2019年11月22日金曜日

沼津郷土史年譜 明治元年~昭和20年9月


沼津郷土史年譜
明治元年(慶應4年)
8月 沼津藩家臣団内訳
沼津在住 侍小屋 105軒 惣長屋 56棟 世帯 385軒 人数(男)1,181人 (女)1,188人
江戸在住 世帯 97軒 人数(男)170人(女)156人
総数 2,695人
9月 徳川藩沼津移住完了 代戯館開設
10月 徳川藩の職員構成成立。西周助、徳川家兵学校頭取を命ぜられる。
11月 徳川家兵学校頭取以下各教授方の正式任命発令される。
12月 沼津勤番組組織成る。 西周兵学校附属小学校掟書31条を定む。
12月8日 代戯館を徳川家兵学校附属小学校に引き継ぎ開校。沼津城内南隅外堀沿いの建物を改造使用する。
徳川家兵学校開校掟書84条選定。校舎は沼津城二の丸旧城主水野邸を使用。


↓資料スライドシェアー




2019年11月18日月曜日

沼津駅前郵便局が50周年記念


沼津駅前郵便局が50周年、記念品を頂いた。


昭和44年に沼津駅前通りにあった、沼津郵便局本局が大手町から市場町へ移転されたので、しばらくして現在位置に沼津駅前郵便局が開局されたのではと思われます。
そこで、その当時のゼンリン地図を調べたところ、昭和45年当時の地図ではみどりや倉庫と表示されていますが、昭和56年の地図には沼津駅前郵便局と表記されておりました。
ちなみに昭和55年の地図では無記で□のままでした。思うに、昭和44年に本局が市場町に移ったあとの駅前通りの本局舎を使って、10年間、沼津駅前郵便局業務を行っていたと思います。沼津駅前郵便局は昭和44年からですと50周年ですね。
20191118日記 長谷川徹)


←昭和56年のゼンリン地図
本局跡(駅前通り)から現在地(仲見世三番街)に移った。








←昭和47年のゼンリン地図駅前郵便局(本局舎利用)

2019年11月17日日曜日

令和1年11月16日「ある幕臣の挑戦」田邊康雄講演(沼津ふるさと講座)田邉太一が歩んだ、幕末から明治








↓当日配布資料


沼津津ふるさと講座  
◆沼津郷土史研究談話会(略称・沼津史談会)主催の『市民公開講座』 11月16日(土) 13時30分 市立図書館4階 第3講座室
田邉太一、及び兵学校附属小に学び、琵琶湖疎水等の事業を成し遂げた田邉朔郎の子孫。
㈲田辺コンサルタントグループ代表取締役田邉康雄 「ある幕臣の挑戦 一静岡藩憾川家・沼津兵学校一等教授の田邉太一が歩んだ、幕末から明治」
◎幕臣(旗本)子孫・柳営会発行『柳営』第30号の特別寄稿を基に、太一の甥で日本を代表するエンジニア・朔郎の孫、現在83歳で生涯現役エンジニア・康雄氏が、来秋予定する「朔郎講座」の前段として語る。

↓「万波を翔る」田邊太一の小説 最後の沼津兵学校時代の章

2019年11月16日土曜日

「小栗家住宅主屋(沼津)有形文化財に」


「小栗家住宅主屋(沼津)有形文化財に」
 国の文化審議会は15日、県内の光明山古墳(浜松市天竜区)の史跡への新指定、遠江国分寺跡(磐田市)の特別史跡指定範囲の追加、小栗家住宅主屋(沼津市)の登録有形文化財への登録を萩生田光一文部科学相に答申した。県文化財課によると、県内の史跡は48件、登録有形文化財は265件になる。

小栗家住宅主屋(沼津)有形文化財に
 沼津御用邸周辺の別荘群の名残をとどめる希少な建物。明治後期に沼津御用邸近くの別荘を伴野家が現在の場所に移築し、米卸業などを営んでいた小栗家が1947年に購入して住宅とした。
 木造平屋建てで建築面積は147平方㍍。二つの和風住宅の中央に洋館を位置した特色ある構成。洋館は青いスペイン瓦で覆われ、和風住宅の屋根は桟瓦ぶきになっている。玄関と和室2室、洋室、座敷がほぼ1列の配置になっていて、富士山を望む座敷の北面に縁側を備える。大正後期から昭和前期にかけ、洋室や座敷を順次増築したとされる。
【静新令和1年11月15日朝刊】







3年前に撮影した、小栗家住宅画像


2019年11月15日金曜日

陛下、令和の大嘗祭 即位重要祭祀、朱明まで


陛下、令和の大嘗祭
 即位重要祭祀、朱明まで
 皇位継承の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が14日夜、皇居・東御苑に特設された大嘗宮で、公的な皇室行事として営まれた。即位した天皇が五穀豊穣(ほうじよう)や国の安寧を祈る儀式で、「秘事(ひじ)」とされる。14日夜の「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」と、15日未明の「主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀」がある。=関連記事228面へ

 神道形式の大嘗祭に対する公費支出を巡っては、1990年に催された前回から、憲法の政教分離原則に反するとの批判が根強いが、政府は令和の今回も公的性格を認め、費用は皇室の公的活動費「宮廷費」を充てた。総額約244千万円となる見通し。
 宮内庁は、安倍晋三首相ら三権の長や閣僚、全国の知事、各界の代表ら675人を招き、悠紀殿の儀には510人が参列した。
 大嘗宮は、約90㍍四方の敷地に、天皇陛下の儀式の舞台となる悠紀殿、主基殿と呼ばれる社殿を含む30余りの建物が並ぶ。悠紀殿の儀は、祭服を着た陛下が午後6時半すぎ、悠紀殿に入られて始まり、午後915分ごろ終わった。
 内部は非公開。宮内庁などによると、陛下は御座(ぎょざ)に座り、皇室の祖という神話上の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る伊勢神宮の方角に設けられた神座(しんざ)に新穀や酒などを供え、御告文(おつげぶみ)を読み、自らも食べて豊作などを祈った。
 装束姿の皇后さまは帳殿(ちょうでん)
呼ばれる建物に入り、陛下の社殿に向かって拝礼し、皇嗣(こうし)秋篠宮ご夫妻ら皇族も参列した。常陸宮ご夫妻と三笠宮妃百合子さまは欠席、上皇ご夫妻も参加しなかった。
【静新令和1年11月15日(金)朝刊一面】


静かな世論潜む危うさ
 大嘗祭(だいじょうさい)29年ぶりに行われた。宗教儀式への多額の国費支出を巡っては前回、憲法の政教分離原則違反だと議論が沸騰し、過激派のテロも続発したが、今回は目立った動きはなかった。政府関係者は上皇さまが重ねられた活動や、それを継承する天皇陛下への信頼の証しと胸を張るが、天皇を神格化し、戦争に突き進んだ反省を踏まえた議論が尽くされたとは言えない。静かな世論には危うさが潜む。

 大嘗祭 政教分離、広がる無関心
 10月上旬、皇居・東御苑には外国人を含む多くの観光客が集い、建設中の大嘗宮(だいじょうきゅう)をスマートフォンで撮影する姿があった。テロ警戒で作業を非公開とした平成時にはない、令和の新風景だった。
 弱体化
 宮内庁は作業を公開した理由を「社会情勢の変化」とする。その一つが過激派の弱体化だ。天皇制に反対する勢力は前回の大嘗祭があった1990年、テロ・ゲリラ事件を140件超起こしたが、今回はデモを行う程度で強硬さは見られない。
 当時、暴力的な訴えは支持を得られず、世間から孤立した。中核派では「やりすぎだ」と離反者が出た。翌年以降は武装闘争を控える方針を継続している。学生運動が衰退する中、拠点だった大学からの締め出しも強まり、他の組織も軒並み構成員を減らした。警察庁によると、テロ・ゲリラ事件は94年以降、年間10件を下回る。
 新たな姿
 波乱のない大嘗祭となった背景について、政府関係者は「象徴天皇に対する理解が広がったことも大きい」と指摘する。
 戦後の新憲法の下、「象徴」として初めて即位した上皇さまは、大嘗祭などの代替わり儀式を経て活動を本格化。30年余りの在位中、東日本天震災などの被災地訪問や戦没者慰霊にいそしんだ。天皇陛下も姿勢の継承を繰り返し明言している。
 宮内庁幹部は「『現人神(あらひとがみ)』だった戦前と違い、平和を祈り、国民に寄り添うという新しい天皇像が平成で明確に示され、天皇に軍国主義を重ね、危機感を抱く人が減つたのだろう」と語る。

 わだかまり
 ただ、本来的には天皇への信頼と政教分離の問題は別物ではないのか。
 令和の大嘗祭を挙行するに当たり、政府は昨年3月、「会合を3回開いただけで国費を使う前例踏襲を決めた。関係者は「複雑化しかねない議論は避けたかった」と明かす。その狙い通り、世論の反発は強まらず、視線はラストイヤーの上皇さまにばかり向けられた。
 大嘗祭を催した陛下の胸の内は分からない。ただ、皇嗣(こうし)秋篠宮さまが昨年11月の記者会見で宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と苦言を呈したことからは、皇室内に政府に対するわだかまりがあることがうかがえる。
 今の大嘗祭の様式は、天皇の神格化を進めた戦前に成立した。安倍政権に近い保守派は今回、その維持に成功した。
 放送大の原武史教授(政治思想史)は「戦前回帰的なイデオロギー」を感じ取り、「東日本大震災以降、政治ば権力にまみれているのに対し(天皇はそこから超越した『無私な存在』という戦前に似た見方が皮肉にも強まりつつある一と指摘。「憲法によると『天皇の地位は国民の総意に基づく』。政権に批判的な人々も含めて皇室に絡む問題を議論しなくなったが、国民が真剣に考えないといけない」と警鐘を鳴らした。
 主な参列者
 大嘗宮の儀には675人が招待された。主な参列者は次の通り。
 安倍晋三首相夫妻▽大島理森衆院議長▽山東昭子参院議長▽大谷直人最高裁長官▽菅義偉官房長官▽萩生田光一文部科学相▽森喜朗元首相▽山中伸弥・京大iPS細胞研究所所長▽山下泰裕・日本オリンピック委員会(JOC)会長▽皇后さまの両親、小和田恒さん、優美子さん▽天皇陛下の妹黒田清子さんの夫、黒田慶樹さん▽御厨貴・東大名誉教授▽小池百合子・東京都知事
 知事出席は26都道府県
 皇位継承の重要祭祀「大嘗祭」の中心儀式「大嘗宮の儀」に招かれた47知事の出欠について、共同通信の取材に対し、出席と回答したのは静岡など26都道府県だった。20府県は欠席とし、多くは公務を理由とした。大村秀章愛知県知事は「事前には答えられない」として、出欠を明らかにしなかった。
 欠席の理由は「公務日程の都合」(吉村洋文大阪府知事)「出張がある」(平井伸治鳥取県知事、広瀬勝貞大分県知事)など。森田健作千葉県知事は甚大な台風被害への対応とした。
【静新令和1年11月15日(金)朝刊2面「表層・深層」】

大嘗祭一世一度、厳かに
 静叔の中続く祈り
 陛下、夜通し神と向き合い

 皇位継承の最重要儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が15日未明にかけ、真新しい白木の柱が並ぶ祭殿で厳粛に執り行われた。即位した天皇が一世で一度だけ臨み、国と国民の安寧を祈る秘事。たいまつの淡い炎が闇を照らし、純白の祭服に身を包まれた天皇陛下が現れた。一世一度限りの大嘗祭(だいじょうさい)に臨む緊張感に、晩秋の冷たい空気がさらに張り詰める。周囲の高層ビル群の窓明かりも皇居の巨樹に遮られ、ここには届かない。静寂の中、かがり火にくべたまきがはぜる乾いた音が響き、侍従の先導で回廊を進んだ陛下は悠紀殿(ゆきでん)へと消えていった。
 皇居・東御苑に設けられた大嘗宮。神社の社殿をほうふつとさせる大小30余りの木造建築が整然と並び、装束姿の宮内庁幹部が控える。記者は最後列の幄舎(あくしゃ)に参列した。
 儀式は大半が非公開だ。宮内庁は「皇祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)や全ての神々に新穀を供え、自らも食べることで、五穀豊穣(ほうじょう)に感謝し、国と国民の安寧を祈る」とだけ説明する。
 だが、文献や取材に基づき、内部での所作はある程度再現できる。
 悠紀殿に入った陛下は8㍍四方の奥間「内陣」で、中央にある神の寝床とされる「寝座(しんざ)」そばの御座(ぎょざ)に着く。明かりは灯籠だけだ。陛下の眼前には、神が控える「神座(しんざ)」が、天照大神をまつる三重県の伊勢神宮の方角に向けて配されている。陛下はこの空間で「神饌親供(しんせんしんく)」と呼ばれる
所作に臨む。神饌は供え物の料理のことで、一口大に握ったコメとアワに加え、サケやアワビ、クリなど山海の幸が用意されている。カシワの葉で作った箱に納められ、陛下は竹製のはしを使って、采女(うねめ)から渡された皿に丁寧に盛り付けていく。神座の周りに供え終えると、白酒と黒酒を注ぐ。
 正座した状態で約1時間半、この所作を黙々と続ける。手伝う采女は2人。一説には、500回以上はしを運び、皿の数は30枚を超える。
 続いて、陛下は拝礼し、御告文(おつげぶみ)を読む。コメとアワ、白酒と黒酒を自ら口にする「直会(なおらい)」で締めくくり、主基殿(すきでん)でも一連の所作を繰り返し、夜通し神と向き合う。


 垣間見た儀式の一端は、まさに神事であり、政教分離に反する疑いは拭えない。一方で頭によぎったのは「国安かれ、民安かれ」という歴代天皇の言葉だった。連綿と続く祈りの本質がそこにある。大嘗宮の壮大な舞台装置を伴わずとも、意義は損なわれないはずだ。
識者'談話
 明治規定踏襲いいのか
 静岡福祉大の小田部雄次名誉教授(日本近現代史)大嘗祭(だいじょうさい)は質素な小屋で行われた時代もあるが、明治に入り、天皇を神格化させたい政府の思惑で、大規模に行われるようになった。権力者が天皇の権威を大きく見せることで、国民への支配力を強めたい考えがあったと言える。今回も神格化への流れの中で明治にで.きた規定「登極令(とうきょくれい)」をベースにした。果たしてそれで良かったのか。「伝統」という言葉でくくるのは簡単だが、議論が尽くされていないことは言うまでもない。退位による代替わりには賛同できるが、令和の「お祝いムード」が大嘗祭が抱える課題を見えにくくしたとも言える。
 歴史踏まえ伝統更新を
 京都産業大の久礼旦雄准教授(法制史)目立った議論の紛糾もなく大嘗祭(だいじょうさい)が行われたことは、平成時と比べて大きな変化だ。前回以降、学問的な研究が進み、国民に理解が広がったのだろう。近代以降で初のご存命のうちの退位という前例ができ、次に向けた議論もしやすくなっている。大嘗祭に限らず皇位継承儀礼全般について、歴史を踏まえつつ、時代に応じた、より広く国民が納得できる形の模索を始めるべきだ。伝統は常に更新されてきたという視点も大切だ。皇嗣(こうし)秋篠宮さまが国費支出に疑問を呈したことがあったが、多くの国民の理解が得られないと皇室もやりづらいのではないだろうか。
【静新令和1年11月15日(金)朝刊28面】




2019年11月14日木曜日

「大嘗宮の儀」


大嘗祭
 天皇陛下の即位に関する一連の儀式の中で、特に重要とされる「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心行事「大嘗宮の儀」がきょう14日夜から15日未明にかけ、皇居・東御苑内で行われます。皇位継承に伴う「大嘗祭」は「御一代に一度限り」。古来同じ方法で続けられている意義と、平成時代の始まり以来となる儀式の流れを紹介します。
(企画・制作/静岡新聞社地域ビジネス推進局〉

 一代に一度
 今夜から「大嘗祭~だいじょうさい~」
 天皇陛下が神々に秋の実りを感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」のうち、即位後初めて行うものが「大嘗祭」です。各地方の秋祭りや神社の新嘗祭が、収穫に感謝し、地域や住民の平穏、五穀豊穣を祈る儀式であることと同じく、天皇陛下による大嘗祭は、国や国民の無事を願う場という意味合いがあります。
 古来より、一代に一度限りの儀式として盛大に行われ、平安時代中期の法典「延喜式」では、祭祀の区分のうち最も重要な「大祀(たいし)」に唯一定められています。
 皇位継承の儀式として確立したのは7世紀後半の天武天皇や持統天皇の時代とされ、応仁の乱以降の約220年間の断絶を挟み、1687年に東山天皇が復興しました。古来の儀式をそのまま今に伝えているとされ、古代の空気や伝統の重み、日本の歴史の長さを国民が改めて感じ、次の時代に向けて思いを新たにする機会となっています。

 「大嘗宮の儀」は、大嘗祭の一連の儀式の中でも特に重要視されるものの一つで、天皇陛下が、国や国民の安寧、五穀豊穣を祈る場です。会場となる大嘗宮は、大嘗祭に合わせて皇居東御苑に臨時に建てられるもので、古式にのっとった簡素な造りが特徴とされています。儀式の中心となる建物は、東側の「悠紀(ゆき)殿」、西側の「主基(すき)殿」の二つ。それぞれ、「清浄な斎場(=悠紀ご、「悠紀と並び清浄な斎場(=主基)」の意味合いがあり、日本全体も、新潟・長野・静岡を境とし、3県を含む東側の「悠紀地方」と西側の「主基地方」に分けられます。このほか大嘗宮には、皇族などが参列する「幌舎(あくしゃ)」、神々に供える食事をつくる「膳屋(かしわや)」などが設けられます。 夜から未明にかけての「大嘗宮の儀」は公開されていませんが、ひんやりとした秋の空気が醸し出す厳かな雰囲気の中で、白い絹の服に身を包んだ天皇陛下が、悠紀殿と主基殿のそれぞれで、今年収穫したコメを神々に供え、祈りをささげ天皇陛下自らも召し上がると伝えられています。


各地から集まるコメや農・水産物
 大嘗宮の儀を迎えるにあたり、皇居はもちろん、各地でさまざまな儀式が行われてきました。大嘗祭の成功を、全国が一丸となって支えています。
 大嘗祭をめぐる一連の動きのスタートは、即位間もない58日。天皇陛下が、天照大御神や歴代天皇などをまつる皇居の宮中三殿「賢所(かしこどころ)」「皇霊殿(こうれいでん)」「神殿」で、即位礼や大嘗祭の期日を報告しました。13日には、神々に供えるコメの産地を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が行われました。
 この儀式では、亀甲を焼いてできたひび割れの形で吉凶を占う「亀卜(きぼく)」で、本県を含めた東側(悠紀地方)と西側(主基地方)からそれぞれ栃木県と京都府を選び、それぞれから、コメを育てる「斎田」が決められました。
 栃木県高根沢町と京都府南丹市の斎田の稲穂がすっかり育った927日の「斎田抜穂(さいでんぬきほ)の儀」では、前日に身を清めた参列者が見守る中、天皇陛下の使いの「抜穂使」が祝詞を上げ、「大田主」と呼ばれる耕作者が、それぞれの斎田のコメを収穫しました。
 大嘗祭では、斎田だけでなく各都道府県からも、コメ.アワなどさまざまな農・水産物が皇居に届けられます。大嘗宮の一角に供えられる特産物は「庭積机代物(にわづみのつくえしろもの)」と呼ばれ、明治天皇の時代から始まった慣習とされています。本県からは茶、ミカン、ワサビ、乾シイタケ、つお節の5品が送られました。
 大嘗宮の儀の前々日から前日にかけては、天皇陛下をはじめとする関係者のおはらいや期間中の無事を祈る儀式が次々と行われました。きょうは、伊勢神宮と宮中三殿で、神々や歴代天皇に開催を報告した後、きょう14日夜に悠紀殿で、15日未明に主基殿でそれぞれコメを供え、祈りをささげます。翌16日には、大嘗宮の儀が無事終了したことを感謝する儀式も行われます。

国内各所でお祝いムード

 翌16日と18日に皇居宮殿で行われる「大饗の儀」は、神々に供えられたコメや農・水産物で作った料理を参列者と分け合う祝宴です。
 天皇陛下と参列者が、神々に供えた料理を一緒にいただくことを「直会(なおらい)」と呼び、大嘗祭を締めくくるとともに、天皇陛下と国民が、新時代に向けて思いを一つにする意味合いを持ち、大嘗祭の中でも、重要な儀式です。神々に供えられていた「白酒(しろき)」と植物の灰を加えた「黒酒(くろき)」などを、ともに味わいます。
 平成の始まりに行われた大饗の儀は2日間で3回行われ、悠紀地方と主基地方の名所などを詠んだ「風俗歌」を題材に描いた屏風(びょうぶ)が立てられ、各地からのお供え物が並べられたほか、久米舞、風俗舞、五節舞(ごせちのまい)などが披露され、参列者には竹や梅をあしらった銀製の装飾品が贈られました。
 県内の神社などでは、大嘗祭を祝う祭事などが行われ、天皇陛下と国民とが、ともに即位を祝い、国の安寧を願います。大嘗祭が終わると、伊一勢神宮などで天皇皇后両陛下が大嘗祭の終了を報告します。古式にのっとり大嘗宮も撤去され、即位にまつわる一連の儀式が終わります。
【静新令和元年(2019)1114(木曜日)全面広告】