2011年4月28日木曜日

大和政権の中心施設か

奈良・纒向遣跡
 大和政権の中心施設か
 「女王卑弥呼の宮殿」そば




 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遣跡で27日までに、「女王卑弥呼(ひみこ)の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)のそばから別の大型建物跡の一部が見つかった。
 桜井市教育委員会によると、詳しい年代は特定できなかったが、現場からは3世紀後半から4世紀にかけての土器が多数見つかった。
 日本書紀には4世紀の大王(天皇)との説がある垂仁、景行が纒向に宮殿を置いたと記されている。市教委は「大和政権の中心施設だった可能性もあり、年代特定へ向けた調査を続ける」としている。
 見つかったのは、南北に並ぶ柱列で、東西1・2㍍、南北60㌢の柱穴3個。柱穴の間隔は4・5㍍と広く、間には床を支えるための束柱跡も2個確認された。
 柱穴の間隔や、束柱を持つ構造が2009年に約5㍍西で見つかり、卑弥呼の宮殿ともされる大型建物跡と似ており、同規模の建物だった可能性が高い。
 発掘はことし2~3月に行われ、現場は埋め戻されたため現地説明会はない。現場写真や出土土器は桜井市立埋蔵文化財センターで10月2日まで展示される。
 【重要な土地だった】
  兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)の話年代が特定されていないが、古く捉えれば4世紀だ。そうなると、垂仁、景行両天皇の宮殿という可能性もあるが、まだ判断材料に乏しい。ただ、纒向に3世紀から継続して大型建物が造られ、大和政権にとって重要な土地であったということははっきりした。今後も調査を続け、建物の性格を明らかにしてほしい。
(静新平成23年4月28日朝刊)

2011年4月8日金曜日

列島立て直しの視点に 山折哲雄

 列島立て直しの視点に 山折哲雄
 受容的風土への考察
 ふたたび、「日本列島」が怒り狂った。震源地はたしかに「東北」であるが、惨事のつめ痕は物心両面において日本列島の全体に及びつつある。わが国の3・11は、忘れがたい日付として歴史に刻まれることになるだろう。
 私がいま思いおこしているのが寺田寅彦と和辻哲郎の仕事である。なぜかといえば、2人は日本の独自の風土を、数千年という長い単位で考えていたからである。西欧と比較して日本の自然の特質を明らかにしようとした彼らの自然観は、その後の日本人に大きな影響を与えたと思われる。
 ▼天然の無常
 ところが、自然の猛威にたいする2人の考えには大きな相違がみとめられる。寺田寅彦は、1935(昭和10)年前後に「天災と国防」と「日本人の自然観」というエッセーを書いて、つぎのようなことをいっている。第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈の度を増す。第二、日本は西欧にくらべて地震、津波、台風による脅威の規模がはるかに大きい。第三、そのような経験のなかから、科学は自然にたいする反逆を断念し、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。そしてそこにこそ日本人の科学や学問の独自性があったといっている。
 さらに寅彦は、日本人の自然への随順、風土への適応という態度のなかに、仏教の無常観と通ずるものを見いだしていた。地震や風水による災害をくぐりぬけることで「天然の無常」という感覚がつくりあげられたのだとしている。
 このような寅彦の議論をみてから和辻哲郎の「風土」を読むと、どんな光景があらわれてくるだろうか。和辻が西欧の「牧場」的風土にたいして日本の「モンスーン」的風土を対比して、論じたことは知られている。和辻がこの部分を書いたのは寅彦のエッセーの数年前なので、寅彦は和辻の「風土」を読んだうえで論を立てたのかもしれない。ところが意外なことに、和辻は日本の風土的特徴を考察した際、台風的、モンスーン的風土については論じても、地震的性格については一言半句ふれてはいない。これは驚くべきことではないか。なぜなら23(大正12)年に起きたばかりの関東大震災の惨事を記憶していたはずだからである。
 和辻によると、日本の台風的風土の特徴は、第一に熱帯的、寒帯的(大雨と大雪)という二重性格を帯び、第二に季節的、突発的(感情の持久と激変)の二重性に規定されているという。そこから、モンスーン的、台風的風土における日本人の受容的、忍従的な生活態度が生みだされた。和辻のいう「しめやかな激情」「戦闘的な悟淡(てんたん)」といった逆説的な国民的性格を日本人がもつようになったのも、台風的風土の二重性に根本的な原因があるということになる。
 ▼慈悲の道徳
 つぎに私が興味をもつのは、和辻がその感情の二重性格をもとに、仏教における」煩悩即菩提(ぼだい)」(迷いはすなわち悟り)という逆説的な思想が日本人に及ぼした影響について論じている点である。これをさらに発展させて日本の家族の問題にも関係づけている。すなわち男女、夫婦、親子の関係のなかに利己心と犠牲という対立するテーマを見いだし、それを解決する規範として「慈悲の道徳」が形成されたことを指摘しているのである。
 このように、寅彦と和辻の見解の相違は明々白々といわなければならない。日本の風土を考察するにあたって、自然科学者、寺田寅彦は地震的契機を重視することで「無常観」という宗教的な根源感情に関心を寄せた。それにたいして、倫理学者の和辻哲郎は、台風的契機に着目することで「慈悲の道徳」という協同的な市民感覚の重要性に説き及んでいるということである。
 しかしながら、2人の考え方には、きわめて重要な共通の視点が内包されていたことにも注意をむけなければならない。すなわち西欧の科学が自然にたいして攻撃的、征服的であったのにたいして、日本の科学的認識はむしろ受容的、対症療法的であったということだ。深い亀裂が入ったこの日本列島をこれからどのように立て直し、復興していったらいいのか。寅彦と和辻の分析にも目を配りつつ、考えなくてはならない喫緊の課題である。(宗教学者)
(静新平成23年4月8日「現論」)

2011年4月4日月曜日

獅子浜植松家戦国文書

 市文化財に指定の植松家文書
 戦国時代の相関模様浮き彫りに
 市教委は二月、「獅子浜植松家戦国文書」を市指定有形文化財に指定した。
 沼津一帯は、中部地方の静岡県内にありながら、関東一円の電力を供給する東京電力の管内になっていて、計画停電の影響を受けている。その沼津の地が、この地域的ねじれ現象を現代同様に経験した時代が過去にもあった。
 それは戦国時代の後期。駿河国は戦国大名の今川氏や武田氏の支配を受けていたが、現在の沼津市の一部は、例外的に関東の北条氏が支配していた。
 今回、市指定文化財となった古文書三十一通は、この時期の領地支配のあり方を後世に伝える貴重な史料となっている。この古文書は、大きく分けて二種類ある。一つは、今川氏側から出されたもの。もう一つは北条氏側から出されたもの。いずれも静浦の植松家に宛てられた。文書の内容は、植松家の領主権承認や税金免除の許可、戦の際の取り決めなど多岐にわたる。
 植松家は駿河国駿東郡の口野五力村の領主だった。五力村とは、江浦、多比、獅子浜、尾高、田連。
 三十一通の古文書は、西暦一五五〇年から一五八一年までの間に出されている。このうち、一五五〇年から六六年までの五通は今川氏側の武将、葛山氏元から出されたもの。
 葛山氏元は、現在の裾野市を本拠とする国人領主で、今川氏の被官(部下)という立場にあった。一五六〇年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし今川氏の勢力が衰えると、甲斐国の武田信玄が駿河国に侵攻した(一五六八年)。この時、葛山氏元は今川氏側から武田氏側に鞍替えしている。
 この時、関東の北条氏は今川氏支援を決め、駿河国の東部へ軍を派遣。狩野川、黄瀬川より東の地は北条氏によって占領された。
 これにより、静浦一帯は北条氏の勢力圏内となり、植松家は北条氏の支配を受けることとなった。北条氏は、新たな領土を管理する担当者として北条氏光を任命。これ以後、葛山氏元が差出人となった文書は姿を消し、北条氏光による文書が登場するようになる。北条氏光は、北条氏の三代目当主、北条氏康の八男。相模国の小机城(横浜市港北区)の城主だったが、駿河国東部の支配を任された後は、戸倉城(清水町)の城将(城主代理)も兼任した。北条氏光による文書は一五八一年のものが最後。これは、武田氏が天目山の戦いで滅亡する前の年。武田氏が滅亡すると、駿河国は、西からやってきた徳川氏のものとなった。北条氏の五代目当主、北条氏直は、徳川家康の娘である督姫を妻に迎えて両氏は同盟関係となった。この時、北条氏は駿河国東部の支配地を徳川氏に譲り、北条氏と植松家との関係も終了した。
 駿河国での任務を終えた北条氏光は、その後、足柄城(神奈川県南足柄市)の城将となり、一五九〇年、天下統一を目指す豊臣秀吉が北条氏を攻撃すると、足柄城で、その軍勢を迎え撃ったが、北条氏の降伏直後に死去している。
 市教委の鈴木裕篤参事(取材当時)は、一連の文書の中でも特に興味深いものとして、一五七九年に北条氏光が出した文書を挙げる。
 これは内浦の長浜城に着任した北条氏の水軍大将、梶原景宗に協力するよう植松家と静浦の住民に命じたもの。
 当時、上杉謙信の死去により、越後国では跡継ぎを巡って「御館の乱」と呼ばれる内紛が起きていた。武田氏と北条氏は、この内紛に介入し、それぞれ異なる派閥を応援。このため、両氏の間は緊迫し、越後国から遠く離れた駿河国でも戦いが始まろうとしていた。
 この頃、武田氏は現在の沼津市街に三枚橋城を築いていた。この城は、狩野川を経由して軍船が入れるようになっており、海軍基地のような役割を果たしていた。これに対抗するために北条氏が築いたのが長浜城で、この城も軍船の拠点となる城。梶原景宗は増援として北条の水軍を率いて長浜城に入り、両軍は駿河湾を挟んでにらみ合っていた。一五七九年の文書は、この緊張関係を示す史料となっている。
 また、一連の文書の中には武田氏と北条氏が一時的に和解した時期に出された船手形が含まれている。これは、武田側の船の通行許可証で、この文書に押された印料と、武田船が持ってきた文書の印判を照合して船の身元を確認し、通行を認める仕組みになっている。
 このほか、一五六三年に葛山氏元が出した文書には、イルカ漁をする際にイルカを取り逃がさないよう、漁民が協力して内浦に追い込んで漁をするよう命じる記述がある。これは、周辺一帯で行われたイルカ漁に関する最古の文書だという。
 植松家戦国文書について鈴木参事は「駿河と伊豆の境の歴史を知るための重要な史料。こうした史料がまとまった形で個人宅に残っていたのは、本当に貴重。また、北条氏光のことを知るうえでも重要な史料となる」と話し、「植松家には文化財指定された文書以外にも、植松家の特権を幕府の代官が認めた江戸時代の手形も伝わっている。この特権は、戦国時代に与えられたものが江戸時代になっても続いていたと見られるが、周辺の他の家にはこうした特権が認められ続けた形跡はない。植松家と徳川家康との間に、何か特別な出来事やエピソードがあり、そのお陰で特権が認められ続けたのでは」と歴史への想像力をかき立てるような話も語った。
(沼朝平成23年4月3日号)