2016年6月19日日曜日

3年後の兵学校創立150周年へ 記念事業実行委員会が総会

3年後の兵学校創立150周年へ
 記念事業実行委員会が総会
 沼津兵学校創立150周年記念事業(フレッシュ150)の実行委員会総会が十二日、市立図書館講座室で開かれ、人事や事業内容が決定された。二〇一九年の記念年に向けて、兵学校に併設された沼津病院の顕彰碑建設などに取り組む。
 沼津兵学校は静岡藩によって明治二年(一八六九)に開設された軍人養成学校で、廃藩置県で同藩がなくなるまで約三年半存続した。校舎は沼津城(現在の大手町周辺)の内部に建てられた。
 静岡藩は、明治維新によって倒れた江戸幕府の将軍家が移って生まれた藩で、幕府に仕えた武士達が藩士となった。兵学校の教職員も、かつては幕府に仕えていた人達で、全国区レベルの一流の人材が沼津に集まった。兵学校では先進的な理系教育が行われ、同校在籍者からは、軍人だけでなく様々な分野で活躍する人が世に出て、近代日本発展に貢献した。
 沼津病院は、兵学校消滅後は個人経営や会社組織化を経て駿東郡立となり「駿東病院」と改称。昭和二十年(一九四五)六月に医師不足などにより閉院となった。建物は翌月の空襲で焼失している。
 実行委員会は、教育史家で元国士舘大学教授の四方一瀰氏が委員長を務める。副委員長には、事業協力団体である沼津医師会の坂芳樹副会長、沼津香陵ライオンズクラブの大場俊雄氏、沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の千野慎一郎副会長がそれぞれ就任した。
 記念事業としては、西条町の沼津病院跡地での記念碑建立のほか、市民向け講座の開催や記念誌発行、兵学校ゆかりの地を巡るスタンプラリー実施などを計画している。
 記念碑の建立は、昭和十六年(一九四一)に史談会創設メンバーの一人である故大野虎雄氏によって計画されたが、未完に終わった。当時、大野氏は碑文原稿の揮毫を病院頭取(院長)だった杉田玄端の子息六蔵氏に依頼していて、その原稿は現存しているという。
【沼朝平成28年6月19日号】
 
意義深い沼津病院記念碑建立
 沼津史談会郷土史講座
 講師3人が位置付けなど解説
 一方、沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)による沼津病院をテーマとした郷土史講座が同日の実行委員会総会終了後、会場を市立図書館視聴覚ホールに移して開かれた。
 四方氏、医学史研究者で順天堂大学特任教授の酒井シヅ氏、元明治史料館学芸員で国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏の三氏が講師を務めた。
 沼津の医と文化四方氏は、沼津病院が兵学校併設の医学所として始まり医師の養成機関としての側面も持っていたことを話し、当時の沼津は医療水準が高い地域であったことを解説した。そして、この医療水準が沼津の文化に与えた影響を論じた。
 明治以降に衛生学などの考え方が普及すると、開業医が多くて気候環境の良い沼津が保養地として発展した。多くの人が沼津を訪れるようになり、その中には横山大観などの画家に代表される文化人の姿も少なくなかったという。晩年を沼津で過ごした若山牧水も、こうした保養地文化人の系譜
に連なる。 来訪者に娯楽を提供するため、千本浜には新聞縦覧所や音楽堂が行政によって造られた。また、文化人の流入は、市内での絵画展覧会開催や、画壇結社の結成につながったという。
 四方氏は、沼津病院の存在による地域医療水準の高さを「医学遺産」と呼び、医学遺産が地域文化に与えた影響を高く評価した。
 杉田玄端とその時代
 酒井氏は、沼津病院の頭取を務めた杉田玄端を中心に、当時の病院関係者の社会的位置付けについて話した。
 明治八年に医師の免許制度が導入されるまで、医師は誰でもなることができる自称の職業だったという。そのため、当時の医師の社会的地位は低かった。
 しかし、「奥医師」など幕府に仕える医師は別格で、杉田玄端や副頭取の林洞海は、こうした幕府勤務の医師であった。
 また、杉田は西洋医学普及の先覚者として知られる杉田玄白の孫に当たり、当時の医学界の重要人物だった。他にも医学や蘭学研究の名門として知られる桂川家出身桂川甫策(かつらがわ・ほさく)も医師として沼津病院に勤務していた。
 幕末から明治初期にかけて、各地の藩では医学校を設置する動きが広がった。こうした動きの中で、当時の沼津病院は勤務者の顔ぶれから見ると、際立って大きな存在だったという。
 医学史の研究者でテレビドラマの医事考証も担当している酒井氏は、兵学校医学所や沼津病院の関係者について解説した後、「医学所の存在が地域の人々に、どのような影響を与えたか興味がある。明治初めの医学教育を知る上で沼津のケースは重要」だと話した。
 沼津病院顕彰の意義
 兵学校研究の第一人者として知られる樋口氏は、沼津病院が果たした役割についてまとめた。
 沼津病院は我が国最古の近代的病院ではなく、当時存在した幾つかの病院のうちの一つだが、江戸幕府が準備を進めた近代的な医療制度と明治時代以降の医療制度との架け橋になる存在だったという。
 現在、兵学校や附属小学校(現在の一小)の記念碑は存在するものの、沼津病院の記念碑はない。
 この状況について樋口氏は、沼津城と縁の深い兵学校の関連施設の記念碑が建立されることは、城跡の痕跡すらない沼津城の存在を市民に伝える一助ともなる、として、その意義の深さを指摘した。
【沼朝平成28年6月19日号】

2016年6月7日火曜日

フレッシュ一五〇シンポ 千野慎一郎

 フレッシュ一五〇シンポ 千野慎一郎
 平成三十一年(二〇一九)は、沼津兵学校が明治二年(一八六九)一月に開校してかち百五十年を迎えます。三年半と短い年月でしたが、沼津地域における教育・文化・医療など多方面で大きな恩恵と影響を与えました。
 これまで兵学校や附属小学校については、かなり市民に認知されていますが、附属施設として開設された、我が国でも最初の洋式病院の一つであった沼津病院(後の駿東病院)については、あまり知られていません。
 そこで、沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)、一般社団法人沼津医師会、沼津香陵ライオンズクラブを中心に、沼津病院が存在した地元の第一地区コミュニティや沼津観光まちづくり市民の会も加わって沼津兵学校創立百五十年記念事業実行委員会(略称・フレッシュ一五〇)を立ち上げ、今年度から三年計画で、主に沼津病院を中心とした沼津の近代医療にスポットを当てた記念事業に取り組みます。
 六月十二日(日)午後一時から市立図書館四階講座室でフレッシュ一五〇の設立総会を行い、記念事業をスタートさせます。終了後、会場を視聴覚ホールに移して公開の記念シンポジウムを開催します。三人の講師を迎え、各々基調講演をしていただいた後、沼津史談会の匂坂信吾会長の司会で意見交換とまとめを行う予定です。
 講演1は四方一泓先生による「沼津の医と文化」です。四方先生は元国士舘大学教授(社会科学博士)で近代教育史の権威です。沼津市史編纂委員をされ、また、長年にわたり沼津兵学校の医療と文化の歴史についても研究されてきましたので、今回設立されるフレッシュ一五〇の委員長を務めていただくことになっています。
 講演2は酒井シズ先生による「杉田玄端とその時代」です。酒井先生は順天堂大学医学部特任教授で、順天堂大学内の日本医学教育歴史館館長でもあります。日本医史学会前理事長を務められた医史学の第一人者です。
 最近のNHKテレビ「花燃ゆ」や「とと姉ちゃん」などの医事考証や岩波文庫『ベルツの日記』の巻頭言など意外な分野でも活躍されています。ご両親は昭和の初め、千本に住んでいたこともあり沼津との縁もありました。
 講演3は、樋口雄彦先生による「沼津病院顕彰の意義」です。樋口先生は国立歴史民俗博物館教授で、明治史料館学芸員の経歴もある沼津兵学校研究の第一人者です。これまでも沼津では何度も講演されていますし、四月の沼津史談会の総会で「明治文化史のなかの沼津病院」という演題で講演されたばかりです。
 このように第一線で活躍の歴史研究者が揃う機会はそうありませんので、当日、ぜひ会場にお出かけいただきご聴議下さい。
 シンポジウムは六月十二日(日)、図書館四階視聴覚ホールで、受け付け午後二時から、開演は二時半です。入場無料。定員二百人で先着順です。
 問い合わせは事務局の関順一(電話〇九〇-三四五三-七四八九)まで
(フレッシュ一五〇準備委員会委員、宮本)
(沼朝平成28年6月7日「言いたいほうだい」)

2016年6月5日日曜日

三枚橋城と4人の武将:沼朝記事

 三枚橋城と4人の武将
城の歴史と武将の生涯に迫る
NPO法人海風47による郷土学習講座「沼津あれこれ塾」の第12回が先月、市立図書館講座室で開かれた。市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城主列伝」と題し、現在の大手町にあった三枚橋城の歴史と、城を治めた四人の武将の生涯について話した。
城誕生と上杉謙信 三枚橋城は、戦国時代末期の天正七年(一五七九)に武田信玄の子の武田勝頼によって築かれた。それまで城のなかった地に新たに城が築かれた背景には、上杉謙信の死が大きく関わっているという。
天正六年(一五七八)三月、越後(新潟県)の上杉謙信が病死すると、景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)という二人の養子による跡目争いが発生した。「御館(おたて)の乱」と呼ばれるこの争いには、武田氏と小田原の戦国大名北条氏が介入し激しく対立。
争いは武田氏が支援した景勝派の勝利に終わったが、それまで同盟関係にあった武田氏と北条氏の仲は破綻し、一転して緊張関係となった。
当時、駿東地方では、黄瀬川を境界として武田領と北条領が隣り合っていた。勝頼は北条側への備えとして国境近くの地に三枚橋城を築いた。当時の常識では、国境近くに城を築くことは敵対宣言と見なされていたことから、武田氏と北条氏は戦闘状態に入った。北条氏は三枚橋城に対抗するため、現在の内浦地区に長浜城を築いた。
①春日信達 完成した三枚橋城の指揮官に選ばれたのが春日信達だった。高坂源五郎という別名でも知られる信達は、信玄家臣の名将として知られる高坂昌信の子で、兄の昌澄が長篠の合戦で戦死したため、後を継いでいた。
春日氏(高坂氏)の一族は、川中島の戦い以来の宿敵である越後の上杉氏への備えとして信濃(長野県)北部の海津城(長野市)を守っていた。しかし、御館の乱で武田氏が支援した景勝が当主となり両者は和解。信達は新たな敵となった北条氏への備えとして三枚橋城に派遣された。
駿東地方における武田と北条の戦いは、北条側の戸倉城(清水町徳倉)が城ごと武田側に寝返るなど、武田側の優勢で推移していたが、天正十年(一五八二)二月に織田信長が武田氏への攻撃を開始すると、状況は一変する。
信達は三枚橋城を放棄して甲府の勝頼のもとへ向かうが、疑われて合流を拒否されたため、かつての本拠地だった海津城へと退去した。勝頼が自害して武田氏が滅亡すると、旧武田領は織田氏や徳川氏によって分割され、海津城周辺の地は織田家臣の森長可(もり・ながよし)の領地となった。
信達は長可の家臣となるが、ここで再び状況が一変する。数カ月後の同年六月に本能寺の変が起きて織田信長が急死すると、旧武田領の織田氏の勢力は後ろ盾を失って大混乱となった。長可も本拠地の美濃(岐阜県)への避難を決意し、信達のような旧武田氏系勢力による報復を恐れて人質を取りながら美濃へと回かった。この時、信達など春日一族や他の旧武田家臣らは一斉に立ち上がって長可の帰国を妨害し、長可は戦いながら帰国を果たして人質を処刑した。信達の子は、この時に殺されている。
織田氏の勢力が信濃から消滅すると、北から上杉氏、東から北条氏が侵攻を始めた。信達は上杉氏の家臣となるが、上杉と北条との戦いの際に、北条側にいた真田昌幸の弟信尹(のぶただ)の誘いを受けて北条に寝返ろうとした。しかし、この企みは失敗し、信達は処刑された。
この信達の晩年の日々は、二月二十八日に放映されたNHKの大河ドラマ「真田丸」の第八回で大きく取り上げられている。
後に森長可の弟の忠政は信濃に領地を持つ大名となった。忠政は信濃に移ると、かつて兄を妨害した春日一族への報復を行い、一族を皆殺しにしたという。
②松井忠次 武田氏が滅亡すると駿河は徳川氏の領土となった。徳川家康は四男の松平忠吉を三枚橋城主に任命した。
しかし、当時の忠吉は一歳児であったため、後見人の松井忠次が忠吉の領地である河東二郡(富士川の東にある富士郡と駿東郡)を代理として治め三枚橋城を守った。
忠次は三枚橋城に入ってから一年余りで死去し、子の康重が後を継いだ。忠次の墓は市内の乗運寺にある。
松井氏は家康実家の名字である松平氏を名乗ることを許されたため、子は松平康重の名で知られる。豊臣秀吉による北条攻めでは、康重は豊臣軍に参加した徳川軍の先鋒を務めて箱根の間道を進んで小田原に向かった。
その後、北条氏が滅びて徳川氏が旧北条領の関東地方に移ると、康重も三枚橋城から武蔵騎西城(埼玉県加須市)に移された。江戸幕府成立後も康重は領地が移り、篠山(兵庫県篠山市)や岸和田(大阪府岸和田市)の藩主となった。このため、松井系松平氏の墓所は各地にあるという。
③中村一栄北条氏が滅亡して徳川氏が関東に移ると、駿河は秀吉家臣の中村一氏の領地となった。一氏は北条攻めの際に山中城の戦いで活躍している。
駿府(静岡市)を本拠とした一氏は、弟の一栄(かずひで)を三枚橋城主とした。
一栄は、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川(くいぜがわ)の戦いで負けた武将として知られている。
慶長五年(一六〇〇)、一氏は東軍に参加することを決めるが、病気のため軍勢を率いることができず、代わりに一栄を派遣した。
江戸を出発して美濃にたどりついた東軍は西軍とにらみ合いとなった。この時、西軍の中心人物だった石田三成に島左近(しま・さごん)という重臣がいて、左近は東軍を誘い出して待ち伏せ攻撃を行うことにした。これに誘い出されたのが一栄の部隊で、待ち伏せを受けて大敗。
しかし、翌日の関ヶ原の戦いでは東軍が勝利したため、東軍に参加した中村氏は領地を増やされて米子(鳥取県米子市)に移った。当主の一氏は関ヶ原の戦いの直前に死去したため、子の一忠が後を継いだ。一忠は叔父の一栄を八橋(やばせ)城(鳥取県琴浦町)の城主とした。一栄は幼い一忠を補佐したが、まもなく死去した。
その後、大名としての中村氏は、一忠が跡継ぎを残さず早世したため、改易されている。
④大久保忠佐 中村氏が米子に移ると、家康家臣の大久保忠佐が三枚橋城主となり、沼津藩主となった。
忠佐は勇猛果敢な武将で、元亀元年(一五七〇)の姉川の戦いや、天正三年(一五七五)の長篠の戦いで活躍。姉川では松井忠次や、忠佐と同時期に興国寺城主だった天野康景も揃って活躍してる。長篠では、兄の忠世と共に鉄砲隊を指揮し、その戦いぶりは織田信長に高く評価された。
慶長六年(一六〇一)に沼津へやってきた忠佐は、政治家としても手腕を発揮し、牧堰を建設して水不足に苦しむ大岡地区一帯に農業用水を供給した。
忠佐は慶長十八年二六一三)に七十七歳で死去し、子の忠兼(ただかね)は先に死んでいたため跡継ぎがなく、大久保氏の沼津藩は改易された。市内の妙伝寺に墓があるほか、一小校庭の一角には忠佐を祭る道喜塚が建っている。
忠兼の墓は現在確認されていないが、市内の寺に葬られたという記録があることから、今後、市内で発見される可能性もあるという。
その後の三枚橋城主を失った三枚橋城は、慶長十九年(一六一四)に破壊された。この直前、忠佐の兄の子の小田原藩主大久保思隣(ただちか)が幕府内の権力争いに敗れて失脚していることから、「大久保一族への制裁の一環として三枚橋城も破壊されたのだろう」と鈴木館長は指摘する。
三枚橋城からは、歴史上の有名人も登場している。江戸時代初期のシャム(タイ)で軍人や政治家として活躍した山田長政は、大久保忠佐の六尺(駕籠を担ぐ係)をして
いたという記録が残されていて、沼津藩改易による失職が海外雄飛のきっかけとなったと考えられている。
おわりに 三枚橋城の歴史と四人の武将の生涯を解説した鈴木館長は、同城の特徴として、①国境の城であり最前線を守るために武闘派の要人が配置された、②城内に
町屋を取り込むなど城下町を持つ近世的な城の性格を持っていたが、軍事的な役割の城と見なされて行政の中心地として長続きできなかった、などの点を指摘した。
そして、「後に三枚橋城の跡地には沼津城が築かれたが、新たな藩主となった水野氏は、ほとんど江戸にいて沼津には不在だった。それに対して三枚橋城は城主が長らく住んだ城で、沼津の地と城主が身近だった時代の城。もっと市民に知ってもらい、顕彰の機会が増えていけば」と話して講演を終えた。
(沼朝平成28年6月5日号記事)