2014年12月13日土曜日

佳境の「ふるさとづくり」匂坂信吾

 佳境の「ふるさとづくり」匂坂信吾

 平成二十五年六月に三年計画で始まった沼津史談会主催の「沼津ふるさとづくり塾」は、既に十七回の講座(一回は史跡探訪旅行会での現地講座)を終え、来年三月には二十回を数えることになります。
 この間、毎回新しい聴講者の方々をお迎えし、延べ一千三百二十六人の皆様の参加をいただくことができました。一回当たり平均では七十八人になります。また、参加者名簿に登録された方は十一月までに四百七十人となりました。
 そして何人かの皆様から、「最近、講座の中身がつながるようになったよ」とか「江戸から昭和までの沼津の歴史が分かるようになった」「だんだん面白くなってきた」といった感想が寄せられるようになってきました。
 現在は市史講座、地域講座の二本立てで運営していますが、沼津市史の近世から近代にかけての歴史の流れが、自然に理解できるようになってきたものと考えられます。
 特に、今年は戦国期から江戸時代の初めにかけての講座が、四月の一回目が平山優氏の「長篠の合戦と沼津ゆかりの大久保兄弟の活躍」で、五月の二回目が久保田富氏の「大久保忠佐と天野康景」で始まった点が理解しやすさにつながったように思います。
 また、明治から昭和にかけての近代の講座では、六月の第三回が荒川章二氏の「戦時下の沼津-海軍工廠と海軍技研など」で、八月の第五回が湯川次義氏の「近代沼津の教育-岳陽少年団の成立と展開」、さらに十月の第七回が寺村泰氏の「沼津繭市場の発展と繊維工場の進出」というように、近代沼津の発展に直接結び付く内容となり、参加者にとって身近で、受け入れやすくなったのではないでしょうか。
 次回開催の十二月二十日()は第九回となりますが、専修大学教授で経済史が専門の永江雅和氏が、特に希望されて「沼津海軍工廠跡地の開拓」というテーマで話されます。
 跡地の開拓を巡る住民同士の紛争を取り上げる企画ですが、この話は第三回の「海軍工廠」とも関連し、第七回の「繭市場や繊維工場誘致」、そして石橋湛山総理大臣の沼津選出の立役者である名取栄一・元沼津市長が進めた金岡、大岡、片浜、静浦の各村と沼津市との合併問題が背景にあります。
 全国各地の軍関係の施設が終戦後、同様な問題を抱えて紛争に至った例は多いようですが、わが沼津でも同じことが起こったわけです。一八〇㌶という、沼津駅の北から金岡にかけての広大な土地(東京ドーム三十八個に相当)が急に海軍の手から離れた中で、食糧難の時代に身につまされるような話が多かったと思われます。
 当日は午後一時三十分から市立図書館四階の視聴覚ホールで講座を開きます。資料代五百円(会員は二百円)が必要です。
 なお、平成二十七年一月十七日()に予定していた樋口雄彦氏の「沼津での文明開花期の諸相」は、講師の都合で中止します。その分は、同年四月十九日()午後二時三十分から、市立図書館四階の視聴覚ホールで、テーマを改め、「箱館戦争と榎本武揚-静岡藩・沼津兵学校との関連を中心に」となります。
 これは現在、明治史料館で開催中の開館三十周年記念特別展「沼津兵学校とその時代」の中で行われる次の歴史講座と連動するものです。
 ▽平成二十七年一月二十四日()講師日浅川・道夫氏(日本大学国際関係学部教授)「幕末維新期の兵制と士官教育-幕府陸軍の遺産と日本陸軍の創設」▽同二月十四日()講師=樋口雄彦氏(国立歴史民俗博物館教授)「沼津兵学校とその時代」いずれも時間は午後一時三十分から四時、会場は明治史料館です。
 また、本会が第十一回「沼津ふるさとづくり塾」として平成二十七年二月二十一日に開催を予定している平山優氏「興国寺城と武田一族」は、同氏が山梨県でも雪深い地域に住んでいるため、今年二月のような大雪になると交通が遮断され、中止となる可能性があります。当日近くの天候によっては、次の問い合わせ先まで連絡をお願いします。
 問い合わせは、沼津史談会の匂坂信吾(電話〇九〇ー七六八六-八六一二)、または根木谷信一(電話〇九〇ー八五四八ー七九〇九)まで。(沼津史談会副会長、小諏訪)

(沼朝平成261213日号)

2014年10月19日日曜日

141018沼津繭市場の発展と繊維工場の進出:講師寺村泰教授





















当日画像資料

工業進出で人口が増加
 沼津の経済発展過程を学ぶ
 沼津史談会(菅沼基臣会長)は、第7回沼津ふるさとづくり塾を、このほど市立図書館視聴覚ホールで開き、約六十人が受講。講師を務めた静岡大学人文社会科学部の寺村泰教授が「沼津繭(まゆ)市場の発展と繊維工場の進出-沼津の経済発展過程を捉えるー」と題し、明治から昭和初期までの沼津の経済と人口の歴史について、様々な統計資料に基づいて述べた。
 変化のきっかけは繭市場開設
 史談会ふるさとづくり塾
 寺村泰静大教授が講義
 戦前沼津の人口変動明治十八年(一八八五)から大正三年(一九一四)の間に、静岡県全体では人口が約一・五倍に増えた。これに対し、旧沼津町の人口の伸びは約一・二倍で、県内平均よりも低い伸び率だった。
 一方で、大正三年から十二年の間は、県内人口が一・一倍になったのに対し、沼津の人口は約一・五倍になった(この時の「沼津」は旧沼津町と旧楊原村を合わせたもの)
 大正時代において沼津の人口が県内平均以上に増加したのは、繊維工場の進出により沼津が商業都市から軽工業都市に変貌したことによるもので、外部から労働者人口が流入した。
 昭和になり、太平洋戦争が始まると、海軍工廠や東芝機械などの軍需工場が進出して沼津は重工業都市となり、これに合わせて人口が急増。太平洋戦争前後の昭和十五年と二十二年を比較すると、静岡市や浜松市では人口が減少したが、沼津市は人口が増え、戦争によって増えた人口は、戦後も維持された。
 これは軍需工場が民需工場に転換したことや海軍工廠跡地が新たな工業用地となって沼津の工業化を維持したことが大きい。
 明治大正期の経済 我が国の統計学研究の草分け的存在である杉亨二(すぎ・こうじ)は江戸幕府に仕え、明治維新後は静岡藩に仕えた。その際、藩内で人口調査を行い、旧沼津町や旧原町に相当する地域の人口資料を残している。
 それによると、明治二年(一八六九)の旧沼津町民の職業構成は、約五割が商業やサービス業で、工業や農業は一割ずつに過ぎない。当時の沼津は商業が中心となった都市だった。
 これに変化を与えるきっかけは、大正五年(一九一六)の沼津繭市場の開設だった。繭市場の開設により、蚕の繭から生糸を作る大規模製糸工場が現在の高島町周辺に進出。繭確保が容易であることや、豊富な水資源、輸出港である横浜と東海道線により直結していること、などが理田だった。また、工場誘致のために旧沼津町当局も積極的な誘致活動を行っていた。
 第一次大戦後の大正九年(一九二〇)に世界恐慌が起きても沼津の繊維工業は好調で、人手不足の事態さえ生じた。沼津の工場は最新鋭の設備を有していたので、企業経営者が他地域よりも沼津の工場を優先して操業を続けさせたのが、その理由だという。人口が増加し、経済が発展する中で、沼津は大正十二年(一九二三)に市制施行を果た
した。
 沼津繭市場 沼津の工業化と人口増加に大きな影響を与えた繭市場は、山梨県の繭仲買人の家に生まれた名取栄一(一八七三~一九五八)によって設立された。
 当時、静岡県東部では国策による補助金行政もあり養蚕が盛んだった。県東部で生産された繭は長野県の製糸工場群に運ばれ、生糸の原料になった。かねてより長野系の製糸企業とつながりのあった名取は、県東部産繭の一手買い入れを狙い、繭市場を創設して他の繭取引業者と激しく争った。
 その後、独占買い付けによる繭の買い叩きから農民を保護しようとする政府の動きに合わせ、昭和十二年(一九三七)、繭市場は廃止された。廃止後の昭和十五年(一九四〇)、名取は沼津市長になっている。
 重工業へ一九三〇年代の昭和恐慌により製糸業は打撃を受け、繊維工場の閉鎖が始まり、繭価格低迷により養蚕農家も減少した。代わって重工業系の工場が沼津に進出。兵器部品を生産する富士製作所や国産電機、芝浦機械などの工場が建設された。
 昭和十八年(一九四三)の海軍工廠設置により沼津の軍需工業は発展し、太平洋戦争末期に最盛期を迎えた。
 終わりに 明治から太平洋戦争終戦までの沼津の経済と人口について解説した寺村氏は、沼津の経済の特徴として、①工場誘致が経済発展を大きく左右した、②名取栄一のように沼津の外部からの人間や資本によって工業化が進められた、③工場誘致において行政当局が積極的に関わった、の三点を挙げた。
 また、余談として戦後のコンビナート誘致と反対運動について経済史の観点から述べ、「沼津へのコンビナート進出失敗は公害反対運動のみによるものか」と問いかけながら、当時の沼津市内は失業率が極めて低くてコンビナート建設による雇用創出を求める機運が市民間に生まれなかった、コンビナートの工場は三島市や清水町に建設される予定で沼津市には税収面のメリットが期待できず沼津市当局も誘致には消極的だった、などといった当時の状況を解説した。

( 沼朝平成26117日号)

第7回「沼津ふるさとづくり塾「沼津繭市場の発展と繊維工場の進出」




沼津繭市場の発展と繊維工場の進出
講師:寺村泰教授




















当日画像資料集

2014年10月5日日曜日

沼津に武田の隠れた名将「曽根下野守昌世」

沼津に武田の隠れた名将「曽根下野守昌世」 
 興国寺城の城代務めた一時期も

 市教委は先月、二十六年度歴民講座「甲斐武田氏と沼津~興国寺城将曽根下野守昌世を追って~」を市立図書館視聴覚ホールで開催。約二百人が聴講した。講師は、歴史学者で戦国大名武田氏研究の第一人者、平山優氏が務めた。平山氏は、これまでにも二回、同講座で講師を務めている。


 曽根下野守昌世 信玄をして「両眼の一方」
 今回のテーマとなった「曽根昌世(そね・まさただ)」は、武田信玄と勝頼の二代に仕えた戦国武将で、市内根古屋の興国寺城が武田領になると、同城に駐在した。武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて旧武田勢力を徳川派に迎えるために活躍したが、家康によって追放処分となり、最終的には豊臣系の大名である蒲生氏郷(がもう・うじさと)の家臣となった。
 真田昌幸(*)と共に、信玄によって「我が両眼」と評価されるほどの才能の持ち主だったが、真田氏とは違い、その子孫は大名になることもなく途絶えてしまった。現在も、昌世に関する研究は、ほとんど行われていない状況だという。
 曽根家 曽根家は武田家十四代当主の信重(のぶしげ)の子孫に当たる。信重の長男信守は武田本家を継ぎ、信玄は、その子孫。信守の弟達は分家して曽根家と下曽根家の初代となった。「曽根」の名は、甲府市南西の曽根丘陵に由来するといい、同丘陵には曽根氏の館があったという伝承がある。曽根も下曽根も、武田本家の家臣という立場だったが、武田一族として格の高い家臣と見なされていた。
 曽根家と昌世 平山氏によると、昌世は曽根家の本家出身ではない可能性があるという。武田一族の家系の嫡流は、名前に「信」の字が付く慣習があることから、このような推測ができるという。
 昌世は曽根家の嫡流ではなかったが、信玄の側近として活躍し多くの史料に存在が記されている。一方で曽根家嫡流の人物については、史料上に明確な記述はない。ただし、三枚橋城の城将を務めた曽根河内守のように、曽根家嫡流である可能性が指摘される人物は存在している。
 平山氏は、昌世が本家筋の人物よりも史料が豊富な点について、信玄は家臣の次男、三男を取り立てて自分の側近としていたことを話し、嫡流の人物は本家を守るために地元に残ったので信玄家臣として活躍する機会も少なかったのだろう、と推測する。
 失脚と駿河 昌世は信玄の側近として活躍する前に、失脚を経験している。一五六〇年に桶狭間の合戦で駿河の今川義元が死亡すると、信玄は駿河侵攻を考えるようになった。信玄は外交方針を転換し、それまで親密だった今川を攻めるために今川の宿敵である織田信長との同盟を計画。信長の養女と自分の四男勝頼との政略結婚を考えた。これに反対したのが、信玄の長男で義元の娘を妻にしていた義信だった。
 こうして信玄と義信の親子の間には、今川を巡る外交方針の対立が起こった。これは義信の幽閉と死という結果で終わり、義信の側近達も死罪や自害に追い込まれた。曽根一族も義信派であったため、昌世らは所領を信玄に返還して甲斐を去ることになった。
 この時、昌世は駿河で暮らしたといい、この駿河での生活について平山氏は、曽根丘陵と駿河とは陸路で通じていることを説明し、曽根一族と駿河との関係の近さを指摘するとともに、後に昌世が興国寺城に派遣されたのも、こうした駿河との関係によるものだったのではないかと推測した。
 信玄の両眼 一五六八年、信玄が駿河今川領への侵攻を開始したころ、昌世は信玄の家臣として復帰し軍中で活躍。一五六九年に今川を支援する北条軍と武田軍が三増峠(神奈川県西北部)で戦った際、昌世は浅利信種という重臣の軍勢に監視役として従軍していた。
 この時、信種は銃撃を受けて戦死し、浅利隊は大混乱に陥ったが、昌世は、すぐに指揮官代理となって混乱を鎮め、そのまま敵軍に反撃を開始して勝利。一五七〇年の花沢城(焼津市)の戦いでは、共に信玄の奥近習(秘書)として同僚だった真田昌幸と軍の先頭に立って真っ先に敵城に乗り込んでいる。
 同年、現在の三島市周辺で北条と武田の両軍が戦った際、信玄の重臣が「偵察をして周辺の地形を調べるべきだ」と提室すると、信玄は「すでに私の両眼のような者達を派遣しているから、心配はいらない」と答え、家臣達が「信玄様がそれほど信頼している者達とは何者だろう」と噂し合っていると、昌幸と昌世が偵察から帰って来た。これ以後、多くの人が昌世達の才能を認めるようになったという。
 足軽大将 このころの昌世は「足軽大将」という身分だった。この場合の足軽とは、金銭で雇われてパート労働者的に従軍する傭兵(ようへい)などの職業軍人のこと。足軽大将は、こうした兵士達を率いていた。足軽の部隊は即座に招集でき、戦場へも派遣しやすいので、手柄を立てやすい立場にあった。昌世も足軽大将から出世して侍大将になり、さらに城代という出世コースを歩いた。
 城主・城代・城将 城の責任者を何と呼ぶかについて、平山氏は歴史研究者による三種類の定義を紹介した。「城主」とは、城の元からの所有者を指す。「城代」とは、大名から城を任されて、城の周辺の土地を統治する「郡司(ぐんじ)」の権限も持つ者。「城将」は、大名から城を任されているものの、城の守備など軍事に関する権限のみを与えられた者。
 興国寺城に派遣された昌世は、この三つのうちの城代として駐在し、税金徴収や関所の監督、労働者動員、裁判事務などの職務も行っていたという。なお、興国寺城と同じく、当時の沼津市内にあった三枚橋城は、城代ではなく城将が駐在する城だった。
 興国寺城 戦国時代初期に活躍した北条早雲の旗揚げの城として知られる興国寺城は、北条氏が関東に勢力を伸ばした後は今川氏に奪われた。武田氏が今川氏を攻めて駿河に侵攻すると、北条軍は今川氏を支援して駿河東部に進出し、興国寺城もこの際に北条氏の支配下に入った。この時の武田氏と北条氏の戦いは武田の優勢な状態が続き、逆転の機会を得られなかった北条氏は、武田氏が駿河を領有することを認めて和平を結んだ。
 こうして一五七二年、興国寺城は武田氏の支配下に入り、数人の前任者を経て昌世が城代となった。任命の時期は不明だが、昌世が城代として発行した天正六年(一五七八)の日付入りの命令書が確認されている。
 天正壬午の乱 興国寺城代となった昌世は、一族にして三枚橋城将の曽根河内守に協力し、北条側の戸倉城(清水町)を武田側に寝返らせるなどの活躍をしたが、武田氏は一五八二年に織田信長に攻められて滅亡。昌世は以前から信長に手紙を出すなどの裏工作をしていたことから生き残ることに成功し、信長の家臣として興国寺城を支配することを認められた。
 しかし、この年に本能寺の変が起きて信長が急死すると、その混乱を利用して領土を広げるために北条軍が箱根を越えて駿河に攻め寄せる気配を示した。このため、昌世は駿河の武士達を統率して徳川家康に協力し、北条軍とにらみ合った。
 上野(こうずけ=群馬県)から田斐、信濃といった旧武田領を巡って徳川氏と北条氏と上杉氏が争い、「天正壬午の乱」と呼ばれる戦いが始まると、昌世は徳川軍に従軍して甲斐へと向かった。昌世は、同じく元武田家臣の岡部正綱と共に甲斐の平定に尽力し、甲斐北部の大野砦(山梨県山梨市)の城将となった。
 その後は信濃に向かって上田城の戦いに参加。この時の敵となった上田城の城主は、かつての同僚、真田昌幸だった。
 追放と晩年家康が甲信地方を手に入れるのに貢献した昌世だったが、一五八四年の小牧長久手の戦いの後に家康の命令で追放される。かつて自分が生き残るために武田氏を見捨てたことが、卑怯な振る舞いとして家康に嫌われたという。
 浪人となった昌世は、後に蒲生氏郷に仕えた。氏郷は豊臣秀吉の部下で、秀吉の天下統一後は会津若松(福島県)を支配した。
 蒲生家臣となった昌世は会津若松城の設計に携わったほか、同じく蒲生家臣となった真田隠岐守(昌幸の弟)と共に蒲生軍の幹部を務めたという。昌世のその後については、史料がないため不明となっている。
 終わりに 講演のまとめとして平山氏は「昌世は地元沼津でも、ほとんど知られていない存在だろう。しかし、武田氏の重臣で有能な人物でもあった。今回、この講演のために昌世について一から調べた。今後は、この研究内容を論文にまとめたい」と話して講演を終えた。
 ◇
 今回の講演会を企画した市歴史民俗資料館の鈴木裕篤館長は、昌世について「武田家臣団を描いた『武田二十四将図』では、昌世は有名武将である真田昌幸と対になって描かれることが多く、本来は重要な立場の人物だったはずだが、現在の知名度はそれほどでもない。武田家臣のイメージ形成に大きな役割を果たした書物『甲陽軍鑑』では、昌世が勝頼を見捨てて裏切ったことが強調されており、昌世が家康に追放されたのも、これが理由になっている。しかし、家康に仕えた者の中には武田を裏切って徳川に乗り換えた者も多いのに、昌世だけが批判的に記述されるのは不可解な部分もある。蒲生家に移った昌世は、武田流軍学の継承者として会津若松城の築城に携わった。その一方で、『甲陽軍鑑』の編さんに深く関与した小幡景憲も武田流の軍学の元締め的存在であったから、武田流の継承者の座を巡って、景憲は昌世に対して何らかの思いを抱いていた可能性もあるだろう。だとしたら、昌世には『甲陽軍鑑』の被害者としての側面があるのかもしれない」と話す。

 (*)真田昌幸 曽根昌世と浅からぬ縁を持つ真田昌幸(一五四七~一六一一)は、信濃北部の豪族出身で、昌世と同じく武田信玄と勝頼の二代に仕えた。「真田十勇士」などの物語で有名な真田幸村(信繁)の父で、昌幸自身も名将として知られている。
 武田氏滅亡後の混乱では、わずかな兵力で敵の大軍を撃退する軍事的手腕を発揮したほか、外交にも優れ、上杉、北条、徳川といった大大名達の下を巧みに立ち回り、最終的には大名として独立を勝ち取った。
 関ヶ原の戦いの際には、東軍と西軍のどちらが勝 関ヶ原の戦いの際には、東軍と西軍のどちらが勝利しても真田氏が生き延びられるよう、長男信之を東軍に参加させ、自分は次男幸村と共に西軍に加わった。東軍の勝利により昌幸、幸村親子は領地から追放されたが、信之は大名として生き残り、大名としての真田家は幕末まで続いた。
 再来年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、幸村が主人公で、その家族とのつながりが中心に描かれるという。昌幸が劇中で重要な役回りを果たすことが予想される。

(沼朝平成26年10月5日号)

2014年9月22日月曜日

戦国時代沼津の三大城巡り

 沼津市立図書館秋の企画展
 戦国沼津の三大城巡り
 ~展示内容に一歩踏み込みたいあなたへ贈る解説~

 沼津の地理的特徴とはどういったものが考えられるでしょうか。東海道を代表とする「東西」の道と山梨県から御殿場・裾野を通る「南北」の道との交差点、急峻な箱根の手前に位置する東国への玄関口、駿河湾の最奥部と伊豆半島への入り口、これらは全て沼津を語るうえでの重要な特徴であるといえます。そして現在に限らず、戦国時代においても、沼津の地は地理的優位性によって東駿河の中心地であったのです。
 このことから、戦国時代において沼津の地を抑えることは戦略上非常に重要な意味を持っていました。特に北条早雲(伊勢宗瑞)旗揚げの城として知られる興国寺城は、当時の主要街道である根方街道沿いに築かれており、東西の交通を見張ることが可能でした。早雲旗揚げ以後、興国寺城が120年間にもわたって、この地の重要な城として機能し続けたのも重要な街道を抑えるという目的があったからでしょう。
 その後、駿河国(静岡県中東部)の今川氏、甲斐国(山梨県)の武田氏、伊豆・相模国(神奈川県)の北条氏の三氏による争いが、途中の同盟期間を含めても20年近くにわたって行われました。三氏による争いは、駿河国を手に入れた武田氏と伊豆国を治める北条氏の争いへと変わり、狩野川付近に引かれた駿河国と伊豆国の境では、繰り返し戦いが起こっています。武田氏は興国寺城を拠点としながらも前線基地として三枚橋城を築き、さらに千本浜には武田水軍を集結させました。一方、北条氏はこれに対抗して、長浜城を築き、当時最先端の海戦術を持った北条水箪の主力を伊豆に集めました。そして武田氏の侵攻に対抗したのです。両氏の決着はつきませんでしたが、武田氏は織田氏と徳川氏によって滅ぼされ、この地は徳川氏の領有となります。
 徳川氏の領国となった沼津は、引き続き徳川氏と北条氏の前線となりました。一時同盟関係が結ばれたものの、豊臣秀吉の臣下となった徳川氏は、豊臣氏とともに北条氏攻略に乗り出します。北条氏の本拠地は小田原城であったため、箱根手前の沼津は北条氏攻略のための最前線基地として機能しました。北条氏滅亡後の沼津は、豊臣氏の家臣である中村一氏の支配地となりました。中村一氏は、弟の一栄を三枚橋城城主とし、江戸に転封(配置換え)された徳川家康への備えとしています。徳川家康の支配地の最西端が小田原であったため、またも沼津は徳川氏に対する最前線の役割を果たしました。この時に三枚橋城は、石垣を伴う城へ改修されたと考えられます。これにより、豊臣氏がいかに沼津を重要な地点と位置付けていたかを伺うことができます。
 関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下を統一すると、「支配領域の境目」という沼津の地理的特殊性は失われることになりました。その結果、江戸時代初頭には三枚橋城や興国寺城は廃城となり、沼津は東海道の宿場町へと変わっていきました。






 〈興国寺城跡〉

 興国寺城は、北条早雲(伊勢宗瑞)旗揚げの城として知られています。早雲は、中央の政変の動きに呼応して、伊豆に攻め入り、伊豆国を奪取しました。下剋上の例として知られるこの出来事から、東国における戦国時代は始まったのです。

 その後も興国寺城は束駿河における重要な拠点であり続けました。今見えている興国寺城の姿は最終段階、つまり江戸時代初期の姿ですが、様々な城主によって支配を受けた興国寺城は、繰り返し改修が行われ、その時の城主の兵力に合わせながら、城の姿を変えています。たとえば、後の改修によって当時の様子はわかりにくくなっていますが、最初期の北条・今川段階の興国寺城は、16世紀前半の遺物が現在の三の丸から多く出土していることから、根方街道沿いにあったのではないかと想定しています。
 続く武田氏が支配した時の興国寺城の城域は、武田氏が得意とした「丸馬出し」(三日月堀と土塁を組み合わせる入口の作り方)を根拠に、現在の本丸から北曲輪を想定しています。特に本丸の南側に造られた三日月堀からは、16世紀中ごろに作られた「播鉢」が堀の底から見つかりました。この三日月堀は、本丸堀の改修によって、一気に埋められていることが発掘調査で判明したため、「揺鉢」の年代は、この堀が埋められた時期を示している可能性が非常に高いと考えられます。つまり、武田氏が造った三日月堀は、次に城主となった徳川氏によって破壊され、その後に別の形に造り直されていることが想定されるのです。
 武田氏が滅亡した後、興国寺城は、徳川氏の城となります。文献を読む限り、この段階での細かな改修はわかりませんが、参考になる文献があります。『関八州古戦録』巻之十六には、豊臣軍が小田原へ攻め込む直前のことが書いてあり、その記載を見ると「先陣追々二押来テ、富士ノ根方・(中略)、野ニモ山ニモ充満タルニ」とあります。小田原へ向かう大軍勢で根方(興国寺城付近)はあふれかえったのでしょう。そして、この文献と同時に、発掘調査でも徳川段階と想定される城域こそが、興国寺城の歴史の中で一番広かったと考えるデータがそろってきました。面積ももちろんのこと、同時に防御施設の大きさも変化しています。「堀はより広く、土塁はより高く」。これは、戦いにおける鉄砲の使用が一般化した戦国時代後半において全国的にみられる傾向ですが、これは興国寺城でも当てはまるのです。
 最後は、豊臣氏家臣の河毛重次と徳川氏家臣の天野康景の段階です。大空堀や伝天守台が造られた段階ですが、どちらの城主が普請したのかはまだ検討が必要です。この段階で重要な事項は、7㎞しか離れていない三枚橋城には、高石垣・瓦葺きの天守が造られたにもかかわらず、興国寺城には最後まで天守は造られなかったということです。
 今回解説した事項は平成15年度より本格的に開始した発掘調査によって判明してきたばかりの事ですが、広大な興国寺城の全体解明にはまだ少し時間がかかります。今後の調査によっては、今回解説したことが覆されるかもしれません。




 〈三枚橋城跡〉

 三枚橋城の築城時期は諸説ありますが、天正7(1579)9月の北条氏の文書に「このたび駿豆(※駿河と伊豆のこと)の境()沼津号地()、地利(※城のこと)築かれ候」とあり、築城した武田の文書にも、ほぼ同時期に「当地普請(※城を造るもしくは改修すること)悉く出来」と伝えているため、天正7(1579)が有力な説であるといえます。
 しかし武田氏段階の三枚橋城の姿はどんな状況であったかは、よくわかっていません。現在市街地に埋もれてしまっているため、発掘調査が困難であることも主な原因ですが、後世に大きく改変を受けていることが、一番の理由にあるでしょう。
 武田氏滅亡後は徳川氏の城となり、その後、北条氏が滅亡して徳川氏が関東に転封(配置換え)となると、駿河国は、豊臣氏家臣の中村一氏の領地となります。この段階に残った豊臣氏の脅威は、小田原城を領地の西端とする徳川氏のみであったため、沼津は徳川氏への備えのための重要な地となりました。そこで沼津の地には、一氏の弟である一栄が置かれることとなり、この時に三枚橋城は、武田氏築城の「土の城」から「石垣の城」へと変わったと考えられます。 当時の徳川氏は、かつてないほどの高層建築物である「天守」を造る為の職人集団を抱えていなかったと考えられています。これは、後年に江戸城を造る際に、石垣を造った大名が、ほとんど西国の大名であったことからも推測されます。一方、当時に西国の大名や技術者集団を抑えていた豊臣氏は、天守建造のための知識や技術を持っていました。三枚橋城に石垣造りの天守を築くということは、徳川氏が持ち合わせてなかった最先端技術を徳川氏に見せつける狙いがあったのかもしれません。
 三枚橋城は関ヶ原の戦いの後、徳川氏の家臣である大久保忠佐が城主となりました、忠佐は小田原城の城主であった忠世の弟です。この段階で、沼津と小田原は共に徳川氏の家臣、しかも兄弟で治められることになりました。これは、武田対北条、豊臣・徳川対北条、豊臣対徳川と、これまで戦いの前線としての位置づけられていた三枚橋城が、江戸時代になって、その役目を終えようとしていたことを示しています。そして実際に後継ぎがいなかった忠佐が亡くなると、新しい城主は据えられることなく、三枚橋城は廃城となりました。
 そして三枚橋城廃城から約150年後、三枚橋城の跡地には沼津城が築かれました。本丸の場所は、沼津中央公園付近で三枚橋城と変わりませんが、全体の面積は三枚橋城より狭くなっています。しかし明治時代に入ると、沼津城は沼津兵学校の校地に使用された後、道路の新設や大火などで完全にその姿を消してしまいました。
現在では、三枚橋城および沼津城の様子は、石碑や一部復元された石垣を除いて、伺うことはできません。
 しかし三枚橋城廃城から約400年たった今、発掘調査で発見された三枚橋城の石垣の一部は、千本常盤地区に整備を進めている人口高台「築山」のオブジェとして、利用されることになりました。当時の場所からは少し離れてしまいましたが、かつて城を守っていた石垣は、沼津市民を守る築山の一部となって甦える予定です。



 〈長浜城跡〉

 長浜城は、現在の内浦長浜と重須地区にまたがった岬の上に作られた水軍の城です。築城のきっかけは、天正7(1579)に武田氏が沼津に三枚橋城を築いたことに起因します。北条氏もこれに対抗し、韮山城を守る布陣を整えました。その中でも長浜城は海の防備を固める重要な城として位置づけられ、当時、東京湾で大きな活躍を見せていた北条水軍の梶原景宗を長浜城に呼び寄せています。こうして、三枚橋城と長浜城は、わずか10㎞の距離でにらみ合う関係となったのです。
 本格的な戦いは翌年春から開始されました。江戸時代に書かれた軍記物を見る限り、重須浦に武田水箪が攻撃を行い、梶原景宗率いる北条水軍が応戦したことで開戦したようです。その後、北条水軍の反撃により、武田水軍は浮島ケ原にまで引き上げましたが、北条水軍はこれを追撃して、両水軍は日が暮れるまで戦ったと書かれています。
 海戦の勝者は明らかではありません。なぜなら、両軍ともに水軍大将の戦功を褒め称えている文書が残っているのです。4月に武田勝頼は、武田水軍の小浜泉隆・向井政綱の両名に「今度伊豆浦に至り行に及ぶ砌、梶原馳せ向かうの処、挑戦し郷村数か所を撃破、殊に敵船を奪い捕えるの由、誠に戦功の至比類なく候」という感状(戦功をたたえる賞状の事)を出しています。一方北条氏も梶原景宗に対して、先の戦功(駿河湾海戦)を認めて、新たに大船を建造し、三浦郡栗濱の土地150貫を与えるので、乗組衆を仕立てるよう命じています。
 このような状況ですが、残存する文書から判断すると、武田水軍に対する感状が目立ちます。これをそのまま鵜呑みにすることはできませんが、天正9(1581)になっても武田勝頼からの感状が多く出されていることから、駿河湾での海戦は、武田水軍が有利に進めていたと考えられます。しかし徳川氏と同盟関係にあった北条氏は、天正10(1582)に織田氏・徳川氏が武田攻略戦に乗り出すと、これに呼応して、三枚橋城への陸路での攻略を進め、落城させています。こうして武田氏との決着がつくことになりました。
武田氏滅亡後は、長浜城はその役目を終えていたためか、あまり歴史の舞台に登場しなくなります。天正18(1590)に豊臣秀吉が小田原攻略に乗り出すと、沼津はそのための前線基地となりますが、海戦の中心は下田の方へ移っていたため、長浜城には地元士豪が少人数で守るだけの城となっています。このように整理していくと、長浜城が北条氏の城として重要な意味を持っていたのは、対武田戦に備えた天正7(1579)から10(1582)のわずか3年間ということになります、しかし長浜城には、至る所に北条氏の特徴的な城の造り方が反映されていて、ここから長浜城に対する北条氏の戦略的位置づけを見ることができるのです。面積は興国寺城の10分の1程度しかない小さな城ですが、「三枚橋城が城から正面に見える」という城の造りと北条氏の特徴的な防御施設を目の前にすると、北条氏の緊張感を感じざるを得ません。
(平成26920日沼津市立図書館4F展示ホール)
パネル展画像資料