2011年12月14日水曜日

芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会

気さくでスイス好んだ芹沢光治良
 作品研究者の鈴木吉維さんが講演
 パリ留学時代を解説
 聴講者が知る逸話紹介も
 市教委は、芹沢光治良生誕一一五周年記念講演会を、このほど市立図書館で開催。芹沢作品研究者で神奈川県立川崎北高校総括教諭の鈴木吉維さんが「芹沢光治良の欧州体験」と題して話した。
 講演に先立ち、沼津芹沢文学愛好会の和田安弘代表があいさつ。「半年間に二回も芹沢文学に関する講演会が開かれ、そこに多くの方が足を運んでいただいている。芹沢文学への市民の関心が高まりつつある証しだと思う。市役所の市長応接室には芹沢作品が揃って置かれている。市長が率先して芹沢文学への関心を広めようとしており、とても心強く感じている」と話した。
 また、芹沢四女の岡玲子さん(東京都在住)が「生前の父が、リンドバーグが大西洋無着陸飛行をしてパリに到着した時のパリ市民の歓喜について私に聞かせてくれたことがありました。リンドバーグの飛行は大昔の出来事だと思っていましたが、芹沢光治良記念館に展示されていた父のパリ時代の手紙を目にした時、当時の父と今とが瞬間的につながったような気がしました。私達姉妹にとっての大切な宝が沼津にある。沼津市民の皆さんに深い感謝と御礼を申し上げます」と語った。
 講演に移ると、鈴木さんは自分が芹沢文学に向き合うようになったきっかけから話し出した。大学二年生の時、ライフワークとなる研究課題を檀一雄と芹沢のどちらにしようか悩んでいたところ、恩師から「ノーベル文学賞は川端か芹沢か、と言われていたこともある。ぜひ芹沢にしなさい」と勧められたのだという。
 そこで鈴木さんは芹沢を選び、研究会に出席することにした。すると、芹沢本人が研究会にやってきた。他の出席者からまばらな拍手があり、続いて芹沢が自作品の主人公などについて気さくに語り出したため、それを見た鈴木さんは「本当にこれが芹沢光治良なのか」と衝撃を受けたという。当時、現役の作家が読者の集まりに気軽に顔を出すのは珍しいことだった。
 それ以来、鈴木さんも研究会に足繁く通うようになる。
 「私は悪い読者」と自らを評する鈴木さん。研究会で芹沢に会うたびに、「なぜこの登場人物を、この場面で死ぬようにしたのか」などと、わざと意地悪な質問を浴びせ続けた。当時、芹沢は八十歳を過ぎていたが、二十歳そこそこの若者の失礼な質問に対し、すべてまじめに答えてくれた。
 鈴木さんは芹沢宅も訪れたが、芹沢はいつもネクタイを締めて身なりを整え、来訪者を待っていたという。
 さらに鈴木さんは、自分と芹沢とのエピソードを紹介した後、芹沢の欧州留学と後の作品の影響について話した。
 大正十四年、官僚だった芹沢は、鉄道会社を経営する裕福な妻の実家の援助も受けて、フランスへと向かう。当時のフランと日本円の為替レートは、円高の状態で、渡仏する日本人が多かった。
 当時、九百人の在仏日本人の八割強がパリにいた。そのため、パリには日本人社会のようなものも形成され、日本人向けの店で味噌やたくあんを買うことができた。そのパリで芹沢は、画家の佐伯祐三や、ファーブル昆虫記の翻訳で知られる椎名其二らと出会う。佐伯との出会いは小説『明日を逐うて』に影響している。
また、妻が病気になった際は、留学中の日本人医学博士の診療を受けている。この博士の詳細については不明だが、鈴木さんは、小説『巴里に死す』の主人公が医学者であることとの関連を指摘する。
 一方で、芹沢は素行に問題のある日本人達も目にしており、それらの人達を「日本人ゴロ」と呼んでいた。
 そして、鈴木さんは、芹沢が長女宛てに書いた手紙の中にある「私は唯物論者になった」という記述に着目。信仰心の篤い家に生まれた芹沢がそのように変わった原因を芹沢の欧州経験の中から探った。
 芹沢の欧州行きは船旅だったが、船がシンガポールに寄港した際、乗客がコインを海に投げ、それを現地人の子どもが潜って拾いにいくという姿を芹沢は見ている。また、結核に冒されスイスで療養した際には、医学の進歩が一握りの富裕層にしか恩恵をもたらさなかったという感慨を抱いている。
 当時、日本国内ではマルクス全集の刊行が始まっており、こうした世相と欧州で見聞きしたことが、芹沢に「唯物論者」と名乗らせたのではないかと、鈴木さんは分析する。
 鈴木さんは欧州体験が芹沢に与えた影響について論じた後、改めて芹沢との交流を回想し、「芹沢は『文豪』と呼ばれることもあるが、とても気さくな人。芹沢先生との出会いは、今の自分を支える宝になっている。私は物事について考えるとき、『芹沢先生なら、どう思うか』と考えることがある」と語って講演を終えた。
 引き続き、質疑応答の時間となり、多くの質問があった。
 川崎市から訪れた男性は、芹沢が自作品の中で、自分の分身である登場人物が官僚に出世した後も故郷で村八分の扱いを受けたように書いていることを挙げ、それは事実を反映しているのか、と質問。
 鈴木さんは「官僚になったことは、地元にとって名誉なことだったが、その地位を捨てて作家になってしまったことに対し、批判的な目を向ける人もいたと思われる」と話し、当時は作家の地位が低かったことを説明した。
 この質問に関しては、市内の男性が発言を求め、芹沢の第二作『我入道』の存在を指摘。この作品の中における当時の我入道地区の描き方が、地元民の反発を招いた、とした。
 また、芹沢の自伝的小説『人間の運命』に自分の祖母と思われる人物が登場しているという女性が発言し、『人間の運命』の中では、祖母は売り飛ばされたことになっているが、現実では祖母は売られていない、というエピソードを紹介するとともに、「祖母は芹沢さんのことを『みっちゃん、みっちゃん』と呼んでいました」と話した(注・
本名では光治良を「みつじろう」と読む)。
 こうした我入道関係者らの指摘について鈴木さんは「フィクションは、あくまでもフィクション。でも、私は自伝的小説の中の主人公は芹沢本人だと思っても良いと思っている。その方が、感情移入できるし、これも一つの読み方だと思っている」とした。
 また、芹沢と面識があるという男性は、芹沢から欧州留学時代の話を直接聞いたことがある、と話し、「先生はスイスのことばかり話していた。スイスの国情について多く触れ、イタリア系やドイツ系、フランス系の住民が一緒に暮らしていることを評価し、『世界中がスイスのようになれば、なんと愉快な世界になるだろうか』と話していた」と回想した。
 これに対して鈴木さんは「小説『ブルジョア』の舞台はスイス。芹沢にとってスイスは理想だった。芹沢はイタリアも訪れたが、当時のイタリアはファシスト国家。芹沢は『ファシストは幼稚』という感想を持っている。そういうイタリアを見てきた芹沢にとって、スイスでの体験は鮮烈だったのだろう」と語った。
 郷土ゆかりの作家だけに、参加者からも貴重な証言が次々に出る中で講演会は終了した。
(沼朝平成23年12月14日号)

2011年11月28日月曜日

東海道本線全線開通までの年譜


開業時の沼津駅



東海道線全線開通までの年譜
明治2年(1869)11月10日の廟議において,その建設が決定。
明治5年(1872)9月12日(新暦10月14目) 新橋・横浜間開通。
明治7年(1874)5月11日大阪・神戸間開通。
明治10年(1877)2月5日大阪・京都間開通。
明治13年(1880)7月京都・大津問開通。
明治16年(1883)7月上野・熊谷問開通。(日本鉄道株式会社により建設される)
明治17年(1884)4月16日大津・長浜間は琵琶湖を経由することとし,長浜・敦賀問開通。
明治18年(1885)10月高崎・横川間開通。
明治19年(1883)8月名古屋(仮)・武豊(知多半島)間開通。(中山道幹線鉄道建設の資材輸送線として)
明治19年(1886)12月1日沼津機関庫が設置され,沼津町の旧沼津城北側に木造機関車庫が建設された。
明治20年(1887)1月大垣・加納(現在の岐阜)間開通。
明治20年(1887)3月沼津資材運搬線(蛇松線)試運転。
明治20年(1887)4月加納・名古屋間開通。
明治20年(1887)7月11日横浜・国府津問開通。
明治21年(1888)9月1日浜松・大府間開通。
明治22年(1889)2月1日国府津・静岡間開通。
明治22年(1889)4月16日静岡・浜松間開通。
明治22年(1889)7月1日新橋・神戸間605.7kmが全通したのである。
明治23年(1890)2月沼津・御殿場間複線工事成る。

2011年11月24日木曜日

懐かし汽車土瓶 大阪で大量発見


「お茶は静岡」「山は富士」
 懐かし汽車土瓶 大阪で大量発見

 明治から昭和にかけ全国の鉄道駅で温かいお茶を入れて販売され、プラスチック製容器の登場で姿を消した小型陶器「汽車土瓶」が、旧国鉄吹田操車場跡地(大阪府吹田市、摂津市)で大量に見つかったことが23日、大阪府文化財センターの調査で分かった。同操車場で大阪駅終点の客車の清掃作業が行われていた昭和初期の1928~33年の製品で、数万点あるとみられる。
 正面にレールの断面をあしらい「お茶」の2文字を囲むデザインを基調に、金のしゃちほこの絵や「お茶は静岡」「山は富士」などと記されているものもあり、少なくとも24種類の図柄や形状を確認した。
(静新平成23年11月24日朝刊)

2011年11月22日火曜日

信長に降伏後埋めた濠?跡を発見


自治都市今井町:信長に降伏後埋めた濠?跡を発見 奈良


織田信長に降伏した後、武装解除のために埋めたとみられる濠跡(調査担当者が指し示している場所)=奈良県橿原市今井町で、高島博之撮影
 奈良県橿原市教委は21日、室町時代から江戸時代にかけ自治都市として繁栄した同市の今井町で、16世紀後半に埋められたとみられる濠(ほり)跡を発見したと発表した。今井町は石山本願寺(大阪市)とともに織田信長に対抗し、周囲に濠や土塁を築いて武装都市化したが、同寺が信長と休戦後、今井町も信長に降伏し、武装解除して埋めた濠の可能性があるという。【高島博之】

 発掘調査は、駐車場の整備に伴い、今井町の西側の約400平方メートルで8月から行われている。発見された濠は同町の西側に南北方向に延びるもので、幅は少なくとも2メートル以上、長さ約10メートル分を確認した。過去の発掘調査で、16世紀後半当時の今井町(東西約450メートル、南北約250メートル)の周囲を2重ないし、3重の濠が巡っていたことが確認されており、今回の濠跡は、最も外側の「外濠」だった可能性が高く、橿原市教委は幅約15メートルの大きなものだったと推定している。
 98~99年の調査では、今井町の南側で見つかった外濠が16世紀後半に埋められたことが、一緒に出土した陶器の年代から分かっており、同市教委は今回発見した濠も同時期に埋められたものとみている。

 今井町は16世紀、一向宗の拠点としての寺内町として発展。石山本願寺が信長と戦った際は、同町は濠や土塁を巡らして武装化を強めていたという。
 しかし、1575(天正3)年、石山本願寺と信長が休戦すると、今井町は信長軍の明智光秀に降伏し、土塁を壊して武器を捨てるなど武装解除に応じたことが、光秀から信長への書状に記されている。同市教委はこの時期に濠が埋められたとみており、調査担当の米田一・同市教委文化財課係長は「今井町が武装化していた寺内町から商業都市へと変化していく様子をうかがわせる発見」と評価する。

毎日新聞 2011年11月22日 10時49分

2011年11月17日木曜日

文学者・芹沢光治良生誕115周年


文学者・芹沢光治良生誕115周年
 欧州体験と影響解説 沼津で講演会

 沼津市出身の文学者芹沢光治良の生誕115周年の記念講演会が13日、同市立図書館で開かれた。芹沢文学を研究する神奈川県の高校教諭鈴木吉維氏が講演し、文学者の出発点となった欧州での体験と、後の作品への影響を解説した。
 農商務省を辞した芹沢は1925年に妻とパリに渡った。長女が生まれ、社交界にも出たが、肺結核でスイスなどに移り28年に帰国した。30年に療養時の日記をもとにした「ブルジョア」で文壇デビューを果たした。
 生前の芹沢から聞き取りを続けていた鈴木氏は「経済学を志望して渡仏した芹沢にとって、欧州滞在は文学の道を逡巡(しゅんじゅん)した時期だった」と位置付けた上で、「研究者として長期滞在したことで、庶民と上流階級の貧富の差や男女平等の意識を感受した。日本と異なる仏文学の論理性にも触れるなど、個々の体験が、作品に色濃く反映されている」と述べ、作家としての原点を強調した。
 約170人の来場者からは、作品についての質問が多数挙がった。
(静新平成23年11月16日朝刊)

2011年10月21日金曜日

沼津城から沼津市大手町

 沼津城から沼津市大手町へ
「大手町120年の歩み:平成23年10月10日発行」
 樋口雄彦(国立歴史民俗博物館教授)
 はじめに
 現在の沼津市大手町の名称は、沼津城の大手門に由来するものである。大手町は沼津市の中心部に位置しており,沼津城が存在した時代から、沼津駅や諸官庁・学校・会社が置かれた近代、そして現代にいたるまでの変遷を記述することは、沼津市そのものの歴史をたどることとほぼ同じことになる。従って、それらの概要については『沼津市誌』『沼津市史』をはじめとする諸書に譲ることとして、この小稿では筆者の思い付くままの視点から、このエリアに関する諸々のテーマを自由に取り上げてみたい。

 沼津城のイメージ
 大手町はまさに、江戸時代後期に5万石の水野家・沼津藩の居城として築かれた沼津城があった場所である。それ以前、戦国時代から江戸初期にかけては、より広い範囲に三枚橋城が所在した。三枚橋城の時代.すなわち武田氏や大久保氏が支配した時代に、果たしてどれほどの城下町が形成されたのか否か、よくわからない。
ところで、良い機会なので、地元沼津で初めて公開する資料として、三重県の亀山市歴史博物館が所蔵する三枚橋城絵図4種を35ページに掲載しておきたい。これらは、亀山藩(藩主石川氏)の藩士天野家に伝来したもので、軍学を学んだ同家の人が描いた、全国の城の縄張り図の中に含まれるものである。4種とも従来から知られている、『駿国雑誌附図第二巻』(阿部正信編、吉見書店、1912年刊)掲載の「沼津古城の図」や間宮喜十郎『沼津史料』所収の図面(『沼津市史別編絵図集』掲載)とほぼ同じ構図であり、特に目新しいものではない。とはいえ、図の細部や書き込まれた文字などにも若干の違いが見られるので、後の参考までに紹介する次第である。
 さて、江戸時代の沼津城の姿は江戸時代の浮世絵に描かれているが、それらには写実性はない。一方、城郭の絵図や御殿の間取図、一部建物の立面図、維新期に撮影された写真などはわずかながらも現存し、当時の実相を垣間見せてくれる。明治以降の移り変わりについては、様々な古写真や各年次に陸地測量部その他によって作成された地図などから、城がなくなり市街地化していくようすを視覚的に把握することができる(たとえば石川治夫「地形図に沼津の歴史を見る」『沼津市史だより』第3号などを参照のこと)。そして、城の痕跡がまったく存在しない、現状へと続いてくるのである。
 嘉永6年(1853)9月20日、江戸から遠州中泉代官に赴任する幕臣林鶴梁は、沼津城下を通過した際の印象を、「沼津城、手薄之様子、武風之衰、可咲也」と記している(保田晴男編『林鶴梁日記』第四巻、2003年、日本評論社)。あまりに粗末な城の構えを武風の衰えぶりを示していると嘲笑したのである。
 元治元年(1864)、幕府の御徒目付をつとめていた父の大坂赴任に同行し、沼津に宿泊した14歳の少年小野正作も、「沼津ハ水野家四万石ノ城下テ小サナ城郭ニ三重櫓力大手門ノ脇ニアリ如何ニモ玩具然トシテ見ヘタ」といった記述を後年の回想録に残している(『ある技術家の回想一明治草創期の日本機械工業界と小野正作一』、2005年、日本経済評論社)。沼津城はオモチャのような小さな城だったというのである。
 江川坦庵門下の砲術家として知られた沼津藩士三浦千尋を父にもち、後にキリスト教の牧師となった三浦徹は、屋敷が沼津城の外堀沿い「片端通」にあったため、巡視の目を盗み、よく飯粒を餌にして堀の鮒を釣ったという、少年時代の思い出を書き残している(「続続恥か記」『明治学院史資料集』第12集、1985年)。沼津城のイメージは、厳めしいというよりも、何となくのんびりとした牧歌的なものだった。

 沼津兵学校があった時代
 維新後、沼津藩・水野家は転出し、駿河国全体が静岡藩・徳川家の領地となった。城郭としては決して堅固で大規模なものではなかった沼津城であるが、静岡藩内では駿府城に次ぐ拠点として位置づけられ、沼津兵学校が設置されることとなった。沼津兵学校そのものについて、ここで繰り返し詳述することはしないが、現沼津市大手町こそが、沼津兵学校の所在地であり、また多くの教授・生徒たちの居住地であったことは再確認しておきたい。
歴史上、この地がもっとも輝いていた時代であったと言ってもよいだろう。元沼津市立駿河図書館長の辻真澄氏は、「沼津の町の、あの小路から、この角から、毎日兵学校や附属
小学校に通う教授達や生徒達が、挨拶をかわしながら通り過ぎていったことでありましょう」、「当代一流の人物や、後になって名を成した一流人が(中略)実に華麗な世界を現出していたことになるわけで、何か不思議な想像の世界に遊ぶ思いがします」と表現しているが(『豆本沼津兵学校』、1985年、駿河豆本の会)、まったく同感である。
 沼津城の建物が沼津兵学校の校舎・施設にあてられたことは言うまでもない。二の丸御殿が教室になった。本丸(現在の中央公園)には生徒のための寄宿寮が建設された。二重櫓は兵器庫として使用された。沼津藩時代の鉄砲稽古所が兵学校の射的場に、郡方御役所・御勘定所が静岡藩沼津郡政役所にといった具合に、ほぼそのままの用途が引き継がれた例もある。兵学校当時の配置図は、資業生だった石橋絢彦によって作図され、雑誌『同方会誌』第38号(大正4年刊)に掲載された。
 兵学校が存在した当時、すでに沼津城には少なからぬ改変が加えられていた。明治2年(1869)9月、静岡藩庁は、静岡城(駿府城)を除く領内の城郭はすべて取り壊すとの方針を示した。すなわち、鯱も下ろし、門扉も取り外し、番所も取り払って通行を自由にし、櫓で打ち鳴らす太鼓も廃止し、以後は「何々城」ではなく「何々御役所」と称することとするとの布達を発したのである(『山中庄治日記』、1974年、沼津市立駿河図書館)。明治3年(1870)頃、移住士族の屋敷番号を示すため木版色刷で発行された「沼津略画図」に、城の位置が「元沼津城」と表記されているのは、そのためであろう。天守や御殿など城の本体をすべて撤去するというわけではないので、解体は部分的なものにとどまったのかもしれないし、実際にどの程度まで実行に移されたのかもわからない。
 明治3年10月、静岡藩軍事掛(兵学校の管理部門)の職員であった高橋晋平・外川作蔵・山崎兼吉・芳村錠太郎・和田半次郎の5名は、城の堀を埋め立てて1町歩余の田として開墾したいとの願書を藩に提出し、許可されている。廃藩後の明治6年には高橋・和田・大野寛一の3名にその土地の払い下げが認可され、彼らは小作人を雇い稲作を行った(大野家文書)。こうして少しずつ城郭の形は変わっていったのである。

 沼津兵学校記念碑と駿東小公園計画
 沼津兵学校記念碑の建立が発案されたのは明治26年(1893)8月のことである。「故沼津兵学校紀念碑建設及駿東小公園経営東照宮社殿修築ノ画策」という表題が付された活版の趣意書が印刷・配布された。「当時二雄視セラレ碩学博識ナル俊秀ヲ輩出」した沼津兵学校の栄光を不朽のものとするため記念碑を建てるとともに、その設置場所として駿東小公園を設定し、さらにその園内には東照宮の社殿を新築・移転するという目論見である。いわば、①記念碑の建立、②公園の設置、③神社の新築という複合計画であり、東京上野の「忍岡ノ大公園」(上野公園)を模したプランであった。駿東郡下の住民の憩いの場所となるばかりか、停車場に近いこともあり、「旅客及浴海者」にも集まってもらえることを想定していた。背景として、東海道線の開通、海水浴客の来遊、沼津御用邸の設置、大山巌・西郷従道らの別荘設置などがあり、沼津の町は益々の発展が期待されていた。発起者は西村鐵五郎、土肥高正、中村六三郎、山形敬雄、間宮信行、小松陳盛、江原素六の7名であり、特別賛成員には36名が名前を連ねた。36名中、20名は東京在住者であり、16名が駿東郡居住者だった。在京20名の内訳は、元沼津兵学校教授が西周・赤松則良・大築尚志・伴鉄太郎・田辺太一・渡部温・乙骨太郎乙・黒田久孝・平岡芋作・永持明徳・中根淑・山本淑儀・山田昌邦、元資業生が島田三郎・田口卯吉・矢吹秀一・成瀬隆蔵・石橋絢彦・真野肇・松山温徳。郡内居住16名の内訳は、旧幕臣が万年千秋、宇野三千三、河目俊宗、平民が和田伝太郎、足助喜兵衛、仁王藤八、市河篤造、荻生居十郎、鈴木安平、長倉誠一郎、長倉隆吉、渡辺平左衛門、渡辺治平、植松与右衛門、江藤舒三郎、川口与五郎。万年は元沼津兵学校教授でもあった。
計画では、東照宮に隣接する沼津兵学校練兵場の跡地約500坪、さらにその南北にある畑地約1,000坪を購入するために約2,000円、記念碑建設には約1,000円、東照宮社殿修築には約500円が見積もられていた。そして、翌27年(1894)6月1日の東照公例祭日に合わせ遷宮・開園・建碑3式を同時に行うつもりだった。
 陸軍砲兵少佐井口省吾には26年11月20日依頼状が届き、特別賛成員になることを了承し、翌年2月19日に寄付金5円を第三十五国立銀行沼津支店に払い込んでいる(樋口「井口省吾日記にみる同郷会とその活動」『静岡県近代史研究』第35号、2010年)。なお、特別賛成員は井口を含め36名、その内訳は元教授が13名、元資業生が7名、元附属小学校生徒が1名(井口)、その他旧幕臣が3名、地元平民が12名だった。一般の賛成員(醸金者)は全125名、うち元教授が7名、元資業生が55名、元附属小学校生徒が10名であった(『沼津市明治史料館通信』第28号掲載の一覧表を補正)。
 しかし、この壮大な計画は実現に至らなかったようである。特別賛成員の顔ぶれに見るごとく、沼津・駿東郡の素封家・地主たちのバックアップもあったようであるが、目標とした金額が集まらなかったのであろう、完成したのは記念碑だけであった。明治29年(1896)12月の決算報告によれば、石碑や鉄柵の建設費や謝礼・通信費などを含め、481円余が支出され、29円余が保存費として残されたことがわかる(石橋絢彦「沼津兵学校沿革(七)」『同方会誌』44)。
 記念碑建立については、当時の新聞記事に以下のように紹介されている(『静岡民友新聞』明治27年8月14日付)。
 ●沼津兵学校紀念碑 沼津旧城内の東照宮を修繕し且つ公園を設け旧兵学校の紀念碑を建設せんとて有志者の奔走中なることは既に屡々報道せしが其計画は追々歩を進め篤志者の献金も巨額に達し紀念碑だけは此程竣工し去る七日盛んなる建設式を行ひしが此の碑の高さは十七尺にして篆額は徳川家達公、撰文は中根淑氏、書は大川通久氏にして中々美事なるものなりと尚ほ進んで宮社の修築、公園の開設に着手せん筈なりといふ石碑には明治27年9月と彫られているが、実際には8月に建ったわけである。なお、撰文を担当した中根淑(香亭)は、漢学者仲間の依田学海(元佐倉藩士)に草稿を添削してもらったらしく、依田の日記には「静岡学館旧址の詩文」を訂正し中根に返却したことが記されている(『学海日録』第九巻、明治27年5月19日条)。

 東照宮
 現在の城岡神社は、文政年間に第2代沼津藩主水野忠成の時、沼津城の守護神として奉斎された稲荷社を起源とする。その社は、江戸時代に描かれた沼津城絵図にも描かれている。ただし、江川文庫所蔵の沼津城絵図(整理番号15-2-2、描かれた時期不明)には、「稲荷」が3箇所(外郭・外郭内小廓・三ノ丸)、「天神」が1箇所(三ノ丸)、「山ノ神」が1箇所(外郭内小廓)に文字が記されており、もともと城内には複数の社が祀られていたことがわかる。
 廃藩後の明治6年(1873)12月、廃城となった沼津城の建物がバラバラにされ、民間に払い下げされた際の入札物件の一つとして、「外郭稲荷社 但石灯籠共」とあるので(『沼津市史史料編近代1』)、静岡藩・沼津兵学校の時代には東照宮ではなく、まだ「稲荷社」だったことがうかがえる。ただし、この時誰かが稲荷社を落札し、持ち去ってしまったというわけではないようだ。神社だけは残ったのである。
 沼津移住の旧幕臣たちがこの稲荷社に徳川家康を合祀し、東照宮としたのは明治7年(1874)のことだったとされる(『大手町百年の歩み』)。駿府の宝台院に秘蔵されていた、二代将軍が「御入眼」した狩野某が描いた徳川家康像を譲り受け御神体としたともいわれる(石橋「沼津兵学校沿革(七)」)。沼津兵学校附属小学校の教授をつとめた永井直方の日記には、「東照宮様臨時御祭礼二付、金弐朱奉納」(明治7年2月17日)、「東照宮様江奉納御幕代割合金壱分三百十七文」(同年4月13日条)といった記載があるが(樋口「沼津兵学校附属小学校教授永井直方の日記」『沼津市博物館紀要』23、1999年)、鎮座当初のことであろうか。同じ日記には、「六月一日二日東照宮御祭礼二付休業」(明治9年)、「寅六月一日東照宮御祭礼二付休業」(明治11年)といった記述もある(「沼津兵学校附属小学校教授永井直方の日記その二」『沼津市博物館紀要』26、2002年)。また、奉納撃剣会などが賑やかに行われたようであり、東照宮の存在が地域へ定着していくようすがうかがえる。それは以下のように新聞に報道されている。少し長いが全文引用しておく。
 ○去る廿八日ハ当地城内町東照宮の臨時祭に付土肥高正三浦元由の二氏が願ひ人にて奉納せし野試合の景況を記さんに試合の場所ハ同町の中学校脇を用もちひ四方は増を結ひ繞らし入口にハ撃剣試合場と大書したる標札を掲げ東西の溜りにハ五色の幕を張り廻し紅白の旗ハ風に飜へりいと勇ましくぞ見へたりける出会人ハ同町撃剣場の取締世話かたを始めとして其他三島駅及び当市中よりも数人の飛入あり其姓名ハ大沢保守、室伏喜三郎、三浦元由、福井駒次郎、松村緑太郎、吉成清吉、中村直吉、中野矢太郎、川口金之助、吉田菊次郎、藤田鐵造、青木升三、本多徳磨、近藤周舊、本多鑑次郎、若山健正、佐藤徳右衛門、鈴木五郎太、南條近信、関口敬恭、秋元頼門、小野一信、八木岡鶴次郎、小浜則隆、黒田直與、建部伴之助、前田信利、周邦有、島田忠義、小松賢一郎、西島直治、三須東一、土肥高正、松村角次郎等にて又警察監獄両署よりハ阪本貞三、北島吉太郎、伊藤正邦、天野美保、飯田清綱、水戸部弥太郎、尾瀬田弥三郎、武井正次、今井重敏、藤岡磯吉、望月長秀、梶田義勝、松崎孝正、栗原宗継、鈴木高明、浅井達也の数氏にて都合五十名なり扠正面の桟敷には江坂警部補窪田郡長も臨場見物せられしかば午後より陸続見物人が出かけ中々の熱閙にて試合の初まるを今や遅しと待うちに三時三十分頃前の数氏は各鬮引にて源平の二組に分れ東西の溜りに控へたりかゝりしほどに打鳴す山家流の陣太鼓は螺貝の音ともろともにトウ~として響きわたり一番二番三番の相図にしたがひ結束おしはやくも打出すかゝり太鼓にいさみにいさんで両陣より操いだしたる壮士等が間隔わずかになりしころ検見人の指揮につれ雙方ともに討出す竹刀と竹刀は一上一下隙を窺ふ虚々実々追つ返しつ入乱れ霎時勝負を争ふうち赤旗方が敗北せしかば白旗かたは一斉に凱歌唱へて引上たり暫らくあつて又第二回の試合を初めしが今度も赤の敗北にて白の勝となり第三回目は引分の勝負なし之にて野試合は畢り夫より一人宛の勝負となり十五回の撃合にて最初十一回は一本勝負のち四回ハ三本勝負なり此うち最も見物なりし立合ハ三浦元由氏と藤田鉄造氏の手合せ及ひ藤田氏と坂本貞三氏の試合にて何れも多年練磨の業術顕れたり又松村緑太郎氏は未だ十三年何ケ月の小童なれど一本勝負の時続けて二人に迄勝を得しはなか~のお手柄なりし当日郡役所警察署よりハ酒井に赤飯を出会人一同へ贈られ一時見物人は頗る雑沓して殆んと立錐の地なかりし程にて之れが為め飛んた災難を請けしハ中学校寄宿所の賄方が丹精して作り置たし畑葱一枚を滅茶~に踏荒されしは実に気の毒千万又夜に入て東照宮の社頭には例の中村小蝶の手踊り奉納あり諸商人も出余ほど賑かでありました(『沼津新聞』明治15年10月1日付) なお、明治4年(1871)の太政官布告によって制定された社格制度では、郷社が氏子調の単位となったが、静岡県第一大区七小区(沼津城内町・本町・上土町・三枚橋町)の郷社は日枝神社だった。そのため、明治9年(1876)6月調査の「日枝神社氏子帳」(日枝神社所蔵)には、300戸以上の士族の氏名・番地・家族人数が記載されている。旧幕臣にとってみれば、東照宮こそが最も親近感を抱ける神社だったはずであるが、沼津東照宮はまだ誕生したばかりの小さな社にすぎなかったのである。
 ところで、江戸時代からあった久能山東照宮は別格として、静岡県内には維新後になってから新設された東照宮が沼津以外の土地にもある。各地に移住した旧幕臣たちが、幕府の開祖たる「東照公」(家康)を崇拝すべく勧請したのである。たとえば、遠州牧之原では、土着した旧幕臣らが明治10年(1877)9月に東照宮を建立し、維新後江戸城内の紅葉山から久能山に遷座されていた6尺の徳川家康立像を納めている(大草省吾・塚本昭一『牧之原と最後の幕臣大草高重』、2000年)。沼津の近くでは駿東郡元長窪村(現長泉町)の事例があげられる。同村に移住した旧幕臣は、当初は陸軍生育方、後に沼津勤番組の一部に編成された。町場から離れた山深い土地に長屋を建設し住まざるを得ない立場となった100世帯ほどの集団は、明治3年(1870)4月17日に東照宮「遥拝所」を設け、結集の核とした。沼津の東照宮が城岡神社に改称したのは明治36年(1903)のことだった。「お稲荷さん」(稲荷社)と「権現さん」(東照宮)という二つの呼び名があるのは不都合とされ、新名称に統一しようということだったらしい。

 歴代の住民たち
 戦国時代には甲斐の武田勝頼がこの地に三枚橋城を築いた。その後、松平康親、中村一栄らが城主となった。当然、城将・城主とその家来たちがここに住んでいたことになる。江戸初期には大久保忠佐が2万石の藩主として入ったので、やはりその家臣たちが居住したはずである。その後、三枚橋城は廃城となり、城跡は田畑と化した。一方、隣接する沼津宿は東海道の宿場町として発展し、近世を通じて商人・職人たちが住む市街地を形成した。安永6年(1777)、水野忠友がこの地に城地を与えられ、沼津藩が成立した。かつての三枚橋城趾の上に新たな沼津城が築かれ、その周りには武士たちが住む屋敷や長屋が建設された。沼津藩が上総国菊間へ転出する直前の慶応4年(1868)7月時点、沼津城下には「侍小屋」105軒、「惣長屋」56棟(385戸)があり、男1,181人、女1,188人、計2,369人が居住していたという(『沼津市誌』上巻)。
維新後の徳川家の転入により、沼津城下にあった武家屋敷の住人は、それまでの沼津藩士(水野家家臣)から静岡藩士(旧幕臣)へと入れ替わった。沼津藩時代の沼津城下の住民の氏名は、文久3年(1863)10月に栗原與助有功が作図した「駿河国駿東郡沼津御城地壱分一間積絵図」に記されている。静岡藩時代の住民は、明治6年(1873)頃作図の「沼津城内原図」(沼津市明治史料館所蔵)に記入されている。両者を比較すれば、各家屋の住民の移り変わりを知ることができる。ただし、問の10年間にも居住者に異動があったはずである。具体例を出せば、沼津兵学校頭取西周が住んだ片端十九番小呂は、以前は沼津藩士森源吾が住んでいた家である。しかし、西は明治3年(1870)に上京したため、その後居住者が変わったらしく、明治6年頃の絵図には160番という番号を付された上、区画が二分割され、加藤元吉・千田泰根の名が記されている。
 もちろん膨大な数の移住者によって引き起こされた住宅難はよく知られたところであり、沼津城下の屋敷・長屋に入れた者は幸運であり、多くは町内の商家や郊外の農家・寺社などに間借りをせざるを得なかった。また、沼津城内に住んだ者であっても、「追手内元見張番所」を宿所とした兵学校資業生野沢房迪のごとく(樋口「沼津兵学校関係人物履歴集成その三」『沼津市博物館紀要』30)、本来は住居スペースではない建物に入居した例もあったのである。静岡藩は明治2年10月に布達し、大参事以下の役職者にはその地位に相当する敷地・建坪の役宅をあてがう方針を示した(『久能山叢書第五編』)。沼津兵学校在職者の場合、頭取は敷地300坪・建坪30坪・畳数40畳、一等~二等教授方は250坪・25坪・30畳、三等教授方・同並は200坪・20坪・23畳、教授方手伝は長屋建坪10坪・10畳、などと定められたが(東京大学史料編纂所所蔵「幕臣井上家控十三」)、これはあくまで基準であり、実際に条件を満たした住宅を全員に支給するのは難しかったと思われる。
 明治4年(1871)廃藩置県が断行され、封建的な身分制度も解消されていった。武士だけが集住したエリアだった沼津城下も、やがて少しずつ変貌していく。拠り所としていた藩を失った旧幕臣たちは、郷里である東京をはじめ、職を求めて各地へ散って行った。逆に平民が新住民として参入してくることとなった。
 明治12年(1879)に施行された郡区町村編制法により、行政区画の上で沼津は城内町・本町・上土町・三枚橋町の4町とされた。城内町が、かつての沼津城と武家屋敷地であることは言うまでもない。明治15年(1882)時点で4町の住民は以下のような構成であった(『沼津新聞』明治15年3月13日付)。他の3町とは違い、依然として城内町は「士族の町」であったことがわかる。
 城内町 戸数303戸(うち士族268戸、平民35戸) 人口3,461人 寄留39人
 本町 戸数967戸(うち士族23戸、平民899戸、明家45戸) 人口5,378人 寄留182人
 上土町 戸数270戸 人口1,211人 寄留180人
 三枚橋町 戸数177戸 人口913人
 各町には戸長という首長が置かれ、町会議員が選出されたが、明治15年時点の城内町会議員は、宮内盛重、南條近信、大草善久、永峯就正、木田保次、中村武、西村鉄五郎、松井節義、近藤宗一・、土肥高正、岩佐勝、関口孝恭、松下鵠次郎、小山義範、三浦元由、西岡洗、青山利貞、竹内正斎、松沢知通の19名だった(『沼津新聞』15年12月16日付)。その名前からして全員が士族であったことが明らかである。もちろん戸長の職も、木村亮・柏木義近・飯田弘など、歴代を士族がつとめている。
 明治20年(1887)頃のようすを描いた「沼津北半之図」(原品大野家資料、『絵図が語る沼津の歩み』および『沼津市史別編絵図集』に写真収録)を見ると、沼津城址は一部の堀や土塁が残る一方、埋め立てられ田地に変わった堀もあり、新設された沼津駅からは南へと道路が貫通している。土地の所有者もかなり変わり、旧幕臣以外の地元有力者の名前も見受けられ、また郡役所・高等小学校・測候所・電信局・裁判所・監獄署・キリスト教会などが立ち並んでいた。同図には、渡部温・天野貞省・平岡芋作・榎本長裕・名和謙次・杉田玄端・高松寛剛・吉村幹・横地重直・窪田勝弘ら、沼津兵学校教授・生徒だった者の名前が少なからず残るが、彼らの多くは単に土地を所有しているだけで、実際には居住していなかったものと推測される。
 旧幕臣は少しずつ減っていく傾向にあったが、中には東京で仕事を続けながら本籍は沼津に置き、屋敷を維持したままの者もいた。中央で成功を収めた者が沼津に立派な邸宅を建てる場合もあったようで、沼津兵学校測量方から東京商船学校長となった中村六三郎は、明治20年代に沼津の「城内旧二之丸」に洋館を建設した。その偉容は、銅版画の鳥瞰図として印刷され『日本博覧図』に収録されているほか、写真も残されており(『沼津市明治史料館通信』第19号に掲載)、周辺には旧沼津城の堀跡らしきものも写っており、開発が進みながらもいまだ旧観を残していたことがわかる。
 国会開設の年、明治23年(1890)6月17日時点での衆議院議員選挙人名簿では、沼津町で全59名の選挙人がおり、うち旧幕臣の士族らしき者は西安・樋田豊治・横川景山・中村武・間宮梅翁・万年千秋・小松陳盛・秋鹿見山の8名のみだった(日吉宗雄「選挙制度の充実過程 沼津市域内選挙人名簿の今昔」『沼津史談』第33号)。まだ当時、沼津居住士族はそれほど減ってはいなかったと思われるが、多くの者は資産が乏しく選挙権を持っていなかったのだろう。
 大正4年(1915)9月1日発行の『駿東郡県会議員名簿選挙有権者名簿』(相馬弥六編輯・発行)には、沼津町は本町・上土町・城内・三枚橋町に区分され、そのうち城内には151名の氏名が掲載されている。池谷忠道・飯田耕一郎・西村直温・西安・宇野秀吉・山中為成・松平勝種・小松賢一郎・秋鹿見橘など、まだ移住士族の氏名も見受けられる。ちなみに小松は元沼津兵学校附属小学校教授の生き残りである。しかし、他の多くは旧幕臣ではない新住民ではないかと思われる。仁王藤八・依田治作・間宮徹太郎ら沼津町内の別地域から移り住んだ地元有力者、名取栄一・室賀録郎・佐々木次郎三郎・鈴木幹・芹沢多根ら他県・他村から移り住んだ実業家・医師などである。すでに沼津城内町は「旧幕臣の町」とは言えなくなっていた。大正末から昭和12年(1937)以前に作成されたと思われる『沼津幕臣会規約並会員名簿』(活版)によれば、全会員54名のうち、8名が沼津市城内町字添地町、7名が沼津市城内町字西條町、3名が沼津市追手町となっている。沼津幕臣会は後に沼津葵会と改称したと思われ、昭和14年(1939)開催の沼津兵学校創立七十周年記念会の主催団体のひとつになった。昭和15年(1940)4月の「沼津葵会々員名簿」(謄写版)には、全92名の会員が掲載されており、うち城内添地が8名、城内西条が5名、大手町が3名である。
 沼津市が謄写版で作製した昭和19年(1944)度の「町内会役員名簿」によれば、大手町は町内会長小栗為助以下、副会長(庶務部長・経済部長兼)水口伝之助、健民部長板垣明治、指導訓練外川武重、軍事協力鈴木肇郎、青少年部長鈴木素介、防衛部長鈴木平、納税部長金子賢二、会計部長大村松江、水道婦人部長高村勇となっていた。また町内は一から二十までの組に分かれ、それぞれの組長は板垣明治、大橋規一、関根茂、杉崎九三、海野清、芦川勝郎、鈴木平、真田治男、松岡勇三、深沢房次郎、水口伝之助、佐藤芳太郎、久米義雄、羽野義雄、平井光雄、向後昇太郎、植松信太郎、山崎秀雄、加藤時輔、吉邨勇という顔ぶれだった。たぶん、この中には旧幕臣の子孫はいない。
 そして戦後。住民の異動、町の変貌はさらに激しくなった。そこに住む人も含め、城下町沼津の面影は完全に消えていくことになる。

 おわりに
 一度失われた歴史的遺産を復元することは難しい。沼津城は跡形もなく消滅し、その場所にあった沼津兵学校の記念碑すら本来のものは撤去された。現在立つ沼津兵学校記念碑は1991年建立の2代目であり、初代の石碑は我入道の旧文化財センター敷地内に保管され、人目に触れることもなく横たわったままである。県内を見まわすと、明治初年の廃城により沼津と同じ境遇に陥ったはずの浜松・掛川・横須賀には現在も城跡が少なからず残り、天守閣が復元された場合もあり、城は町のシンボルとなっている。沼津は寂しい限りであるが、今さら市街地を他へ動かし、地中から堀や石垣を掘り返すわけにはいかない。
 町は刻一刻と変化していくものである。変化が乏しかった近世以前と近代とは大きな違いがあった。まして、経済状況などが直撃を与える現代、市街地・商業地の変化には急激なものがある。大火や戦災による被害は外から加えられた物理的な力によってもたらされた変化であったが、本来はそこに住む人間、すなわち内側から生まれる活力が町を変化させていくものである。今後はどのような変貌を遂げるのだろうか。歴史や文化を上手く活かしながらの変化であってほしいと願う。

 樋ロ雄彦(ひぐちたけひご)先生略歴
 1961年熱海市生まれ
 1984年から沼津市明治史料館学芸員
 2001年から国立歴史民俗博物館助教授
 2003年から総合研究大学院大学助教授併任
 2007年大阪大学より博士(文学)の学位を授与
 2011年から国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授
 著書に、『旧幕臣の明治維新沼津兵学校とその群像』(2005年、吉川弘文館)、『沼津兵学校の研究』(2007年、吉川弘文館)、『静岡学問所』(2010年、静岡新聞社)、『海軍諜報員になった旧幕臣一海軍少将安原金次自伝一』(2011年、芙蓉書房出版)など。共編・共著に、『沼津市史』、『韮山町史』、『清水町史』、『金谷町史』など。

2011年10月14日金曜日

沼津城から大手町


 沼津城の歴史など紹介
大手町町内会120年祝う 沼津で講演会


 沼津市大手町町内会の120周年を記念する講演会がこのほど、同市の大手町会館で開かれた。国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦さんが「沼津城から大手町へ」と題して講演した。
 元市明治史料館学芸員の樋口さんは、現在の大手町に江戸時代後期に築かれた沼津城や、明治初期に高い教育水準で注目された沼津兵学校を中心に、街の歴史や移り変わりについて紹介した。
「大手町の核は沼津城や兵学校。痕跡を生かして今後のまちづくりに生かしてほしい」と呼び掛けた。東海道沼津駅南口に位置する同町内会は1891年(明治24年)に創立し、市の商業の中心地として発展してきた。ユ20周年実行委員会の小栗敞委員長は「沼津城下町だった歴史を掘り起こし、大手町のPRにつなげたい」と話した。
(静新平成23年10月14日朝刊)

120年の歴史刻んだ大手町
幕臣移住からの足跡をたどる
 式典開き記念講演会
国立歴史民俗博物館 樋口雄彦教授講師に
 
 大手町町内会(早川重實会長)は町制百二十周年を迎え、十日、記念式典を大手町会館で開催。その一環として、国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授を講師に招いて記念講演会を開いた。樋口教授は、明治史料館の元主任学芸員で、沼津兵学校の研究者として多くの業績がある。
 「沼津城から沼津市大手町へ」と題して講演した樋口教授は、はじめに沼津城について解説した。
 沼津城 戦国の世からはるかに遠ざかった安永年間(一八世紀末)に築城。そのため、防備の厳重な実戦向きの城ではなかったという。樋口教授は、城について書き残された文献はとても少ない、と指摘しながら、同時代人の印象として三例を挙げた。うち二つは東海道を旅して沼津を通り掛った武士の日記や回想で、幕府代官職の林鶴梁は「守りが手薄で武風が衰えている」という内容を書き残している。幕臣子弟だった小野正作は城を見て「大手門の脇に、玩具のような三階建ての櫓があった」といった印象を抱いたという。
 また堀端に屋敷があった沼津藩士の子として生まれた三浦徹は、幼少時の思い出として、門番の目を盗んで堀で釣りをしたことを挙げている。
 樋口教授は「沼津城は小さな、のどかな城だった」としたうえで、「沼津城が最も輝いていたのは明治の初めの沼津兵学校時代」だとした。
 明治維新後、徳川将軍家は静岡藩主として駿河国に移ったが、領内には、移転前に存在した各藩の城がいくつも残っていた。静岡藩は駿府城以外の城は廃止し、「○○城」といった名称を「○○役所」と改名させた。
 沼津城も例外ではなく、「城」ではなくなり、それまでの城の建物は手を加えられて兵学校の校舎や兵器庫となり、本丸には生徒の寄宿舎が建設された。学校には、当代一流の教員が集まり、生徒の中からは多くの人材が輩出した。
 その一方で、城内にあった番所や木戸などは撤廃され、堀も埋め立てられて水田となり、城としての姿は失われた。
 東照宮と城岡神社 廃止された沼津城と現在の大手町とをつなぐのが、城岡神社の存在。
 同神社の起源は、沼津城内にあった稲荷社で、二代藩主水野忠成によって城の守護神として建立された。しかし明治七(一八七四)年、旧幕臣達が稲荷社に徳川家康を祭って東照宮とした。その後、同二十六二八九三)年に東照宮修築の動きが起こる。これは兵学校出身者らによる学校顕彰事業計画の一環で、記念碑の建立や「駿東小公園」の整備と合わせての修築案だった。
 計画では、東京の上野公園をモデルにした住民憩いの場を兵学校跡地に造る予定となっており、同校関係者からの寄付金も集められたが予定額に達せず、翌年、記念碑だけが建立された。現在、城岡神社境内にある記念碑は、この碑の二代目。
 樋口教授は、この顕彰事業計画について「もし、公園ができていたら、市街地の街並みは、がらりと変わっていたかもしれない。その場合、今のような大手町は存在していないかもしれないが」とした。
 東照宮は明治三十六(一九〇三)年、城岡神
社に改称された。
 大手町の新旧住民現在の大手町は、かつては武家屋敷の並ぶ武士の町だった。これに対して本町、上土町、三枚橋町は町人の町。この身分による住み分けは、明治以降に変化を始める。
 明治十五(一八八二)年、当時の大手町を含む地区は城内町と呼ばれ、世帯数は三〇三戸。そのうち士族が二六八戸で、平民が三五戸。これらの士族は旧幕臣達だった。
 大正末から昭和初期にかけて結成された旧幕臣関係者の団体「沼津幕臣会」の名簿によると、城内町一帯に住む旧幕臣関係者は十八人。移住などによって旧幕臣の家は減り続け、樋口教授が知る範囲では、現在の沼津市内に残る幕臣の家は数軒だという。
 これからの大手町 城跡が残り整備もされた掛川市などと違い、沼津は城跡の上に町が興り、城の痕跡は、ほとんど残っていない。
 また、街中の寺院の墓地には、沼津藩士や旧幕臣の墓があるが、これらは無縁化した場合、整理されていく。墓地の整理は寺院経営の観点から仕方ない部分もある、とする一方で、樋口教授は墓碑銘なども重要な史料である、と指摘。「沼津の城下町としての名残がどんどん消えようとしている」と危惧する。
 そして、「沼津を離れても沼津のことを思い続ける者として」と前置きをしながら、『住民の顔ぶれが変わっても、歴史への思いは残る。わずかに残る痕跡を、まちづくりに生かしてほしい」と願いを込め講演を終えた。
(沼朝平成23年10月16日号)

資生堂明治年表時代

資生堂明治時代年表
1872(明治5)年
 9月(旧暦8月)に資生堂が、日本最初の洋風調剤薬局として出雲町16番地(現在の銀座7丁目)で創立される、経営者は福原有信。福原は1865(慶応元)年に幕府医学所に入って西洋薬学を学び、その翌年に医学所中司薬に起用された。1869(明治2)年に東京大病院の中司薬に、1871(明治4)年には海軍病院薬局長になるが、1872年2月に海軍病院を辞して、本町1丁目に西洋薬舗会社の資生堂を開業し、併せて薬局を開いている。10月(旧暦9月)に新橋・横浜間に鉄道が開通する。この年に海軍下士官の常服がセーラー服になった。
 1874(明治7)年
7月、銀座煉瓦街は下水道が設置されほぼ完成。強制立ち退きしていた出雲町1番地の1階に資生堂薬周を移し、2階で回陽医院を開設する。12月、京橋・銀座間の街路にガス燈を点火。西洋薬舗会社の資生堂はこの年に解散した。
 1877明治10)年
 1月、西南戦争の発端となる海軍造船所占領事件が起きる。9月、西南戦争が終結。この年に資生堂は事業経営が苦しくなり、回陽医院を閉鎖して、出雲町1番地の家屋を譲渡する。資生堂薬局は出雲町16番地の居宅に移した。
 1879(明治12)年
 鎌倉河岸に製薬工場として東京製薬社を設立。翌年に「神令水]・「清女散」「金水散」「蒼生膏」「愛花錠」などの薬を発売する。
1884(明治17)年
大日本製薬会社が設立され、福原有信は専務取締役に就任する。東京製薬社は閉鎖した。資生堂薬局はペプシネ飴を発売する。福原信三は有信の三男として、前年に生れている。
 1885(明治18)年
 9月、東京師範学校女子部が洋服を制服として採用する。宮城県の知新女学校でも洋服を制服に。東京女子高等師範学校では生徒を束髪にした。
 1888(明治21)年
 1月、資生堂が日本で最初の煉歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売し、2年後の第3回内国勧業博覧会で受賞。この年に福原有信は帝国生命保険会社を設立して理事員に就任し、3年後の1891年に専務取締役になる。
 1890(明治23)年
 10月、大阪の長瀬商店が「花王石鹸」を発売する。
 1892(明治25)年
 出雲町1番地の家屋を買い戻す。福原有信が大日本製薬会社の専務取締役を辞任した。翌1893年に帝国生命保険株式会社の社長に就任する。
 1893(明治26)年
 資生堂が日本初のビタミン薬「脚気丸」を発売する。
 1894(明治27)年
 8月、日清戦争が始まり、翌年4月に日清講和条約、三国干渉。この年に千疋屋が開業する。
 1896(明治29)年
 7月、神田の小林富次郎商店が「獅子印はみがきライオン」を発売する。
 1897(明治30)年
 資生堂が化粧品の製造を開始して、「オイデルミン」「コラキン玉椿」「メラゼリン柳糸香」を発売する。この年に絹糸の輸出額が輸入額を超える。
 1898(明治31)年
 資生堂が「アネモシン春風山」「イリアンチン春の雪」「エチオンしののめ」「オイトリキシン花かつら」「高等ねりおしろい」「フロミネン住の江」「ラウリン花たちばな」を発売する。
1900(明治33)年
4月、有毒性着色料取締規則が公布され、化粧品の鉛使用が禁止される。6月、福原有信がヨーロッパに渡り、各国の生命保険事業を視察しながらパリ万国博覧会を見物。さらにアメリカに渡り、ドラッグストアのソーダー・ファウンテンを見る。II月、鳩山春子・山脇房子らが少女服改良会を設立。
1902(明治35)年
1月、日英同盟協約に調印。7月、資生堂がソーダー・ファウテン設けて、ソーダ水とアイスクリームの製造販売を行う。これが資生堂パーラーの前身である。
1904(明治37)年
2月、日露戦争が始まる。
1905(明治38)年
3月、京橋で遠藤波津子が理容館を開業して美顔術を導入。7月、女性の髪型で203高地まげが流行する。8月、第2回日英同盟協約に調印。9月、日露講和条約(ポーツマス条約)に調印。三越呉服店が輸入化化粧品の販売開始。神田で洋服専門の洋裁学校が設立される。この年に資生堂は「エリノイン花の露」を発売。
1906(明治39)年
4月、中山太陽堂が「クラブ洗粉」を、平尾賛平商店が「レート乳白化粧水」を発売する。この年に福原信三が千葉医学専門学校薬学科を卒業して、アメリカのコロンビア大学薬学部に入学。2年後の1908年の夏にプラシッド湖畔で画家の川島理一郎と知り合い、以後交友関係を結ぶ。資生堂が日本で最初の肌色白粉となる「かえで(黄色白粉)」「はな(肉色白粉)」を発売。
 1907(明治40)年
 この年に女性の髪型で七分三分髪が流行する。資生堂は商品「花かつら」を「花椿」と、「住の江」を「八雲」と、「はな」を「やよひ」と改称した。「花椿」という言葉の最初の使用である。
 1909(明治42)年
 この年にホフマンがアイロン機械の特許を取得する。フォークが一般家庭に普及する。
 1910(明治43)年
 6月、丸見屋がミツワ石鹸を発売。8月、韓国併合に関する日韓条約調印。この年に福原信三がコロンビア大学薬学部を卒業して、ニューヨークの薬品店に勤務。銀座の洋品店主の関口源太郎が子供既成服を製造して百貨店に納入。
 1911(明治44)年
 2月、日本は関税自主権を初めて確立。パリではパンタロンとキュロットスカートが流行。5月、ライオン歯磨本舗がチューブ入り歯磨を発売する。7月、セーラー型の子供服・女子服の流行が始まる。9月、平塚らいてうらが『青鞜』を創刊する。この年に福原信三がニューヨーク郊外のヨンカースにある化粧品製造工場に勤務。
 1912(明治45・大正1)年
 4月、東京実践女子学校が制服を定める。この年にマリー・ルイズの巴里院(美容院)が開業。福原信三がヨーロッパで美術館を巡り歩く。
(「資生堂という文化装置」和田博文著)

2011年10月8日土曜日

清水町の恵ケ後・谷口遺跡



清水町の恵ケ後・谷口遺跡
 高尾山古墳と関連も

 清水町伏見の恵ケ後(えがうしろ)・谷口遺跡で、弥生時代後期から古墳時代前期(200~250年ごろ)に造成されたとみられる大溝が見つかり、発掘した同町教育委員会が7日、発表した。周辺地からは過去に大規模な住宅跡も出土していて、関係者は同遺跡に東日本最古級の前方後方墳とされる高尾山古墳(旧・辻畑古墳、沼津市東熊堂)に埋葬された豪族が住んでいた可能性が高いとみて、調査を進めている。
 恵ケ後・谷口遺跡は同町の国道1号伏見インターチェンジから北に約500㍍の住宅地にあり、広さは約4㌶。同町教委は土地開発に沿って断続的に調査していて、直径1㍍以上の柱穴を持っ掘立柱建物跡など、弥生時代後期から鎌倉時代前期ごろの遺構や遺物が数多く見つかっている。
 今回の調査は9月中旬から約1カ月間、約270平方㍍の地域で実施。幅6㍍を超える大溝に加えて、10~20㌢の岩が石垣のように積まれたのり面を発見した。当時の住居跡や伊勢湾岸地域が由来の土器、高坏(たかつき)なども見つかった。
 町教委とともに発掘を担う調査会社「東日」の小金沢保雄・文化財調査室長は、「この時代では県内に例がない遺構で貴重」と指摘。同遺跡から西に約3㌔離れた高尾山古墳と比べて、「どちらからも西日本で同じ時代に制作したとみられる土器が大量に出土した。いずれも当時、この地域を支配した首長の遺跡ではないか」と分析する。
 同町は8日午前11時から現地説明会を開き、大溝などの埋蔵文化財について解説する。問い合わせは同町教委生涯学習課〈電055(972)6678〉へ。
(静新平成23年10月8日朝刊)

往復書簡24通を発見 41年間の温かな交流


 文学者・芹沢光治良と恩師・前田千寸
往復書簡24通を発見 41年間の温かな交流


 沼津の記念館 全文まとめ冊子に
 沼津市出身の文学者芹沢光治良が「兄貴分」と慕った旧制沼津中(現・沼津東高)時代の恩師前田千寸とやりとりした往復書簡がこのほど、両家で24通確認された。消印などから、期間は同校在学中から大河小説「人間の運命」を書き上げるまで41年にわたり、温かな交流は前田の死後も家族に引き継がれた。生誕115周年記念事業を展開する市芹沢光治良記念館は2人の関係性を知る手掛かりとして、全文を収めた資料集を発行した。
 前田は美術を教え、井上靖にも影響を与えた名物教師。芹沢に文芸雑誌「白樺」を勧めて西洋への憧れを植え付け、のちのパリ留学のきっかけを作った。自伝的長編「人間の運命」では「前川」の名で登場し、地元の風景美を「知らない」と答えた主人公を同市の香貫山に連れ、眼下の風景を見せながら「学問や勉強も自分の足元からやるんだ」と諭している。
 芹沢は前田を慕い、同市上香貫の自宅にも訪れていた。確認された最初の手紙は17歳の時、伝道師になった父親に代わって進学を援助した叔父との養子縁組を断ったことが書かれている。事前に相談に応じた前田に感謝し、自由へのこだわりや叔父とのやりとりをつづった。
 芹沢は卒業後も折に触れて近況報告をし、前田からは「知人が駅前に開く店の名前をフランス語で考えてくれないか」との依頼も。前田の死後、宛先は妻や子どもに代わり、妻からは命日を忘れない芹沢に感謝する文面が多数あった。
 資料集は市立図書館などで閲覧できるほか1冊200円で販売している。問い合わせは芹沢光治良記念館〈電055(932)0255〉へ。
(静新平成23年10月8日朝刊)

2011年10月3日月曜日

「北海道開拓に貢献した依田家」橋本敬之


「北海道開拓に貢献した依田家」橋本敬之
 松崎の産業礎築く



 伊豆西海岸にある松崎町の市街から東へ数㌔、同町大沢には、「拓聖」といわれ、北海道開拓に一生を捧げた依田勉三の生家がある。
 勉三は明治14年(1881年)、開拓の志をもって単身北海道に渡り、函館から根室・釧路を経て東海岸を踏破、十勝・室蘭を回って帰郷した。勉三は開拓事業のため、翌15年1月1日晩成社を設立。一門の依田善六を社長に据え、自らは副社長となった。資本金5万円は依田一族が出資している。
 勉三は同年鈴木銃太郎とともに再び渡道、開拓場所を十勝に定めた。当初はバッタ被害や病気に悩まされたが、亜麻糸の製糸、牛肉やカニの缶詰づくりを手がけた。「帯広」の名はアイヌ語の「オベリベツ」(アイヌ語で湧水が流れる意)から勉三が命名したという。勉三は、開拓の志を「ますらおが心定めし北の海、風ふかば吹け、浪たたば立て」という歌に込めた。
 勉三の北海道開拓は資金面で困難を極めたが、これを支えたのが兄依田佐二平と分家の依田善六であった。
 天保12年(1841年)松崎湊から出航する300石積以上の廻船は7艘あったが、そのうち、佐二平の父である依田善右衛門が2艘、依田善六が2艘を所有している。慶応3年(1867年)の史料によれば、依田善六は那賀川筋の炭・薪・板木・大竹・鰹を扱っており、その年収は金84両強と推定され、当時有数の資産家であったことがうかがえる。
 一方、兄佐二平は地元子弟の教育に熱心で、明治2年佐藤源吉らと江奈村に謹申学舎を開校。同6年には自費で地元大沢に「大沢学舎」を建てた。同12年には木村恒太郎・大野恒哉らと私立豆陽学校(現・下田高)を創立している。産業振興にも熱心で、同2年、韮山県が農家の副業として養蚕を奨励すると、率先して桑を栽培して蚕室を建て、地域に広めた。同8年には松崎に製糸場を設立。伊豆における最初の機械製糸となり、南伊豆は日本有数の養蚕の地となって「松崎まゆ」として知られるようになった。同15年には依田善六とともに豆海汽船会社を設立して、沼津から西伊豆・下田・東伊豆を回り京浜に至る航路を開いた。
 依田家に残された古文書は北海道開拓に尽力した依田勉三関係資料、それを支えた依田家の殖産事業を中心に、その基盤となる松崎の産業を知る貴重な史料群である。また、勉三を支え続けた依田家のシンボルである住宅は、元禄年間の建築といわれる。松崎の強い西風による火災から逃れるためにナマコ壁を巡らせた独特な作りで、平成22年静岡県指定文化財に指定された。
(NPO法人伊豆学研究会理事長)
【静新平成23年10月3日(月)「文化芸術」】

2011年10月2日日曜日

「北条五代百年の足跡をたどる」

「北条五代百年の足跡をたどる」
 小和田哲男静大名誉教授が講演
 小田原市と財団法人自治総合センターは先月二十三日、小田原市民会館で「北条五代シンポジウムー北条氏百年の足跡ー」を開催。約千人が入場し、講演とパネルディスカッションが行われた。
 本拠地移転や石高、家臣統制
 戦国時代先駆の稀有な存在
 このシンポジウムは、戦国大名北条氏にゆかりのある沼津市など全国八市二町による北条五代観光推進協議会(会長・加藤憲一小田原市長)の活動の一環として開かれた。シンポジウムに先立ち、同協議会の臨時総会が開かれ、北条氏にまつわる歴史的資産の有効活用や、北条氏をテーマにした大河ドラマ放送実現などを誓う四力条の「北条五代観光推進宣言」が採択されている。
 シンポジウムは二部構成で、第一部は静岡大名誉教授の小和田哲男さんによる「北条氏五代一〇〇年の繁栄」と題した基調講演。第二部は元NHKキャスターとして多くの歴史番組で司会を務めてきた松平定知さんと作家の火坂雅志さん、そして小和田さんによるパネルディスカッション。
 第一部の講演で、戦国時代の研究者として数々の大河ドラマで時代考証に協力している小和田さんは、はじめに「戦国時代は約百年続いた。この百年の間に五代にわたって続いた北条氏は、珍しい部類。今年の大河ドラマ『江』の主人公の実家である浅井氏は三代五十年で滅びてしまった」と話してから、北条氏の歴代当主を解説した。
 初代早雲 早雲に関しては、その出自について解説。従来は「伊勢国(三重県)出身の、どこの馬の骨か分からない男が大名になった」と書われていたが、最近の研究で、その見方は変わってきたという。
 早雲は備中国荏原荘(岡山県井原市)の城主の子で、その一族である伊勢氏は室町幕府の高級官僚の家柄。早雲自身も京都の本家の養子に迎えられ、幕府に仕えたエリートであった。その後の早雲は、肉親の北川殿が駿河の守護大名、今川義忠に嫁いだことなどが契機となり、興国寺城(沼津市根古屋)の城主となった。
 北川殿は、早雲の姉とも妹とも言われているが、どちらなのか、確定はしていないという。城主となった早雲は、伊豆国を支配する堀越(ほりごえ)公方足利家の内紛を利用し、伊豆国を制圧する。
 小和田さんは、早雲の生年について二つの説があることを紹介した。
 一四三二年説と一四五六年説で、三二年説の場合、早雲は享年八十八歳になる。三二年説の側に立つ小和田さんは、「早雲がネズミ年生まれであることだけは、はっきりしている」とし、早雲が応仁の乱(一四六七年~一四七七年)に関わっていることを挙げ、五六年説では、乱に関わるには幼すぎる点を指摘した。また、早雲の呼び名についても話し、早雲は自分のことを「北条早雲」と名乗ったことはない、と説明。そして「もし大河ドラマになったら、この部分をどうするか。ドラマの中で早雲のことを『伊勢新九郎』という、なじみのない名前で呼んだら、視聴者も困惑するのではないかと心配している」と話し、場内の笑いを誘った。
 二代氏綱 小和田さんは「氏綱のことは、きょうは特に強調しておきたい」として、早雲の業績の前で隠れがちな氏綱の活躍について触れた。まず、氏綱が北条氏の本拠地を伊豆韮山から小田原に移したことを挙げ、「上杉や武田、今川を見れば分かるように、大名は本拠地を移したがらないもの」だと話し、氏綱が当時の常識と異なり、関東進出に有利な場所に拠点を移したことを評価。そのうえで「織田信長も本拠地を移していったが、氏綱は、その先駆け」と話した。
 また小和田さんは、それまで「伊勢氏」を名乗っていたのを武蔵国(東京都、埼玉県)へ侵攻する際に氏綱が「北条氏」と改名したことに言及。伊勢氏は確かに名門ではあったが、そのブランドは近畿などでしか通用しないため、関東の武士達に強い印象を与える名を選んだのではないか、と推測。鎌倉幕府の執権を務めた北条氏は、相模守や武蔵守といった関東支配者にふさわしい官職名を名乗っていたため、これにあやかったという。
 三代氏康 「氏綱は北条氏繁栄の基礎を作った」とする小和田さんは、続いて北条の領土をさらに拡大した三代目の氏康について話した。
 小和田さんは「売り家と唐様で書く三代目」という川柳を紹介し、「三代目というのは、初代や二代目と違って家を没落させやすいが、氏康は違う」と指摘。氏康の業績として河越城の合戦について話した。
 この合戦は、氏康率いる兵力八千の北条軍が、反北条連合の八万の大軍を打ち破った戦いとして知られる。ただ、小和田さんは、この八万という数字は水増しであると指摘。当時、西日本最大の大名であった毛利元就が集めた最大の軍勢が四万人。後の織田信長でも最大で六万人の軍勢だったことを挙げ、反北条連合軍が集めたのは、それら以下の数の軍勢ではないか、との見方を示した。
 続いて小和田さんは、氏康が進めた先進的な政策について解説した。
 その一つは、家臣達の役割を明確にしたことで、氏康は家臣のリスト(「所領役帳」)を作成。その中には家臣の領地収入と、戦争時に用意すべき兵士数や土木工事の際の負担額などが記されており、ここまでしっかりと家臣を管理した例は戦国大名の中では珍しいという。
 また、氏康は関東各地に北条氏の出先機関となる城を用意し、そこに自分の息子である氏照や氏邦をはじめとする一族を城主として送り込んだ。これにより広大な領土を一族が分担して治め、それらを小田原の北条本家が一括して統括するというピラミッド型の管理体制を整備した(それらの城は、協議会に加盟する東京都八王子市や埼玉県寄居町などにあった)。
 小和田さんは、このほかの政策として、「五公五民」と呼ばれる一般的な税率五〇%を「四公六民」の四〇%に下げたこと、目安箱を設置したことなどにも触れた。
 四代氏政・五代氏直小和田さんによれば、最盛期の北条氏は、およそ二百五十万石の大名であった、という。武田、上杉、今川などが百万石クラスの大名だったので、北条は非常に強大な大名であった。
 その一方で、近畿や西日本で豊臣秀吉が天下統一を進めると、北条氏は徳川家康や伊達政宗と組むことで秀吉に対抗しようとするが、家康は早々に秀吉に屈してしまう。置き去りにされた北条氏は伊達と連携しつつ、山中城(三島市)、韮山城(伊豆の国市)といった城の防備を固め、秀吉との対決姿勢を鮮明にする。
 小和田さんは、この北条氏の方針について、関東地方で独立王国を築いてきたプライドと、小田原城の堅固さを根拠に挙げた。
 かつて武旧信玄や上杉謙信は小田原城を取り囲んだが、結局、攻め落とすことはできなかった。このため北条氏は、信玄や謙信と同様に、秀吉軍も撃退できると考えていたが、時代の変化が、それを許さなかった。
 信玄、謙信の時代、軍隊の多くは農民を集めて編成された。そのため、小田原城を取り囲んでも、田植えや稲刈りの時期になると、軍隊は農作業のために引き上げていた。しかし、秀吉の軍勢は農民を集めたものではないため、農作業の時期に関係なく、いつまでも包囲を続けることができた。そして、約百日に及ぶ包囲戦の後、北条氏は降伏し、滅亡する。
 小田原城は、町全体を城壁で取り囲む巨大な城であった。「総構え」と呼ばれるこの方法を、秀吉も後に取り入れている。また、北条氏の行政制度は、北条氏の後に関東を支配した徳川氏にとっての手本となった。
 小和田さんは「戦国大名の北条は滅びても、その伝統は次の時代の基礎になった」ことを強調して講演を終えた。
(沼朝平成23年10月2日号)

 北条早雲「庶民に誠実、善政施す」
 一方で敵対行為は厳しく処断
 第二部のパネルディスカッションは、「北条氏の目指した理想国家について」というテーマで行われ、松平定知さんがコーディネーターとして司会を担当。小和田哲男さんと火坂雅志さんがパネリストを務めた。
 中国との関係も密か?
 パネルディスカッション北条氏のくにづくりに迫る
 火坂さんは、一昨年の大河ドラマ「天地人」の原作者。現在、北条歴代当主をテーマにした小説『北条五代』を執筆し、季刊文芸誌「小説トリッパー」に連載している。北条五代観光推進協議会では、この小説が北条氏を扱う大河ドラマの原作となることに期待を寄せている。火坂さんによると、小説の完結は二、三年後の予定だという。
 ディスカッションでは、早雲や北条氏を巡るいくつかの間題について、火坂さんの小説の構想も絡めて語られた。
 早雲の生年問題 最初に松平さんが北条早雲の生年問題について火坂さんの見解を尋ねた。
 火坂さんは、一四三二年説と一四五六年説を比較し、五六年生まれの場合は三十八歳で伊豆を攻め取ったことになり、三二年説では六十歳を過ぎていると指摘。
 その上で、「おじいさんが伊豆に乗り込むよりも、働き盛りの武将が乗り込んだほうが、小説として面白い」と話し、五六年説を前提にして執筆していることを説明した。
 早雲の伊豆進出 小和田さんは、早雲が若き日に京都の大徳寺で孫子の兵法を学んでいた点を挙げ、こうして学んだことを人々の役に立てたいという思いから、京都を出て東国に向かったのでは、と推測。
 一方の火坂さんは、早雲が室町幕府に仕えるのを辞めた理由として、先行きの見えない組織に見切りをつけ、自分の才能を生かして独立開業してやろうという強い意志があったのではないかと語った。
 早雲のイメージ 小和田さんは、一般的に戦国三梟雄(きょうゆう=悪人)として並べられているのは、斉藤道三(恩人から国を奪う)、松永久秀(将軍を殺害、奈良の大仏に放火)、そして伊豆国を奪った北条早雲であることに触れた。
 これに対して松平さんは、早雲は伊豆侵攻の際に病人救済などの善政を行って人々の支持を得て伊豆を平定したことを話し、早雲の梟雄以外の面について意見を求めた。
火坂さんは、早雲の言葉の中に「庶民に対して嘘を言ってはいけない」という意味の言葉があることに触れ、「早雲は敵に対しては嘘をつき、相手をだまして勝つ。でも、庶民に対しては誠実に接しようとする。これは政治家としての懐の深さだと思う」とした。
 小和田さんは、早雲の減税政策や福祉政策が伊豆の人々の支持を得たことを述べる一方で、伊豆国内の一部では激しい抵抗もあったことに言及。降伏しない城に対しては、城兵の身内の首を切って城外に並べて脅迫するなど、アメとムチのやり方で臨んでいたことを話した。そして、早雲の目的は関東に理想郷を作ることであり、天下取りの野心はなかったのではないか、と語った。
 また、早雲の梟雄というイメージは、早雲が出自不明の怪しげな人物だった部分も大きかったと指摘し、近年の研究でその出自がはっきりとしたことで、悪人イメージも薄まるのではないか、と期待した。
 北条氏と地方分権と国際色小和田さんは、応仁の乱以後、戦乱で荒廃した京都から、公家など多くの文化人が地方へと逃れ、日本各地に「小京都」と呼ばれる町が現れた状況を説明。
 これに関して火坂さんは、小田原もそうした小京都の一つだと語り、北条氏の減税政策が人々を小田原に引き寄せ、それが小田原の経済を発展させた、と指摘。戦国時代とは、こうした小京都が各地で栄える地方分権、地方主権の時代であったと分析し、「信長や京都中心の見方では、戦国時代のすべてを知ることはできない」と論じた。
 また、火坂さんは小田原の繁栄に関連して、小田原の薬の老舗である外郎(ういろう)家に言及。外郎家は、もともと中国の出身で、北条氏に仕えて小田原にやってきたという経緯を説明。
 そして、早雲が伊豆を攻めた際に、早雲に協力した伊豆の海の豪族達が「劉」「陳」といった中国風の屋号を持っていたことにも注目し、早雲の背後には渡来人の資本や支援があったのではないか、と指摘した。
 さらに、城下町全体を城壁で囲んで守った小田原城は、中国の都市と同じ構造であることにも触れ、「学者は誰も言いませんが、私は小説家として言っておきたい」と、北条氏と中国との密接な関係を強調した。
 この点について小和田さんは、一五四三年に種子島にヨーロッパ式の鉄砲が伝わる以前から、北条氏には中国式の鉄砲が伝わっていたことを指摘し、北条氏と中国との間に何らかのつながりがあったことを示唆した。
 大河ドラマへの展望 ディスカッションの最後に、松平さんは北条氏が大河ドラマになるためには、どうしたらいいかと問題提起。
 これに対して火坂さんは、「大河ドラマには三原則があると思っている」と答えた。
 一つは、地元の盛り上がりが重要であるということ。「天地人」が大河ドラマになるまで、新潟や山形では、十年近く要望を出し続けていたという。その間、新潟では二つの大きな地震もあり、その復興優先で大河ドラマどころではなくなったこともあったが、粘り強さが実を結んだ、と見ている。
 そして、火坂さんは、大河ドラマと地元の関わりについて、絶大な観光効果があることを指摘。「天地人」の主人公、直江兼続が幼少時に学んだ寺院である雲洞庵は、ほとんど誰も来ないような所だったが、ドラマ放映後、年間四十万人の観光客が訪れた、と説明し、「大河ドラマになるということは、すごいことなんです。皆さんも、今から覚悟しておいたほうがいい」と述べた。
 続いて三原則の二つ目は、戦国時代はドラマ化に有利だということ。火坂さんは「NHKというのは、全国規模の組織だから、地方の人々を重視する。戦国大名とは、地方分権のシンポルみたいなもの」だとし、大河ドラマと戦国時代の相性の良さを強調した。
 三原則の三つ目は、作者の問題。火坂さんは「大河ドラマの原作者は物故者か、存命の場合は巨匠クラスの人が多い」と分析。しかし、その一方で「私は巨匠ではないが、そんな私でも、一度うまくいった。二度目三度目もあるかもしれない」と語り、自身が執筆する小説『北条五代』への自信をにじませた。
 一方、小和田さんは大河ドラマについて、原作の存在が重要であると語り、これまで北条氏を扱った小説には司馬遼太郎の『箱根の坂』があったが、今回、火坂さんの作品が加わろうとしている、と期待を語った。
 そして、NHK職員から聴いた「北条早雲の周りには、女っ気が足りない。ドラマには魅力的な女性キャラクターが必要」という裏詣を披露し、「大河ドラマの原作には、架空の人物でもいいから、ぜひとも魅力ある女性の登場人物が必要」と語ると、火坂さんは「それはお任せください」と即答。この言葉に会場は大いに沸き、ディスカッションもちょうど終了時刻となった。
(沼朝平成23年10月2日号)

2011年7月9日土曜日

縄文中期土器 破片に人物画


 青森・三内丸山遺跡
 縄文中期土器 破片に人物画

 青森市三内丸山の三内丸山遺跡で出土した縄文時代中期後半(約4300年前)のものとみられる土器の破片に人物が描かれていることが分かり、青森県文化財保護課が8日発表した。
 同遺跡で絵が描かれた土器が発見されるのは初めて。文化財保護課によると、絵を施した土器は縄文時代後期にはあるものの中期のものは少なく、全国的にも珍しいという。同課によると、煮炊き用の鍋の一部とみられる縦約8㌢、幅約6㌢の土器破片に縦約4㌢、幅約3㌢の範囲で、頭部に鳥の羽のようなものを付け、右手に祭具を持ち踊っている人が線で描かれていた。
 破片は遺跡中心部北側にある、当時の生活道具などが多く捨てられたとされる「北盛土(きたもりど)」から1993年に出土。今年6月、土器の整理作業中に絵が確認された。
【静新平成23年7月9日(土)朝刊】

2011年6月26日日曜日

懐かしのチンチン電車

「懐かしのチンチン電車」 浜悠人
 明治二十二年七月、東海道線が全線開通し、新橋ー神戸間を二十時間五分で結んだ。今、新幹線「のぞみ」なら二時間三十分で到着する。沼津駅は同年二月一日に開業した。当時はまだ、駅と言えば宿駅=宿場を意味していたので、汽車の駅は停車場(ステーション)と呼ばれていた。
 明治三十九年十一月、沼津停車場から三島広小路までの約六・五㌔を結ぶ県下最初の路面電車が駿豆電気鉄道(後の駿豆鉄道)により開通した。運行開始当日、沼津・三島の町民は、こぞって歓迎し、花火や花電車、楽隊、山車と華やかな祝賀式を繰り広げた。そして終日、電車は運賃無料で沿線住民にサービスしたという。
 この電車が「チンチン電車」と呼ばれるのは、チンチンと警笛(ベル)を鳴らしながら走ったのが起こり(最初)で、大正から昭和にかけてはバスとの競合もなく、新車二〇形(後のモハ一〇形)四両が十二分間隔で運行。沼津・三島間を二十四分で走った。ために、沿線の通勤、通学者の足として利用された。戦争が激しくなると乗客もあふれ、座席は半減。最後は全員立ちん坊で、荷物並みとなった。
 昭和三十年代に入るとバス路線との競合が激化。乗客はだんだん減っていったが、潰滅的な打撃を受けたのは、昭和三十六年の集中豪雨であり、黄瀬川橋が流失し、電車は広小路と国立病院前間の折り返し運転となり、国立病院前から沼津駅まではバスによる代行運転となった。
 そして昭和三十八年、それまで五十七年間にわたって親しまれたチンチン電車も、ついに廃線となった。
 先日、往時を偲び、沼津駅から広小路まで二日間をかけて旧電車道を歩いてみた。まずはイーラde東側の旧「沼津停車場」から歩き始めた。運転手が出発のため、通電装置(電線から電気を取る棒状のもの)を一八〇度反対の向きに変えてスタートする。
 最初の停留所は「追手町角」で、裁判所前(現在、大手町の中央公園となっている)を下ると「三枚橋」がある。三園橋を渡って香貫方面へ向かう人は、ここで降りる。次に「平町」を経て、「山王前」で線路は複線となり、三島から来る電車とすれ違う。戦中、三島から沼中へ通学した大岡信は、ここで降り、黒瀬橋を渡った、と回顧している。近くには、平作地蔵、一里塚、玉砥石などの遺跡が見られる。
 さらに進めば、「麻糸前」「石田」を経て「黄瀬川」となる。現在工事中の黄瀬川橋を渡ると、左手に、こんもりとした森の智方神社がある。ここには、後醍醐天皇の皇子、護良(もりなが)親王を祭ると言われる御陵があり、そこの祠(ほこら)に井上靖は『夏草冬濤』の中で、三島に下宿していた洪作少年が沼中まで徒歩で通い、始業式の日、通学鞄を神社の木の根の洞に隠し失くしてしまう事件を書いている。
 「臼井産業前」には、片側だけだが、旧東海道の松並木が今なお残っている。この辺り左手に車庫があったのが思い出される。
 次に「国立病院前」「長沢」「玉井寺前停留所」となる。八幡(やはた)には頼朝、義経が対面を果たしたと言われる対面石のある八幡神社があり、玉井寺には一里塚や白隠の遺墨の「三界萬霊等」、同寺山号の「金龍
山」がある。
 一服した後、「伏見」「千貫樋」と進む。ここには伊豆と駿河の国境となる境川が流れ、戦国時代、北條が今川に三島の湧水を、この樋を使って送った通称、千貫樋が左手に見られる。「木町」を過ぎ、遂に「三島広小路」に到着。
 最後に、先ごろ、路面電車のある岡山ではワイントラム(トラムは市街電車、路面電車の意)を走らせ、乗客は楽しそうに飲み合っていた。私は、沼津にもチンチン電車があればなあ、と懐かしく思ったのだが…。 (歌人、下一丁田)
【沼朝平成23年6月26日(日)】

2011年6月19日日曜日

沼津藩

沼津藩五万石 譜代
 静岡県沼津市
 水野家 城主・子爵
 外桜田 帝鑑間
 家紋:丸二立沢濡(まるにたちおもだか)
 慶長六年、上総茂原で五千石を知行する大久保忠佐(ただすけ)が三枚橋(さんましはし)城主となり、二万石を領したことにより当藩は成立した。慶長十八年、忠佐の死後、無嗣絶家となり廃藩。以後、頼宣(よりのぶ)領、幕領、忠長(ただなが)領となったが、寛永九年に忠長が除封になると、その後の約一五〇年間は幕領となった。安永六年、若年寄水野忠友(ただとも)が側用人に昇進すると同時に七千石を加増され、城主として沼津の地を賜った。
また、城の再築を許され、二万石を領して沼津藩を再び起こした。田沼時代の老中となり、二度の加増で三万石となった。養子忠成(ただあきら)が継ぎ、大御所家斉(いえなり)の時代に老中首座として活躍し、加恩により五万石を領した。
忠友=忠成(岡野知暁(ともあき)二男)=忠義(ただよし)=忠武(ただたけ)=忠良(ただよし)(忠武弟)=忠寛(ただひろ)(水野忠紹(ただつく)嫡男・側用人)=忠誠(ただのぶ)(本多忠孝四男・老中)=忠敬(ただのり)(水野忠明二男)。
二代忠成は将軍世子家斉の小納戸(こなんど)役から次第に累進し、老中格にまで出世した。文政元年に老中首座に任じられると、家斉の信任を得、幕政を縦横に左右した。最初に手がけた事業は貨幣の改鋳で、益金は六十万七〇〇両余りであった。この功により一万石を加増された。五六人を数える将軍家斉の子女の縁組や婚儀もまた、忠成の裁量によるところのものが多かった。文政十二年、一万石の加増を受け五万石となった。
 沼津水野家は水野忠政の二男忠重の四男、忠清(ただきよ)を家祖とする。元和二年に刈谷二万石、次いで三河吉田四万石、松本七万石となった。忠職(ただもと)=忠直(ただなお)=忠周(ただちか)=忠幹(ただもと)=忠恒(ただつね)と在封し、忠恒が江戸城中で毛利師就(もろなり)に刃傷したため除封となったが、伯父忠穀(ただよし)が佐久七千石の旗本として家名存続を許された。嫡子忠友が竹千代(のち家治)の御伽(おとき)衆となり、累進して沼津城主となったものである。
 維新時は尾張藩と行動をともにし、新政府に帰順した。
 現在の沼津駅が城跡であるため何も残っておらず、街を歩いていても、ここが城下町だったという感じはしない。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じる。
「ふるさとの藩(前田勤著)」

2011年6月7日火曜日

日本考古学大賞


 文化財センター 黒曜石研究の池谷信之さん
 日本考古学協会賞大賞を受賞

 黒曜石の分析で顕著な成果を上げている市文化財センターの池谷信之さん(52)が、五月に開かれた日本考古学協会総会で第1回の協会賞大賞を受賞した。
 同協会では二〇一〇年度、考古学研究の活性化、啓発と普及、人材の育成、社会貢献の増大などを目的に協会賞を制定。大賞、奨励賞、特別賞を設け、その前年(○九年)一年間に刊行された著作を対象にして作品を募集し、このほど審査を行った。
 池谷さんが大賞を受賞した著作は『黒曜石考古学』(新泉社刊)。
 池谷さんは専用の機器を使って黒曜石の分析に取り組み、愛鷹山腹で出土した黒曜石の産地を特定するだけでなく、石が見つかった集落の性格を推論。さらに、「沼津最古の民」が海を渡って黒曜石を手に入れていたとの結論を導き出した。
 また、市内にとどまらず、千葉県の二つの縄文時代の集落をめぐって続いていた論争についても、両集落から出土した黒曜石の産地を明らかにすることによって一つの方向性を見出すなど、研究成果の及ぶ範囲は広い。
 研究のために分析機器を自前で購入したほどの熱の入った取り組みは、今回の受賞対象のほか、『黒潮を渡った黒曜石見高段間遺跡』(平成十七年、新泉社刊)など、自費出版、共著も含めて数多にわたる著作となって現れ、『黒曜石考古学』で博士号(史学)を取得。また、一連の研究と著作が評価され、昨年、県の文化奨励賞を受賞している。
【沼朝平成23年6月7日(火)号】

2011年5月26日木曜日

妙蓮寺の大・下庫裏と玄関


 妙蓮寺の大・下庫裏と玄関
 有形文化財に追加指定 富士宮市

 富士宮市教委は24日、妙蓮寺(同市下条)の玄関と大庫裏、下庫裏を市の有形文化財に指定した。同寺の表門と客殿は既に指定を受けているため、追加指定になる。
 妙蓮寺は1324年に建立された日蓮宗寺院「富士五山」の一つ。19世紀前半の文化文政時代に建てられた表門と客殿は、地域に残る最大級の木造建築として1985年に指定された。
 新たな調査で表門や客殿より古い1780年に下庫裏が移築、1797年に大庫裏が建立されたことが分かり、大庫裏と客殿を結ぶ玄関とともに追加指定が決まった。
 同市内の指定文化財は国指定21件、県指定23件、市指定29件。旧芝川町指定の文化財20件は現在、市指定移行への調査を進めているという。
【静新平成23年5月26日(木)朝刊】

2011年5月17日火曜日

長塚古墳主要部を沼津市に寄付

 長塚古墳主要部を市に寄付
 所有する江藤家から目録
 市は十二日、長塚古墳墳丘部の土地受け渡し式を市長応接室で開き、東沢田にある同古墳の主要部分一、○一一平方㍍について所有者から寄付を受けた。
 寄付をしたのは、土地を共有してきた江藤昭二さん、江藤不二夫さん、植木あい子さん、江藤俊夫さん、宮本恭子さん、江藤俊久さん。いずれも江藤家の兄弟と、その相続者。式には、江藤家の遠縁に当たるJAなんすんの鈴木道也組合長らも出席した。
 昭二さんから目録を受け取った栗原裕康市長は「周辺は今や市街地。大変貴重な土地を寄付していただき、ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。
 昭二さんは「私達兄弟が元気なうちに方向付けできて良かった。これで安心した」と話した。式の後、昭和三十一年に発掘調査が行われた時の様子が江藤家側から説明され、調査団のために自宅を開放し、宿舎として提供した思い出などが語られた。
 また歴史のことが話題に上り、不二夫さんが江藤家初代の江藤丹後守のことや、名主として一揆を指導した先祖の話をすると、栗原市長も「我が家の初代は、旗本松平某の庶子だと伝わっています」と応じた。
 さらに俊夫さんが、祖父の林太郎氏が慶応義塾の第1回卒業生であることを話すと、慶応大卒の栗原市長は、天井を仰いで何か感じ入っている様子だった。
 長塚古墳は市内に三つある前方後円墳の一つで、出土品の特徴などから、六世紀前半の築造、被葬者は、古代スルガ国を支配した首長とみられている。
 古墳周辺の土地は今年度中にすべて市が取得する予定になっており、市は今後、再度の発掘調査を行った後、史跡公園として整備する方針。
(沼朝平成23年5月17日号)

2011年5月14日土曜日

県文化財「長塚古墳」(沼津)


 県文化財「長塚古墳」(沼津)
 来年度以降 市が調査、復元


 沼津市は12日、県文化財に指定されている前方後円墳「長塚古墳」(同市東沢田)の最も主要な墳丘部1千平方㍍を取得した。地権者から寄付を受けた。一目で前方後円墳と分かる形状の美しさから同古墳の見学者は多く、市教委は活用に本腰を入れるため、来年度以降に調査、復元に着手する。
 長塚古墳は愛鷹山麓と周辺を支配した首長を埋葬した6世紀の造営とみられ、墳丘部は54㍍あり、全長は70㍍を超えると推定される。1950年代には県東部の前方後円墳.の中で早期の段階で埴輪(はにわ)の列が出土したほか、祭祀(さいし)跡も確認された。
 99年に県文化財に指定された。形状が分かりやすいため児童や生徒の見学者も多く、地元から活用の要望を受け、市教委が土地取得を進めていた。今回最も重要な主要部が提供され、未買収の土地は外周部分の約200平方㍍となった。市は全域を市有地にした上で、98年以来の発掘調査を行って古墳の規模など全体像をつかみ、史跡の整備計画を立てる。
 市内には3カ所の前方後円墳があり、松長の神明塚古墳、西沢田の子ノ神古墳の他の二つも、長塚古墳の近くに集中している。
(静新平成23年5月13日朝刊)

2011年4月28日木曜日

大和政権の中心施設か

奈良・纒向遣跡
 大和政権の中心施設か
 「女王卑弥呼の宮殿」そば




 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遣跡で27日までに、「女王卑弥呼(ひみこ)の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)のそばから別の大型建物跡の一部が見つかった。
 桜井市教育委員会によると、詳しい年代は特定できなかったが、現場からは3世紀後半から4世紀にかけての土器が多数見つかった。
 日本書紀には4世紀の大王(天皇)との説がある垂仁、景行が纒向に宮殿を置いたと記されている。市教委は「大和政権の中心施設だった可能性もあり、年代特定へ向けた調査を続ける」としている。
 見つかったのは、南北に並ぶ柱列で、東西1・2㍍、南北60㌢の柱穴3個。柱穴の間隔は4・5㍍と広く、間には床を支えるための束柱跡も2個確認された。
 柱穴の間隔や、束柱を持つ構造が2009年に約5㍍西で見つかり、卑弥呼の宮殿ともされる大型建物跡と似ており、同規模の建物だった可能性が高い。
 発掘はことし2~3月に行われ、現場は埋め戻されたため現地説明会はない。現場写真や出土土器は桜井市立埋蔵文化財センターで10月2日まで展示される。
 【重要な土地だった】
  兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)の話年代が特定されていないが、古く捉えれば4世紀だ。そうなると、垂仁、景行両天皇の宮殿という可能性もあるが、まだ判断材料に乏しい。ただ、纒向に3世紀から継続して大型建物が造られ、大和政権にとって重要な土地であったということははっきりした。今後も調査を続け、建物の性格を明らかにしてほしい。
(静新平成23年4月28日朝刊)

2011年4月8日金曜日

列島立て直しの視点に 山折哲雄

 列島立て直しの視点に 山折哲雄
 受容的風土への考察
 ふたたび、「日本列島」が怒り狂った。震源地はたしかに「東北」であるが、惨事のつめ痕は物心両面において日本列島の全体に及びつつある。わが国の3・11は、忘れがたい日付として歴史に刻まれることになるだろう。
 私がいま思いおこしているのが寺田寅彦と和辻哲郎の仕事である。なぜかといえば、2人は日本の独自の風土を、数千年という長い単位で考えていたからである。西欧と比較して日本の自然の特質を明らかにしようとした彼らの自然観は、その後の日本人に大きな影響を与えたと思われる。
 ▼天然の無常
 ところが、自然の猛威にたいする2人の考えには大きな相違がみとめられる。寺田寅彦は、1935(昭和10)年前後に「天災と国防」と「日本人の自然観」というエッセーを書いて、つぎのようなことをいっている。第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈の度を増す。第二、日本は西欧にくらべて地震、津波、台風による脅威の規模がはるかに大きい。第三、そのような経験のなかから、科学は自然にたいする反逆を断念し、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。そしてそこにこそ日本人の科学や学問の独自性があったといっている。
 さらに寅彦は、日本人の自然への随順、風土への適応という態度のなかに、仏教の無常観と通ずるものを見いだしていた。地震や風水による災害をくぐりぬけることで「天然の無常」という感覚がつくりあげられたのだとしている。
 このような寅彦の議論をみてから和辻哲郎の「風土」を読むと、どんな光景があらわれてくるだろうか。和辻が西欧の「牧場」的風土にたいして日本の「モンスーン」的風土を対比して、論じたことは知られている。和辻がこの部分を書いたのは寅彦のエッセーの数年前なので、寅彦は和辻の「風土」を読んだうえで論を立てたのかもしれない。ところが意外なことに、和辻は日本の風土的特徴を考察した際、台風的、モンスーン的風土については論じても、地震的性格については一言半句ふれてはいない。これは驚くべきことではないか。なぜなら23(大正12)年に起きたばかりの関東大震災の惨事を記憶していたはずだからである。
 和辻によると、日本の台風的風土の特徴は、第一に熱帯的、寒帯的(大雨と大雪)という二重性格を帯び、第二に季節的、突発的(感情の持久と激変)の二重性に規定されているという。そこから、モンスーン的、台風的風土における日本人の受容的、忍従的な生活態度が生みだされた。和辻のいう「しめやかな激情」「戦闘的な悟淡(てんたん)」といった逆説的な国民的性格を日本人がもつようになったのも、台風的風土の二重性に根本的な原因があるということになる。
 ▼慈悲の道徳
 つぎに私が興味をもつのは、和辻がその感情の二重性格をもとに、仏教における」煩悩即菩提(ぼだい)」(迷いはすなわち悟り)という逆説的な思想が日本人に及ぼした影響について論じている点である。これをさらに発展させて日本の家族の問題にも関係づけている。すなわち男女、夫婦、親子の関係のなかに利己心と犠牲という対立するテーマを見いだし、それを解決する規範として「慈悲の道徳」が形成されたことを指摘しているのである。
 このように、寅彦と和辻の見解の相違は明々白々といわなければならない。日本の風土を考察するにあたって、自然科学者、寺田寅彦は地震的契機を重視することで「無常観」という宗教的な根源感情に関心を寄せた。それにたいして、倫理学者の和辻哲郎は、台風的契機に着目することで「慈悲の道徳」という協同的な市民感覚の重要性に説き及んでいるということである。
 しかしながら、2人の考え方には、きわめて重要な共通の視点が内包されていたことにも注意をむけなければならない。すなわち西欧の科学が自然にたいして攻撃的、征服的であったのにたいして、日本の科学的認識はむしろ受容的、対症療法的であったということだ。深い亀裂が入ったこの日本列島をこれからどのように立て直し、復興していったらいいのか。寅彦と和辻の分析にも目を配りつつ、考えなくてはならない喫緊の課題である。(宗教学者)
(静新平成23年4月8日「現論」)

2011年4月4日月曜日

獅子浜植松家戦国文書

 市文化財に指定の植松家文書
 戦国時代の相関模様浮き彫りに
 市教委は二月、「獅子浜植松家戦国文書」を市指定有形文化財に指定した。
 沼津一帯は、中部地方の静岡県内にありながら、関東一円の電力を供給する東京電力の管内になっていて、計画停電の影響を受けている。その沼津の地が、この地域的ねじれ現象を現代同様に経験した時代が過去にもあった。
 それは戦国時代の後期。駿河国は戦国大名の今川氏や武田氏の支配を受けていたが、現在の沼津市の一部は、例外的に関東の北条氏が支配していた。
 今回、市指定文化財となった古文書三十一通は、この時期の領地支配のあり方を後世に伝える貴重な史料となっている。この古文書は、大きく分けて二種類ある。一つは、今川氏側から出されたもの。もう一つは北条氏側から出されたもの。いずれも静浦の植松家に宛てられた。文書の内容は、植松家の領主権承認や税金免除の許可、戦の際の取り決めなど多岐にわたる。
 植松家は駿河国駿東郡の口野五力村の領主だった。五力村とは、江浦、多比、獅子浜、尾高、田連。
 三十一通の古文書は、西暦一五五〇年から一五八一年までの間に出されている。このうち、一五五〇年から六六年までの五通は今川氏側の武将、葛山氏元から出されたもの。
 葛山氏元は、現在の裾野市を本拠とする国人領主で、今川氏の被官(部下)という立場にあった。一五六〇年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし今川氏の勢力が衰えると、甲斐国の武田信玄が駿河国に侵攻した(一五六八年)。この時、葛山氏元は今川氏側から武田氏側に鞍替えしている。
 この時、関東の北条氏は今川氏支援を決め、駿河国の東部へ軍を派遣。狩野川、黄瀬川より東の地は北条氏によって占領された。
 これにより、静浦一帯は北条氏の勢力圏内となり、植松家は北条氏の支配を受けることとなった。北条氏は、新たな領土を管理する担当者として北条氏光を任命。これ以後、葛山氏元が差出人となった文書は姿を消し、北条氏光による文書が登場するようになる。北条氏光は、北条氏の三代目当主、北条氏康の八男。相模国の小机城(横浜市港北区)の城主だったが、駿河国東部の支配を任された後は、戸倉城(清水町)の城将(城主代理)も兼任した。北条氏光による文書は一五八一年のものが最後。これは、武田氏が天目山の戦いで滅亡する前の年。武田氏が滅亡すると、駿河国は、西からやってきた徳川氏のものとなった。北条氏の五代目当主、北条氏直は、徳川家康の娘である督姫を妻に迎えて両氏は同盟関係となった。この時、北条氏は駿河国東部の支配地を徳川氏に譲り、北条氏と植松家との関係も終了した。
 駿河国での任務を終えた北条氏光は、その後、足柄城(神奈川県南足柄市)の城将となり、一五九〇年、天下統一を目指す豊臣秀吉が北条氏を攻撃すると、足柄城で、その軍勢を迎え撃ったが、北条氏の降伏直後に死去している。
 市教委の鈴木裕篤参事(取材当時)は、一連の文書の中でも特に興味深いものとして、一五七九年に北条氏光が出した文書を挙げる。
 これは内浦の長浜城に着任した北条氏の水軍大将、梶原景宗に協力するよう植松家と静浦の住民に命じたもの。
 当時、上杉謙信の死去により、越後国では跡継ぎを巡って「御館の乱」と呼ばれる内紛が起きていた。武田氏と北条氏は、この内紛に介入し、それぞれ異なる派閥を応援。このため、両氏の間は緊迫し、越後国から遠く離れた駿河国でも戦いが始まろうとしていた。
 この頃、武田氏は現在の沼津市街に三枚橋城を築いていた。この城は、狩野川を経由して軍船が入れるようになっており、海軍基地のような役割を果たしていた。これに対抗するために北条氏が築いたのが長浜城で、この城も軍船の拠点となる城。梶原景宗は増援として北条の水軍を率いて長浜城に入り、両軍は駿河湾を挟んでにらみ合っていた。一五七九年の文書は、この緊張関係を示す史料となっている。
 また、一連の文書の中には武田氏と北条氏が一時的に和解した時期に出された船手形が含まれている。これは、武田側の船の通行許可証で、この文書に押された印料と、武田船が持ってきた文書の印判を照合して船の身元を確認し、通行を認める仕組みになっている。
 このほか、一五六三年に葛山氏元が出した文書には、イルカ漁をする際にイルカを取り逃がさないよう、漁民が協力して内浦に追い込んで漁をするよう命じる記述がある。これは、周辺一帯で行われたイルカ漁に関する最古の文書だという。
 植松家戦国文書について鈴木参事は「駿河と伊豆の境の歴史を知るための重要な史料。こうした史料がまとまった形で個人宅に残っていたのは、本当に貴重。また、北条氏光のことを知るうえでも重要な史料となる」と話し、「植松家には文化財指定された文書以外にも、植松家の特権を幕府の代官が認めた江戸時代の手形も伝わっている。この特権は、戦国時代に与えられたものが江戸時代になっても続いていたと見られるが、周辺の他の家にはこうした特権が認められ続けた形跡はない。植松家と徳川家康との間に、何か特別な出来事やエピソードがあり、そのお陰で特権が認められ続けたのでは」と歴史への想像力をかき立てるような話も語った。
(沼朝平成23年4月3日号)

2011年3月10日木曜日

入江長八作品





入江長八作品

「雲龍図」(県教委提供)



「飛天図」(県教委提供)


 江戸から明治にかけて「しっくいの名工」として活躍した入江長八が手がけた、浄感(じょうかん)寺(松崎町松崎)本堂の「雲龍図」「飛天図」が、県指定文化財に指定されることになった。9日、県教育委員会定例会で議決され、月内に指定される。
 県教委文化財保護課によると、浄感寺は長八の菩提(ぼだい)寺で、「雲龍図」「飛天図」は1846年頃の本堂再建に伴い、制作された。
 「雲龍図」(縦約3・5メートル、横約5・5メートル)は天井に描かれた水墨画で、大きく渦を巻く龍の姿は躍動感がある。参拝者から幸運を招く「八方にらみの龍」と呼ばれている。
 「飛天図」は2面(縦はいずれも約80センチ、横は約2・7メートルと約3・5メートル)あり、欄間を彩っている。しっくいでレリーフ状に描かれ、衣は朱色や緑、青で彩色されている。
 長八は1815年に松崎町で生まれた。しっくい細工に長(た)け、東京都足立区の橋戸稲荷神社や港区の泉岳寺などに作品が残る。
 指定作について同課は、「いずれも長八の代表作で高い技術がうかがえる。しっくいは本来、壁などを塗るため実用的なもの。飛天図のように芸術的な価値を持つほど細密な作品は全国的に珍しい」としている。
(2011年3月10日 読売新聞)

三の丸から供養塔 義元移設の「興国寺」か



三の丸から供養塔 義元移設の「興国寺」か
沼津市教委城跡地調査 12日に一般公開



 沼津市教委が調査している北条早雲の旗揚げ城「興国寺城跡」(国指定史跡、同市根古屋)の三の丸周辺で、地下排水溝の底部から、寺院の供養塔の一部とみられる石が見つかった。その下層には建物の基礎に用いる石組やたたきしめた土の層も確認され、今川義元がほかへ移設したとされる「興国寺」との関連が浮上している。発掘調査を手掛けている市教委は12日、これらの調査結果を一般公開する。
 義元は1549年から2年間城を改修し、その際に「興国寺を移転させた」との文書が残されている。それより60年さかのぼる早雲の旗揚時には同所に寺があった可能性もあるが、存在や場所を裏付ける出土物はこれまでなく、実態は明らかになっていない。
 排水溝は、丘の斜面に広がる城跡の低地から外に21㍍にわたって伸び、中に水を通すよう管状に積んだ石が見つかった。供養塔の台座とみられる石はその中にあり、正方形で模様が入っている。
 その下層部で確認された石組みや土塁は、構造から一定以上の建物の基礎と推測される。また早雲の旗揚げと時期が重複する瀬戸・美濃焼の丸皿「腰折皿」も出土し、周辺には焼けた土や炭化物が大量に見つかったことからも、同所で神事が行われていた可能性もあるという。出土物は全体的にほかの調査箇所より圧倒的に古く、市教委文化振興課は「時期や特徴からも、早雲の生きた時期、興国寺がそこにあったという仮説に結び付くかも。今後詳細を調べたい」と話している。
 12日の現地見学会は、午前10時と午後1時半から。調査を担当した専門職員が説明する。問い合わせは市文化財センター〈電055(952)0844〉へ。
 【メモ】興国寺城北条早雲が姉(妹の説もあり)の嫁ぎ先だった今川家の家督争いを納めた功績に、1487年に今川に与えられた城。早雲を祖とする後北条氏は、5代目氏直が豊臣秀吉の征伐に遭うまで、小田原を拠点に関東を支配した。領土の西端に位置する沼津市周辺をめぐる武田、今川との争いは絶えず、興国寺城もその後12人城主を変えた。幕府を開いた徳川家康が駿府に隠居した1607年に廃城になった。市教委は2003年から調査している。
(静新平成23年3月10日朝刊)

2011年2月25日金曜日

最古の人物埴輪


最古の人物埴輪 茅原大墓古墳
 4世紀末「盾持ち人」


 奈良県桜井市の帆立て貝形の前方後円墳・茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(4世紀末、国史跡)で、盾を持った最古の人物埴輪(はにわ)が見つかり、市教育委員会が24日、発表した。「盾持ち人」と呼ばれるタイプで、古墳を守護する役割があったとされる。口元は笑っているようにも見える。
 3世紀に誕生した初期の埴輪は円筒形で、人物埴輪は墓山古墳(5世紀前半、大阪府)などでの出土例が最古とされていた。「埴輪研究最大の謎」と言われる人物埴輪の起源が数十年さかのぼることになり、今後の研究に影響しそうだ。
 市教委によると、埴輪は壊れていて、数百点の破片で見つかった。復元できた大きさで幅50㌢、高さ67㌢。同じ古墳から見つかった別の埴輪の特徴から年代を特定した。
 円筒形の埴輪の上部を首のように細くし、前が編みがさのような形のかぶとをかぶった人物の顔を取り付けていた。口は半円状に開き、頬は赤く塗られ、顎には入れ墨のような縦線があった。鼻は取れていたが、黒ずんだ三角形の接着面が残っていた。笑顔には邪悪なものを威圧する意図があったという説もある。
 盾は埴輪の前面を平らに加工し、その両側に張り出す形で四角い板を付けて表現。きれいなひし形や三角形の模様をあしらっていた。
 古墳の前方部と後円部の境目付近の周濠(しゅうこう)跡から見つかった。3段築成の後円部の平らな場所に置いていたものが、落下したと考えられる。「盾持ち人」は胴体部分が盾のため、全身を表現した人物埴輪とは区別する場合もある。
 帆立て貝形の前方後円墳は、通常の前方後円墳の被葬者よりランクの低い首長らの墓とされ、大きな後円部に対し、前方部が短いのが特徴。
【メモ】 埴輪弥生時代後期後半に吉備を中心に分布していた特殊器台と呼ばれる土雛が起源。3撹紀後半に大和で誕生し、前方後円墳が造られなくなるころまで300年余りにわたって墳丘を飾るために作られ続けた。初期のものは円筒形で、家やニワトリ、盾や甲冑(かっちゅう〉などが作られるようになった後、馬や人物も登場する。日本書紀には、主人を亡くした従者が一緒に生き埋めにされる「殉死」の風習に垂仁天皇が心を痛め、殉死する従書の代わりとして埴輪(はにわ)が誕生したとあるが、信ぴょう性は低いとされる。
(静新平成23年2月25日朝刊)