2017年8月30日水曜日

沼津市立第一小学校の明治時代の歴史

沼津市立第一小学校の明治時代の歴史
1 明治元年9月 代戯館(明治元年9月12日開校:添地二十五番長屋の一棟:亀里樗翁館長)
2 明治元年10月 代戯館 片端六番五番小呂に移る(科目 素続、手習、洋算)
3 明治元年12月8日 徳川家兵学校附属小学校開校(仮校舎として三の丸太鼓門前の多聞)(寺子屋平机式)(蓮池新十郎頭取)(赤松大三郎、附属小学校掟書起草、新小学校校舎設計始める)
4 明治3年1月 静岡藩小学校と改称
5 明治3年4月1日 丸馬出門外片端(今のボールビルPあたり)に兵学校一等教授赤松大三郎の設計により洋風瓦葺き2階建て新築し、城内太鼓門前仮附属小学校舎から移る。(建坪150坪、教室数12室、高机腰掛式、新設備。別棟女子生徒専用)
6 明治4年11月 沼津小学校と改称(中根淑頭取・鈴木五一頭取)(片端)
7 明治6年1月 城内町々立小学集成舎と改称【正則(小学)・変則(中学)】(変則に外人教師招聘、最初米人グッドマン品格無しで解雇、次ぎに英人クーリング教養あり生徒に慕われた。)(当時頭取年俸二百円、普通教師年俸七十円、外人教師年俸二千四百円)
(片端)
8 明治6年7月 本町・上土・三枚橋町立明強舎創立(集成舎は城内方面学区、明強舎は本町、上土、三枚橋を学区する)(場所は下本町清水本陣宅)
9 明治9年 集成舎(山田大夢校長)(片端)から変則科を分離、沼津中学校(校長江原素六)が創立。変則科生徒沼津中学校へ編入。
(沼津中学校は旧駿河銀行大手町支店あたりに、総工費一万円で洋風二階建、石造り、寄宿舎、外人教師用洋風住宅が完備されたものだった。)(明治14年4月寄宿舎より出火、全焼し、貴重な兵学校関係の書物を焼失。外人教師用住宅が類焼を免れたので、修理して教室として授業を再開)(明治17年4月県立となるが、明治19年7月県内の中学校が統一され、沼津町学校は廃校となる)
10 明治10年 「第49番及第53番聯合区小学」として明強舎類焼により集成舎と合併。(片端)
11 明治11年6月 小学沼津学校(沼津黌)(本丸跡)(校長山田大夢)(合併により手狭になり、総工費五千円にて、旧沼津城本丸跡に校舎新築)明治11年6月15日開校式、徳川慶喜揮毫の「沼津黌」を賜る。
12 明治13年12月 城内町公立小学集成舎(後集成舎)(添地)
(今、小林Pあたり)
(集成舎は添地の馬場跡私有地300坪を借用し、戸庁役場と共同で校舎新築。木造平屋建112坪、内12坪役場使用)(集成舎・明強舎・三枚舎分裂、小学沼津校の施設は全部沼津治安裁判所に譲渡、町方町の従来の裁判所を明強舎用に買い取り、敷地の下付けを受けた。)
13 明治14年 駿東郡第一学区町立小学集成舎と改称(添地)
14 明治19年7月 公立沼津黌(町方)三舎合併
15 明治19年12月 駿東高等小学校(旧沼津中学校跡)公立沼津黌上級生編入
16 明治20年1月 尋常沼津黌と改称(町方)(間宮喜十郎校長)
17 明治20年10月 公立沼津尋常小学校(町方)(間宮喜十郎校長)
18 明治25年5月 町立沼津尋常小学校(町方)(間宮喜十郎校長)
19 明治30年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常4年・高等4年)
(鈴木忠平校長)(八幡)
20 明治34年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常4年・高等2年)
(野方正作校長)(八幡)
21 明治34年4月 町立沼津女子尋常高等小学校(野方正作校長)(八幡)
(昭和3年3月まで八幡)(昭和3年4月沼津市立第二尋常小学校)
22 明治41年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常6年・高等2年)
(永田金作校長)(八幡)

2017年8月20日日曜日

「沼津ふるさと講座」大久保忠左と岡崎:講師市橋章男氏





当日資料

平成29年7月9日(日)
『沼津ふるさと講座』
大久保忠佐と岡崎
一大久保氏発祥の足跡と忠世、忠佐兄弟のいた風景
講師 おかざき塾歴史教室主宰 市橋章男

沼津史談会歴史講座
2017,7,9おかざき塾歴史教室 市橋章男
『大久保忠佐と岡崎』
~大久保氏発祥の足跡と忠世、忠佐兄弟のいた風景~
1はじめに
遊撃隊と岡崎脱藩藩士たち
2大久保一族
(1)大久保一族のルーツ
・下野国宇都宮氏庶流武茂氏(寛政諸家譜)
・宇都宮(武茂)泰藤
一南北朝の争乱で新田義貞に従い、敗戦後に岡崎上和田に。
・妙国寺(法華宗/岡崎市宮地町)を菩提寺とする
・宇都宮から宇津(うど)氏に改姓
・宇津忠茂の時に大久保に改姓
・一家康の祖父、松平清康に仕える(山中城調略)
「岡崎開市」の功労者
・長福寺(法華宗/岡崎市竜泉寺町)を菩提寺とする
大久保忠教の墓は遺言により長福寺に
(2)徳川創業期の功臣一「徳川十六将図」の三河武士たちと大久保兄弟
・大久保忠世、忠佐兄弟の活躍
「三河一向一揆」と大久保一族
※「三河一向一揆」について
三河地方に勢力を拡大した真宗本願寺派と、領主である松平家康との間に起きた「領主権争い」と考えて良い。宗派間の宗教戦争的な意味合いはほとんどない。
家臣団には真宗門徒が多く、家康側と一揆側に二分してしまった。大久保党は法華宗であったことから、家臣分裂の危機は免れた。
・大久保党として「上和田城」で一揆方と戦う。激戦となり、大久保忠勝と忠世が目を負傷する(「三河物語」)。
・家康が救援に駆け付けた際、忠世の妻が焼味噌を添えて湯漬けを差し出し、それを大変喜んだというくだりが見られる(「大久保家伝」)。
・大久保忠佐の発願で、蜂屋貞次を伴い和議に及ぶ(「三河物語」)長老である大久保忠俊の家康への諌言一「御手ヲ広クナラセラレ給ババー」
3大久保忠佐の活躍と「旗本」の地位
(1)徳川家康が野戦に強かった理由
・三河一向一揆後の軍制再編 東西三河旗頭を中心に、命令系統を整備。松平一門衆などの内部分裂を防ぐ。
「旗本先手役」の創設。一人に50騎ほどの与力。自由に動く機動部隊。「旗本」のルーツ。後には大久保忠佐や井伊直政も加わる。徳川創業期の功臣たちが顔を並べる。
(2)内政の充実
「仏高力、鬼作左、どちへんなし(偏らない)の天野三兵」
(3)「長篠の髭」一信長の評価
天正三年長篠に軍を出したまふの時、仰によりて兄忠世と列して両手にわかれ、鷹下の鉄砲をつかさどり、かはるがはるこれを発して大に勝頼が軍を破る。
このとき織田右府(信長)忠佐が進退衆にすぐれたるを見て、髭多き武者は誰たるやととはしむ。三河の士大久保治右衛門忠佐とこたふ。
右府その勇武を歎美す。のち東照宮右府の軍に会したまふごとに、長篠の髭はしたがひたてまつるやいなやととはる(『寛政譜』)
(平成29年7月9日 『沼津ふるさと講座』当日配布資料より)