2020年10月29日木曜日

沼津御用邸記念公園  ㊤移譲の舞台裏最後の証人 令和2年10月27日(火)㊥衰頽の時代大改修 10月28日(水)㊦耐震化や観光活用 10月29日(木) 静岡新聞ワイドしずおか 

 

沼津御用邸記念公園

市民と共に50

 ㊤移譲の舞台裏最後の証人

 宮内庁と交渉熱意届く


 沼津御用邸記念公園(沼津市下香貫島郷)はことし、開園50周年を迎えた。同公園では皇室ゆかりの品の特別展示など記念事業が行われている。11315日には報道写真展「皇室に愛されたまち・沼津」(静岡新聞社・静岡放送主催)が開かれる。公園整備に尽力した人々と歩みを振り返るとともに、貴重な文化財でもある施設をどう活用し、次代に受け継ぐべきか取材した。



 老紳士は50年前の記憶をはっきりと覚えていた。「ほとんど毎日、朝一番で東京に通い詰めた。大急ぎで交渉をまとめるのが仕事だったんだ」。声の主は矢田保久さん(104)=沼津市上土=。1970年、沼津御用邸が市に移譲された際に宮内庁と折衝を行う市企画部長を務めた。記念公園として開園するまでの舞台裏を知る最後の証人だ。

 前年の69年秋にさかのぼる。当時、地元選出の故遠藤三郎衆院議員の秘書だった矢田さんは首都高速道路公団に勤務していた。「沼津に帰って、市を手伝ってくれ」。突然の遠藤氏からの"指令"。聞けば、宮内庁が老朽化した沼津御用邸の廃止を水面下で決定し、市も跡地の公園化を模索しているらしかった。その時点で市が開園日に想定していた市制記念日まで9カ月。交渉の糸口を求めて市は、国との人脈が太い遠藤氏を頼ったという。「地元の要望は何とかしてかなえたい。とはいえ時間もない。不退転の決意だったね」。矢田さんは振り返る。



 始発列車に飛び乗り、宮内庁の食堂で朝食をとりながら、出勤してくる職員を待つ日々。懸命な姿にほだされたのか、やがて思いがけない提案が寄せられた。

「あの時の御用邸内は家具が全部運び出されてがらんどう。『それじゃ、つまらんでしょう』って、貴重な調度品もいただけることになったんだ」。正式に御用邸の移譲が決まったのは開園予定日のわずか1カ月前。矢田さんは「本当に綱渡りだった」と笑う。

 10月中旬、園内に矢田さんの姿があった。通路脇に植栽されたアジサイやツワブキ。皇室にゆかりが深く、皇室とともに歩んだまちの歴史を伝えようと、半世紀前に園路整備などと併せて植えたのが始まりという。矢田さんはいとおしそうに眺めながら、公園への思いを口にした。「この公園には、当時の市民の思いが隅々に宿っている。若い世代もその思いをずっと受け継いでほしい」

 



☆沼津御用邸 1893年、当時皇太子だった大正天皇の静養先として、沼津市南部の島郷海岸付近に建設された。その後、赤坂離宮東宮大夫官舎を移築して東付属邸に、明治の元勲・川村純義伯爵(昭和天皇の養育係)が隣接地に構えていた別邸を西付属邸にそれぞれ加え、敷地面積は約104400平方㍍に拡大。市街地からのアクセス道に残る「永代橋」「御成橋」「八間道路」などの名称が往時をしのばせる。太平洋戦争末期の19457月、沼津大空襲で本邸が焼失。老朽化に伴って69年に廃止され、跡地や建物を譲り受けた市は翌707月、沼津御用邸記念公園を開園した。

【静新令和21027日(火)朝刊「ワイドしずおか」】


沼津御用邸記念公園

市民と共に50

㊥衰退の時代大改修

 「誇り」回復憩う拠点に

 「何もかもボロボロで。今やらなきゃって思った」。元沼津市長の桜田光雄さん(75)は、まるで昨日のことのように回想した。199096年の在任中に手掛けた沼津御用邸記念公園の改修。開園から約20年を経て始まった大事業だった。

 きっかけは就任2カ月後に出席した公園のイベント。立ち入りが当時禁止されていた西付属邸の内部を、雨戸の隙間からのぞいた。ほこりまみれの部屋に抜け落ちそうな床、シロアリに食われた柱ー。貴重な皇室建築物は無残なほど荒れていた。

 すぐさま、公園整備の基本構想策定に着手した。調査委に国文学者の故金田一春彦氏ら専門家にも協力を求めた。「建物が朽ちていくことは、市民の誇りを失うのに等しい気がした」と桜田さん。大改修を進めた理由には、バブル崩壊に端を発した90年代初頭の時代背景も絡んでいたという。

 「不況の到来とともに、急速な衰退が始まった。改修を通して『沼津らしさ』や『自信』を取り戻す意図があった」と語る。



 東付属邸は文化・教養活動の拠点として親しまれる。公園で毎年5月、流派を超えて「ぬまづ茶会」を主催する市茶道連盟の池田宗博会長(86)=同市大岡=は「これほど素晴らしい環境は全国でも少ない」と胸を張る。


 茶の湯文化は本来、茶席をともにした人々が互いに打ち解けることで、争いを避けるための知恵として発展したという。池田さんは公園で茶会を開く意義を説く。「国民の象徴として、平和な暮らしを祈ってくださっている皇室。茶道も根本に平和がある。だからこそ、皇室ゆかりの地で開かれる茶会は大きな意味を含んでいる」



 新型コロナウイルスの影響で、今年のぬまづ茶会は中止になった。池田さんは来年こそはと再開を願う。コロナ禍を乗り越え、市民が憩う拠点施設であるこの公園で再び茶会ができる平和な日々を待ち望んでいる。

 

  公園開園後の皇室と沼津市沼津御用邸記念公園の改修工事のうち、最初に完了した西付属邸の一般公開が始まったのは1994年。これに合わせて天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)23年ぶりに立ち寄られた。2000年には、長泉町で静養中の皇太子ご夫妻(現天皇1皇后両陛下)も訪問。長女の愛子さまは学習院初等科6年生だった13年、公園に隣接する同校の游泳場で遠泳行事に参加し、その体験を卒業文集に記して話題となった。現在の上皇さまは沼津での思い出を折に触れて話題に取り上げ、皇室との結び付きは今なお深い。

【静新令和21028日(水)朝刊「ワイドしずおか」】


沼津御用邸記念公園

市民と共に50

 ㊦耐震化や観光活用

 "本物"の価値次代へ 皇族がプライベートの時間を過ごした沼津御用邸記念公園の西付属邸御座所。庭に面した窓を開けると、クロマツ越しに駿河湾がきらめいていた。勤続27年のベテラン職員田内れいこさん(71)は「御用邸で一番好きな場所。皇室の方々も心を癒やされたのではないのでしょうか」と思いをはせる。

 5千本近いクロマツに駿河湾への眺望、松越しに望む富士山ー。旧沼津御用邸苑地は2016年、海浜保養地の優れた風致景観を伝える名勝地として、国の文化財に指定された。歴史的にも建築史的にも貴重な施設。だが、田内さんは「意外と近くの人も来たことがないと言うんですよ」と苦笑いする。ピーク時は30万人近かった来園者数は19年度、約12万8千人に減った。

 文化財としての価値をどう守り、人々の関心を高めていくか。市は課題解決に向け、20年度から新たな整備計画を進める。明治期に建てられた西付属邸と東付属邸は初めて耐震改修し、見学しやすいようバリアフリー化も図る。クロマツの適正管理にも取り組み、見通しの良い美しい庭園を作っていくという。

 観光資源としての活用も力を入れる。近年は夜間のライトアップやグルメフェアなど、幅広い年代が楽しめるイベントを実施。昨年から皇室ゆかりの庭園と連携したガーデンツーリズムを開始し、50周年記念事業では所蔵品の合同展示を行っている。市の担当者は「風光明媚(めいび)な公園を訪れると、皇室が沼津を選んだ理由を感じられる。市内外に魅力を発信し、来訪のきっかけを作りたい」と話す。



 同公園には現在までに、天皇皇后両陛下をはじめ多,くの皇族が訪れた。田内さんが印象深いのは、1996年に訪問した常陸宮ご夫妻。職員かと尋ねられて顔を上げると「きれいにしてくれてありがとう」とほほ笑まれ、期待に応えたいと胸がいっぱいになった。「ここには"本物"が残っている」と田内さん。沼津の誇りとして、次世代に引き継がれることを願っている。(東部総局・薮崎拓也、山下奈津美が担当しました)

 

 本紙所有の写真を展示

 沼津御用邸記念公園の開園50周年を記念した報道写真展「皇室に愛されたまち・沼津」(静岡新聞社・静岡放送協力)11315日、沼津市下香貫島郷の同公園西付属邸で開かれる。本紙が所有する写真20点を通して、皇室とともに歩んだ沼津の歴史を振り返る。

 写真は、戦後間もない1946年に御用邸付近の海岸を犬と散歩している少年時代の上皇さまをはじめ、上皇后さまと手をつないで沼津市を初めて訪れた幼少期の天皇陛下のお姿などを紹介する。

 園内では期間中、「松籟(しょうらい)の宴2020(同実行委主催)としてさまざまなイベントも開催される。

 写真展は無料だが、観覧には西付属邸を含む園内観覧料として大人410円、小中学生200円が必要。開園時間は午前9時~午後4時半。

【静新令和21029日(木)朝刊「ワイドしずおか」】


地震の被害示す沼津城絵図 大手町関係者の尽力で明治史料館へ寄贈 (令和2年10月29日沼朝記事)

 




地震の被害示す沼津城絵図

 大手町関係者の尽力で明治史料館へ寄贈

 幕末の沼津城を描いた絵図と二の丸御殿の間取り図が明治史料館に寄贈されることになり、その橋渡しをした大手町町内会の役員と、沼津史談会の匂坂信吾会長ら会員2人が28日、大手町会館で、その2点と対面。広げた絵図と現在の町域について確認し合った。



 絵図については「沼津市史別編絵図集」に収められていて、所有者も分かっていたが、その後、所在不明となっていたのが最近になって判明。所有者関係者から同史料館に寄贈されることになった。

 また間取り図についても、同じ間取り図ながら今回の寄贈品にはない文字が書かれた別物が市史絵図集に掲載されていて、こちらの間取り図は所有者から同史料館に寄託されている。

 今回の寄贈品のうち、絵図は万延元年(1860)9月の作製。大きさは105㌢×90㌢。 市史絵図集の説明には、「本絵図の右下に記されている表題によると、沼津城が嘉永七年(一八五四)一一月四日に地震の被害を受けた時の破損の覚とある。幕府に対し補修願いとして、(中略)崩壊箇所を三九箇所列挙し、絵図面に朱引で当該破損箇所を示している(後賂)」とあり、それ以前に描かれた絵図との違いについても説明している。ここで言われている「地震」は「安政の大地震」のこと。

 市史絵図集掲載の絵図は、色合いが赤くくすんでいるが、原図は城の周囲の堀も城の前の東海道も水や道に合わせた着色がされている。

 一方、間取り図は安政年間(18541859)の作製で、絵図集掲載のものは大きさが785x542㌢。

 説明によると、「(前略)沼津城二之丸の城主御殿の住居間取図である。細かい間取や設計が正確に作図されていて(中略)入り組んだ当時の各部屋々々の間取を知ることができる。(中略)安政年間に作成されている間取図に基く住居は、地震後に新たに普請されたものと思われる(後略)」という。

 特に絵図は出席者の関心を集め、「本丸跡が今の中央公園だからー」と現在の建物との位置関係について確認し合い、「堀の水は、どこから引いたのか」の問いには「子持川から」との説明もあるなど絵図談議は尽きず、異口同音に出た言葉は「いや、この絵図は貴重だよ」。

【沼朝令和21029日(木)号】




2020年10月23日金曜日

201023アーカイブス「魚見の松伐採作業」平成26年7月8日作品

古墳と都計道路の整備で 市が守る会に進捗状況を説明

 

古墳と都計道路の整備で

 市が守る会に進捗状況を説明

 高尾山古墳を守る会(鈴木博会長)8月、「都市計画道路沼津南一色線・高尾山古墳に係る要望書」を市に提出。これに対して21日、市から回答があった。市教委文化振興課の森剛彦課長、木村聡主任学芸員ら担当職員がサンウェルぬまづで、鈴木会長、江藤幹夫、足立清一郎両副会長に回答を伝え、質問に答えた。



 国史跡指定に向け検討委

 今後、メンバー選定を検討

 都市計画道路沼津南一色線は、国道1号や幹線道路の慢性的な渋滞の緩和を目指して1996年に事業着手し、工事に伴う発掘調査の結果、建設予定地内の古墳が東日本で最古級、最大級の前方後方墳で、考古学上、極めて重要なものであることが判明。

 同会をはじめとする市民団体から、高尾山古墳の存続を求める陳情を受けて検討が始まり、2015年度に有識者による道路と古墳の両立に関する協議会を開催し、古墳の撤去を前提とした道路計画が見直されることになった。

 その後、道路事業と古墳保存の両立と利活用、周辺環境との調和を図る方針で東側2車線は墳丘部と神社の間を橋梁で通過し、西側2車線は墳丘部の下をトンネルで通過する整備案に決定。

 この整備案を基にした設計競技、今年2月に開かれた公開プレゼンテーションの結果、最優秀提案にエイト日本技術開発静岡事務所とイー・エー・ユーが応募した「ふるさとの風景をつくる『みちにわ』」が選ぼれた。

 古墳を主体に構造上、合理性の高いフォルムで、橋梁横に歩廊を付けて視点場を増やし、歩行者や来訪者の安全な動線を確保。古墳周辺の北側広場や隣接私有地から古墳、神社、谷戸川などと一体的につながる空間、地域住民の憩いの場として整備されることになった。

 要望書は「道路整備と古墳整備事業の進展に大きく期待している」として、整備工事の進捗状況や今年度中の予定、今後の年次計画などについて尋ねた。

 市の回答では、331日付で最優秀提案者と道路測量設計業務委託を結び、6月に現地測量と設計業務に着手。7月には古墳の環境整備として墳丘上の切り株撤去を業務委託により実施した。

 また、今年度中に実施予定の計画については、国史跡指定に向けた「高尾山古墳国史跡指定具申書作成検討委員会()」のメンバーの検討、高尾山古墳出土遺物レプリカ作製業務委託を実施し、レプリカは9月末に完成。市文化財保護審議委員会に現状報告を行い、今年度中に高尾山古墳発掘調査の整理作業及び調査報告書2を刊行する。

 さらに来年度は、今年度から引き続き道路測量設計業務委託を実施。高尾山古墳の普及啓発を図る事業を行い、国史跡指定のための具申書作成に向け、文化庁と事前協議を行いながら準備作業を進めていく。

 鈴木会長は「工事で古墳が損傷するようなことがないようにしてほしい。道路と古墳の整備を同時進行しながら、市民のため、まちのために素晴らしいものを造ってほしい」と期待を寄せた。

 江藤副会長は「会で中心的に活動し、今年亡くなった瀬川裕市郎さん、杉山治孝前会長の遺志や人脈を引き継ぎ、古墳の価値を広く市民に伝えていきたい。古代の歴史に関心を持ってもらい、地元の遺産として古墳を大切にしていく」と話している。

【沼朝2020(令和2)1023(金曜日)号】



2020年10月22日木曜日

201022アーカイブス「沼津商業街戦後昭和史」パワポ資料動画平成26年3月資料

吉原宿の変遷 浜悠人

 


吉原宿の変遷 浜悠人

 奈良時代、西国から東国(あづま)へ下る時には愛鷹山麓を通ったであろうか。先日、富士広見公園の片隅に万葉歌碑(東歌)を発見した。

 「天の原富士の柴山木の暗(くれ)の時移りなば会はずかもあらむ」 私なりに解釈すれば、「富士山の麓の柴山で逢う瀬をひそかに楽しんでいたが落葉の季節ともなれば人に見られ会うこともできなくなるだろう」。

 また、万葉の歌人山部赤人は「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」-と詠み、その屹立した歌碑が田子の浦港近くの公園に見出される。

 吉原駅南の海岸を「田子ノ浦」と言い、古くは興津辺りまでの海辺を田子ノ浦と呼んだらしいが、現在、海岸の名として残るのは、ここのみである。ここからの富士山は海抜0㍍から真正面に見ることができる。

 時移り、慶長六年(一六〇一)、徳川家康による東海道の整備に伴い吉原宿は江戸日本橋から十四番目の宿駅に指定された。ここは海に近く葦(よし)が生い茂る湿地帯なので吉原と呼ばれた。

 最初の吉原宿は元吉原辺りに置かれ、現在では元吉原宿と呼んでいる。これが寛永十六年(一六三九)の高潮の被害に遭い、依田橋付近に移り、そこは中吉原宿と呼ばれた。

 さらにその後、延宝八年(一六八〇)、中吉原宿も高潮により壊滅的な被害を受け、より内陸の伝法村に割り入る形で移転、現在の吉原本町通り辺りに新吉原宿が作られた。二度にわたり宿場は移転。現在の吉原の地に落ち着くことになったのである。

 中吉原から新吉原へ移る際、東海道を曲がって進むので途中、富士山が左手に見える個所があり、安藤広重の描いた「東海道五十三次吉原」は左富士と呼ばれ、有名である。

 ここから、さらに新吉原に進めば「平家越えの碑」に当たる。治承四年(一一八〇)、伊豆で兵を挙げた源頼朝を討つため平維盛らは富士川西岸の清見ヶ関に布陣した。ところが平家軍は飛び立つ水鳥の羽音を源氏の奇襲と間違えて逃げ去り、源氏は戦わずして勝利を収めた。

 この伝説が「平家越えの碑」であり、現在の富士川より六㌔も東にあり、富士川が幾度も湾曲してきたことを示すものである。

 天保時代(一八三〇~一八四三)の新吉原宿は本陣二軒、脇本陣三軒、旅寵(はたご)六十軒(現在の鯛屋旅館もその一軒にあたる)で、宿場の主な役割は人馬の継立で、問屋場(といやば)と呼ばれる施設が司っていた。新吉原宿は人足百人、伝馬百疋の常備が課されていた。

 本陣は参勤交代の大名や公家、幕府役人の宿泊に使われ、本陣で足りない時には脇本陣が利用された。また、旅寵は伊勢参りの人や旅入に使われた。

 宿場を散策していると、「東海道、大宮街道の道しるべ」なる標識を見つけた。ここが大宮(現富士宮)街道、根方街道、十里木街道の起点ともなる交通の要衝であることが分かった。

 本来、水に恵まれた吉原は江戸時代から駿河半紙の生産地であった。明治に入り西洋紙の輸入で和紙産業が衰退し始め、明治二十年(一八八七)の富士製紙会社設立を期に和紙の生産地から近代製紙業の町へと生まれ変わったのである。

 三度の変遷を経た吉原が今や一大工業都市として活躍しているのも頼もしい限りだ。

 (歌人下子田)

【沼朝令和21022日(木)寄稿文】