2018年10月25日木曜日

駿府城「幻の城」歴史的価値、今後は



駿府城「幻の城」歴史的価値、今後は
 静岡市葵区の駿府城発掘調査で、豊臣秀吉が家臣中村一氏に築かせた城の遺構が見つかった。「幻の城」とされていた城で、徳川家康だけでなく、秀吉も駿府城を重視していたことを示す発見だという。その歴史的価値や今後の整備について2人の専門家に聞いた。



小和田哲雄静大名誉教授
発掘進めば今川館跡も
 ーなぜ「幻の城」とされていたのか。
 「中村時代の駿府城については、これまで史料も遺構もなかった。力がない中村が家康の立派な城を壊してまた城を造るとは、普通は考えないため、これまでは真新しい(家康が築いた)駿府城に、そのまま入ったのだろうと理解していた。しかし、実際には秀吉が城を築かせていた」
 ー秀吉は、なぜ金箔瓦を使った城を築いたと考えられるか。
 「家康を相当意識して脅威に思っていたからこそ、豊臣勢力の最前線である駿府に金箔瓦の城を築かせたのだろう。これまでは秀吉が圧倒的な力を持っていたという認識だったが、秀吉の思いは必ずしもそうではなかったことが分かった」
 ー大御所時代の家康が、秀吉の城の上に駿府城を築いたことも明らかになった。
 「家康は豊臣の色を消したかったから、秀吉の城を埋めたと考えられる。だから秀吉も家康5カ国時代(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の国の大名時代)の城を壊し、その上に金箔瓦の城を建てた可能性が出てきた。さらに掘れば、5カ国時代の城や今川館の痕跡が見つかるだろう」
 ー市は将来の天守閣再建を目指している。
 「個人的には反対。天守閣の姿は正確な史料がなく分かつていない。石垣部分など史実に忠実な復元には反対しないが、想像では建ててほしくない」
(聞き手=政治部・内田圭美)

加藤理文(日本城郭協会理事)さん
 2天守台見せる整備を
 ー今回の発見は日本城郭史において、どのような価値があるか。
 「織豊期の天守台が建造当時の姿で残っているのは全国初の事例。同時代の天守台は全国にあるが、いずれも江戸時代に改修されている。今回の天守台は地下に埋まっていたため、家康が大改修を開始した1607年よりも前の姿が保たれている。秀吉が築かせた城の様子や史料が少ない駿府城主・中村一氏の解明につながる、歴史を変える発見だ」
 ー秀吉にとっての駿府城の位置づけは。
 「大量の金箔瓦と巨大な石垣は『大阪城の分身ここにあり』という力の入れようだ。一氏個人ではなく、政権が築かせた城と考えるのが自然で、豊臣領国にとって極めて重要な場所だった」
 ー金箔瓦を使用した意図は。
 「金箔瓦は当初、豊臣一族以外は使えなかった。次第に政権を支える大名にも使用許可を与えるようになり、特に徳川領国周辺の城に使われた。駿府城は豊臣領国の東端にあり、徳川に高い技術力や経済力を見せつけ、抵抗を抑止する役割を担ったと考えられる」
 ー今後の整備万針についての考えは。
 「二つの時代、しかも家康と秀吉が関わった天守台が同じ場所に存在するのは日本で唯一、駿府城だけ。復元や埋め立てはせず、現存する二つの天守台を同時に見せられる整備を望む。『本物』をいかに残すかが大事だ」(聞き手=政治部・山下奈津美)
【静新平成301025()朝刊】

2018年10月23日火曜日

函南に伊豆最大規模古墳 筑波大調査 王権との関わり示す


函南に伊豆最大規模古墳
筑波大調査 王権との関わり示す
 県内を中心に古墳の発掘調査に取り組む筑波大の滝沢誠准教授(55)と研究室の学生らがこのほど、函南町平井に伊豆半島最大とみられる前方後円墳の存在を確認した。古墳時代前期(34世紀)に造られたと考えられ、滝沢准教授は「当時の伊豆地域の状況を知る大きな手がかり」と話す。
 調査は2016年から3年間行われ、東京大や静岡大の学生らも参加した。測量、発掘の作業で墳丘の規模や正確な形状を調べた。推定全長は87㍍で、県東部最大の浅間古墳(富士市、推定90㍍)に迫る規模という。
 地元住民によると、平井地区には「瓢笛(ひょうたん)山古墳」と呼ばれる遺跡があることが古くから伝えられてきたが、これまで長らく実態は分かっていなかった。数年前に実施された県のジオパーク関連の測量で実在することが判明し、滝沢准教授らが基礎調査に乗り出した。
 滝沢准教授によると、これまで伊豆半島では34世紀ごろの古墳は発見されておらず、独自の政治勢力はないというのが定説だった。約10年前に「向山16号墳」(三島市)が見つかったことで定説は見直され、今回の実態解明は伊豆半島に有力な支配者がいたことを改めて裏付けた。
 瓢箪山古墳の特徴は西側の墳丘を大きく見せる造り。西側は現在の熱函道路に面していることから、4世紀ごろから伊豆半島を横断するルートが存在し、当時支配を拡大していた「ヤマト王権」がこのルートを重視して現地の勢力と結びつき、規模を拡大させていった結果、大型の古墳が築かれたと考えられるという。
 発見場所は私有地。
調査は920日でいったん終了したが、今後も継続していく方針。
(三島支局・仲瀬駿介)
【静新平成301023()朝刊】

2018年10月17日水曜日

「家康の駿府」に秀吉が築かせた天守台 「幻の城」姿現す


「家康の駿府」に秀吉が築かせた天守台
「幻の城」姿現す
静岡2人の関係知る大発見
 静岡市の駿府城(同市葵区)発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の跡を発見したことを受け、市は16日、出土した天守台の石垣や金箔(きんぱく)瓦などの全容を報道関係者に公開した。専門家は「徳川家康の城の下に豊臣政権下で築かれた城があったのは大発見」と評価。市は、秀吉が江戸へ追いやった家康を威嚇するため駿府に豪華絢燗(けんらん)な城を築いたとみている。



 豊臣方の築いた城の存在は推測されていたが、裏付ける遺構や史料はなく、「幻の城」とされていた。
 発掘調査は2016年度から4年計画で実施。市によると、家康は1588(天正16)年に駿府城を築いたが、秀吉の命で江戸に領地を移した。家康に代わって秀吉家臣の中村一氏が90(18)1601(慶長6)年に城主を務めた。新たに見つかった城跡は、この間に築かれたとみられる。天下統一を果たした家康は駿府に戻り、10(同15)年に駿府城を完成させた。
 2018年度の調査で、家康が築いた天守台の南東部の土中から、古い石垣が見つかった。自然石を積み上げる「野面積み」で、家康の城に使われていた表面の石が平らな「打ち込み接()ぎ」とは異なる形状。傾斜も家康の石垣よりも緩やかだった。
 石垣の隣の敷地からは、約330点に及ぶ金箔瓦が見つかった。考古学が専門の中井均・滋賀県立大教授によると「金箔瓦の造瓦技術が豊臣時代の特徴を示している」という。これらの事実が「秀吉の城」であることを決定づけた。(政治部・内田圭美)
2021日に臨時公開
 静岡市は2021の両日、午前9時~午後4時に、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の遺構を臨時公開する。調査員が随時説明をする、金箔瓦の展示はない。参加無料。希望者は直援、駿府城公園内の発掘調査現場へ。通常公開は1122日を予定している。
 問い合わせは市歴史文化課〈電054(221)1085〉へ。
【静新平成301017()朝刊】






2018年10月16日火曜日

絵師・歌川国秀 (土屋新一)


絵師・歌川国秀
ー沼津に残る江戸浮世絵の光芒ー土屋新一
 「歌川国秀」という名をご存じの人が、どれぐらいいるだろうか。おそらく今となっては、長沢利之氏と沼津市歴史民俗資料館学芸員方々ほか、それほど多くはいないであろう。申し訳なくも、この絵師は私にとっても未知の人だった。それだけに、その作品と人物像との出会いは大きな驚きと感激であった。
 私は二年前、江原素六先生顕彰会の事務所を整理している時、長沢氏執筆の冊子「絵師・歌川国秀の生涯」に出合い衝撃を受けた。とりわけ大諏訪天満宮の「母娘祈願図」(国秀銘・明治二十四年)と岡宮天神ヶ尾天神社の「母祈願図」(明治二十年)を見比べて、二つがそっくり同じ筆法であるのを知って、天神ヶ尾の絵馬(無銘)が誰の作かの謎が解けた。
 肉筆彩色、板絵、御幣を神格として手を合わせる清楚、敬虔な女性の姿の奉納額。愛鷹山麓の根方街道沿い岡宮の天神社と駿河湾沿いの浜辺近く大諏訪の天満宮、それぞれの立地は異なるが、共に学業上達と学問精進を祈願し誓う(子のためかも)絵馬。絵師国秀に奉納額を依頼し天神様に手を合わせる篤信の女性が存在した。二つの絵を見つめる時、この地が、なかなかに文化の気風の高い土地柄であったことがしのばれる。
 さて、ここに取り上げた書は「『絵師・歌川国秀の生涯』~郷土に生きた浮世絵師~」が正式の名である。B5判三十一ページ、作品の写真三十一枚、一九八四年三月、沼津市歴史民俗資料館学芸員補・長沢利之氏執筆の労作である。
 前書きによると、資料館が二度にわたる特別展を開くにあたり「絵馬」をテーマに取り上げた。そして、これまで無名の絵師として活躍した、とある人物の作品の分布調査をしたところ、彼の存在と膨大な作品群が絵馬として残されていることを知った。この調査の成果を前にして彼()の絵師の情熱と業績を世に送り出したいとの責務を感じて、この書をまとめたという。
 では、その一端を借りて絵師・歌川国秀を追ってみたい。
 江戸浮世絵の盛衰は庶民活動の活発化と、たびたびの風紀取り締まりのはざまで揺れ動いた。明治維新と文明開化は浮世絵の決定的な衰亡の契機となった。
 江戸という庶民の暮らしのありようが衰退し、東京という都市文化の勃興の勢いの中で、浮世絵の価値は薄れ、需要は減り、あるいは名作が外国人の手に渡ってもそのことに感心が無いような世の中になった。こうして浮世絵作者の活動は停止せざるを得なくなっていったのである。
 その時代、一人の浮世絵師が江戸から沼津に移り住んだ。雅号を「歌川一運斎国秀」、本名菊地金平は、市内本市道の五軒続きの長屋に妻さとと二人で生活をしていた。暮らしは貧乏であり、頼まれれば絵馬のほか凧の絵を描いて生計を立て、「たこたつさん」と呼ばれていた。墓所は下河原町の妙覚寺。(ちなみに沼津朝日・昭和五十五年六月一日、同三日号所載、たこたつさんを推究した鈴木健司氏の玉稿)
 今に知られ、崇敬される大作が沼津と富士宮にある。千本の観音長谷寺「浜の観音さん」に百二十反大曼茶羅、大絵馬「湊橋図」を描き、冨士宮市の大悟庵「星山観音さん」では百四十反曼荼羅大観音図を描き終えて十数日後に他界した。数年後、星山村民により「国秀翁碑」が境内に建立されている。
 浮世絵師・国秀は、このように庶民生活に溶け込んで県東部一帯の神社、寺院に大量の絵馬、仏画を描いた。日吉神社祭礼絵巻、日蓮聖人一代絵(一一八余図)、漁村の絵馬、地獄極楽図絵、巡礼図、武者絵、祈願図、その他の作品等、国秀作と推定される絵馬は富士川以東から沼津市内をはじめ伊豆半島一円で三百七十余点に上る。いずれの作品も当時の民衆の生活史料としても価値高いものであり、江戸の浮世絵師・歌川国秀は地方絵師として見事に復活した。
 これら膨大な作品の所在の情報収集、現場駆けつけ、所有者への写真撮影許可依頼懇願、古老への聞き取りと記録、最終的には国秀師の子孫、縁者を関東地方に訪ね歩いて、希代の絵師の実像に迫ろうとした、あるいは民俗史の一ページを開こうとした資料館職員の渾身の努力と執念に敬服するのみである。
 これまでの話は百五十年前、日本の歴史の転換点、苦難の歴史の始まりの時のことである。幕府が滅亡し徳川家が静岡に移封され、旧幕臣達も沼津に移住、しかし俸禄ゼロの徒に転落して、その日の暮らしに窮する極貧の生活であった。国秀と同じ困窮を味わったのだ。江原素六が旧幕臣のために愛鷹山を開拓して生活建設に取り組んだ時代だった。
 江戸時代に別れを告げ、新時代に足を踏み入れた人物が沼津に生きていた。歌川国秀も江原素六も「江戸」を超え、突き抜けて新しく生きた人だった。その人達を支え、共に生きた沼津の人々がいた。
 (公益社団法人江原素六先生顕彰会会長)
【沼朝平成301016()号】

↓大諏訪天満宮奉納絵馬「日露戦後記念:奉天激戦之光景」絵馬。
  菊地金平作といわれている。
 (ブログ監理者追加解説・画像)


仁徳陵初の協同発掘






大山(だいせん)古墳
 堺市にある日本最大の前方後円墳。来年の世界文化遺産登録を目指す百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群の一つ。大正時代の測量に基づき、全長は486材とされているが、近年の調査で築造当初は少なくとも525㍍あったことが判明した。墳丘は3段構造で、3重の周濠(しゅうこう)と堤防に囲まれている。宮内庁は4世紀に在位した仁徳天皇の陵として管理するが、過去に出土した遺物の分析から5世紀中ごろの築造とする学説が有力で、実際には仁徳陵ではない可能性が高い。
【静新平成30年10月16日(火)朝刊】

2018年10月9日火曜日

市民講座「日吉廃寺ってどんなお寺だった?」





発掘調査から見えた日吉廃寺跡 沼津教育委員会 小崎晋
3まとめ
沼津市教育委員会が実施した本調査面積は合計約3,200㎡です。これは遺跡として登録されている面積の10%程度に過ぎません。しかしながら出土した遺物は遺物収用ケースで1,000箱以上の遺物が出土しており、推定される遺勃点数は100,000点近くに及びます。これは発掘調査で出土する遺物量としては極めて膨大な数であり、そのほとんどが瓦です。また、平成25年度の調査で出土した仏像の頭髪である螺髪や仏像の胴体の一部と推測されるものが出土しており、同時に市指定文化財となっている塔趾などの存在から、当地にかって寺院が存在したことは間違いないと思われます。
ただし、日吉廃寺跡に関連した古代の遺構は柱穴列のみで、日本大学の調査で想定されていた寺院の重要遺構は確認できず、同時に重要遺構に伴うであろう基壇や礎石なども一切確認できませんでした。確認された柱穴列については部分的な検出にとどまっており、配列なども不明です。回廊の存在も想定されていましたが、不明なままです。
また、前述したように平成28年度の調査において堆積する土壌の自然科学分析を実施したところ、当該地は水田などの耕作によって大きく改変されていることが判明しました。これらの結果を踏まえると、塔趾を除いて、地山に掘り込まれた遺構以外は大きく破壊され、重要遣構を示す基壇等はすでに消滅している可能性が高いものと思われます。
日吉廃寺跡は古代初頭におけるスルガ国の中心地が沼津市域にあった事を示す重要な遺跡であるという歴史的な位置づけは変わりませんが、近年の発掘調査の結果として、これまで想定されていた寺院としての様相を裏付ける証拠は得られず、むしろ時期、規模、伽藍配置などについて大幅な再検討を迫られることになりました。
日吉廃寺の真の姿に迫るためには、これまで実施した発掘調査で検出された遺構や遺物について慎重に検討する必要があります。ただし、これまでの調査範囲が限定されでいることから、今後、更なる発掘調査を実施することで、古代寺院としての様相が明らかになるものと思われます。(沼津市教育委員会 小崎晋資料)

当日配布資料↓

2018年10月6日土曜日

香貫山 浜悠人


香貫山 浜悠人

 スポーツの秋だ、山に登ろう。その点、沼津は日本一自然環境に恵まれている。町中を水量豊かな狩野川が貫流し、周囲には緑濃い山々が見守っているではないか。
 或る人が言った。沼津は二獣三鳥に守られていると。一獣は牛臥山の牛であり、二獣目は象山(徳倉山)の象だと、一鳥は愛鷹山の鷹で、二鳥目は鷲頭山の驚、三鳥目は香貫山で、香貫山は別称、鶏足山と呼ばれ鶏に因む。上空から俯瞰すれば鶏の足の如く尾根や洞が見られる。
 南に一ノ洞、二ノ洞、三ノ洞、長洞、北に天神洞、美人洞、丁子洞などの名があるが、今では市の斎場入り口の天神洞と霊山寺口の大洞が知られる。霊山寺口は戦前、失業対策としてドライブ道が造られ、ここより山腹を縫い、曲がりくねり、香貫の八重に抜けている。
 今回は高さ一九三㍍の香貫山を霊山寺口より入ることにした。まずは山の神のある、ひっそりとした日影道を過ぎ、左に湾曲して往くと「玉磨りていにしへの日は永かりき」と刻まれた原田浜人の句碑にあたる。
 さらに迂回し進むと香陵台に達する。五重の塔になる戦没者慰霊平和塔、狩野川の水を苦心さんたん灌概用水に拓いた植田内膳頒徳碑と、さらに「香貫山いただきに来て吾子と遊び久しく居れば富士'晴れにけり」と詠んだ牧水歌碑が見られる。
ここから旧ドライブ道は直進、中腹を曲がり展望台に至るが、今回は直登し紫陽花をかきわけ、昔あった航空灯台の方に進む。
 「沼津市史」によると「香貫山灯台は昭和八年八月建設、海抜百五十米の山上にそゝり立ち、その高さ約十五米、一千燭光をレンズにて三十五万燭光に拡大し、廻転しつつあり、六十粁以上に及ぶ光芒を夜毎に放ち空の羅針盤をなしつゝあり」と記述され、当時、東京ー大阪間に十六カ所の航空灯台が完成し、夜間の郵便飛行に寄与していた。
 戦争もたけなわとなった昭和二十年には、灯台の下に機関砲の陣地を構えた。戦後、灯台も香貫山から達磨山に移築されたが、ジェット機の時代に入り、その必要性もなくなり、取り壊された。
 現在、灯台跡地にはコンクリート製の四阿(あずまや)があり、一息ついてから山頂へ向かった。夫婦岩を経、近くにある沼津のおいしい水道で喉をうるおし、空地もままならぬ山頂にたどり着いた。休むことなく近くの展望台へと歩を進める。
 戦後、この地には天守閣を模した三五(あなない)教の天文台があった。昭和三十二年から四十八年に閉鎖、撤去するまでの十六年間、その威容を誇っていた。
 展望台から愛鷹山、富士山、駿河湾、千本浜、大瀬崎、達磨山、天城連山を一望のもとに眺められ、眼下には狩野川、市街地が広がり、まさに絶景である。しばし休憩の後、帰途につく。
 展望台の石段を下れば、右は旧ドライブ道でゴルフ練習場、市水道部貯水池を経て八重坂口に出る。その先は沼津アルプスに連がる。左の周遊ルートをたどれば桜台と新桜台を経て、出発地の香陵台に戻る。途中の草花も豊かで春の桜、六月の紫陽花、秋の紅葉と季節ごとに、それぞれ目を楽しませてくれる。香陵台の茶店で一服し、下山した。
 今回の山行で香貫山は町中の近くにあり、富士山、駿河湾と山や海を一望できる日本一のお山だと改めて思った。
(歌人、下一丁田)
【沼朝平成30106()号 寄稿文】



2018年10月2日火曜日

第4号沼津ふるさと通信(平成30年10月1日発行)





沼津ふるさと通信
<4>2018(平成30)101日発行
 記念事業の仕上げに向けて
 沼津ふるさと通信の第四号は、平成二十八年度から本会が中心となり取り組んできた「沼津兵学校創立一五〇周年記念事業」がいよいよ仕上げの段階を迎えたことから、この事業に関するお知らせ号として発行いたします。 最初に、九月に東京と沼津で取材を行ったので、その概要をお伝えします。
 東京では、沼津病院の初代頭取(院長)を務めた杉田玄端の六男に当たる、杉田六蔵の子孫を訪ねました。
 沼津では、沼津病院の後身に当たる駿東病院の二代目院長、佐々木次郎三郎の自宅で五年間行儀見習いを経験した女性を訪ねました。
 次に、記念事業の三本の柱について概要をお知らせするとともに、最後に、十月から来年三月までの「沼津ふるさと講座」計画を掲載します。
 特に来年一月二十日の記念式典には多くの皆様の参加をお待ちします。
                             沼津史談会会長匂坂信吾