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完成近ずく アーケード 【沼津朝日新聞 昭和29年9月10日(金曜日) 巷の声】70年前のアーケード名店街への激励新聞記事
完成近ずく アーケード
沼津市の商店街に一威彩を副えようと目下建築中の本通りのアーケードは去る三月工を起して一部は六月一杯で完成する予定であつたが、設計を一部三階建としたりあるいは地主との協定が長引いたりした結果として、工事に種々な支障を来たして遂に予定の期間に竣工不可能となつて遅延を来たしてたが、愈々本月一杯を以て完成がほぼ確実視され名実共に沼津市商店街に、画期的な新構装になる防火と美観を兼ねた大建築の完成が間近かに迫つて、関係業者はこの落成を記念して一大売出しを敢行しようと目下種々構装を練つてるとのことである。
沼津市は勿論のこと全国にも比類のない新容装の建築が完成するのであるから、関係者が落成を記念してあれこれと種々構装を練ることは当然であると共に、沼津市の新名所となつたとの意味は勿論商店街である以上永久永遠に、その名を一般に反映せしめ信用を高めることに相房しい催物の計画を要望するものである、催おしものは落成を祝賀すると共に客寄せの一端を担うものであるから、目先きの利益にのみ拘泥することなく名所となつた外形のみでなく、の内容に於ても沼津市の新名所たらんことを切望して己ない。
あの構装は善美を尽したとも言えるほど学の粋を集めた堂々たる全く他の追随を許さないものがある、それほどに立派なものであるだけに関係者にとつては全く一生一代の大事業を成し遂げた誇りを持つことは勿論であるが、莫大な資本を投じた関係やゝもすれば眼前の小利に眼先きを誤まつて、信用を失墜させるような事のないよう協力することが望ましいのである、万一にも一人のものがそうした抜けがけの功名を争つて信用を傷つけんか、徒らに建築の外装だけが名所となつて客が素通りするが如きことあらんか、死活を制する重大問題となるばかりでなく引いでは沼津市全商店の名にかゝわるようなことになる。
アーケード完成と共に行なわれる落成をかねた各種の催おしと共に、行う売出しは独り本通りだけの売り出しでなく沼津市全商店街を賭けての大売出しなのである、アーケードの名にかけても沼津市の名にかけても一大発奮が望ましい、勿論岡町は紳商を綱らしてる一流街であるから、計画には憧重を期し一人の落伍者のなからんことに努力してると伝えられてることはまことに喜びに堪えない。
戦災による復興区画整理は県内に於いても静岡市を始め浜松、滑水の四市と更にその後に大火を起した熱海市に実施されたのであるが、沼津市の中央通りに見るような善美をつくした集団な統一建築はどこにも見られない建築したのは独り沼津市に限られたものであるだけに、全県下は勿論全国から大きく注目されるに至つてるのである、これにより建築と共に内容を併立させて育成することは当事者の誠意を以て、新商道の遵守することによつて名誉と誇りを守り得られるのである。
新名所の出現は問近かに迫つている、これを活かすも殺すも全では関係業者によつて決定づけられることは今更言を俣たないのである、他に類を見ない威容を整えたのであるからその内容に於ても、他に追随を許さない誇りを以ての経営が望ましい全市民は関係者が多大の犠牲を惜まずにこれに全てを傾注して竣工されんとするに当つて限り感激と誇りを以て迎えている。
【沼津朝日新聞 昭和29年9月10日(金曜日) 巷の声】
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荻生昌平が描いた 水野沼津城 水堀(外堀)空堀(内堀)を色分け こんなだった水野沼津城!
沼津城の築城
安永6年(1777)10代将軍家治より沼津の地を与えられた水野忠友は、翌安永7年正月29日に、代官江川太郎左衛門より城地を受け取りました。その後江戸より松本時代の旧臣吉田雪翁が門弟を連れて沼津に入り、本丸や二の丸の見分見廻りをします。
5月になると御勘定所、地方、町方の役所の普請も完成します。
10月には築城のための絵図面が完成し、御用番を通して幕府へ提出しますが、この絵図面では認可されませんでした。
安永8年1月には城地の地鎮祭や大工の御鍬始も行われ、築城開始も間近となります。9月には大工棟梁に浅間町の大工幸右衛門を選び築城の水盛りもされました。
9月15日になると江戸より田沼意次(おきつぐ)の家来須藤次郎兵衛が来て、縄張り後最初の悪霊祓いの蟇目(ひさめ)の神事を行います。10月になると大工善四郎の水盛り坪数も算出され、11月26日には築城予定地の立木の入札が行われます。
安永9年4月に田沼意次の家来須藤次郎兵衛の絵図面で築城は認可され、天保3年(1832)に二重櫓が完成しますが、それが城の完成を意味するのかはよく分かりません。
安永9年に始まった沼津城の築城も、二重櫓の完成までに50年の年月を費やしています。
(「沼津城とその周辺」15頁 平成元年8月1日発行 沼津市歴民)
水野沼津城内配置資料
二ノ丸
堀巾(八間より十二間まで). 土居敷(四間) 土居(高九尺) 門 太鼓櫓(二間に二間) 冠木門 石橋
二ノ丸後郭
堀沼(巾十二間より四十八間まで) 土居敷(四間) 土居(高九尺) 棚門
三ノ丸
堀巾(八間より十二間まで) 土居敷(四間) 土居(高九尺) 大手橋(巾六間升形七間に十二間) 冠木門 石橋 丸馬出(木戸) 冠木門 石橋 二重櫓(四間半に四間) 惣堀(深さ六尺あるところは一丈五尺)
本丸
堀(三間より十五問) 土居敷(三間より四間まで) 堀巾(七尺) 三重櫓(五間半に五間) 問 多門 冠木門
帯郭
堀巾(八間より十五間まで) 土居敷(四問) 土居高(九尺) 二重櫓(四間半に四間)
(「沼津城とその周辺」15頁 平成元年8月1日発行 沼津市歴民)
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いまさら聴けない徳川家康 2人の駿府藩主 「後の名君」と「ヒール役」頼宣 忠長 【静新令和6年2月23日(金)朝刊】
いまさら聴けない徳川家康
2人の駿府藩主
現在の静岡県中西部を中心とした江戸期の駿府藩には徳川家康が1616年死去した後、幕府直轄領となる32年ごろまでの間に、2人の藩主が存在した。一人は後に「御三家」の一つ紀伊徳川家の祖となり、死後は名君「南龍公」とたたえられた家康十男の徳川頼宣(1602~71年)。もう一人は三代将軍家光の実弟として大藩を預かりながら、乱行を繰り返したとして貴めを負い自害した徳川忠長(1606~33年)。短命に終わった駿河徳川家を治めた2人の業績を追った。 (教育文化部・マコーリー一碧水)
「後の名君」と「ヒール役」
頼宣 紀州徳川家の祖「南龍公」
「十四歳が二度あるか」。浜松市中央区の市立舞阪中の正門近くに立つ「立志の碑」に彫られているのは、1615年大坂夏の陣で頼宣が放った言葉とされる。
頼宣は02年に生まれ、14年の大坂冬の陣で初陣を迎えた。翌年の夏の陣で血気盛んな頼官一は先陣を希望するも拒まれた、周囲が「次もある」となだめたときに出たのが「立志の碑」の一言だ。家康は頼宜の強い闘志を褒めたたえたという。
14歳の頼宣は、すでに駿府藩主の座にあった。05年に将軍職を二代秀忠に譲り始まった家康の大御所時代。家康は07年に駿府城へと移るが、09年に頼宣へと駿河・遠江の2力国50万石を与えた。以後約10年間にわたり頼宣は駿府藩の主であり続けた。実権は家康が握っていたにしろ、大御所時代の大部分で名目上の領主は頼宣だったのだ。
立志の碑建立当時の舞阪中学校誌によれば同校PTAが石碑を建てたのは1982年。碑の言葉は当時の校長がたるみがちな2年生に向けて選んだという。しかし頼宣が駿遠を治めたことについては記述がない。同校の松下宏幸教頭は「地元の殿様と知らずにたまたま選んだようで」と笑った。
静岡市葵区の駿府城公園内にある「家康手植のミカン」について、紀伊へ移った頼宣が贈ったものという説がある。だが、頼宣の国替えは家康の死から3年後。1619年、二代将軍秀忠の命で紀伊55万石へと移封された。
市歴史博物館の広田浩治学芸課長によると、当時の紀伊は水運上重要な地域であり、徳川に親しい大名の少ない西国の最前線でもあった。駿府では家康の陰に隠れ、独自の業績や藩政の意図が見えない頼宣だが紀伊では重責を全うし、紀州ミカンの栽培を奨励し殖産に努めるなど名君と呼ばれたという。
忠長 家光の実弟 悪評高く最後は自害
頼宣が去った後、5年間の幕府直轄を経て、駿府藩主になったのが徳川忠長だ。駿遠など50万~55万石を与えられた。
忠長は20歳で駿府に移るまでは甲斐などを治めていた。1625年に駿府に入り、翌26年には尾張徳川家や紀伊徳川家の藩主に並ぶ官位である大納言へと昇進し「駿河大納言」と称された。とんとん拍子の出世について静岡市歴史博物館の増田亜矢乃学芸員は「大御所となった秀忠が、三代将軍家光の後援体制を実弟の立場を上げることで強化しようと考えたのでは」と推測する。
藩主としての忠長の記録は少ない。久能山東照宮(同市駿河区)の神庫の修繕など善行の一方で、悪評も多く残る。「江戸の防衛を無視して大井川に橋を架けて家光に吐られた」「浅間神社で聖獣の猿を何匹も殺した」ー。ただ、それを証明できる「次資料は少なく「幕府の成立過程を描く中でヒール役を押しつけられた面がある」(増田学芸員)。
忠長は駿府城内で家臣や奉公人を何人も斬り殺すなどしたことで、31年に家光から蟄居(ちつさよ)を命じられ駿府を離れた。33年に自害し、28年の生涯を終えた。駿府藩は廃藩となり、2度目の駿河徳川家も終わった。以後約230年間、幕府直轄の統治が続いた。
幕府が治めた駿府は、穏やかで変化の少ない安定した時代を過ごした。名古屋や和歌山など大藩の城下町などとは異なり、人口や経済圏も横ばいだったという。もし忠長が何事もなく駿府で政を続けていたらー。御三家に並ぶ「駿河徳川家」の治める駿府は全く違う歴史を歩み、異なる文化と人を育てたかもしれない。
【静新令和6年2月23日(金)朝刊】