2019年10月27日日曜日

令和1年10月26日(土)沼津史談会 秋の史跡探訪バス旅行


沼津史談会 秋の史跡探訪バス旅行
↓当日資料


↓当日の動画




↓ここをクリックで画像集に行きます。

静止画像集

BGMを替えた動画です↓

2019年10月17日木曜日

沼津兵学校とその群像 堀田(ほつた)維禎


第一章 静岡藩の御貨人
 廃藩後も続いた派遣先の教え子との交情を示すものとして、鹿児島藩御貸人堀田維禎の墓石脇に建てられた碑(東京都豊島区.染井霊園)がある。珍しい史料なので以下に掲載しておこう。
 奉献 明治壬申歳請静岡堀田先生於我鹿児島学校教員生徒皆従受数学励精勤業以期有成焉先生亦不吝力而導之今茲甲戌暑月沿例休課先生就其暇帰省郷既赴東京適罹疾不起越廿四日訃至相共茫然大失所望矣鳴呼余輩雖庸駑而於其術粗有所得皆先生之澤也爰受業弟子凡四十三人相謀捐建石灯一基子塋域以誌麗澤且表哀惜之意云
                   明治甲戌十二月同謹撰

堀田維禎碑文飜訳
ささげたてまつる。明治五年、静岡の堀田(維禎)先生を招請し、我が鹿児島学校において、教員・生徒が皆数学を受け、精励・勤業し、成果を上げることを期した。先生もまた、惜しむことなく指導してくれた。本年(明治七年)夏、例年通りの休課中、先生はその暇に故郷に帰省し、やがて東京に赴き、たまたま病気にかかり治らず、二十四日死亡の知らせに接し、ともども荘然とし、大いに希望を失った。ああ、我々は凡庸といえども、学業において皆あらまし習得できたのは、先生のおかげである。ここに授業を受けた弟子およそ四十三人が相談し、資金を寄せ合って、石灯一基を先生の墓地に建て、そして、助け合って勉学に励まんことを記し、なおかつ、哀惜の意を表すものである。

                   明治甲戌(七年)十二月同謹撰

 河野広 中摩直助 比野休蔵 木佐木長信 坂口善之丞 三崎久志 川畑金之助 山元中寛 山元中正 高見弥市 田原平一 松崎鉄二 波江野源之介 林清武 岸雄二 樺山資常 桑波田景広 山口真菅 田中良道 池田純雅 永山操一 佐藤集治 間瀬田実房 長倉十次郎 西季暢 野元綱清 伊集院宗吉 西純熈 蓑田長盛 久富木重誉 町田厳槌 永田良雄 平賀裕神 友野由彦 成尾吉詮 石井元定 原弓太郎 南八郎太 宮原正助 関計一 町田直吉 鍋倉直 玉利喜造 大島之仙蔵

この碑文によると、堀田は明治五年に鹿児島の学校教師を引き受けたとあり、廃藩後も改めて同地で教鞭をとったことがわかる。しかし、明治七年(一八七四)一一月八日、帰省中の東京で二十九歳で病没した。多くの弟子たちに慕われたらしく、このような石碑が建立されたのである。
 ちなみに、石碑に名前が刻まれた堀田の弟子のうち、著名な人物は、玉利喜造(一八五六~九三)と大島仙蔵(一八九三年三十五歳で没)の二人である。玉利は、薩摩藩士の子に生まれ、鹿児島での少年時代には、藩校造士館、小学校、西兵学寮などで学び、明治八年に上京、のちに農学博士・東京帝国大学教授・貴族院議員になった。大島は、奄美大島に生まれ、明治四年鹿児島の本学校に入学、学力抜群により中学生(助教)に採用され、八年(一八七五)大山巌に伴われ上京、工部大学校を卒業しアメリカへ留学、帰国後は鉄道技師として活躍した。
静岡から鹿児島への御貸人は、はるか後年にこのような人材の花を咲かせる役割も果たしたのである。市来四郎が大久保利通へ護したことにより阿部潜が大蔵省に奉職したごとく、御貸人をめぐっては・教育制度の移植という個面だけではなく、個々の人間的なつながりの形成についても見落とせないのである。

(「沼津兵学校の研究」樋口雄彦著 平成191010日発行)




旧幕臣の明治維新 樋口雄彦
 沼津兵学校とその群像 堀田(ほつた)維禎
 徳島藩と鹿児島藩では、御貸人の招聘を機に静岡藩の小学校制度を取り入れた教育改革を実施している。徳島藩が四年正月に設置した小学校の規則は、「徳川家兵学校附属小学校掟書」に倣(なら)ったものだった。鹿児島藩が同年同月に始めた本学校-小学校・郷校の進級制度は、兵学校ー附属小学校のしくみを取り入れ、「普通之学問」(資業生の基礎科目相当)の習得に主眼を置いたものだった。鹿児島では廃藩後も静岡藩の制度的影響が続き、八年(一八七五)六月に制定された「変則小学校規則」は「静岡藩小学校掟書」にそっくりだった(井原政純「鹿児島藩の学制改革と静岡藩からの影響ー()『本学校ー小学校・郷校の制』を中心にー」『国士館大学教育学論叢』第一七号、一九九九年)
鹿児島に赴いたのは、沼津兵学校の生みの親ともいうべき阿部潜(せん)と附属小学校頭取蓮池新十郎らであった。倒幕(とうばく)の張本人たる鹿児島藩への肩入れは、相手からも感謝され、戊辰時の感情的なしこりを解消する役割も果たしたようである。第二期資業生から鹿児島藩御貸人となり数学を教えた堀田(ほつた)維禎は、鹿児島の生徒たちに慕われ、死後追悼のための記念碑が東京の墓地に建てられている。
 なお、沼津兵学校以外では、静岡学問所からの御貸人派遣は少ないが、箱館戦争降伏人と勤番組からの派遣数は極めて多い。無役の者や帰参した者の中にも有能な人材が眠っていたわけであり、静岡藩では彼らを他藩へ貸し出すことで、人材の有効利用と食い扶持(ぶち)の節減との一石二鳥をはかったといえる。


2019年10月12日土曜日

伊豆をめぐる名画




伊豆市共同企画展
伊豆をめぐる名画
横山大観、安田靱彦(ゆきひこ)を中心に-
 伊豆という言葉は輝く海、険しい山、温泉、歴史、文学など、さまざまなイメージを思い起こさせます。川端康成は伊豆が「詩の国」、「歴史の縮図」、「南国の模型」、「海山のあらゆる風景の画廊」であると述べて、その魅力を語っています。こうした豊かな伊豆の自然と文化は、多くの日本画家たちをも惹きつけてきました。
 明治41(1908)年、奈良で古画を学ぶ安田靱彦は胸を病んで帰京を余儀なくされます。そのとき、旅館を営む友人の相原沐芳(もくほう)の勧めにより伊豆・修善寺で静養することにしました。静養中に研究を重ねて自らの画風を見出した靱彦は、その後もたびたびこの地を訪ね、画家仲間の今村紫紅(しこう)や小林古径、速水御舟(ぎょしゆう)らも集まるようになりました。
 明治末、横山大観も夫人や自らの療養のため修善寺を訪れ沐芳と交流するようになります。昭和5(1930)年には大観らの渡欧壮行会が修善寺で開かれるなど、その繋がりは長く続きました。
 こうした交流から伊豆は名画が生まれる場所となり、多くの作品が残されることになりました。本展では伊豆市が所蔵する絵画を通じて、伊豆の魅力、そして日本画の魅力をご紹介いたします。


 伊豆・修善寺と相原沐芳(あいはらもくほう)
 沼津に生まれた相原沐芳(1875-1945年)は東京で学業を修めるとともに日本画を学び、安田靱彦や今村紫紅らが結成した紅児会の画家たちと親しくなります。沐芳は後に妻の家業である修善寺・新井旅館を継ぎ、そこに友人である画家たちが集うようになりました。

2019年10月11日金曜日

興国寺城の変遷に時代的特徴


興国寺城の変遷に時代的特徴
早雲から江戸時代初頭まで
 北条早雲公顕彰五百年記念イベントの一環となる歴史講演会「興国寺城跡と続日本100名城」が5日、プラサヴェルデで開かれた。考古学関係者らが市内根古屋の興国寺城や県内の城について話した。
 早雲公顕彰500年記念イベント
 城郭専門の加藤理文さんが解説
 興国寺城を取り上げたのは、日本城郭協会理事の加藤理文さん。加藤さんは県埋蔵文化財調査研究所や県教委文化課を経て現在は中学校教諭。「考古学から見た興国寺城跡の歴史的意義」と題し、城の構造の変遷などについて話した。
 構造の変遷についての話では、城所有者の変遷に合わせて北条早雲(伊勢盛時)時代、今川時代、武田時代、徳川時代、中村・天野時代の5つの時代区分を設定し、それぞれの特徴を解説した。
 早雲時代の興国寺城については、早雲が同城の城主になっていたと仮定した上で、その場合の同城は「方形居館」という形態であったであろうとの見方を示した。
 方形居館は、上空から見たら四角形をしている敷地に建てられた屋敷で、城のような防御機能はない。
 加藤さんは、平地に居館が位置し、周囲の高地に見張り台のような施設があるイメージを示した。
 今川時代の同城の特徴としては、大改修によって軍事的防備を意識した城が誕生したと指摘した。
 ただ、大軍の襲来を想定した造りにはなっておらず、崖や沼などの自然の地形を、そのまま敵を防ぐ施設として活用し、足りない部分を堀や土塁(どるい=土の壁)で補うものであったという。
 この頃は、現在の同城跡の北端部分のみが城域となっていた。
 武田時代になると、城の拡張が進み、現在の城跡の北端だけでなく中央部も城域となった。この時代の大きな特徴は、武田氏が得意とした三日月堀の建設だという。
 三日月堀は敵の城内突入を防ぐために城門前に造られる堀で、堀の内側に沿って設置される土塁と合わせて丸馬出(まるうまだし)と呼ばれる防御施設を構成する。丸馬出は、城門に殺到する敵兵の動きを停滞させ、城内から弓や鉄砲で狙い撃ちにさせる機能があった。
 三日月堀や丸馬出は他の戦国大名も模倣するようになったが、興国寺城の三日月堀は、武田氏によって造られたことが判明している全国唯一のものだという。
 徳川氏は、丸馬出の技術を取り入れ、さらに大型化した。戦国時代末期になると、大名が動員する軍勢の規模が巨大化したため、これを迎え撃つために城の施設も巨大化したという。
 徳川時代の興国寺城は、城の北側に巨大な丸馬出が造られた。このほか、城兵の居住施設や倉庫などの大改築が行われた。
 豊臣秀吉による天下統一後から江戸時代初期に至る期間の中村・天野時代は、さらなる大改修が行われた。本丸や二ノ丸、三ノ丸の増強が行われ、外堀や外郭土塁が造られた。
 城跡にある「伝天守台」と呼ばれる場所の工事が行われたのも、この時期だったという。
 加藤さんは、伝天守台にあったであろう建物については、高層の天守閣ではなく平屋の建物だったとの考えを示した。
 当時、国内各地に築かれた城は、天守閣を建てずに天守閣の代わりとなる平屋の建物を建設するケースがあった。伊達政宗が築いた仙台城などの例があるという。天守閣の代用となる建物は、屋根に唐破風(からはふ)を付けるなど手の込んだ造りになっており、こうした建物は格式の高いものと見なされていた。そのため、天守閣と同様に城のシンボルになり得た。
 興国寺城も、こうした建物が天守閣の代わりに建てられていた可能性があるという。
 加藤さんは同城の構造の変遷のほかに、城の復元や活用についても提言し、見学者が城跡に来たことを実感できる仕掛けとして、外部との境界となる土塁や堀、城門の復元が重要であるとの考えを示した。
【沼朝令和11011日(金)号】

2019年10月9日水曜日

源氏物語最古の写本 都内で発見重文級 定家編さん青表紙本の「若紫」


源氏物語最古の写本
 都内で発見重文級
 定家編さん青表紙本の「若紫」
 平安時代に紫式部が著した源氏物語(54(じょう))について、鎌倉時代の歌人藤原定家(11621241)が編さんした最古の写本「青表紙本」のうち5()目の「若紫」が見つかり、冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)8日発表した。
 所有者は愛知・三河吉田藩主だった大河内家の子孫で東京都在住の大河内元冬さん(72)。青表紙本は1930年代までに花散里(はなちるさと)、柏木(かしわぎ)、行幸(みゆき)、早蕨(さわらび)4帖が確認され、いずれも重要文化財。紫式部が書いた原本は残っておらず、約80年ぶりの新写本発見で源氏物語の研究が進む可能性がある。
 広く知られている内容と同じだったが、助詞の使い方などに異なる点があった。和歌を上句と下句に分けて書き、読みやすくしていたほか、校訂跡もあった。
 元文化庁主任文化財調査官で同文庫の藤本孝一氏らが鑑定した。平安時代から鎌省時代の紙が使われており、末尾に定家独特の注釈である「奥入」が書かれている点などから判断した。
【静新令和1109日(水)朝刊】