2019年6月22日土曜日

北条氏邸跡(伊豆の国)追加指定 鎌倉時代の建物見つかる

文化審答申
北条氏邸跡(伊豆の国)追加指定
鎌倉時代の建物見つかる
 国の文化審議会は21日、弘法大師空海が修復工事に関わった国内最大級のため池「満濃池」(香川県まんのう町)など3件を新たに名勝に指定し、保護するよう柴山昌彦文部科学相に答申した。戦国大名・真田氏ゆかりの岩櫃城跡(いわびつじょうあと、群馬県東吾妻町)など8件を史跡にすることも求めた。県内関係では伊豆の国市の史跡「北条氏邸跡(円成寺跡)」の指定範囲の追加を答申。年内にも答申通り告示される見込み。


 北条氏邸跡(円成寺跡)は後に鎌倉幕府の執権を務める北条氏が平安時代に建て、鎌倉時代まで残った邸宅跡。北条氏滅亡後は取り壊され、北条一族の女性が住む尼寺「円成寺」が建でられた。円成寺は江戸時代まで続いたとされ、1996年に史跡に指定された。
 2018年度の市による発掘調査で史跡北東側の民有地から鎌倉時代の建物の一部が見つかり、指定範囲を追加する。追加面積は約1160平万㍍で、総面積は約48千平万㍍になる。追加指定は0105年に続き3回目。
【静新令和1622日(土)朝刊

2019年6月19日水曜日

高村夫妻顕彰団体が一小を訪問 智恵子の絵画作品に登場の木を見学


高村夫妻顕彰団体が一小を訪問
 智恵子の絵画作品に登場の木を見学
 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻として知られる高村智恵子の足跡をたどって、智恵子の出身地、福島県二本松市の市民団体が17日、一小を訪れた。
 画家として活動していた智恵子は、光太郎と婚約した年の1913年、沼津にあった親友宅に滞在し、「樟(くす)」と題する油絵を描いた。これは3点しか現存しない智恵子の作品の1つで、現在は山梨県北杜市の清春白樺美術館に収蔵されている。
 二本松市で智恵子・光太郎夫妻の顕彰活動を行っている団体「智恵子のまち夢くらぶ」は、毎年開催している夫妻の足跡をたどる旅の一環として、今年は智恵子ゆかりの沼津を選んだ。
 会員13人が山梨県で「樟」の実物を鑑賞した後、絵のモデルとなった木を見るため、一小を訪れた。同校校庭には、江戸時代初期の沼津藩主大久保忠佐の墓である道喜塚(どうきつか)があり、その隣の大木が絵のモデルとなった。
 夢くらぶの熊谷健一代表はモデルの木を見学した感想として、「美術館で見た原画は、図録で見るよりもはるかに良かった。モデルの木は大火でも生き残っただけあって、たくましい生命力を感じる。この木を智恵子が描いた意味合いを感じ取れた」と話す。
 今年の訪問先として「樟」ゆかりの地を提案した菅野ミチ子さんは、夢くらぶの会員になった理由として、「以前、観光客に智恵子のことを尋ねられたことがあったが、答えられませんでした。地元のことなのに勉強不足だと思い、学ぶために参加しました」と話す。
 智恵子の生涯を研究している画家でエッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区在住)の著書が今回の旅のきっかけとなった。『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅高村智恵子52年間の足跡』という題で、2015年に発売された増補改訂版では「蓮のモデル探しの旅が新たに付け加えられた。今回の来訪に案内人として付き添った坂本さんは「本がつないだ縁だと思っています。この機会を通して沼津も知ってもらえて嬉しい」と話している。
【沼朝令和1年6月19日(水)号】

2019年6月14日金曜日

秋鹿見橘の足跡(沼津ふるさと講座7月講話)


沼津ふるさと講座
 令和元年度 沼津郷土史研究談話会
 一沼津兵学校開校の年に生まれ、沼津精華学園の基礎をつくった
 秋鹿見橘の足跡
 ◆秋鹿見橘(あいかけんきつ.)明治2(1869)~昭和29年〔1954)
 明治210月、徳川家とともに静岡に移った幕臣・秋鹿見山の長男として、沼津城下の棟割長屋に生まれる。沼津兵学校ゆかりの集成舎(沼津小学校)に学び、江原素六が設立し米山梅吉が学んだ、私立・沼津中学校を経て県立静岡師範学校に進み、同203月、同静岡尋常中学校を卒業。
上京して明治21(1888)4月、高等師範学校文学科に入学。同24年に卒業後、新潟県師範学校、及び各地の師範学校に勤務。285月、宮城県在任中に平沼淑郎第二高等学校教授らとともに、奥羽史学会を設立。江戸時代後期の経世論家で「寛政の三奇人」と言われた元仙台藩士・林子平(桂川甫周などとの交流もあった)の研究などを行う。34年に校長となり、大正5(1916)退職。
その後、高齢の母のために沼津に戻り、大正13(1924)4月、駿東病院院長の佐々木次郎三郎博士のアドバイスで命名した沼津精華女学校を設立し、蓮光寺内に仮校舎を設けて校長に就任。昭和25(1950)12月、学校法人・沼津精華学園を設立し、理事長に就任。
2912月、永眠。享年85a
講師、秋鹿敏雄(学校法人沼津精華学園理事長)
令和元年(2019)713()1330分~ 沼津市立図書館4階 第12講座室

2019年6月8日土曜日

古事記、日本書紀を読む楽しみ(図書館文芸講座1回)に出席しました。

令和元年6月8日
『古事記、日本書紀を読む楽しみ』(図書館文芸講座1回)に出席しました。
 講師:上利博規教授

古事記の存在は知っていたのですが、内容は知らず、初めてこの講座で、なんて面白いものと知りました。

↓当日配布資料





2019年6月2日日曜日

沼津市明治史料館通信 二〇一九年四月 通巻137号:大日本名医一覧 :渡辺東洋と平尾賛平



沼津市明治史料館通信 二〇一九年四月 通巻137
大日本名医一覧当館蔵
 明治十二年(一八七九)に大阪で発行されたもので、全国的に知名度が高い人物を番付表形式で並べている一方、四段目から六段目には大阪の医師たちの名が集中する。七段目右に杉田玄端(沼津病院頭取)、一段目右に三浦換(沼津病院二等医師)ら、沼津移住旧幕臣の名が見出せる。二段目左には「駿河沼津 森岡元碩」(大岡村木瀬川の医師)、三段目左には「大手筋 柳下知之」(沼津藩士出身の陸軍軍医で当時大阪鎮台勤務)がある。他に戸塚文海・名倉知文・小川清斎・柏原学而・坪井信良ら、静岡病院の医師だった静岡藩ゆかりの医師たちも載っている。


シリーズ沼津兵学校とその人材98
渡辺東洋と平尾賛平
 静岡藩立の沼津病院は、当初は沼津兵学校に併置された陸軍医局として発足したが、後に静岡病院の傘下に入り別組織となった。頭取(院長)杉田玄端の下、そこに配属された医師には幕府陸軍の軍医だった旧幕臣と、地元で採用された平民出身者とが混在していた。駿東郡原宿(現沼津市)の町医者だった渡辺東洋は現地採用者の一人である。
明治二年(一八六九)刊行の『沼津御役人附』、翌年刊行の『静岡御役人附』の沼津病院の箇所に東洋の名前は掲載されていない。兵学校資業生の一人が残した名簿には「渡辺東陽」とある(「史料紹介沼津兵学校人名簿」『沼津市博物館紀要』21)。三等医師並の肩書だったことは大正期に活字化された「沼津兵学校沿革()(『同方会誌』43所収)に掲載されているが、たぶん採用は明治三年か四年以降のことだったのであろう。
 東洋は、俳入でもあった原宿の町医者渡辺格斎(希鳳)の息子だったようで、父の稼業を継いだらしい。格斎の学統は不明であるが、文久二年に入門した今沢村の医師酒井教順は彼に「内科外科医業」を学んでいる(『沼津市史史料編近代1)。明治五年(一八七二)二月の原宿西組「戸籍人別取調帳」(いわゆる壬申戸籍、当館蔵・渡辺本陣文書)には、「沼津病院寄留 久平二妹やゑ倅 長男東詳 年二十二歳」と記されているので、東洋は廃藩後も会社組織によって存続した沼津病院に住み込みで勤務したことがわかる。戸籍からは、彼が原宿の脇本陣若狭屋・組頭渡辺久平の甥だったことも判明する。
杉田玄端は六年(一八七三)一二月に沼津を去り上京するが、東洋はそれを追ったようで、七年(一八七四)三月二五日、二三歳の時、玄端を身元保証人として慶応義塾医学所に入学した(『慶応義塾入社帳』第五巻)。同医学所は、六年一〇月に福沢諭吉が開設したもので、教師兼監事として玄端の次男杉田武らが勤務したほか、併設された診療所の主任を玄端がつとめた(『福沢諭吉伝』第二巻)。新聞広告によると八年(一八七五)、東洋は玄端・石井信義らとともに東京神田に玄端が開いた尊生舎診療所の医師をつとめていたことがわかっている(『郵便報知新聞』明治八年七月一三日)。玄端は慶応義塾医学所生徒の実地指導も行ったという(北里文太郎「慶応義塾医学所()」『日本医史学雑誌』第一三一〇号、一九四二年)。東洋は玄端の下で学生として医学の勉学をするとともに、医師の仕事もしたのである。
 東京時代の東洋は、静岡出身のある実業家に商売上のヒントを与え、彼を輝かしい成功者へと導くことになった。その実業家とは、駿府の問屋役・伝馬取締役などをつとめた有力商人平尾清一郎の一族だった平尾賛平(一八四六~九七)である。賛平は上京する前の明治初年には、駿河府中藩の府中奉行中台信太郎から沼津の「生育方用達商人の手伝方」や「帳簿方」に任命され、清水に在勤して大阪・兵庫・堺・岡山などの各地で米穀の買い取りを担当した(『東洋実業家詳伝』第弐編)、あるいは「静岡常平倉長渋沢栄一(男爵)の庇護の下に藩米の現物売買を為し又た沼津兵学校の賄方」(『東海三州の人物』)をつとめたなどとされ、さらに別の説明のし方では、沼津に置かれた「徳川家常平倉」の「勤番」や「三井組の静岡藩為替御用」の出張所勤務を命じられた(『平尾賛平商店五十年史』)という。
つまり、静岡商法会所および沼津兵学校の管理部門である陸軍生育方が開設した沼津商社会所の御用達だったのである。東洋と賛平とは、すでに沼津で知り合っていた可能性がある。やがて上京し、三井組に勤務した後に独立した賛平は、一一年(一八七八)頃、「知人渡辺東洋」から「香水の製法を授」けられ、「小町水」という香水の製造・販売に乗り出し、コレラ除けの匂い袋なども手広く扱い、医薬品業界で大成功をおさめることになった。平尾は岳陽堂の屋号を名乗り、後年は息子が二代目賛平を襲名した。
 東京で商売を拡大していった平尾賛平に対し、東洋は静岡県にもどったようである。一五年(一八八二)時点では駿東郡佐野村(現裾野市)の駿東病院第二出張所詰で、松本順の演説を載せたコレラ予防の印刷物を近隣に配布している(『沼津新聞』明治一五年八月一〇日)。一七年(一八八四)には衛生行政の地域支援組織である岳東私立衛生会の幹事となっている。一八年(一八八五)三月には田方郡間宮村(現函南町)で眼科医亀井膽斎を招聘して診察所・病室を新築し、眼科医院を開業した(『函右日報』明治一八年三月一八日、『静岡大務新聞』同年同月一九日)。また、二二年(一八八九)時点では、君沢郡大場村(現三島市)で開業していたことがわかっている(内務省衛生局編『日本医籍』)
 東洋は郷里である原の菩提寺・徳源寺に眠る。戒名は法徳院全心恵照居士、没年月日は明治二六年(一八九三)七月二六日と彫られている。四十代前半で亡くなったのである。東洋には長男某がいたが、ジフテリアのため駿東病院長室賀録郎の手術を受けたものの、明治一六年四月に先立たれていた(『沼津新聞』明治一六年四月二二日)。東洋の墓石には「東京大河鎌吉・平尾賛平建之」とも彫られており、実業家平尾が成功のきっかけをつくってくれた恩人である東洋との交際を絶やさなかったことがうかがえる。この墓石の所在に関しては望月宏充氏のご教示を得た。記して感謝する次第である。
(樋口雄彦)

2019年6月1日土曜日

築地市場跡に「幻の庭園」 江戸屋敷五輪後、初調査へ


築地市場跡に「幻の庭園」
江戸屋敷五輪後、初調査へ
  
昨年閉鎖された旧築地市場(東京都中央区)の広大な跡地に、江戸時代の「幻の庭園」が眠っている。寛政の改革で知られる老中松平定信(17581829)が屋敷に築いた「浴恩園」だ。数十年にわたり地下に埋もれてきたが、都などは2020年東京五輪・パラリンピック後の再開発に伴い、初の発掘調査を検討。庭園の再発見と実態解明に期待が高まっている。
  江戸時代に海を埋め立て、大名屋敷や寺院が立ち並んだ築地。定信は屋敷の中央に池付きの庭園を造成した。文献などによると、海水を引き入れ、潮の干満で趣が変わる造りだったとされるが、1829年に起きた江戸の大火で被災。池だけがかろうじて姿を保った。
 明治時代に入ると海軍が一帯を使用。1923年の関東大震災後、中央卸売市場の建設計画が持ち上がり、35年に「築地市場」が開場した。都の担当者によると「市場建設時に池を埋め立てたようだが、経緯はよく分からない」という。市場は昨年、豊洲(江東区)に移転し、23㌶の跡地が残った。都は五輪期間中、駐車場用地として一時利用し、2040年代までに国際会議場などを段階的に整備する方針。これに先立ち中央区が試掘し、遺構が見つかれば、都による本格調査となる見通しだ。


 庭園の実像を伝える資料は乏しく、調査への注目度は高い。「『質素倹約』を柱とする改革を断行した定信が、庭も質素に造ったのか、それとも大名らしく豪華に見せたのか。人間像に迫る発掘になる」と区の担当者。ただ、調査は長期化しかねない。引き合いに出されるのが、築地に近い「旧国鉄汐留駅跡」(港区)の区画整理に伴う発掘調査だ。仙台藩・伊達家の上屋敷など重要遺構が見つかり、試掘から調査完了まで約11年。関係者は「同じぐらいはかかる」と予測する。

 費用も膨大だ。発掘に加え、再開発のための土壌調査や汚染除去を含め、都は総額200億円に上ると試算している。仮に貴重な遺構が出土しても、都心の一等地だけに全面保存は難しい。発掘の成果をどのような形で残し、都民らと共有するかは今後の検討課題という。
 大名屋敷などに詳しい谷川章雄早稲田大教授(近世考古学)は「池に海水を引き入れる導水部分など、実態解明につながる手掛かりが見つかれば大きな発見だ。発掘成果をきちんと後世に伝えていく必要がある」と話している。
【静新令和元年6月1日(土)朝刊】