2014年6月27日金曜日

空襲の記憶を後世に 大川さん寄贈 説明板設置へ

 狩野川の御成橋に残る痕跡
 大川さん寄贈 説明板設置へ



 沼津市在住の元食品会社会長の大川久さん(77)26日、同市中心部を流れる狩野川の御成橋に今も残る第2次世界大戦の空襲痕を後世に伝える説明板を市教委に寄贈した。市教委は7月上旬に説明板を御成橋に設置する予定。
 御成橋の空襲痕は、1945411日、現在の通横町周辺が米軍に爆撃された際に橋上の柱に爆弾の破片が当たってできたとされる。説明板はステンレス製で縦50㌢、幅30㌢。御成橋の歴史を研究している同市の郷土史家仙石規さん(57)の「戦争の記憶を風化させてはいけない」との提案を受け、大川さんが作製した。
 大戦当時、軍需工場が多かった沼津市は、451月から8月にかけて9回ほど空襲を受けた。特に717日の空襲は9千発以上の焼夷(しょうい)弾が投下され、焼失家屋9523戸、死者274人の犠牲が出た。
 当時8歳だった大川さんも7月の空襲で自宅を失った。市役所で工藤達朗教育長に説明板を贈呈した大川さんは「街が真っ赤で、夜なのに昼間のようだった」と振り返り、「学校でも戦争の記憶を語り継いでほしい」と述べた。同席した仙石さんは「御成橋の空襲痕を見て、戦争の恐ろしさや平和のありがたさをあらためて感じてもらえたら」と話した。

(静新平成26年6月27日朝刊)

2014年6月9日月曜日

大久保忠佐と天野康景:沼津ふるさとづくり塾の第2回企画

大久保忠左と天野康景
 史談会市史講座で人となり解説

 沼津史談会(菅沼基臣会長)は五月十七日、沼津ふるさとづくり塾の第2回企画として、第1回市史講座を市立図書館視聴覚ホールで開講。約九十人が聴講した。

 合戦で武勇を誇った忠佐
 家臣を守り逐電した康景
 元沼津城北高教諭の久保田富さんが講師を務め、「大久保忠佐と天野康景」と題して話した。久保田さんは、『沼津市史』編さんにおいて専門委員を務めたほか、一九六一(昭和三十六)年刊の『沼津市誌』編さんにも携わっている。
 大久保忠佐 大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)は徳川家康の家臣。一六〇一(慶長六)年に二万石の大名として、現在の沼津市大手町にあった三枚橋城の城主となった。一六一三(同一八)年に死去し、後継者がなかったため、この時の沼津藩は断絶となった。
 はじめに久保田さんは、忠佐が属した大久保氏について解説。鎌倉時代以来の名族であることや、発祥の地は北関東で南北朝時代に三河国(愛知県東部)に移ったことなどを話した。大久保氏の一族は「大久保党」と呼ばれ、その団結は強く、多くの合戦で活躍した。
 忠佐は大久保党の中でも特に活躍した武将として知られ、長篠の合戦では、その奮戦ぶりが織田信長に注目された。忠佐はひげを伸ばしていたため、信長は家康に会うたびに「きょうは長篠の『ひげ』も来ているのか」と家康に尋ねるほどだったという。
 続いて久保田さんは大名時代の忠佐について触れ、沼津藩主としての忠佐の功績として検地実施と牧堰(まきぜき)開発の二つを挙げた。
 牧堰は、黄瀬川から取水するために大岡北小林付近に設置されたダム状の施設で、取水された水は大岡一帯の農地に供給された。
 大岡は元来、水田に適さず、古代には牧場が置かれるような土地であったが、忠佐によって水田地帯となった。
 久保田さんは牧堰について「忠佐が後世に残した最大の遺産」と表現した。
 天野康景 天野氏もまた鎌倉時代以来の武家で、発祥の地は現在の伊豆の国市天野だという。
 康景(やすかげ)は幼少期の家康に小姓として仕えた後、行政官として活躍した。
 家康出生の地である三河国の奉行に就任し、同僚の本多重次、高力清長と合わせて「三河三奉行」と呼ばれた。
 この三人は、それぞれ違った個性の持ち主としても知られ、当時の人々は三人を評して「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」と言ったという。高力清長は優しい男、本多重次(通称「作左衛門」)は厳しい男であるのに対し、康景(通称「三郎兵衛」)は公平甲立な男、という意味だという。
 康景は、大久保忠佐が大名になったのと同じ一六〇一年に興国寺城(沼津市根古屋)の城主となり、一万石の大名となった。大名としての康景は、大名としての業績よりも逐電(ちくでん=失踪)事件で知られている。
 一六〇七(慶長一二)年、康景は城と領地を捨てて失踪した。この事件は、興国寺藩に隣接する将軍直轄地(天領)の農民との争いに由来するものだという。
 康景が居宅工事のために竹や木を伐採して保管していたところ、富士郡(現富士市)の農民が、これらを盗み始めた。そのため康景が見張りの足軽を配置すると、盗人と見張りの間に小競り合いが起こり、農民側に負傷者が出た。農民は代官を通して康景を訴えたため、訴訟問題となった。
 康景の人柄を知る家康は康景の肩を持ったが、幕府重臣は幕府の権威を守るために康景の足軽を処罰するように主張し、康景に対して足軽の身柄引き渡しを求めた。
 これに対して康景は、足軽を差し出せば自分の家来を見殺しにすることになり、差し出さなければ幕府の面目を潰すことになる、と大いに苦悩した。そして、自分が責任を取ることにして大名を辞めて城を出た。
 晩年を小田原の寺で暮らした康景は、大久保忠佐と同じ一六=二年に死去した。後に新井白石や頼山陽などの学者は、この時の康景の行動について「武士の鑑(かがみ)」と誉め称えたという。
 沼津史談会による沼津ふるさとづくり塾の第3回は今月二十一日に同会場で開かれる。午後一時半から。国立歴史民俗博物館の荒川章二教授が「戦時下の沼津-海軍工廠と海軍技研などー」と題して話す。資料代五百円。
 申し込みは、同会の匂坂信吾(さぎさか.しんご)副会長へ(電話〇九〇ー七六八一パー八六一二)

(沼朝平成2661日号)

2014年6月5日木曜日

平成26年4月20日第1回「沼津ふるさとづくり塾」長篠の合戦と大久保兄弟の活躍:沼朝記事

沼津史談会総会で記念講演
 平山優氏が長篠の合戦テーマに
 沼津史談会は二十日、総会を開催。記念講演で武田氏研究会副会長の平山優氏(50)が「長篠の合戦と大久保忠世・忠佐兄弟」と題し、映画やドラマなどで有名な長篠の合戦の実像について定説や俗説への検証を交えながら話した。「沼津ふるさとづくり塾」の第1回地域講座を兼ねたもので、約百八十人が聴講した。
 鉄砲の数や戦法を検証
 長篠の合戦の定説と異説
 平山氏は、山梨県教委に所属し、同県史編さんに携わるなどした後、現在は県立高教諭を務めている。戦国時代の研究が専門で、伝説の武将「山本勘助」の実証に関する研究で知られる。一昨年と昨年、沼津市教委主催の講演会で講師を務め、「三枚橋城」「山本勘助と沼津」のテーマで話している。
 長篠の合戦については、『敗者の日本史9長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館刊)という近著がある。
 長篠の「定脱」
平山氏ははじめに、長篠の合戦の概要について話した。この戦いは、天正三年(一五七五)に三河国(愛知県東部)長篠の有海原(あるみはら)で行われた戦いで、武田勝頼(信玄の息子)率いる一万五千人と、織田信長と徳川家康の連合軍三万人による一大決戦。有海原の地は現在、設楽ヶ原(したらがはら)と呼ばれている。
 この戦いは、織田信長が大量の鉄砲を使って武田軍の騎馬隊を打ち破ったことで知られ、高高の日本史教科書にも「織田徳川軍は三千挺の鉄砲を備えた」「馬防柵を立て、その内側に三列の鉄砲隊を並べた」などと織田軍の戦いぶりが具体的に記述されている。そして、新兵器を活用し新戦術を編み出した「天才」の信長が旧態依然の武田軍を打ち破った画期的な戦い、というイメージで一般には受け止められている。
 また、戦国大名武田氏の歴史を記した書物『甲陽軍鑑』には、戦いの直前、信玄の時代から武田家に仕えるベテランの重臣達が慎重論を述べて決戦を避けるよう提案したのに対し、勝頼は側近達の積極論に流されて無謀な戦いを挑んだ、と描かれており、こうした記述から勝頼は「愚か」な大将だというイメージが生まれた。
 大久保忠佐
 講演の題名にもある大久保忠佐(おおくぼ・ただすけ)は、徳川家康の家臣で、三枚橋城の城主も務めた沼津ゆかりの戦国武将。「一心太助」などの時代劇で有名な大久保彦左衛門(忠教)の兄に当たる。
 長篠での忠佐は、兄の忠世と共に徳川軍先陣の指揮官を務めて活躍。徳川軍の兵士は馬に乗って戦うことを禁じられた中で、忠佐は馬に乗ることを許されたため、戦場では特に目立ち、織田信長もその活躍を目撃して、後に忠佐達を大いに誉めたという。
 三千挺論争
 長篠の合戦のあらましを紹介した平山氏は、続いて、この戦いを巡る論争について述べた。
 「鉄砲三千挺」「三列の鉄砲隊による交代連続射撃」などの定説は、旧陸軍参謀本部が明治時代に編さんした『日本戦史.長篠役』という書物から普及し、その影響力は戦後になっても続いた。同書は『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』などの軍記物等を元にまとめられたものだという。
 しかし、一九八〇年代以降、これらの定説を疑う説が出されるようになった。信長家臣だった太田牛一が記した『信長公記』は、その内容の正確さが論証されているが、同書には長篠での織田徳川軍の鉄砲の数を「千挺」と記しており、これが三千挺説を否定する大きな根拠となった。
 千挺説を唱える人達は、『甫庵信長記』は『信長公記』の後に密かれた書物であることから、話を面白くするために『信長公記』の記述を元にして数を三倍にする大げさな表現を行った、と主張。
 この千挺説に対して、平山氏は数多く存在する『信長公記』の写本に注目。その中の一つ、加賀前田家に伝わる写本は、太田牛一の初期の原稿に近いものであると見られており、この写本には「三千挺」という記述や、さらに他の写本にはない「鉄砲隊の援護のために弓隊を配置した」という記述もある。こうした証拠を元に、平山氏は初期原稿では「三千挺」で、それが後の編集過程で「千挺」になったと推論し、三千挺説を否定するのは難しい、とした。
 「三段撃ち」の真偽
 また平山氏は、「三列の鉄砲隊による交代連続射撃」という定説も検証。当時の鉄砲は火縄銃と呼ばれるもので、一回発射するたびに弾丸や火薬を入れ直さなくてはならない。そのため、発射準備中に敵に襲われることもあるので、信長は、その欠点を補うために鉄砲隊を三列に並べたとされる。
 この定説では、鉄砲隊が三列に並び、列が入れ替わりながら交代で鉄砲発射と発射準備を繰り返すことで連続射撃を可能にした、とされている。
『甫庵信長記』には三千挺の鉄砲隊が千挺ずつに分かれ、「一段づつ立替り(原文ママ)」射撃を行ったという記述があり、これが根拠になっている。
 こうした定説に対し、平山氏は同書の他の部分に登場する「段」という言葉を検証し、「段」は「列」を意味するのではなく、部隊が配置された陣地を意味することを突き止めた。そこから長篠での織田軍の動きについて平山氏は、鉄砲隊と弓隊で構成される三つの部隊が配置され、それぞれの部隊の中で兵士達が交代で鉄砲や弓を撃っていた、という姿を復元した。
 武田騎馬隊は幻か
 長篠の合戦で、織田の鉄砲隊に対して、もう一方の主役になっているのが、武田騎馬隊。武田軍は強力な騎馬隊を持っていたとされ、黒澤明監督の映画などでも印象的に描かれている。こうした一般的イメージに対し、近年は「騎馬隊は存在しなかった」という説が在野の研究者達から出され、それに対して歴史学者から反論が出なかったため、騎馬隊否定説が一般に広まることとなった。
 この否定説は、騎馬武者イコール身分の高い武士、という「発見」が根拠になっている。戦国時代の軍隊の編成に関する記録を見ると、全軍に占める騎馬武者の数は二割以下と少なく、しかも馬に乗っていた人達は、いずれも身分が高く、部下を指揮する立場の人ばかりだという。
 当時の軍隊は、領地を持った身分の高い武士達が自分の領地の中から部下を集めて大名の下に集合するという形式で兵士を集めていたため、馬に乗る身分の高い武士達をその部下から離して一つの部隊に集めるというのは不可能、という考えが生まれ、馬に乗る武士だけを集めた騎馬隊を作れるわけがない、という論になった。
 平山氏は武田氏に関する史料をさらに深く調査し、騎馬武者イコール身分の高い武士、という「発見」に異論を唱える。平山氏によると、武田軍では身分の高い武士以外にも、様々な人達が馬に乗って戦っていたことが明らかになった。それは身分の低い武士や、税金免除と引き換えに兵士として従軍する農民、アルバイトのように一時的に雇われて軍に加わる傭兵(ようへい)といった人達で、大名は、こうした人達を集めて騎馬隊を編成して戦場に投入していた、と指摘した。

 当初の目論見外れ長篠へ
 勝頼、側近の意見入れ信長に挑む
 長篠の合戦にまつわる定説や様々な異説の紹介と検証を行った平山氏は、続いて合戦そのものの経過について述べた。
 長篠前の状況 
織田信長を攻撃するために東海道を西に進んでいた武田信玄は、その途上、一五七三年に死去した。三方ヶ原の合戦で徳川家康を打ち破るなど有利に戦いを進めていた武田軍は、信玄の死により退却を始め、四方を敵に囲まれ苦戦していた信長は窮地を脱した。
 信玄の跡を継いだ四男勝頼は、織田・徳川との戦いを続け、一五七四年には徳川側の高天神城(掛川市)を包囲。この時、信長は自ら軍勢を率いて救援に向かい、勝頼は信長をおびき出して決戦を挑むために城を包囲したという。
 しかし、信長が到着する前に落城したため、目的を失った信長は退却。勝頼は徳川領への攻撃を続け、この時、家康は所領の三分の一を失った。
 長篠への出陣一五七五年、勝頼は信玄の葬式を行うと、三河国の岡崎城を狙って出陣した。岡崎は家康の出身地であり本拠地でもあったが、奉行が武田と組んで反乱を企んでいた。勝頼は、この反乱を利用して岡崎を占領するつもりだったが、反乱計画が失敗したことから、目標を吉田城に変更した。
 この城は家康の領土の中心にあり、極めて重要な城だったが、家康が自ら吉田城に入って守りを固めたため、この計画も変更を余儀なくされ、勝頼は再び目標を変更して長篠城へ向かった。
 山家三方衆 三河国の内陸山岳地帯は、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれる三家の豪族によって支配されていた。この三家は、長年にわたり織田や今川、武田などの周辺大名と手を組みながら、互いに争っていた。
 長篠城は、そうした争いの場の一つで、武田側の城だったこともあったが、この時は徳川軍の城になっていた。一万五千の軍勢を引き連れた勝頼は、城を見下ろせる山の上に砦を築くなどして城の包囲を始めたが、守備隊は激しく抵抗した。
 鳥居強右衛門尉
 勝頼が三河で戦いを始めた時、信長は近畿で三好氏や本願寺(一向一揆)と戦っていた。しかし、勝頼の動きを知ると、近畿での戦いを切り上げて本拠地の岐阜に戻り、長篠城救援のために出陣。この年の四月二十八日まで京都にいた信長は、三万の軍勢を用意し、五月十八日には長篠近くに到着していた。包囲された長篠城には救援軍の情報は伝わっておらず、城内では降伏を主張する者も出始めていた。
 この時、城に鳥居強有衛門尉(とりい・すねえもんのじょう)という武士がいて、救援要請をするために城を脱出。強右衛門尉は、川を泳ぎ山道を駆け抜けて家康と会うことに成功し、救援軍の到着を知った。これを皆に伝えるために城へ帰ろうとしたが、途中で武田軍に捕まった。強右衛門尉は「援軍は来ないので諦めて降参しろ」と城に向かって叫ぶように強制されたが、逆に「援軍が近くまで来ている」と叫んで守備隊を励ましたため、処刑された。
 勝頼の決断
 長篠城を攻め落とす前に信長の救援軍が到着したため、武田軍は対応を迫られた。『甲陽軍鑑』によると、ベテランの重臣達は、退却するか、防御に適した土地に立てこもって持久戦に持ち込むべきだと主張した。
 それに対し、勝頼の側近達は決戦を主張。勝頼は決戦案を採用し、一部の軍勢で城の包囲を続け、主力部隊で信長に決戦を挑むことにした。なぜ決戦を選んだのかについては、記録が残されていないという。五月二十日に武田軍は信長軍三万が待ち受ける有海原に向かった。
 徳川軍の奇襲
 武田軍が動き始めたころ、信長軍でも動きがあった。長篠城を一刻も早く救出したいと考えた徳川家臣の酒井忠次は、別働隊を率いて城に向かうことを提案し、四千の兵を率いて城に向かった。二十日夜八時ごろに出発し、闇夜の山道を十二時間かけて進み、武田軍に気付かれることなく城に到着。二十一日朝、忠次は城を取り囲む砦を攻め落とし、周辺の武田軍を壊滅させて城を救った。
 武田鉄砲隊
 有海原でにらみ合いをしていた両軍は、二十一日早朝に戦闘を開始。直前の両軍は一五〇~二〇〇㍍の距離に接近していたといい、平山氏は、この時、信長と勝頼は互いを目視できていただろうと推測する。
 当時の合戦は最初に鉄砲や弓による射撃戦があり、その後に槍などの武器を持った兵士による接近戦になったという。
 ここで平山氏は、長篠の武田軍には鉄砲隊指揮官の肩書を持つ武将も参加していることなどを指摘し、武田軍も鉄砲隊を持っていたことを強調。合戦を描いた屏風絵には武田軍の鉄砲が命中して倒れる織田兵の姿が描かれていることを語った。
 しかし、武田軍の鉄砲隊は織田軍よりも数が少ないため、「織田側の圧倒的な銃撃によって間もなく壊滅しただろう」と平山氏は述べた。
 武田の敗北 このころ、酒井忠次の奇襲攻撃成功の知らせが武田軍にも伝わり、背後の味方を失った武田軍は逃げ道を失ったことを知る。射撃戦の後の接近戦では、前に進むしか活路のない武田軍は必死の突撃を行ったが、織田軍が設置した柵に阻まれて苦戦。敗北を悟った勝頼は退却を決断し、武里軍は総崩れとなった。
 織田軍は追撃を始め武田軍は逃げる途中に多くの戦死者を出した。この合戦では武田の重臣が多数死亡したが、戦闘中に戦死したのは土屋昌続忠いう武将だけで、残りの重臣は退却中に戦死しているという。

 長篠の勝敗決め手はどこに
 経済優勢の信長、複雑な主従関係の勝頼

長篠の合戦の経緯を語った平山氏は最後に、この合戦が持つ意味を検証した。
 信長は「天才」か
 定説では、信長が新兵器の鉄砲を活用し新戦術を編み出した画期的な戦い、とされているが、平山氏は信長や織田が独占占的に先進技術や先進思考を持っていたという見方を排する。
 平山氏は武田軍も鉄砲隊を持っていたことなどを挙げ、信長勝剰の理由は信長の先進性でなく、経済力に勝る信長が武田より多くの鉄砲や兵力を揃えた点にあると指摘。質でなく量の差が勝敗を分けた、との考え方を見せた。
勝頼は「愚か」
 信玄が発展させた武田家を滅亡させてしまった勝頼は、長篠での大敗もあり「暗愚」との評価もされるが、平山氏によると勝頼もまた、優れた武将の一人であったという。
 勝頼は信玄よりも領土を広げ、一時は太平洋から日本海に至るまでになった。また、徳川家康との戦いでは常に有利な状況で戦いを進めている。長篠での突撃は無謀であると評されることが多いが、当時の戦術では、鉄砲隊に向かって突撃し、これを打ち破るのは常識的な戦法で、織田軍も一向一揆の鉄砲隊に向かって突撃を行った記録があるという。
 勝頼の敗因
 「では、なぜ勝頼は滅びたか」という問いに対し、平山氏は父信玄との複雑な関係を挙げた。
 四男として生まれた勝頼は、信濃国(長野県)の豪族である諏訪(すわ)家の当主として育てられた。武田家の外に出されたため、他の兄弟は武田家にとって伝統的な「信」の字の付く名を与えられていたのに対し、勝頼は「信」の字を与えられなかった。しかし、異母兄達が死ぬなどしたため、諏方家の養子となっていた勝頼は実家に戻って信玄の後継者となったが、これを快く思わない家臣も多く存在した。
 信玄も勝頼を武田家の本格的な次期当主とは認めず、遺言の中で「勝頼が信玄愛用の兜をかぶるのは許すが、風林火山の旗を使うのは禁止する」「勝頼の息子の信勝が成人したら、すぐに勝頼は隠居しろ」などと書き残していた。こうしたことから、勝頼は武田家を完全にコントロールすることはできなかった。
 勝頼は重臣に対して「あなたを粗略に扱わない」などと誓う手紙を書くなど、重臣の支持を獲得するために苦労したという。こうした状況について平山氏は「勝頼にとっては重臣達も敵だった」と表現する。そして、この勝頼の不安定な地位こそが、長篠で勝頼が信長との決戦を選んだ理由だと平山氏は指摘した。
 信玄は信長や家康との戦いの量中に死亡したため、この両者を倒すことは武田家にとっての悲劇であり隅この悲願を果たさなければ、勝頼は重臣達を納得させることができなかった。長篠の戦場には信長と家康が顔を揃えており、悲願達成の好機であった。
 このため、勝頼は不利な状況下でありながら決戦を選んだのだろう、とした平山氏は、最後に「勝頼敗北の原因を作ったのは信玄ではないか」と述べて講演を終えた。

(沼朝平成26429日号)