2015年7月28日火曜日

2015年7月12日日曜日

高尾山古墳が語るもの:篠原和大教授

高尾山古墳が語ること:篠原教授 from 河谷杯歩 on Vimeo.



当日配布画像資料

講演会の一部ですが動画です。当日配布資料は静止画像です。


高尾山古墳を解説
 沼津市民向けに勉強会

 都市計画道路の建設予定地にあり、沼津市が発掘調査で墳丘などを取り壊す方針を示している高尾山古墳(同市東熊堂)の現状維持を求める3市民団体が11日、同市の第5地区センターで初の市民向け勉強会を開いた。
 市民ら約220人が集まった。静岡大の篠原和大教授が同古墳の概要や価値を解説した。形状や立地、出土品を挙げ、「日本列島の政治、社会の成り立ちを知る上で重要な遺跡」と強調した。
 主催団体の一つ「高尾山古墳を考える会」の瀬川裕市郎代表(76)は「市民の関心の高さに驚いた。今後は署名活動などを通じて市に声を届けたい」と話した。
 同市原の女性(74)は「2009年の発掘調査時に出土品を見に行った。古墳を大切にしたいという気持ちが一層強まった」と感想を語った。
【静新平成27年7月12日(日)朝刊】

榎本武揚箱館戦争樋口4



榎本武揚説得した江原翁
 沼津ふるさと塾で樋ロ雄彦氏が解説
 沼津史談会による第2回「沼津ふるさとづくり塾」が先月、市立図書館で開かれ、国立歴史民俗博物館教授で元沼津市教委学芸員の樋口雄彦氏が「箱館戦争と榎本武揚(えのもと・たけあき)ー沼津藩・沼津兵学校とのかかわりを中心に」と題して話した。約八十人が聴講した。
 戸田出身船大工が榎本と行動共に
 箱館戦争後、兵学校入学者も
 榎本武揚(一八三六~一九〇八)は、幕末から明治にかけての政治家。元は幕臣で、オランダ留学を経て幕府海軍の指揮官となった。戊辰戦争では江戸開城による幕府崩壊後、幕府艦隊を率いて北海道に脱出し、新政府軍と最後まで戦った。戦後は、その才能や知識が評価されて明治政府に仕え、閣僚も歴任した。
 榎本と静岡と江原素六
 一八六八年に江戸城が開城し、徳川家が駿河に移ることになった際、榎本も艦隊を新政府に明け渡して駿河に移ることになっていた。現在の静岡市清水区に徳川家の「清水海軍学校」を設置する計画があり、榎本をはじめとする幕府海軍関係者も、そこに勤務することが想定されていた。
 しかし、榎本は北海道への脱出を考えていて、これを察知した徳川家では幕府陸軍幹部らによる説得を行った。この説得に参加したのが江原素六だった。
 江原は、北海道で戦い続けても勝つことは難しいこと、これからは海上貿易が盛んになるので榎本達はビジネスの場で活躍すべきことなどを話して説得したが、不調に終わった。
 江原の死後、その文章を集めて出版された書籍『急がば廻れ』には、江原の回想として、この説得工作の様子が記されている。
 樋口氏は、この文章を初めて目にした時、江原の自慢話の一つであると感じ、実際に説得の現場にいたのか疑問に思っていたという。しかし、その後、説得に参加していたことを裏付ける史料が発見され、回想が真実であると証明された。
 徳川家の北海道遠征計画榎本が艦隊を率いて北海道の箱館(函館)に脱出すると、新政府は駿河に移った旧徳川将軍家に責任を取らせようとした。
 徳川家は沼津で陸軍部隊を編成して北海道への派遣準備を始めたが、幕臣の身内同士で戦うことになるのを恐れた勝海舟は、徳川家による北海道遠征を中止させるための政治工作を行った。
 その後、新政府から罪人とされていた徳川慶喜の恩赦と引き換えに慶喜を遠征軍の指揮官とする案が出るなど、遠征計画は二転三転し、最終的に立ち消えとなった。
 戦後箱館戦争は新政府軍の勝利に終わった。降伏した榎本軍関係者のうち、旧幕臣は謹慎生活を経て、旧徳川将軍家の静岡藩に所属することになった。しかし、静岡藩には箱館帰還組を受け入れる職場が残っておらず、箱館組のうち、知識や才能のある者は「御貸人(おかしにん)」として他藩に派遣され、教官などとして勤務した。
 その一方で、沼津兵学校の生徒となった者や、兵学校教員の私塾で学んだ者もいたという。
 また、戸田出身の船大工の上田寅吉は、榎本と共にオランダ留学した縁で榎本軍に参加し、戦後は投獄もされたが、後に才能が評価されて新政府の海軍省に採用されることとなった。
 講演が終わって樋口氏の講演後に質疑。聴講者の「沼津兵学校が沼津に与えた影響は何か」という質問に樋口氏は、兵学校附属小学校が起源である一小などの例を挙げ、教育分野での影響や貢献があったことを話すとともに、江原素六などの人材と沼津が結ばれるきっかけを作った点について述べた。
 聴講者に講演の感想を聴くと、ある女性は「箱館戦争まで武士の本領を貫いた敗者達も学んだ沼津兵学校。その歴史が現在の日本につながっていることを知り、誇りに思います」と話した。
 また、ある男性は「箱館で敗戦降伏した後も、飽くことなく新使命を見つけ、新国家に貢献した武揚らの起死回生哲学に、新たな興味が湧きました」としていた。
【沼朝平成27年7月12日(日)号】