2014年7月19日土曜日

沼津史談会「沼津ふるさとづくり塾」沼津藩と韮山代官:講師橋本敬之理事長



当日画像資料集

参考資料:伊豆の国市「韮山代官江川家関係資料」資料編より
 家康の関東入封後、韮山城には家康の異母弟と伝えられる内藤信成(ないとうのぶなり)が入封し、現市域を中心として1万石を領した。韮山城の城郭としての利用の最終段階にあたり、遺構の現況はこの時期の整備状態を引き継いでいる。これに併行して、江川家は慶長(けいちょう)元年(1596)に韮山城跡区域を中心とする5千石を管轄する代官となった。
 内藤信成は関ヶ原の合戦の翌年慶長 6 年(1601)に駿府城(すんぷじょう)に移封され、伊豆国はいったん幕府の直轄とされた。寛永(かんえい) 18 年(1641)、伊豆の直轄領の支配は三島代官所に集約されたが、5千石を管轄する江川氏の代官支配は独立して維持された。このことは、江川家から将軍家へ献上する「江川酒」の製造と深い関係があると推察されている。
 幕府の財政困難に端を発する享保(きょうほう)改革の影響で、世襲代官としての江川氏の支配は享保 8 年(1723)にいったん中断した。しかしながら、韮山屋敷には江川氏の手代が駐在し、三島代官所の分庁舎として機能した。宝暦(ほうれき) 8 年(1758)には三島代官が廃止され、翌年から江川英征(ひでまさ)が韮山代官として伊豆・相模・甲斐 5 万石の天領支配にあたることとなった。今度は、三島代官所が韮山代官所の分庁舎となった。
 現市域には旗本知行地の他、宝永(ほうえい) 4 年(1707)の富士大噴火によって埋没した所領の替え地として給与された小田原藩大久保氏の領地、その支藩である荻野山中藩(おぎのやまなかはん)の支配地、安永(あんえい) 6 年(1777)に水野氏が入封した沼津藩の支配地、高崎藩の支配地があったこともあり、しばしば異動があった。伊豆長岡区域に設けられた荻野山中藩の支庁舎「古奈陣屋(こなじんや)」は幕末まで機能した。同一の村に複数の領主がいる相給も多く、自治体としての村が行政上で重要な役割を果たした。これらの事情は、近代における街の成り立ちにも影響を与えた。

 三島代官廃止の理由は、代官本人が江戸に常駐していたため現地の取り締まりが不充分であるとされたことが原因である。宝暦年間以降(1751 年~)の江川家の代官支配は行政官僚の性格が強く、近世前期の5千石の支配とは異なる。江川家に伝わる資料の多くは、宝暦年間以降のものである。在地と結びつきの強い江川氏が代官となったことは、伊豆地域の住民たちからも歓迎された。とはいえ、近世後期、領主財政の困難は江川家の場合も例外ではなく、江川英毅(ひでたけ)・英龍(ひでたつ)(坦たんなん庵)父子は沼津・小田原・荻野山中藩と協力して立て直しに努めた。英龍は小田原藩の財政立て直しに貢献した二宮尊徳(にのみやそんとく)の協力も仰ぎ、その助言を得た。

2014年7月16日水曜日

史談会が第2回市史講座

 史談会が第2回市史講座
国立歴博の荒川章二教授が解説
旧金岡村の一集落全面移転や沼津と4村合併
沼津史談会(菅沼基臣会長)は先月、「沼津ふるさとづくり塾」の第2回市史講座を市立図書館視聴覚ホールで開催。約八十人が聴講した。
国立歴史民俗博物館の荒川章二教授が「戦時下の沼津ー海軍工廠・海軍技研・特攻基地化ー」と題して話した。
荒川教授は市内出身。静岡大教授を経て現職。『沼津市史』近代編の執筆者も務めた。
戦時中、沼津には陸海軍直営の兵器工場が相次いで設置された。昭和十八年には沼津海軍工廠、二十年には名古屋陸軍造兵廠駿河製造所が設けられた。
このうち、海軍工廠では無線機やレーダーが製造された。計画では三万人近くの労働者が関わる生産施設となる予定だったが、終戦時の労働者規模は約一万人だった。
工廠建設に当たって十七年に用地の確保が始まった。明治憲法でも土地などの私有財産は保護されていたが、強引な土地収用が行われた。
住民に対しては、この年の五月二日に海軍当局から金岡村に土地買収の通知があり、その一週間後の九日に住民説明会が開かれ、その場で土地売買協定が結ばれた。
その一方で、土地代金の支払いは遅れ、八割は公債による支払いとなった。収用された土地は農地が多かったが、金岡村旧沢田部落では宅地すべてが収用対象となり、地区住民全員が移転を余儀なくされた。海軍は移転先住居の資材を提供することを約束したが、それも遅れたという。
荒川教授は、海軍工廠の設立が周辺地域に与えた影響についても解説。
それによると、資材や製品の輸送のために工廠と沼津駅を結ぶ道路整備が行われ、外部から沼津に移ってきた労働者のための住居確保や、子弟の通う学校の整備が進められた。
海軍工廠の敷地は、当時の沼津市、金岡村、片浜村にまたがり、これらの地域や隣接する大岡村、静浦村では多くの住民が海軍工廠の労働者となった。
大岡、金岡、片浜、静浦の四村は昭和十九年に沼津市に吸収されたが、工廠の存在が、この大合併に大きな影響を与えたという。
なお、史談会では、第2回地域講座を十九日午後一時半から市立図書館四階で開く。講師はNPO法人伊豆学研究会の橋本敬之代表「韮山代直と沼津藩」と題して話す。
資料代五百円が必要
申し込みは、同会の匂坂信吾(さぎさか・しんご)副会長(電話〇九○ー七六八六ー八六一二)。
(沼朝平成26年7月16日号)

2014年7月5日土曜日

誕生秘話から最新新幹線の軌跡を振り返る

 誕生秘話から最新新幹線の軌跡を振り返る
 50周年パーフェクトヒストリー


 しかしこの予算案は、議会の過半数を占めていた政友会から反対されてしまいました。政友会は改軌による既存路線の高速化、輸送力強化より、まず全国に鉄道網を敷設することが先と考えていたのです。
 後藤は改軌を実現すべく引き続き活動しますが、1919(大正8)年に原敬率いる政友会とその内閣が出した結論は「改軌不要」。標準軌への改軌の動きは、道が閉ざされてしまいました。
 昭和になり、日本の鉄道高速化計画は新たな動きを見せます。東海道・山陽本線の輸送力が日本の大陸進出などに伴い限界へ迫っていたため、それとは別に、東京~下関間へ高速運転と大量輸送が可能な標準軌の新線を建設する案が登場したのです。
 「弾丸列車計画」と呼ばれたこの案は最高速度200km/hで、東京~大阪間を約4時間、東京~下関間を約9時間で結ぶことを想定。また将来的に海底トンネルを経て東京と大陸を結ぶ輸送ルートを確立するという、壮大な構想を持っていました。しかしこの計画も1941(昭和16)年に着工されたものの、戦局悪化に伴い工事が中止されてしまいます。

 古くから芽吹いていた高速鉄道計画
 1872(明治5)年に誕生した日本の鉄道。その高速化について、早くも明治時代から動きがありました。軌間1,067mmの「狭軌」で建設されていた線路を、高速走行に向き輸送力も大きい軌間1.435mmの「標準軌」に広げよう、というものです(「軌間」:2本のレールの間隔のこと)
 この「改軌案」は1887(明治20)年に軍部から提起され、政界を巻き込んだ大論争に発展。紆余曲折を経たのち、内閣鉄道院初代総裁の後藤新平が、1911(明治44)年度の政府予算案へその費用を盛り込むことに成功します。

 「鉄道斜陽論」のなかで
 昭和30年代初頭、戦後復興に伴い増大する東海道本線の需要に対応するため、高速運転と大量輸送が可能な標準軌の線路を新たに建設する案が再浮上します。
 しかし当時、200km/h以上で営業運転を行う高速鉄道は世界に例がなく、実現が危惧されました。加えて航空機や高速道路の台頭が予感されていた当時、鉄道はもはや時代遅れであるという「鉄道斜陽論」も存在し、大量の予算が必要なその計画について疑問も少なくありませんでした。
 こうした状況のなか、重大な転機になったのが1957(昭和32)5月に国鉄の技術研究所が開いた講演会「超特急列車、東京~大阪間3時間への可能性」です。250km/h運転の可能性がデータの裏付けと共に紹介され、鉄道にはまだ可能性があるのではと、社会から大きな注目を集めるようになったのです。
 そしていよいよ1959(昭和34)420日、熱海駅付近で標準軌を用いた高速鉄道東海道新幹線の起工式が行われます。
 このとき大役を果たしたことから、「新幹線生みの親」と呼ばれる人物がいます。第四代国鉄総裁の十河信二です。「超特急列車」講演のあと、機が熟したと新幹線建設に向けて国鉄内部の意見をまとめ、政治へ働きかけ、その建設を実現させました。
 十河は新幹線建設が決定した際、ある人物の墓前へ報告に向かっています。明治・大正期に標準軌への改軌を唱えた後藤新平の墓前です。1884(明治17)年生まれの十河は、鉄道院の官僚時代に後藤の強い影響を受けていました。師の後藤が届かなかった標準軌による鉄道高速化の夢を、十河は叶えたのです。

 「モデル線」を駆ける試作車両
 世界でも前例のない高速鉄道を実現させるためには、十分なテストが必要でした。そこで国鉄は1962(昭和37)年、実際と同条件で走行試験が可能な「モデル線」を神奈川県綾瀬市~小田原市に建設。ここでの実証試験の結果を基に新幹線の開発を続けます。このモデル線は現在、東海道新幹線の本線として使用されています。
 モデル線で走行試験を行うにあたり、2両編成の「A編成」、4両編成の「B編成」という2種類の新幹線用の試作電車が製造されました。この試作車両によるテストの結果を受け誕生するのが、新幹線初の営業用車両である0系です。ちなみに試作車両を使ったテストにより、列車が高速でトンネルに入ると気圧変動で乗客へ不快感を与えることが分かったため、0系新幹線車両には気密構造が採用されています。
 開業が迫ると愛称の公募が行われました。「夢の超特急」に対し世間の注目は非常に高く、予想の約30万通を大きく上回る約56万通もの応募ハガキが届きます。
 結果は多い順に「ひかり」「はやぶさ」「いなずま」「はやて」「富士」「流星」「あかつき」「日本」「こだま」「平和」。ここからまず「ひかり」が選ばれ、光速に対する音速という視点などから「こだま」が合わせて選ばれました。
 そして東京オリンピック開催を9日後に控えた1964(昭和39)101日、東海道新幹線がついに開業しました。着工からわずか5年半で開業できた理由のひとつに、弾丸列車計画が挙げられます。そのとき確保されていた用地を新幹線に流用できたのです。

 意外と気づかない? 東京駅の「新幹線記念碑」。
 歴史的な事業や出来事の度に建立される記念碑。

200km/h以上で営業運転を行う世界初(1964年当時)の高速鉄道だった東海道新幹線にもやはり存在します。東京駅の東海道新幹線1819番ホーム真下にある壁面のプレートが「新幹線記念碑」です。ここには次のように記されています。「東海道新幹線この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」。この事業が成ったのは沿線の方々はもちろん、国民の皆様から多大なご支援を頂戴した賜物という記録が永遠に刻まれているのです。