2019年12月12日木曜日

吉良邸、赤穂側が「包囲」 新潟大名誉教授 討ち入り成功要因指摘


吉良邸、赤穂側が「包囲」
 幕府大目付ら関与か
 新潟大名誉教授 討ち入り成功要因指摘
 「忠臣蔵一として知られる元禄15(1702)1214日の赤穂浪士討ち入りについて、現在の東京都墨田区両国にあった吉良上野介邸は、刃傷事件を起こした浅野内匠頭の親戚だった大名や旗本の屋敷に囲まれていたことが、討ち入り成功の要因だったとする説を新潟大名誉教授で郷土史家の冨沢信明氏(77)が唱えている。
 吉良は、刃傷事件後に幕府から命じられて両国に屋敷を移しており、富沢さんは「吉良邸は討ち入り時は四面楚歌(そか)だった。浅野と親戚だった幕府の大目付らが赤穂側の多くいる地区に吉良邸を移させて討ち入りをさせやすくしたのではないか」と話している。
 吉良邸が江戸城内から、警備が手薄な城外の両国へ移ったことで討ち入りが容易になったことは、これまでも指摘されてきたが、冨沢さんは当時の屋敷を記した地図に注目。大名、旗本の系譜集一寛政重修諸家譜」を基に、住んでいた武家の家系を調査した。
 吉良邸周辺には、浅野や、浅野の「またいとこ」だった幕府大目付・溝口宣就と親戚関係にある武家の屋敷が32軒もあったことが分かった。吉良の親戚は6軒しかなかった。溝口は四十七士の堀部安兵衛とも「はとこ」で、安兵衛は知人への手紙で「宣就の屋敷に行って、亡君の憤りについて心の内を打ち明けたい」と記していたことや、吉良邸の移転を命じた老中も溝口の親戚だったことが分かっている。
 冨沢さんは討ち入りや、その後の浅野家菩提(ぼだい)寺・泉岳寺までの行進が順調に行われるなど、あだ討ち成功には幕府側の配慮があったと考え、調べていたという。
【静新令和11212日(木)朝刊】

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