうした人類が初めて入ってきた痕跡が、香坂山遺跡と言えるのではないか」と指摘する。

 焦点は石器の年代だ。一般に日本列島では、後期旧石器時代の38千年前から人類の痕跡が明確になる。2000年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)事件以降、さらに古い石器の報告例もあるが、石器かどうかの判断や年代を巡っては研究者でも意見が分かれている。

 香坂山では過去に36千~35千年前の大型石刃が出土したが、列島に近い朝鮮半島では41千年前のものが確認されるなど、大陸との年代には開きがある。

 調査では、石器とともに数百点の炭化物も採取。今後、高精度の放射性炭素年代測定で、石器の年代を特定する。国武氏は現生人類による西から東への移動を、「パレオ(いにしえの)・シルクロード」と表現。「終着点でもある列島の状況を明らかにしたい」と意気込む。

 

 ☆旧石器時代 石を打ち割って作った打製石器を主に使用していた時代。約250万年前から、寒冷な気候が温暖化し、土器の使用や農耕が始まる12千年前ごろまでとされる。石器の特徴などから、前期、中期、後期と区分される。日本列島では最も新しい後期旧石器時代の石器が集中して出土。土器の出現が世界的にも早く、16千~14千年前から縄文時代に入る。

【静新令和2129日(水)朝刊】

2020年11月17日火曜日

チンチン電車の思い出 浜悠人

 

チンチン電車の思い出 浜悠人


 明治三十九年十一月、沼津停車場から三島広小路までの約六・五㌔を結ぶ県下最初の路面電車が駿豆電気鉄道(現・伊豆箱根鉄道)により開通した。運行開始当日、沼津・三島の町民は、こぞって歓迎し花火や花電車、楽隊、山車と華やかな祝賀式を繰り広げた。そして終日、電車は運賃無料で沿線住民にサービスしたという。

 この電車が「チンチン電車」と呼ばれるのはチンチンと警笛(ベル)を鳴らしながら走ったのが始まりで、大正から昭和にかけてはバスとの競合もなく新車二〇形(後のモハ一〇形)四両が十二分間隔で運行。沼津・三島間を二十四分で走った。ために沿線の通勤、通学者の足として利用された。

 戦争が激しくなると乗客もあふれ座席は半減、最後は全員立ちん坊で荷物並みとなった。

 昭和三十年代に入るとバス路線との競合が激化。乗客は、だんだん減ってゆき、昭和三十八年、それまで五十七年間にわたって親しまれたチンチン電車も、ついに廃線となった。

 先日、往時を偲び、沼津駅から広小路まで旧電車道を歩いてみた。「イーラde」東側の旧沼津停車場から出発。最初の停留所は「追手町角」で裁判所前(現・中央公園)を下ると「三枚橋」がある。次に「平町」を経て「山王前」'で線路は複線となり三島から来る電車とすれ違う。

 さらに進めば「麻糸前」「石田」を経て旧道に入り、「黄瀬川」となる。黄瀬川橋を渡ると左手に、こんもりとした森の智方神社がある。

 境内には清水町で一番大きい「クスノキ」があり(建武二年(一三三五)、鎌倉の土牢に幽閉されていた、後醍醐天皇の皇子、護良親王が殺され、その御首をひそかに持ち出したものが途中、黄瀬川の洪水に遭い、やむなく、この地に葬り、目印にクスノキを植えたと伝えられている。

 井上靖は「夏草冬濤」の中で、三島に下宿していた洪作少年が沼中まで徒歩で通い、始業式の日、通学鞄を神社の木の根の洞に隠し失くしてしまう事件を書いている。鞄は地元の人に見つけられ、学校に届けられていた。

 「臼井産業前」には片側だけだが旧東海道の松並木が残り、この辺り左手に電車の車庫があった。次に「国立病院前」「長沢」「玉井寺前停留所」となる。

 八幡(やはた)の八幡神社境内には治承四年(一一八〇)、平家の軍勢が富士川辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝が、この地に出陣した。奥州から駆けつけた弟の義経と感激的対面をした対面石が残されている。

 長沢から寄り道し現・柿田川公園と泉の館に行った。戦国時代、北条氏綱は今川氏や武田氏に対して、この地に泉頭城を築いた。豊臣秀吉が小田原攻めの際、北条方は事前に城に火をかけ山中城に退いた。その後、元和元年(一六一五)家康は、この地を隠居地と考えたが、急死により、ご破算となった。

 現在、公園の一画には若山牧水の弟子大悟法利雄の柿田川讃歌なる歌碑「天地のゆたけき心ここにありこの富士の山この柿田川」がある。近くに柿田川湧水があり、大小数十カ所から湧き、日量約130万㌧、幅50㍍、深さ3㍍、長さ12㌔で狩野川と合流する日本で一番短い1級河川である。

 電車通に戻ると「玉井寺前停留所」、近くには「一里塚」を示す道標があり、境内には白隠の遺墨「三界萬霊等」、同寺山号の「金龍山」、寺号の「玉井寺」がある。

 一休みした後、「伏見」「千貫樋」と進む。ここには伊豆と駿河の国境となる境川が流れ、戦国時代、北条が今川に三島の湧水を、この樋を使って送った千貫樋が左手に見られる。

 この用水は玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の五力村(現・清水町)に引き入れられ、水田を潤してきた。大正十二年の関東大震災で樋は破壊されたが、鉄筋コンクリートに改造されて現在に至っている。

 電車は「木町」を過ぎ、遂に「三島広小路」の終点に到着した。 (歌人、下一丁田)

【沼朝令和21117日(火)寄稿文】

lang="EN-US">


2020年11月15日日曜日

縄文時代 信仰

 

 



縄文時代の信仰  縄文時代の生活は木の実などの採集やシカやキジなどの狩猟、川や海での漁労が中心でしたが科学が発達していないこの時代の人々は、木の実は神が作り狩猟がうまくいったり海が荒れて魚がとれなくなるのもすべて神の仕業であると考えていました。  そして神は不思議な力を持ち、姿を見せず、山や木や石などに宿るものとしていました。  こんな縄文時代の宗教はアニミズム(精霊崇拝)やマナイズム・自然崇拝・死霊崇拝(*1)を中心とした神を招き祈り願う祭りと、呪術(まじない)を中心とした信仰でした。  [土偶・配石遺構]  この時代の宗教を想像させるものに土偶と配石遺構があります。  土偶は土で出来た人形ですが殆どが女性像で、その怪奇な形や姿は出産にたいする信仰や神秘的な力をあらわしたものとみられています。また土偶は殆どこわされていることから、土偶を人間の身代わりにする呪術が行われていたことが推測されます。  配石遺構はいろいろな石を並べたり、組んだりしたもので集団で祭りをした場所とみられますが、共同墓地だったという意見もあります。代表的な配石遺構である環状列石は秋田県の大湯、長野県の上原など主に東日本で数十カ所も発見されています。  縄文時代の人々は土偶や人骨から推測すると、頭にくしをさし、耳、鼻、口のまわりには、飾りをつけたり、いれずみをし、手足に貝輪をはめ、首、胸、腰には動物の歯や玉類をつけていたようです。これらのものには神秘的な力が宿っていると信じられ、悪い霊から身を守るために身につけたと考えられています。 (*1)アニミズム・マナイズム・死霊崇拝  アニミズムとは存在するものは無生物にいたるまですべて生きていて霊魂をもっていると信じることです。  マナイズムとは人間の力を超えた神秘的な力を信じることです  死霊崇拝は死者の霊が生者に禍と福をもたらすと考え、死者の霊をおそれたり祀ったりすることです。

2020年10月29日木曜日

沼津御用邸記念公園  ㊤移譲の舞台裏最後の証人 令和2年10月27日(火)㊥衰頽の時代大改修 10月28日(水)㊦耐震化や観光活用 10月29日(木) 静岡新聞ワイドしずおか 

 

沼津御用邸記念公園

市民と共に50

 ㊤移譲の舞台裏最後の証人

 宮内庁と交渉熱意届く


 沼津御用邸記念公園(沼津市下香貫島郷)はことし、開園50周年を迎えた。同公園では皇室ゆかりの品の特別展示など記念事業が行われている。11315日には報道写真展「皇室に愛されたまち・沼津」(静岡新聞社・静岡放送主催)が開かれる。公園整備に尽力した人々と歩みを振り返るとともに、貴重な文化財でもある施設をどう活用し、次代に受け継ぐべきか取材した。



 老紳士は50年前の記憶をはっきりと覚えていた。「ほとんど毎日、朝一番で東京に通い詰めた。大急ぎで交渉をまとめるのが仕事だったんだ」。声の主は矢田保久さん(104)=沼津市上土=。1970年、沼津御用邸が市に移譲された際に宮内庁と折衝を行う市企画部長を務めた。記念公園として開園するまでの舞台裏を知る最後の証人だ。

 前年の69年秋にさかのぼる。当時、地元選出の故遠藤三郎衆院議員の秘書だった矢田さんは首都高速道路公団に勤務していた。「沼津に帰って、市を手伝ってくれ」。突然の遠藤氏からの"指令"。聞けば、宮内庁が老朽化した沼津御用邸の廃止を水面下で決定し、市も跡地の公園化を模索しているらしかった。その時点で市が開園日に想定していた市制記念日まで9カ月。交渉の糸口を求めて市は、国との人脈が太い遠藤氏を頼ったという。「地元の要望は何とかしてかなえたい。とはいえ時間もない。不退転の決意だったね」。矢田さんは振り返る。



 始発列車に飛び乗り、宮内庁の食堂で朝食をとりながら、出勤してくる職員を待つ日々。懸命な姿にほだされたのか、やがて思いがけない提案が寄せられた。

「あの時の御用邸内は家具が全部運び出されてがらんどう。『それじゃ、つまらんでしょう』って、貴重な調度品もいただけることになったんだ」。正式に御用邸の移譲が決まったのは開園予定日のわずか1カ月前。矢田さんは「本当に綱渡りだった」と笑う。

 10月中旬、園内に矢田さんの姿があった。通路脇に植栽されたアジサイやツワブキ。皇室にゆかりが深く、皇室とともに歩んだまちの歴史を伝えようと、半世紀前に園路整備などと併せて植えたのが始まりという。矢田さんはいとおしそうに眺めながら、公園への思いを口にした。「この公園には、当時の市民の思いが隅々に宿っている。若い世代もその思いをずっと受け継いでほしい」

 



☆沼津御用邸 1893年、当時皇太子だった大正天皇の静養先として、沼津市南部の島郷海岸付近に建設された。その後、赤坂離宮東宮大夫官舎を移築して東付属邸に、明治の元勲・川村純義伯爵(昭和天皇の養育係)が隣接地に構えていた別邸を西付属邸にそれぞれ加え、敷地面積は約104400平方㍍に拡大。市街地からのアクセス道に残る「永代橋」「御成橋」「八間道路」などの名称が往時をしのばせる。太平洋戦争末期の19457月、沼津大空襲で本邸が焼失。老朽化に伴って69年に廃止され、跡地や建物を譲り受けた市は翌707月、沼津御用邸記念公園を開園した。

【静新令和21027日(火)朝刊「ワイドしずおか」】


沼津御用邸記念公園

市民と共に50

㊥衰退の時代大改修

 「誇り」回復憩う拠点に

 「何もかもボロボロで。今やらなきゃって思った」。元沼津市長の桜田光雄さん(75)は、まるで昨日のことのように回想した。199096年の在任中に手掛けた沼津御用邸記念公園の改修。開園から約20年を経て始まった大事業だった。

 きっかけは就任2カ月後に出席した公園のイベント。立ち入りが当時禁止されていた西付属邸の内部を、雨戸の隙間からのぞいた。ほこりまみれの部屋に抜け落ちそうな床、シロアリに食われた柱ー。貴重な皇室建築物は無残なほど荒れていた。

 すぐさま、公園整備の基本構想策定に着手した。調査委に国文学者の故金田一春彦氏ら専門家にも協力を求めた。「建物が朽ちていくことは、市民の誇りを失うのに等しい気がした」と桜田さん。大改修を進めた理由には、バブル崩壊に端を発した90年代初頭の時代背景も絡んでいたという。

 「不況の到来とともに、急速な衰退が始まった。改修を通して『沼津らしさ』や『自信』を取り戻す意図があった」と語る。



 東付属邸は文化・教養活動の拠点として親しまれる。公園で毎年5月、流派を超えて「ぬまづ茶会」を主催する市茶道連盟の池田宗博会長(86)=同市大岡=は「これほど素晴らしい環境は全国でも少ない」と胸を張る。


 茶の湯文化は本来、茶席をともにした人々が互いに打ち解けることで、争いを避けるための知恵として発展したという。池田さんは公園で茶会を開く意義を説く。「国民の象徴として、平和な暮らしを祈ってくださっている皇室。茶道も根本に平和がある。だからこそ、皇室ゆかりの地で開かれる茶会は大きな意味を含んでいる」



 新型コロナウイルスの影響で、今年のぬまづ茶会は中止になった。池田さんは来年こそはと再開を願う。コロナ禍を乗り越え、市民が憩う拠点施設であるこの公園で再び茶会ができる平和な日々を待ち望んでいる。

 

  公園開園後の皇室と沼津市沼津御用邸記念公園の改修工事のうち、最初に完了した西付属邸の一般公開が始まったのは1994年。これに合わせて天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)23年ぶりに立ち寄られた。2000年には、長泉町で静養中の皇太子ご夫妻(現天皇1皇后両陛下)も訪問。長女の愛子さまは学習院初等科6年生だった13年、公園に隣接する同校の游泳場で遠泳行事に参加し、その体験を卒業文集に記して話題となった。現在の上皇さまは沼津での思い出を折に触れて話題に取り上げ、皇室との結び付きは今なお深い。

【静新令和21028日(水)朝刊「ワイドしずおか」】


沼津御用邸記念公園

市民と共に50

 ㊦耐震化や観光活用

 "本物"の価値次代へ 皇族がプライベートの時間を過ごした沼津御用邸記念公園の西付属邸御座所。庭に面した窓を開けると、クロマツ越しに駿河湾がきらめいていた。勤続27年のベテラン職員田内れいこさん(71)は「御用邸で一番好きな場所。皇室の方々も心を癒やされたのではないのでしょうか」と思いをはせる。

 5千本近いクロマツに駿河湾への眺望、松越しに望む富士山ー。旧沼津御用邸苑地は2016年、海浜保養地の優れた風致景観を伝える名勝地として、国の文化財に指定された。歴史的にも建築史的にも貴重な施設。だが、田内さんは「意外と近くの人も来たことがないと言うんですよ」と苦笑いする。ピーク時は30万人近かった来園者数は19年度、約12万8千人に減った。

 文化財としての価値をどう守り、人々の関心を高めていくか。市は課題解決に向け、20年度から新たな整備計画を進める。明治期に建てられた西付属邸と東付属邸は初めて耐震改修し、見学しやすいようバリアフリー化も図る。クロマツの適正管理にも取り組み、見通しの良い美しい庭園を作っていくという。

 観光資源としての活用も力を入れる。近年は夜間のライトアップやグルメフェアなど、幅広い年代が楽しめるイベントを実施。昨年から皇室ゆかりの庭園と連携したガーデンツーリズムを開始し、50周年記念事業では所蔵品の合同展示を行っている。市の担当者は「風光明媚(めいび)な公園を訪れると、皇室が沼津を選んだ理由を感じられる。市内外に魅力を発信し、来訪のきっかけを作りたい」と話す。



 同公園には現在までに、天皇皇后両陛下をはじめ多,くの皇族が訪れた。田内さんが印象深いのは、1996年に訪問した常陸宮ご夫妻。職員かと尋ねられて顔を上げると「きれいにしてくれてありがとう」とほほ笑まれ、期待に応えたいと胸がいっぱいになった。「ここには"本物"が残っている」と田内さん。沼津の誇りとして、次世代に引き継がれることを願っている。(東部総局・薮崎拓也、山下奈津美が担当しました)

 

 本紙所有の写真を展示

 沼津御用邸記念公園の開園50周年を記念した報道写真展「皇室に愛されたまち・沼津」(静岡新聞社・静岡放送協力)11315日、沼津市下香貫島郷の同公園西付属邸で開かれる。本紙が所有する写真20点を通して、皇室とともに歩んだ沼津の歴史を振り返る。

 写真は、戦後間もない1946年に御用邸付近の海岸を犬と散歩している少年時代の上皇さまをはじめ、上皇后さまと手をつないで沼津市を初めて訪れた幼少期の天皇陛下のお姿などを紹介する。

 園内では期間中、「松籟(しょうらい)の宴2020(同実行委主催)としてさまざまなイベントも開催される。

 写真展は無料だが、観覧には西付属邸を含む園内観覧料として大人410円、小中学生200円が必要。開園時間は午前9時~午後4時半。

【静新令和21029日(木)朝刊「ワイドしずおか」】