2019年12月1日日曜日

牧堰・本宿用水を探索 令和1年12月1日





牧堰門池用水の成立
牧堰の成立
「牧堰」の名が史料において初めて出てくるのは慶長7年(1602)の「まきせき之割」である。この年、大久保忠佐の家臣関久左衛門が、牧堰築堰にあたっての分担間数を書き付け、築堰を命じた。少なくとも、江戸時代初期には「牧堰」が成立していたことがわかる。ただし、この文書で「まきせき」と既に記されていることから、前述したようにそれ以前に「牧堰」と呼ばれる堰が成立していたとも推測できる。
江戸時代の用水施設工事
現在、我々が「堰」といったときにイメージするものはコンクリートなどで作られた恒常的に設置されている堰だが、近代以前の堰はこれとは異なり、毎年灌概用の水が必要な時期に、川に石を積み上げて築いたものである。この江戸時代の用水施設工事の主体は次頁の表のように分類される牧堰の築堰は、やはり毎年灌漑用の水が必要な時期に、川に石を積み上げて築いたもので
川水が掛る各村に分担されていた。上の文書からわかるように、この時期の牧堰は8ケ村(小林・沼津・三枚橋・上石田・木瀬川・中石田・下石田・日吉)で築堰されていた。これが、寛文3年(1663)には13ケ村、元禄の頃(17世紀末頃)には15ケ村の用水となった。
牧堰は、大久保忠左の郡代である関久衛門の命令で、水下の村々に丁場割が割り当てられており、後に述べる本宿村との訴訟において、領主からの丁場割やその後の代官の配符の存在などを提出して、領主による普請であることを主張しているところから、私領御普請か、それに近い御入用普請の形をとって建設したと考えられる。
大久保忠佐
大久保忠佐は三河国の生まれで、徳川家康に仕え数々の合戦で武功をたてた。兄には小田原城主となった忠世、弟には彦左衛門忠教がいた。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの翌年、忠佐は沼津城主になり2万石を領した。忠佐は、開発による田地の拡大と生産の増大に力を入れたと推測される。慶長9年(1604)の妙伝寺宛の寺領寄進状において、「永荒之所切起」と指示している。牧堰築造の指示も農業生産力増大策の一環であったと推測される。
慶長18年(1613)9月27日、77歳で亡くなり、子の弥八郎がその前年に残していたため、世嗣がなく、大久保家は廃絶となり、城も破却されてしまった。

(「牧堰・門池用水 水見の恵み人々のくらし」平成19年9月発行:明治史料館)
本宿用水・・・慶長8年(1603)、当時の領主。興国寺城主 天野三部兵衛康景か黄瀬川から取水して本宿耕地へ流下させるようにした灌漑用水路で、トンネルだけでも長さか280問(609メートル)あった。ここはそのトンネルの入口である。
その後、安政の大地震(1854)が起こり、これは陥没大破した。そこで領主に懇願して金230両を下げ渡してもらい、また、借金をしたうえ、下土狩村にも再びトンネルを掘る了解を求めた。
こうした技術面・財政面での困難を克服し、新規掘り返した結果、383間(696メートル)のトンネルになっている。長泉町教育委貝会(現地説明板より)

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