2023年5月23日火曜日

沼津公園開園式 駿東郡沼津町の有志者が全力を挙げて計画したる同町千本浜の公園は一昨二日を以て盛なる開園式を行ひたり

 







 沼津公園開園式 明治4182(一九〇八)

 『静岡民友新聞』明治4184

 ●沼津公園開園式 駿東郡沼津町の有志者が全力を挙げて計画したる同町千本浜の公園は一昨二日を以て盛なる開園式を行ひたり

 ▲開園式午前十一時二十分、第一煙花にて市内来賓着席、第二煙花にて市外来賓着席、第三花煙(ママ)にて開式、君が代の吹奏あり、次て小出町長の式辞、李家知事の祝辞、中村報知記者の挨拶、松城県会議員の演説、林沼津鉄工場長の祝辞あり、終つて小出町長の発声にて天皇、皇后両陛下の万歳を三唱し閉会、直ちに園遊会に移りたるが、来賓は予て設けの売店に就き、笑ひつ興じつ酒に折に団子に菓物を両の手にし、各設けの席に戻り、此時余興の芸妓手踊は始まり三番叟、沼津音頭、花がたみ、鶴亀等順次踊り了り、次で天一の手品、松井一座の曲独楽、大神楽以下狩野川の船囃し、底抜け等、数限りなく最も愉快に会を了りたるは午後三時なりし

 ▲招待会 午後四時半、来賓の招待会を臨川館に開きたり、和田伝太郎氏開会の辞を述べ、李家知事の挨拶、寺崎新報記者の演説あり、茲にも余興として松井一座の曲芸、天一の手品、梅坊主の住吉踊あり、紅裾杯盤を斡旋、極めて盛会を告げ午後九時散会せり

 ▲来賓来賓は約六百名にして一般見物人は無慮五万と註せられたり、来賓中の重なる人々は左の如し〔中略〕

 ▲園遊会場 会場は浜寄の一画、欝蒼たる老松の高く踊りつゝある所にして中央に式場あり、之れに東して踊舞台の設けあり、其れより左に廻りて銘酒屋、料理店、茶店、団子、菓物と云へる順序に売店を設け、入口受付より左りして駿豆電気の氷店、日本ビール店及音楽隊席あり、其間、松。竹。梅。花。雪の宴席を設け、舞台裏には警官詰所、応急所あり、其外公園入口より会場に至る道の両側は各売店を以て急に市をなせり

 ▲市中設備 市中は一般に国旗、球灯を掲げ、軒花を列ね、幔幕、店飾等思ひおもいの趣向を凝らし停車場前に一ケ所、郵便局前に一ケ所、浜道緑橋前に一ケ所、以上三個の大緑門(アーチ)と浅間町入口にオリーブ型の大門を造り、停車場前には「祝沼津鉄工場」、郵便局前には「祝電話開通」、浜道のニケ所には「祝開園」なる扁額を掲げ、何れも電気装飾を施し、之れに大国旗を交叉し、球灯、各国々旗数旒を引き、又各町々には花車、踊屋台等の設けありて頗る見事なりし

 ▲天気 朝来雨模様なりしも急に晴れ渡り当日は何んとなく富士、愛鷹、伊豆の諸巒、久能、三保、御前崎共に恍惚として海角に涎を垂るゝが如く、年古る松も急に若返りたるものゝ如く、吹く風さへも殊に涼しく覚ゑたるは最も嬉しかりし(『静岡民友新聞』明治4184

 〔解説〕沼津公園は、明治三九年に御用邸を訪れた皇后が千本浜を愛賞されたことから設置の話が起こり、明治四一年に開園した。開園時の面積は約四万三千坪で、園内には四阿や遊歩道、遊具、運動具などがもうけられた。また、本史料にあるように、八月一日から沼津郵便局で電話交換が開始された。(沼津市誌)


明治20年代の富士沼(浮島沼)絵葉書

 



2023年5月9日火曜日

大正10年 沼津浅間神社写真

 





黄瀬川(きせがわ) (東街便覧図略)

 




黄瀬川(きせがわ)

 東路記に。此川は富士の裾野の方より出る。川の西に黄瀬川と云町有。源九郎義経、始て此所にて頼朝と兄弟対面有し所也。

 東鑑巻之第一(治承四年十月之条)曰。廿二日令レ遷宿ニ黄瀬河給。中略今日。弱冠一人。御旅館之砌。称下可レ奉謁ニ鎌倉殿之由。實手宗遠義實等催之不レ能ニ執啓。移レ剋之処。武

衛自令レ聞ニ此事給。恩ニ年齢之程奥州九郎與支。早可有ニ御対面者仍實平請彼人。而果而義経主也。即参ニ進御前。互談往事。催ニ懐ニ旧之涙。云 是は富士河合戦に頼朝公にぐる平家を追つめんとし給ふを、常胤義経廣常等か諌申して、常陸国佐竹等平氏にしたがふ者先東夷を平け関西に至るへきよし申。是によつて此宿に遷り給ふ其時の事也。又義経と不和になり給ひし時も此宿に逗留ありて都の様子を聞給ふよし、東鑑巻第五文治元年十一月之條に出たり。爰に略す。

昔は名高き旅宿にして遊女も有し所也。建久四年の頃、亀鶴といふ名代の女有し事は普く世に知る所にして、東鑑巻之十三に。愛祐経王藤内等所令交会之吐女手越少将黄瀬河の亀鶴等。と有。此亀鶴は工藤左工門か二心なく契し遊女なりしが、祐経討れて後、尼となりて彼菩提を弔ひける其寺を亀鶴山と号し、同塚も有由。順覧記、白拍子亀鶴が守本尊行基の作なりと誅せり。此亀鶴観音迄は海道より脇にして往還(おうかん)よりは見へす。

門之奥に読さるなり。

東鑑巻之二十五(承久三年七月之条)曰。十三日今日。入道中納言宗行過駿河国浮鳥原。荷眉(ママ)疋夫一人。泣相ニ逢干途中。黄門レ門之。按察卿僅昨日梟首之間。拾ニ主君遺骨帰洛之由答。浮生之慈悲漲他上弥ニ消魂。中略察ニ其意。尤可レ憐事也。休ニ息黄瀬河宿之程。依レ有ニ筆硯之次書付傍。

 旦此辺よりは富士の東西を見る也。黄瀬川橋の上よりは此山の洞真正面に見へたり。実に東海道を通行の旅人は富士山の麓を迫りて行がごとし。続後拾遺

『 黄瀬川は木瀬川とも書く。この川は富士山、金時山、箱根湖水、愛鷹山などから流れ出る水が合流し、ここで街道と交わり、七町程下流で狩野川に合流する川である。『駿河記』には「川幅凡二十間水流二十間合四十間許」とある。また橋は「寛文六年(一六六六)午、長十二間ずつ刎橋に掛く。貞享元年(一六八四)甲子より長四十四間幅三間石垣築立、享保十年(一七二五)より土橋、安永七年(一七七八)より板橋とす。長三拾八間、幅一丈五尺、東橋台六間築出、(下略)」とある。

 図の橋は、その安永七年の板橋で、橋の左手が西で木瀬川村である。橋のすぐ西の街道の南に立場があった。左端に見えるのはそれかも知れない。先方の富士の手前に見えるのは愛鷹山で、この辺りからは険しさは見られない。橋の上流の河原を洗濯を終えた母子が帰って行く。橋の下では老婦が釜を洗っている。橋の挟で飛脚らしい男が立ち止まって見ているのは何のためだろうか。橋の右手は長沢村で神社は知(千・智)方大明神で末社が六社ある神社であった。詞書に見られる」義経・頼朝の対面石のある八幡社はこの神社の東北約五百㍍の所にある。また、妓女亀鶴の墓のある亀鶴山観音寺寿命院は、橋の西の木瀬川村にある。(東街便覧図略)


河曲輪(かわくるわ)  沼津の出はなれの松原に添たる川也。 (東街便覧図略)

 




河曲輪(かわくるわ)

 沼津の出はなれの松原に添たる川也。

此辺を駿河の海と云由、順覧記に見ゆ。

 駿河のうみ昇るおしへにおとはまつヾら いましをたのみはゝにたゝしひ つらかれとするかの海のはまつゝら くるよは稀に人そ行レ成 恋しぬとするがの海の浜つゝら くる夜も波の袖ぬらすらん 霧かくれうたふ舟人声はかり するかの海のおきに出にけり

 

 大木

 恋をのみするかの海のはまつゝら ゆふ浪(なみ)かけてほすかたもなし

 

 香貫山(かぬきやま)

 東路記に。此川向を香貫といふ。

 霊山寺とて禅院有。小松内大臣重盛の石塔有。平家都落の後、肥後守貞能、西国より重盛の骨をとりて首にかけ東国に下りしと有。此地にや納めしかと。云々。

 

 鷲津山(わしずやま)

 東路記に。沼津の南に鷲津山とて、通りて高き岩そびへて見ゆる。と云々。

北条五代記巻之第五に云。清水太郎左衛門 奥州より出たる岩手鵜毛(げ)と云駿馬(はやうま)を持たり。尾がみあくまてちゞみ九寸あまりにて強(つよ)馬なり。長久保(ながくぼ)より鷲巣(わしず)の嶺(みね)へは上道五里ほと有(あり)。此馬の心見ん為甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し旗(はた)をさし卯の刻に長久保を乗出し、鷲巣(わしず)を目かけむち打て野原を真直に馳(はせ)行有様、たゝ逸物の鷹は重羽の雉(きじ)を見て升がきの羽を飛かごとし。と書けり。

 

『 山王社の前あたりから街道に沿って西へ流れる狩野川は、やがて大きく湾曲し南へ向かい海に注ぐ。その間、三枚橋城の外堀として軍事的役割をもっていたので河曲輪(かわぐるわ)という。川幅は七〇問前後で、山王前や上ケ土には、上香貫に通じる渡船場があったという。

 香貫山は沼津城の南東、狩野川の左岸にある標高一九三㍍の山である。 鷲津山は沼津城の南南東にある標高三九二㍍の山で、『駿河記』には、「太平村の南山高二十町、西は江の浦、獅子浜、志下村なり。林樹蒼欝(うつ)として深山の如く、幽谷高峻にして石巖峠つ。中将岩と云ひ鷲頭明神座す。」とある。

 図の街道は山王社の前辺りで、左が東方である。川は狩野川で、左が上流である。川中の船は漁舟で渡し舟ではないようである。先方が香貫山で、所々に黒く見えるのは岩の露頭であろう。香貫山の左に黒く見える山に「はこね山」と書いてある。左端に「わしづ山」とあるのは何かの誤解で、この辺りからは見えない筈である。』(東街便覧図略)


2023年5月8日月曜日

沼津 山王社(ぬまづ さんわうのやしろ)(東街便覧図略)

 



 沼津 山王社(ぬまづ さんわうのやしろ)

国花(こくか)萬葉記に。沼津大明神浅間惣社山王権現と有。

前に誌せし車返(くろまがえし)の里は此辺なりとぞ。今は三枚橋町(さんまいばし)といへり。

 当社に富士の牧狩に用ひられたる大釜とてあり。むかしは二口有しを、盗人取て行んとせしが、重かりければ辺り近き川中になげ捨て去ぬ。

今の釜ケ渕と云是なり。此社の前なる大鳥居に建久二年と誌せし板を立添、此板の下の方損失せしにや。亦立石ありて石面に富士山の形を刻めり。是は彼大釜を往来の旅人に見すへき案内の為となせり。

 

『 山王神社は、三枚橋町と日吉村の境にあって御朱印高五拾石であった。安元(一一七五)の昔、叡山の衆徒が日吉神社の神輿(みこし)をふって強訴をした後、山王宮の崇りがあったので、二条関白師通公の領地、駿河・遠江の二所に神社を勧講することを誓った。それにもとづき当社は御建立といい、大岡の庄拾四ケ村の惣鎮守である。また、同社の釜殿、九尺四面、此釜建久年中源頼朝公御狩の時の釜と云伝、と『駿河記』に見える。

 図は山王社の大鳥居である。左側に建久四年(一一九三)と見えるが、詞書では二年である。鳥居の奥に朱塗り建物が見えるのが社殿であろう。右端の建物が釜殿で、中に釜が見える。その左の石碑には、釜の由来が刻してあったらしい。碑の向こうで婦人に抱かれた幼児に、手前の子供がイナイイナイバーをしているようである。』(東街便覧図略)


状 「仁」 送  沼津市魚町 合名會杜 「仁 」 竹屋荒物商店 電話二七八番

 






状  送

昭和 年 月 日

合計  個

主 受 荷

右之通積送候條貴着御査収願上候也

殿行

扱荷 賃運

 主荷出

(小粒洗濯石鹸ビーズ 花王石鹸・花王エキセリン 花王シヤンプ・ライオン石鹸)代理店

( 亀乃子束子 ガマハイトリ紙)特約店

(荒物 難貨 上敷蓙 簾類一式) 商 卸

沼津市魚町

合名會杜


竹屋荒物商店

電話二七八番


原駅を過て今沢といふに椿林(つばきばやし)あり 「椿明神の社」東海道の実写絵図に文学作品を加えながら解説した新しい歴史資料

 



 椿林(つばきばやし)

 原駅を過て今沢といふに椿林(つばきばやし)あり。又小諏訪(こずわ)と西間門(にしまかど)村の間に椿の明神と云社有。椿を神木とする事吉野の桜の如しとかや。街道の左右に数株の椿枝をまじへたるさま、花紅葉は世に類いも多けれど、それには異りて殊珍らしき詠となれり。

且此所は草鞋(わらんず)、馬沓(くつ)を作り家々の垣あるいは門口にかけ、或は草鞋(わらんず)を一足つゝ板にすへて眼篭(めかご)の伏たる上に載、門口に出せり。是は和らかにしてこたへよきを名物とする由。亦原の駅の出はなれより、沼津辺までの村里は、家々の棟(むれ)に紫はつ(いちはつ)或は鳶尾(えんび)草の類ひを植て屋ねのおさへとす。惣て此辺の垣根は皆竹にてあみたるにいろゝの形を作れり菱或は石たゝみなと、あじろのことくなるもあり。其細工実に奇術と云へし。此辺にうなぎ嶋が原と云所あり。東海道名所記に云。うなぎ嶋が原猟師(れうし)おおき所なり。うなきの焼売り、芋(いも)餅あり。中略。都方にては、いとけなき子どもの数多集りて帯にとりつきて長く并びたるせなかの上を、一人のぼりて、匍偪(はい)ありくをうなぎの瀬のぼりとづけて、たわふれとす。楽(らく)阿弥思出て、

『 原宿の次は今沢、大諏訪、小諏訪、西間門村と続く。その村々では椿林が屋敷森のようになっていた。それは元禄三年(一六九〇)刊行の『延絵図』にも見えているので、少なくとも近世初期以前からのものと考えられる。

 図は小諏訪と西間門の村境付近の街道と考えられ、先方が沼津である。街道の左手先方に「椿明神の社」とある辺りに、詞書に記されている社がある。街道の両側の家々は周囲を椿林に囲まれて華やかである。また、家々が竹垣で囲まれているが、その編み方はそれぞれ独特で美しかった。詞書で、それは奇術であると記している。また、右手前の家の前には目籠(めかご)の上に板を置き、その上に草鞋(わらんじ)を並べて売っている。それは「和らかにしてこたへよきを名物とする」と記している。

左側では、荷物一駄をつけた本馬を曵く馬方が、見事な椿を指して愛(め)でている。中央の駕籠かきはひとり空籠をかついで家路についている。『駿河記』によると、今沢村の三島明神社を俗に椿明神と称す。此辺椿数多くあるを以て号しけるなり、とある。しかし『延絵図』には見られない。何れが正しいのか今の所わからないが、図の雰囲気から考え、西間門の図と判断した。』(東街便覧図略)


2023年5月7日日曜日

千本松原

 



 千本松原

 沼津駅の入口右の方あり。名所にして平維盛の嫡子六代御前の旧跡なり。吾嬬路記に云。千本松原、南の方海つらに有。元いなさ寺と云精舎ありける地也とそ。今も観音堂有。昔頼朝卿平家追討の後、小松殿嫡孫六代、此松原にて切れんとせしを、文覚上人頼朝に乞請て助し所也。ちもとの松原とて名所也。六代はそのご、又逆心有て鎌倉多古江河の東にて誅せられたり。其所に塚有と云。

 東鑑巻之第五文治元年十二月之条曰。十七日上略。三位中将惟盛卿嫡男。字六代。今レ乗レ輿被レ向ニ野地一之処。神護寺文学上人称レ有ニ師弟眤。申請北条殿云。須レ啓ニ子細於鎌倉。待。其左右之程。可レ被ニ宥置。ト云又曰廿四日癸酉文学上人弟子某。為ニ上人飛脚参申云。如此小生者。縦錐レ被ニ赦置有ニ何事哉。中略。彼者為ニ平将軍正統雖少年争無ニ成人之期哉。尤難レ測ニ其心。但上人申状又以非レ可ニ黙止。進退谷之由被レ仰。云。東行筆記に。長門本、平家物語を引て。正治元年二月文覚上人の猪熊の宿所へ押寄せて六代御前を召取関東へ下し、駿河の国の住人岡部三郎太夫好康承りて、千本の松原にて斬りてけり。十二歳にて北条四郎時政の手にかゞりて、爰にて斬れ給ふへき人の、今年廿六迄生たまひける事は長谷の観音の御利生なり、終に駿河国千本の松原にて切れ給ふ事も、先世の宿也とあわれなりし事ともなりと見ゆ。東路塩土伝に云。松原の中に観音堂有。この像南海より出しとや、林中に老松一株有、六代松と云と誌せり。海道記に云。

千本の松原と云所有。老のまなこは極浦の浪(なみ)にしほれ。朧なる耳(ママ)は長松の風にはらふ。晴の天の雨に翠蓋の笠なれども袖をたくらず。砂の浜の水には白花ちれとも風をうらみず行々跡を帰りみれば、前途いよゝゆかし。

 車返里旧跡(くるまがへしのさとのきゅうせき)

 駿州名勝志に云。今の沼津の駅三枚橋町なり。東鑑に駿河国大岡牧及車返牧御所なと云る、皆ここ也と云。海道記、東関記行等に是を戴て詠吟もありと云ども、沼津の駅の図を略せし故、伝説等をも愛にもらしぬ。

 

{ 『駿河記』に「千本公林、松林数享保二年改五千八百七十五本。長五百八拾八間、幅七間半、官道より、凡三町。往古より名高き所にて、千本の松原と云。意は原駅の辺より沼津の浜方面の松原の惣称なりしにや。今は沼津の浜方の松原を云也。」とある。『延絵図』にも沼津から原辺りの海岸に千本松原、千本御林、新御林と記されている。

 図は東間門村あたりの街道で、先方が東方である。街道沿いの水田の向こうに見える松林が千本松原で、図の中央に竹林を柵で囲み、左手に門らしき物が見える所が妙伝寺、その向こうの松林が「六代御前旧林」で、詞書に見られる六代(平維盛の子)が処刑され、首級を埋められたとされている。なお、詞書に見られる「車返里旧跡」は沼津宿三枚橋町である。本図とは直接関係はない。(東街便覧図略)


2023年5月6日土曜日

【PV】Heda, Numazu City -沼津市戸田-

原駅 夕日富士図 (東街便覧図略)

 



 原騨(はらのえき)

 駿州名所志に云。今の原駅、即浮島ケ原也。と。名所方角抄に。

浮島ケ原は富士の南麓なる。仍富士はふせこのなりに見へたり。と云。狗𤡕集上古誹諧に。煙となりてにほふたき物、と云。前にてそねすかた富士とふせことひとつにてとな口しの発句等も見ゆ。関東海道記に。宗紙法師、たち花といふたきものを、馬のはなむけにをくり侍るとて読てつかはしける。

『 この「原」は前図説明の「浮島原」の原の意味である。ここは、鎌倉時代に箱根路が足柄道に代わって発達したのにともない、距離的に短い浦方道が発達し、そこに原の中宿が形成された。それは当時の紀行文等にも見られる事は詞書に見る通りである。近世でも宿駅制度の制定と同時に宿駅に指定されたと考えられている。この宿は街道に沿った典型的な街村の宿で、宿内の往還は二四町四二間であったが、その間に枡形などの障害物の無いのが特徴であった。

 図はその原宿の夕方の街道風景である。遠方の富士山には夕日が当たって朱(あか)く染まり、手前の愛鷹山は日陰になっている。街道は先方が沼津。人影も少なく、街道沿いの茶店では店じまいをしている。街道沿いの家々では、竹を二つに割って、それを叩いて平らにして編んだ竹垣で、風と砂を防いでいる。屋根の棟の草(いちはす)も枯れて黄金色になっている。どうやら猿猴庵の「行はこの宿で泊まったらしい。』(東街便覧図略)

 


2023年5月5日金曜日

230505昭和26年沼津商店街案内図資料動画表・裏・中央公園疑問as

浮島原(うきしまがはら)  浮島観音堂(うきしまくわんおんどう)

 




 浮島原(うきしまがはら)

 浮島観音堂(うきしまくわんおんどう) 分見図、順覧き等其外道中記には観音堂とあり。所の人は地蔵堂なるよしを云へり。いかが。

 駿州名勝志に云。此辺の土地洪水漲る時は、一面に浮にて水上に草野を見る。古へよりかゝりしにや浮島の名有。と誌せし。仙覚万葉集註に曰。富士、葦高両山の間むかしは東海道の駅路有けり。中略。扨此道をむかしの旅人とをりける間、重服触穢(しよくえ)の者とも朝夕とをりけるを、足柄の明神いとはせ給ひて今浮島か原と云は、南海の中に浪にゆられて有けるを打よせさせ給いて。扨其後今の道は出来にけりとなん申伝へて侍へる也。然は打寄る駿河の国といへるは此本縁にとや侍やらん。と云。 平家物語に。富士河合戦に曰。去程に兵衛の佐よりとも、鎌倉を立て足からの山打越、木セ川にこそつき給へ。甲斐信濃源氏共はせ来て一つになる。駿河の国浮嶋ケ原にて勢揃へ有つけり。其勢廿万騎とそ喜びたる。と云。凡此所は旧たる地にして様々の古伝多ける。寿永三年正月、木曽義仲と頼朝卿の軍は、世に知る所の佐々木、梶原宇治川の先陣せし其時東国勢思ひ々に上る程に、此原にて梶原源太景季高き所に上り見るに佐々木四郎高綱か生食と云ふ名馬を引せし故、梶原にはゆるし給わて、佐々木に給はりし事をいきとおりて口論せしも、此原にての事也。平家物語巻第九に詳なれは委しく記すに不及。

 又富士の牧狩のとき、浮嶋ケ原にて下郎とも三ツ足のかなわを常の如く直て用ひけるに、砂地なる故かたむきてすはウさりけり。頼朝御覧して、輪を下になしてすえてと仰ありしが、御覧のことくに打かへして直ければ、かたむく事なし。是も君の御覧のことくと申心にて御徳と申来るよし。鷺水閑談(むすいかんたん)と云書にみえたり。

 海道記に云。浮島ケ原をすぐれは、名はうき島と聞ゆれと実は海中とはみへす、野径とは見つくし草村有。木の林有、はるかに過れは人煙片々と絶て又たっ。新樹程を辺たて隣たかひにうとし。下略。

 東関記行に。此原むかしは海上にうかひて、蓬莱の三ツの嶋のことくに有けるによって、浮嶋となん名付たりときくにも、おのつから神仙の見るにもや有ん。といとゞおくゆかしく見ゆ。と云。

『 浮島原には二つの意味がある。『駿州名勝志』に、「今の原駅即浮島ケ原なり。すべて原より吉原のあたりまで浮島ガ原なるべし。此辺古へより広原の地にて、浮島原、柏原、蒲原の名有。原、吉原、蒲原を三原と称す。」とある。この図では後者の意味で、詞書を書いている。

 図は、浮島観音堂の前の街道である。しかし、その観音堂については確かなことはわからない。図に「分間図、順覧記、其外道中記ニハ観音堂とあり、所の人は地蔵堂となるよしを云へり、いかゞ」と記してある。分間図の「くわんをんじ」は宿の西端、安泰山徳源寺の西にある「小ちや屋」の西隣に見える。しかし、他書等には全く見られない。地元の人のいう地蔵堂ならば、『駿河記』に、得満山清梵寺に地内地蔵堂が見える。それは、里の漁師の網にかかった仏を安置するために長者の妻が建てたものと記している、それかも知れない。また同書には、海上山長興寺に観音堂のある事を記しているが、それは分間図には見当たらない。以上の三つの何れかであろうが、確かな事はわからない。なお街道は先方が沼津方と考えられる。さらに、この図は雨中の図である。先図に見えた雨雲が、ここで雨になった、と考えられる。』

(東街便覧図略)


富士沼 (浮島沼は広沼とも富士沼とも言う。古くは富士沼が一般的であった)

 


 富士沼

 駿州名勝志に云。原吉原の間、北の方に東西一里斗の沼池なり。と書けり。東路記に曰。富士沼の渡り、昔斉藤別当実盛が、東国の軍兵つよきよしを語りしにより、平家おくして水鳥のむれ居る羽音におどろき、源氏の軍兵押寄たりと心得てにけし所也。と云。富士河合戦の事は、前に誌せしごとく源氏は賀島に陣をとり、平家は河の西岸に陣を取しなり。平家物語に云。其夜の夜半ばかり、ふしの沼にいくらも有ける鳥々共が何かは驚き来りけんと、はつと立ける羽音のいかづち大風などのやうに聞へければ、平家の兵共あわや源氏の大勢の向ふたるは時と、斉藤別当か申つる様に、甲斐信濃の源氏等ふしのすそより搦手へやまわりつらん。敵なん十万騎か有らん。取こめられては及ふまし、実をばおちておわりつ。すのまたをふせけやとて、取物とりあへず、我さきにゝとそ落行けると云。丙辰記行に。平氏、鳥の河音に驚いてにけさりしは富士沼の事にて、今の善徳寺は其所也。と云。駿州名勝志に日。善徳寺村今は今泉と云。今吉原の北に有。其地に平家越と云所有。治承戦争の遺跡也。又云。富士沼、古へはことに広く西につらなり、富士河も今の所よりは東の方へ落けると云り。

「 浮島沼は広沼とも富士沼とも言う。古くは富士沼が一般的であった。富士沼に関わる史話等は詞書にくわしいので省略する。 図は西柏原新田の立場付近から沼と富士を描いている。街道の左方が西である。沼の岸や所々に葦が生えている。沼の中央には、漁をする船も見える。先方の富士山の頭には帯雲がかかっている。これは雨雲である故に、雨富士と題した、と考えられる。」

(東街便覧図略)