2017年12月13日水曜日

高尾山古墳「トンネル構造で両立」沼津市



高尾山古墳と都市計画道
 トンネル構造で両立 沼津市方針
 沼津市の都市計画道路「沼津南一色線」の建設予定地にあり、古墳時代初期に造られたとされる前方後方墳「高尾山古墳」(同市東熊堂)の現状保存と道路の両立案について、市は片側をトンネル構造にして古墳を回避する2本の2車線道路を整備する方針を固めた。12日までに複数の関係者に伝えた。
 整備案は有識者を交えた協議会が2015年度に検討した9案の中の一つで、国道1号から北上し古墳西側の地下を通るトンネル構造の2車線と、東側の地上2車線の組み合わせ。整備費用は当時26億円と見積もったが、地盤の課題から一部を橋脚付き道路とする方向で検討しているため、さらに膨らむ可能性が高い。
 市は、協議会が「事業費や建物補償が少ない」などとして推奨した4車線の信号機付き丁字路案の検討を開始したが、県公安委員会から安全性の懸念を指摘されるなどして断念。丁字路案を除いた案を再検討し、国土交通省などと実現可能性を協議していた。
 沼津南一色線は国道1号と同246号をつなぐ都市計画道路。古墳の全容は08、09年度の発掘調査で明らかになり、3世紀前半の東日本最大級の前方後方墳と判明した。市は当初調査発掘のため墳丘を取り壊す方針だったが、保存活用を求める声の高まりを受け、史跡指定も視野に現地保存する方針で両立案を模索してきた。
☆高尾山古墳沼津市の愛鷹山の麓に位置する前方後方墳で、全長約62㍍、最大幅約34㍍、周囲の溝幅8~9㍍。築造は230年ごろ、埋葬は250年ごろとされ、東日本最古級、初期古墳としては最大級。墳丘上から掘り込んだ墓坑の中に木棺を直接納める「木棺直葬」が行われたとみられ、発掘調査では埋葬者の権力を示す鉄製の武器や土器が出土した。
〔静新平成29年12月13日(水)朝刊〕







2017年12月5日火曜日

旧海軍島田・牛尾実験所を語る パネルディスカッション














↓当日配布資料


↓展示資料動画





「島田・旧海軍牛尾実験所」郷土史家ら知見
湯川・朝永博士軍研究で対照的
「科学者と戦争考えさせる好例」
太澤戦争甲にマグネトロン(発振用真讐〕などを用いた兵器開発研究をしていた島田市の戦争遺構「第二海軍技轡尾実験所」について語る会が3目、同市金谷代官町の金谷公民館で開かれた.研究者や郷土史家5人が、最新の知見を持ち寄り、市民ら約100人が耳を傾けた。2人のノーベル賞学者の対照的な開与も判明した。
牛尾実験所は、2013~14年、大井川改修工事に伴い発掘された。約550平万㍍の電源室と、直径10㍍のパラボラアンテナ用の台座2其、約100平方㍍の発振室などが見つかった。戦争遺跡として保存を求める署名が市に提出されたが、15年、工事に伴って取り壊された、
東京工業高等専門学校の河村豊教擾〔科学史〕によると、牛尾実験所の総面積は推足約3万平㍍'本体にあたる島田実験所は約6万平方㍍と、他の思の研究施股に比べ大規便で、敗載直前の所員数は約1500人、うち研究員は50人だった。
研究の中心は、マグネトロンでマイクロ波を発生させ、上空の幌撃機B29に照射して撃ち落とすという計画。物理的に未解明の要素が多く、研究には理論系の物理学舎が多数参加していたという。
その中には後にノーベル賞を受賞した朝永振一郎や湯川芳樹の姿もあった。1944年4月に島田実験所で撮影された集合写真にも2人の姿が写っている。
当初、湯川はたまたま島田であった物理学会に参加しただけで、実験所には関与していないとみられていた。だが、同年12月から実験所員だった飯島泰蔵・元東京工業大教授の証言(今年4月、河村教授が採録)によると、湯川はしはしば実験所に呼ばれていたという。
「湯川先生が全然、戦争反対で、会合に来られる予定になっているのに、いつも欠席になっている」「それで阪大の菊池(正士)先生が、湯川はけしからんと」
一方、朝永は研究に積極的だったといい、戦後、当時を振り返って、書き残している。
「私自身も1943年以後はしばらく素粒子論から離れて電波関係の仕事などをはじめ・・・・マグネトロン(磁電管)の研究といい、立体回路の研究といい、どちらも量子力学の延長のようなこと……」(77年『日本物理学会誌』)
72年の講演では、大戦から戦後の科学技術の利用について「無条件に科学ザ技術が本当に人間を幸福にするか、いま一度よく考えなければいけない」と語った。
河村教綬は「朝永の科学観に島田実験所での経験が与えた影響は大きかった」とみる。その上で、「島田、年尾の両実験所は、当時の科学技術の到達点を見るだけでなく、科学看の戦争責任を考える上でも、格好の素材となる。さらに検証を進め、継承したい」と話した。
会では実験所跡地に記念碑を建てることを求める意見も出された。市教委はさらに関係者や遺族の証言などを募っている。
(阿久沢悦子)《朝日新聞平成29年12月5日号》


産経ニュースより
海軍島田実験所(島田市)





 ■電波兵器開発に「日本の頭脳」集結

 太平洋戦争末期、島田市河原にあった「第二海軍技術廠(しょう)島田実験所」では、後にノーベル賞を受賞した科学者らが集結し、最新の電波技術で米軍の爆撃機B29を撃墜することを目的とした「Z研究」を行っていた。最終兵器を意味する「Z」と名付けられたこの研究は、戦況悪化に伴って疎開先施設として「牛尾実験所」を建てた後も継続された。両実験所とも当時の遺構はほぼ残っていないが、牛尾実験所のジオラマ模型を市内の高校生が製作するなど、地元の歴史を語り継ごうとする試みは広がっている。

 島田実験所は、海軍技術研究所の島田分室として昭和19年に開所。約6万平方メートルの敷地に戦争末期には約440人の科学者らが勤務していた。大出力の磁電管「マグネトロン」を使った強力電波兵器の開発・実験のために大量の電力が必要で、付近を流れる大井川水系の水力発電所を利用しやすいことなどから島田に設置された。

 戦後にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏や朝永振一郎氏も研究に参加し、運転中のエンジンを電波で停止させる実験や、ウサギへの電波兵器照射実験なども成功したが、B29を撃墜できるほど強力な電波を発射する兵器の実戦投入には至らなかった。

 ◆冗談言う先生も

 当時、島田実験所で掃除などの庶務を担当していた有光文江さん(88)は「研究内容は全く知らされていなかった。ノーベル賞学者がいたことも、受賞後に『そんなに立派な先生と一緒だったのか』とびっくりしたほどです」と振り返る。一方で「『研究所内のことを口外するな』といわれたこともなく、冗談をよく言う先生もいたり、厳しい雰囲気ではなかった。青春時代の良い思い出です」と話した。

 昭和20年になり、島田実験所の周辺も空襲が激しくなってきたため、研究を続けるための疎開先として、2カ所の実験所が建設された。その内の1カ所が、大井川流域を望む山中に建設された牛尾実験所で、直径10メートルのパラボラアンテナも設置された。東京工業高専の河村豊教授によれば、高射砲から発射された砲弾にマイクロ波を照射して、B29の近くで起爆させる研究が実験段階にあったという。

 ただ、大井川の拡幅工事に伴って、発掘調査で見つかった牛尾実験所の電源室などの基礎部分は現在、解体工事が進められている。牛尾実験所の遺構は変電室などを除いて、すべて取り壊される見通しだ。

 ◆高校生が模型製作

 これに伴い、島田市では、毎年、市にちなんだ施設のジオラマを製作している島田工業高に、牛尾実験所のジオラマ製作を昨年5月に依頼。3年生7人が約半年かけて、建物の全体像がわかる資料もない中で、当時、実験所建設に携わった大工や実験所に勤務していた人に話を聞きながら、史実に忠実に作り上げた。

 製作者の一人の大学1年、大畑一歩さん(19)は「牛尾実験所は初めて名前を聞いたぐらいで全く知らなかった。実験所の遺構があれば、戦争を知らない世代にも島田に海軍の実験所があったということが証明できるので、壊してしまったのは少し残念だ」と話した。

 ジオラマや牛尾実験所の発掘調査で見つかった、実験に使った陶器やガラス製の部品などは、島田市博物館で30日まで展示されている。(大坪玲央)

2017年11月21日火曜日

三の丸緑地堀の井戸と思われる古井戸調査


山田義一氏情報による井戸、三の丸緑地堀の井戸か?
各位
山田義一氏の情報により、井戸探索。
場所は細沢工務店より西へ綿安方面の
元伝法産業(現在コインp)西の床屋さん屋敷内の東南角。
沼津城絵図にも、井戸が記入されている。
重図では東西は少しずれるが、南北はあう。
この井戸がそれなら、少なくても、
北の外堀の位置は我々が描いている場所であることが正しいと思われる。
写真を添付で送ります。
以上
長谷川徹

発信元 史談会 南本郷町 渡邉美和 20171120



今朝、上本通り長谷川徹氏から電話を頂きました。
大手町のNTT前の通りの葉山コーヒーの西側で現在工事をしているところから、井戸がみつかったとのことで確認にいった方がいいよ、と言われました。
今日の午後、奈良部さんをお誘いして、いってきました(今井さまにも電話したのですが、繋がらず、今日は断念)。

直径70センチほど水面までの深さ1メートル余の丸い掘り抜き井戸がありました。水面付近には石がありましたが、何時の時点からの石か不明。ただ、それほど苔むした感じはないので最近いれらたものか。コンパネの下になっていたようで、先日、日枝神社にお願いし、井戸を閉じるお祓いをしていただいたとのこと。素掘りで壁面は石組などされていません。何からの鑓のようなもので地表面と平行に掘ったときの掻いたような跡のようなものが土面に見えました。奈良部さんはこの土は道路側でユンボで基礎の鉄筋コンクリートなどを掘り起している部分の土とは色が異なる黒マサ土と見ました。道路側は1~1.5メートルほどほられていて、最も浅い部分は赤い土で、おそらくコンクリート基礎を造った時のどこからか運んできて埋めた土でここにもともとあつたものではなさそう。
基礎は70cmほどあり、パイルを打たないかわりに頑丈なコンクリ吉舎としたものとのこと。基礎の下は柔い黒い土で腐葉土らしい。石炭がらは見ていない。中に瀬戸物の破片などがあり、この辺の土やらなにやらを埋めたものか。水分も多い。

縦横高さとも50cmくらいの赤い土まみれの石が現場にあり、訊ねたところ、道路際のコンクリ基礎の下にあったものとのこと。奈良部氏は安山岩と見ているが、なんとなく形や大きさはは石積みの石のような感じも。土にまみれているので、明日、水やたわしを以っていって洗って表面を見てみたい。現場ではこの2.3日で工事は終わるとのことで、ラストチャンス。なお、井戸のコンパネの下に敷いてあったと見られるべにや板もボロボロになっていはいたが残っていた。

ということで、21日午後13時半に現地で石を水による土汚れ落としします。石の質や何か手かがりがないか確かめたい。関心のある方は現地においでください。
ただ、あまり大人数は?場所が分からない方は渡邉までおといあわせください。

もと伝法産業の西隣の工事現場の井戸。渡辺さんと見てきました。

道路側の元の建築物は鉄骨にブロック壁で、直接基礎(地中梁)である。作業員によると杭はないとのことである。客土は1m程度の厚さで粘性のある赤土や、陶器片を含んだ黒土である。基礎底面はおそらく地山であろう。あす、地中梁を撤去したとき、うまくタイミングが合えば見えるかも。
奥の方の元の建物は木造であった。基礎はすでにあらかた砕石で埋められている。当該の井戸はこの木造部の東南角付近にあって、南および東の隣地との境界から1m程度離れている。直径は7、80㎝くらい。穴は地山がそのまま見えている。中に苔なしの石が入っていて、透明な水が20㎝くらい溜まっている。地山は締まった黒いマサ土と思われる。
岩石は、元の伝法産業との境界あたりから出たという。客土の赤土にまみれているが、わずかに割れた部分から見ると、自然石で、安山岩であろうと思われる。
この土地は均して駐車場にするとのことで、基礎を破壊撤去しながら砕石でどんどん埋めているので、見られるのはあすくらいまでか。
添付写真をごらんください

平成29年11月21日(火)午後1時30分
渡邉美和・奈良部通彦・長谷川徹 三の丸緑地堀の井戸調査
井戸の巾 東西70㌢ 南北70㌢ 丸形
深さ 水面まで1メートル 沈石まで1メートル30センチ
位置
南境界線から120センチ 東境界線から250センチ
表歩道より20メートル
(写真参照)

玄武岩は、苦鉄質火山岩の一種。深成岩の斑れい岩に対応する。
火成岩は全岩化学組成(特にSiO2の重量%)で分類され、そのうち玄武岩はSiO2が45 - 52%で斑状組織を有するもの。斑晶は肉眼で見えないほど小さい場合もある。肉眼での色は黒っぽいことが多いが、ものによっては灰色に見えることもあり、また含まれる鉄分の酸化によって赤 - 紫色のこともある。 高さ50センチ 横50センチ 奥行40センチ
削り跡あり(写真参照)


歩道よりの1メートル地下の土地から大火残土と思われる。土、木片・陶器等採取できた。


古井戸の方は長谷川徹さん、渡辺義和さんからすでに報告がありますので省略。

謎の岩石は、夕方、通りがけに見ましたら、西隣の空き地の歩道寄りのところに移動してくれていました。

玄武岩だとすると、御殿場泥流によって流されて来たか、人為的に採石したか。地表に近いところにポツンと埋まっていたことが気になる。岩石のサンプルは原岩を欠いて採取しました。目視で玄武岩と認定。灰黒色。斑晶はほとんどない。細かい気泡がある。全体にとげとげしさはなく、かといって川原石のように丸みを帯びてはいない。表面はなめらか。加工したものか。

炭化土は、炭化した木片や陶器片を含み、墨のような色。握って団子を作れる。水をかけると容易にばらける。長谷川、渡辺両氏によると、大正2年の大火のときの焼けた塵芥ではないかとの見解。サンプルは採取しました。添付写真をごらんください。


こんどのことでわかったこと。外堀通りの南側の家並は土塁の法面にかかっている部分がいくらかあるとしても、大部分は地山の上に建てられていると考えられます。


奈良部 通彦



2017年11月9日木曜日

明治元年兵学校関連施設図

明治元年兵学校関連施設図です。現在の地図に重ねました、校舎や寮や附属小学校や門や沼津病院の位置が分かるとおもいます。
又、お堀は水色にしましたので、分かり安くなった思いますが。

2017年8月30日水曜日

沼津市立第一小学校の明治時代の歴史

沼津市立第一小学校の明治時代の歴史
1 明治元年9月 代戯館(明治元年9月12日開校:添地二十五番長屋の一棟:亀里樗翁館長)
2 明治元年10月 代戯館 片端六番五番小呂に移る(科目 素続、手習、洋算)
3 明治元年12月8日 徳川家兵学校附属小学校開校(仮校舎として三の丸太鼓門前の多聞)(寺子屋平机式)(蓮池新十郎頭取)(赤松大三郎、附属小学校掟書起草、新小学校校舎設計始める)
4 明治3年1月 静岡藩小学校と改称
5 明治3年4月1日 丸馬出門外片端(今のボールビルPあたり)に兵学校一等教授赤松大三郎の設計により洋風瓦葺き2階建て新築し、城内太鼓門前仮附属小学校舎から移る。(建坪150坪、教室数12室、高机腰掛式、新設備。別棟女子生徒専用)
6 明治4年11月 沼津小学校と改称(中根淑頭取・鈴木五一頭取)(片端)
7 明治6年1月 城内町々立小学集成舎と改称【正則(小学)・変則(中学)】(変則に外人教師招聘、最初米人グッドマン品格無しで解雇、次ぎに英人クーリング教養あり生徒に慕われた。)(当時頭取年俸二百円、普通教師年俸七十円、外人教師年俸二千四百円)
(片端)
8 明治6年7月 本町・上土・三枚橋町立明強舎創立(集成舎は城内方面学区、明強舎は本町、上土、三枚橋を学区する)(場所は下本町清水本陣宅)
9 明治9年 集成舎(山田大夢校長)(片端)から変則科を分離、沼津中学校(校長江原素六)が創立。変則科生徒沼津中学校へ編入。
(沼津中学校は旧駿河銀行大手町支店あたりに、総工費一万円で洋風二階建、石造り、寄宿舎、外人教師用洋風住宅が完備されたものだった。)(明治14年4月寄宿舎より出火、全焼し、貴重な兵学校関係の書物を焼失。外人教師用住宅が類焼を免れたので、修理して教室として授業を再開)(明治17年4月県立となるが、明治19年7月県内の中学校が統一され、沼津町学校は廃校となる)
10 明治10年 「第49番及第53番聯合区小学」として明強舎類焼により集成舎と合併。(片端)
11 明治11年6月 小学沼津学校(沼津黌)(本丸跡)(校長山田大夢)(合併により手狭になり、総工費五千円にて、旧沼津城本丸跡に校舎新築)明治11年6月15日開校式、徳川慶喜揮毫の「沼津黌」を賜る。
12 明治13年12月 城内町公立小学集成舎(後集成舎)(添地)
(今、小林Pあたり)
(集成舎は添地の馬場跡私有地300坪を借用し、戸庁役場と共同で校舎新築。木造平屋建112坪、内12坪役場使用)(集成舎・明強舎・三枚舎分裂、小学沼津校の施設は全部沼津治安裁判所に譲渡、町方町の従来の裁判所を明強舎用に買い取り、敷地の下付けを受けた。)
13 明治14年 駿東郡第一学区町立小学集成舎と改称(添地)
14 明治19年7月 公立沼津黌(町方)三舎合併
15 明治19年12月 駿東高等小学校(旧沼津中学校跡)公立沼津黌上級生編入
16 明治20年1月 尋常沼津黌と改称(町方)(間宮喜十郎校長)
17 明治20年10月 公立沼津尋常小学校(町方)(間宮喜十郎校長)
18 明治25年5月 町立沼津尋常小学校(町方)(間宮喜十郎校長)
19 明治30年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常4年・高等4年)
(鈴木忠平校長)(八幡)
20 明治34年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常4年・高等2年)
(野方正作校長)(八幡)
21 明治34年4月 町立沼津女子尋常高等小学校(野方正作校長)(八幡)
(昭和3年3月まで八幡)(昭和3年4月沼津市立第二尋常小学校)
22 明治41年4月 町立沼津尋常高等小学校(尋常6年・高等2年)
(永田金作校長)(八幡)

2017年8月20日日曜日

「沼津ふるさと講座」大久保忠左と岡崎:講師市橋章男氏





当日資料

平成29年7月9日(日)
『沼津ふるさと講座』
大久保忠佐と岡崎
一大久保氏発祥の足跡と忠世、忠佐兄弟のいた風景
講師 おかざき塾歴史教室主宰 市橋章男

沼津史談会歴史講座
2017,7,9おかざき塾歴史教室 市橋章男
『大久保忠佐と岡崎』
~大久保氏発祥の足跡と忠世、忠佐兄弟のいた風景~
1はじめに
遊撃隊と岡崎脱藩藩士たち
2大久保一族
(1)大久保一族のルーツ
・下野国宇都宮氏庶流武茂氏(寛政諸家譜)
・宇都宮(武茂)泰藤
一南北朝の争乱で新田義貞に従い、敗戦後に岡崎上和田に。
・妙国寺(法華宗/岡崎市宮地町)を菩提寺とする
・宇都宮から宇津(うど)氏に改姓
・宇津忠茂の時に大久保に改姓
・一家康の祖父、松平清康に仕える(山中城調略)
「岡崎開市」の功労者
・長福寺(法華宗/岡崎市竜泉寺町)を菩提寺とする
大久保忠教の墓は遺言により長福寺に
(2)徳川創業期の功臣一「徳川十六将図」の三河武士たちと大久保兄弟
・大久保忠世、忠佐兄弟の活躍
「三河一向一揆」と大久保一族
※「三河一向一揆」について
三河地方に勢力を拡大した真宗本願寺派と、領主である松平家康との間に起きた「領主権争い」と考えて良い。宗派間の宗教戦争的な意味合いはほとんどない。
家臣団には真宗門徒が多く、家康側と一揆側に二分してしまった。大久保党は法華宗であったことから、家臣分裂の危機は免れた。
・大久保党として「上和田城」で一揆方と戦う。激戦となり、大久保忠勝と忠世が目を負傷する(「三河物語」)。
・家康が救援に駆け付けた際、忠世の妻が焼味噌を添えて湯漬けを差し出し、それを大変喜んだというくだりが見られる(「大久保家伝」)。
・大久保忠佐の発願で、蜂屋貞次を伴い和議に及ぶ(「三河物語」)長老である大久保忠俊の家康への諌言一「御手ヲ広クナラセラレ給ババー」
3大久保忠佐の活躍と「旗本」の地位
(1)徳川家康が野戦に強かった理由
・三河一向一揆後の軍制再編 東西三河旗頭を中心に、命令系統を整備。松平一門衆などの内部分裂を防ぐ。
「旗本先手役」の創設。一人に50騎ほどの与力。自由に動く機動部隊。「旗本」のルーツ。後には大久保忠佐や井伊直政も加わる。徳川創業期の功臣たちが顔を並べる。
(2)内政の充実
「仏高力、鬼作左、どちへんなし(偏らない)の天野三兵」
(3)「長篠の髭」一信長の評価
天正三年長篠に軍を出したまふの時、仰によりて兄忠世と列して両手にわかれ、鷹下の鉄砲をつかさどり、かはるがはるこれを発して大に勝頼が軍を破る。
このとき織田右府(信長)忠佐が進退衆にすぐれたるを見て、髭多き武者は誰たるやととはしむ。三河の士大久保治右衛門忠佐とこたふ。
右府その勇武を歎美す。のち東照宮右府の軍に会したまふごとに、長篠の髭はしたがひたてまつるやいなやととはる(『寛政譜』)
(平成29年7月9日 『沼津ふるさと講座』当日配布資料より)


2017年5月27日土曜日

東海道の街道と宿場の変遷(中世・近世沼津地区)

平成29年5月25日(木)午後6時30分
沼津ユネスコ協会29年度総会特別講話 当日資料







 沼津宿の歴史テーマに講話
ユネスコ協総会
沼津ユネスコ協会(原博男会長)は25日夜、沼津市内で総会を開いた。沼津郷土史研究談話会の長谷川徹調査研究主幹が記念講話を行った。
長谷川さんは「東海道の街道と宿場の変遷」と題し、地図や古文書を見せながら沼津宿の歴史をたどった。沼津宿が東海道の宿場町として栄えた要因を「箱根峠への道と足柄峠への道の分岐点で交通の要衝だったため」と説明。江戸時代に参勤交代が確立したことを機に「宿泊施設や飲食店が増え、商業都市として発展する基礎となった」と分析した。
【静新平成29年5月27日(土)朝刊】
↓沼朝記事スライド資料

 沼津史談会の長谷川さんが記念講話
 沼津ユネスコ協会総会で宿場の変遷など取り上げ
 沼津ユネスコ協会(原博男会長)は二十五日、一般にも公開して総会特別記念講話をホテル沼津キャッスルで行った。
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)調査研究主幹で上本通り商店街振興組合理事の長谷川徹さんが「東海道の街道と宿場の変遷(近世沼津地区)」と題して話した。
 長谷川さんは「沼津には宿が三つあった」として、中世の沼津には木(黄)瀬川、車返(くるまがえし)という宿場町があり、このうち木瀬川宿は大きな宿場町で、当時は、まだ沼津宿はなかったことを説明。源頼朝も木瀬川宿を度々訪れて宴会を開いていたことを話した。
 長谷川さんは「当時、沼津地区で一番ステータスのあった地域が木瀬川宿。古代には現在よりも北、長泉町本宿の辺りにあり、交通の要所だった」とした。
 その後、長泉町本宿辺りの宿場町がすたれて現在の木瀬川辺りに移動。頼朝の時代には現在の木瀬川地域が発展していて、後にいうような芸者も多くいたことが想定されるという。
 一方、車返は今の三枚橋町辺りにあり、頼朝の正室ではない女性が住んでいたという。
 河川の黄瀬川は長い年月の間に流れを変えていて、数万年前は浮島の方に流れていた。これが徐々に東側に移ってきて現在の場所になったもので、「沼津は黄瀬川の扇状地だった」とした。
 街道に関しては、古代の役所が置かれていた場所をつなぐ官道が現在の東海道より、だいぶ北側を通っていたことや、古代に関東地方と県東部をつなぐ道が御殿場方面に回る足柄路だけだったのが、富士山が八〇二年に噴火したことにより足柄路が通行止めになって以降、筥荷(はこに=箱根)路が開かれ、二路を併用する形になったことを説明した。
 鎌倉幕府は、お参りの対象である神社を三島明神、箱根権現、伊豆山権現の三つとしていたことから、箱根越えが頻繁に行われるようになり、これが箱根街道の発達した理由だという。
 中世以降は木瀬川宿が徐々に衰退していき車返と一体化した後、新たに出来た沼津宿が立派になっていき、車返と一体となって沼津宿だけが知られるようになったことを話した。
【沼朝平成29年5月31日(水)号】

2017年5月21日日曜日

第1回沼津の古代史講座 講師:篠原和大教授





↓当日配布資料





沼津史談会総会記念講演会「沼津で暮らして15年」山口建氏












沼津市の特質を分析 郷土史研究談話会
山口総長(静岡がんセンター)講演
沼津郷土史研究談話会(匂坂信吾会長)はこのほど、県立静岡がんセンターの山口建総長を招いた講演会を沼津市立図書館で開いた。
山口総長は同センターの理念や概況とともに、2002年の同センター創設を契機に移り住んだ沼津市の特質を歴史や風土など多彩な視点で分析した。
「風光明媚(めいび)で気候が温暖。自然・社会環境は申し分がない」とし、市民の気風は「あくせくしていないが、のりが悪い面もある」と語った。
同市を舞台にしたアニメ作品「ラブライブ!サンシャイン!!」のファンが県外から多数訪れている状況を写真を交えて紹介し「市や市民の関心を高め、まちの活性化の材料として積極的に活用すべき」と力説した。
1869年に現在の沼津市内で創立した沼津兵学校の150周年記念事業を行う「フレッシュ150」実行委員会との共催。同会会員ら約100人が聴講した。
【静新平成29年5月17日(水)朝刊】

2017年4月17日月曜日

樋口雄彦最新作「静岡藩ヒストリー」を薦めます。

 静岡新聞社の本
 見る読む 静岡藩ヒストリー
 大政奉還(1867年)から150年目の今年、現在の静岡県の礎となった「静岡藩」の歴史を、貴重な資料や人物写真を交えて概説した。
 800万石の将軍家から、わずか70万石の一大名となって静岡に移封・移住した徳川家と旧幕臣たちは、新天地をどのように近代化へと導いたのか。
 静岡藩の行政機構、藩士の身分と生活、民生と産業振興、学校や教育、陸・海軍、医療、明治新政府との関係など、あらゆる角度から静岡藩の史実に迫る。
(樋口雄彦著・1728円)
【静新平成29年4月16日(日)朝刊】