2014年1月15日水曜日

岐路に立った旧幕臣

岐路に立った旧幕臣
 それぞれの明治
 江戸幕府の終焉とともに、いわば「失業」した幕臣たちは苦境にたたされる。そんな彼らが生き残りのために見つけ出した活路とは…。
国立歴史民俗博物館教授樋口雄彦(ひぐちたけひこ)

 幕府瓦解後の四つの選択肢
 慶応四年(一八六八)四月、江戸城が新政府軍に引き渡され、五月には徳川(とくがわ)家に駿河府中(するがふらゆう)(翌年静岡と改称)七十万石が与えられることが通達された。それにともない旧幕臣たちは、いわゆる三つの選択肢のなかから自らの身の振り方を決めることが迫られる。すなわち主家とともに駿河へ移住するか、朝臣(ちようしん)として新政府に所属するか、武士身分を捨て帰農・帰商するかという三つである。
 駿河への移住、つまり静岡藩士になったのは、明治四年(一八七一)八月時点で一万三千七百六十四名である(『静岡県史資料編16近現代一』)。もちろん、当主のみの人数である。一方、朝臣になったのは約五千名、帰農・帰商したのは約四千五百名(うち三千名以上がのちに静岡藩に帰籍)という数字があるが(原口清『明治前期地方政治史研究上』、一九七二年、塙書房)、時期によって変動も生じており、必ずしも正確ではないかもしれない。
 実際には前記の三つの選択肢以外にも別の行動があった。一般によく知られているのが、本誌の特集テーマにもなっている戊辰戦争(ぼしんせんそう)への参加、つまり関東・奥羽・北越・蝦夷地へ脱走して新政府軍との抗戦を続けるというものである。
 親子・兄弟、あるいは一族間で別々の道を選んだ例もある。父が新政府に仕え、息子は静岡藩で職を得た例、兄が沼津兵学校で教鞭をとり、弟が
箱館五稜郭(はこだてごりうかく)に立て籠(こ)もった例など、さまざまな組み合わせがある。成島柳北(なるしま・りゆうほく)の場合、白身は隠居して、いわば帰農・帰商した形をとり、家を継いだ養子は駿河に移住し静岡藩に籍を置いた。個人の意志を優先した選択もあったであろうし、どう転んでもよいようにと考えた、家の生き残り戦略だった例もあるだろう。

 それ以外にもあった進路
 人数的には少ないが、以上述べた四つの進路とはまったく違う道を選んだ者たちもいた。まずは、一橋(ひとつばし)藩・田安(たやす)藩へ「貰切(もらいきり)」になった旧幕臣である。徳川将軍家の分家である御三卿(ごさんきよう)のうち、田徳川家と一橋徳川家は、維新後、新政府から藩としての独立を認められ、それぞれ十万石の田安藩・一橋藩となった。その際、宗家(旧将軍家)の家臣の一定数を自藩の藩士として引き取ったのである。
 田安徳川家では、五十名を宗家から引き取ったといい、蕃書調所蘭(ばんしょしらべしょらん)学句読教授(がくくとうきょうじゆ)をつとめた久間鉞四郎もそのひとりであり、五人扶持(ぶち)を給され、英語を教えたとのこと(「久間孝子覚え書き」『科学史研究』第一〇三号、一九七二年)。幕府陸軍の砲兵頭をつとめた山川熊蔵(やまだくまぞう)(純敏(すみとし)・三内(さんない))は、当初静岡移住予定者に加えられていたが、田安徳川家にスカウトされ、田安藩兵の大隊長となっている。田安、・一橋両家では、庶民から徴募(ちょうぼ)された旧幕府陸軍の兵卒も引き取ったようで、田安藩では練士隊(れんしたい)、一橋藩では匡衛隊(きょうえいたい)という部隊を編成した(矢島隆教「田安の市中取締」『日本及日本人』第七一四号、一九一七年)。
一橋徳川家には、吉川賢輔(よしだけんすけ)・小永井八郎(こながいはちろう)(小舟(しょうしゅう))・島霞谷(しまかこく)・林欽次(はやしきんじ) (正十郎(せいじゆうろう))・小林惟徳(鼎輔)・上田東作ら、名前の知られた洋学者たちを含め、明治三年時点で百四十九人ほどの元宗家家臣が貰切となっていた(茨城県立歴史館蔵・一橋徳川家文書)。蕃書調所や外国方(がいこくかた)につとめた英学者吉田賢輔の場合、明治元年十月二十日一橋徳川家に貰切となり、百五十俵を給され、一橋藩の儒者・洋学教授職・文学講官・文学督学試補などを歴任、同二年十二月二十七日地方官貫属(ちほうかんかんぞく)(版籍奉還(はんせきほうかん)で一橋藩が解消したため)、三年・三月二十九日東京府貫属といった経歴をたどっている(『吉田竹里吉田太古遺文集』)。
先祖代々の幕臣ではなく、幕末ににかに幕府に召し抱えられた者の場合、出身藩へ帰るという道があった。諸藩の出身者で、蕃書調所・開成所(かいせいじよ)の教官などに任命され、幕末の段階で幕府の機関で仕事をしていた人々は少なくなかった。出向の身分のまま、正規の幕臣に取り立てられていなかった場合、彼らが本来の出身藩に帰属するのは当然である。
 しかし、すでに直参(じきさん)の身分を与えられていた者は、維新後の去就に悩まされることとなった。津和野(つわの)藩出身の西周(にしあまね)、津山(つやま)藩出身の津田真道(つだまみち)長州藩出身の東条礼蔵らは静岡藩士となる道を選んだのに対し、同じ
直参であっても川本幸民(かわもとこうみん)・清次郎父子、入江文郎(いりえふみえ)、原田一道(はらだいちどう)らは、静岡藩にも新政府にも所属することなく、それぞれ出身の三田(さんだ)藩・松江(まつえ)藩・鴨方(かもがた)藩へと帰藩・復籍している。
 本家である大名家に吸収された旗本もあった。佐倉(さくら)藩士依田学海(よだがっかい)は、「知事公族人堀田孫輔、もと幕府にて二百俵を賜はりしか、一昨歳のことによりて藩に至りて士族に列す。家、貧困して母・妻を他家に出すに至る。不得巳して月給の金を賜はることに決しぬ」(『学海日録』第二巻、明治三年二月二十九日条)と記しているが、これは貧窮のため.元旗本堀田孫輔が本家である佐倉藩主堀田家を頼り、その家臣の列に加えてもらったという事実があったことを示している。帰農・帰商もせず、朝臣にも静岡藩士にもならないという、このような転身のし方もあったのである。大名が分知して生まれた旗本で、もともと知行所(ちぎょうしょ)に対する本藩の支配権が強かった場合などは、維新後に新政府がその家を本藩の所属とみなし、所領についても本藩に管轄させた例があったが(中村文『信濃国の明治維新』、二〇一年、名著刊行会)、堀田孫輔はそれとも違う。

 朝臣化の諸相
 静岡藩での事蹟や箱館戦争に参加した旧幕臣のことは比較的よく知られているがここでは朝臣への道を選んだ人々について少し詳しく述べてみたい。
 新政府に所属した旧幕臣、すなわち朝臣は、中大夫(ちゅうたいふ)・下大夫(げだゆう)・上士(じょうし).鎮将府(ちんしょうふ)(のちに行政官・弁官)支配.鎮将府(のちに行政官・弁官)附といった、旧家格にもとつく新たな身分に再編された。
 朝臣になったのは、概して高禄の旗本に多かったとされる。地位や財産もある彼らは、時勢に逆らうことで失うものがあまりに多いと考えたからであろう。徳川家に対する忠誠心という意味では、高禄も微禄も関係ないように思えるが、やはり高禄者には独立指向が強かった。禄高の多寡(たか)とは別に、領地が西国にあったのか東国にあったのかの違いや、三河(みかわ)以来の譜代の家柄か、外様(とざま)系の旗本かといった違いも関係していよう。早い時期に新政府軍に押さえられた西国に所領があった旗本や外様大名の分家だった旗本などは、徳川家から離反するのに言い訳も立ち、さして抵抗もなかったはずである。
たとえば、戦国期の在地領主の系
譜を引き、美濃(みの)国でそれぞれ六百石ほどを領した同族の旗本坪内高國・昌寿は、もともと江戸ではなく知行所に居住していたこともあり、朝臣となって本領を安堵された後、いっしょに京都に移住している(『富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒』一~五、一九九三~九七年、各務原市歴史民俗資料館)。
 アーネスト・サトウによれば、明治元年夏に会った川勝広道(かわかつひろみち)(近江守(おおみのかみ))は、駿府の町の混乱ぶりを嫌い朝臣になりたがっていたという。サトウはその理由を、「彼の家は元から徳川家に仕えていたものではなく、徳川氏以前からの旧い家柄であった」からだと推測しているが(『一外交官の見た明治維新(下)』、一九六〇年、岩波文庫)、確かに丹波(たんば)国で七百石を領した旗本川勝家は、もともと古代の渡来人(とらいじん)秦河勝(はたのかわかつ)の子孫と称した土豪で、足利将軍や信長・秀吉に仕え、その後に徳川家に臣従した由緒を持っていた。
川勝広道は、外国奉行・外国事務副総裁(がいこくじむふくそうさい)・開成所惣奉行(かいせいじょそうぶぎょう)などを歴任し幕府のために尽力した人だったが、幕府倒壊後は「先祖返り」したかのように、その心は急速に徳川家から離れていったのかもしれない。彼は希望通り、静岡藩に所属することなく新政府に仕え、旧幕府の横浜語学所を明治陸軍の兵学寮幼年学舎(へいがくりようようねんがくしや)へとつなげる役割を担った。
 遠江(とおとうみ)国で千五百五十石を領した高家大沢基寿(むおさわもととし)は、いち早く新政府に帰順(さじゆん)し、あろうことか一万石以上の所領があると虚偽の申告をして、大名としての独立を認められ堀江藩を名乗った。しかし、のちにその嘘が発覚し、華族(かぞく)の身分を剥奪され、厳しい処罰を受けることとなった。現状維持ばかりか、悲願の家格上昇を目指した旗本が、維新の混乱に乗じて極端なまでの行動に走った姿といえる。逆に静岡藩には、安房(あわ)国船形(ふながた)一万石の藩主だった平岡道弘のように、大名の地位を捨ててまで徳川家の一家臣として駿河に移住した者もいた。同じ高禄者であっても維新に際しての対応は人それぞれであったともいえる。
 一方、京都・大坂・箱館・長崎の奉行所など、地方の行政機構の多くは、組織ぐるみで新政府に移管されることとなり、そこに勤務していた与力・同心(よりきどうしん)といった幕吏はそのまま職務を継続し、横すべりで新政府の下級役人や兵士となった。しかし、彼らの役割は暫定的なものであり、やがて明治政府の官僚機構が整備されるなかで淘汰されていく。
新政府に逆らい軽挙妄動する者たちを「頑民(がんみん)」と呼び、「一万六千人之内」の自分がたったひとりの朝臣となっても彼らと戦う覚悟であるなどと木戸孝允(きどたかよし)あてに書き送った斎藤新太郎(さいとうしんたろう)のように(『木戸孝允関係文書4』所収、慶応四年七月二十七日付書簡)、受動的な姿勢ではなく、あるいは利害や保身のためだけではなく、自らの強い意志で朝臣になることを望んだ、積極的な勤王派旧幕臣は少数派だったように思える。

 静岡藩への出戻り
 基木的には三つ、もしくは四つの進路を選んだ旧幕臣たちであったが、時間の推移とともにその進路は変更された。一度分かれた流れが、先に行って合流するかのように、帰農・帰商した者や脱走・抗戦した者が結局は静岡藩に帰参する場合が少なくなかったのである。農業や商業に失敗し、困った挙げ句、静岡藩に泣きついて帰参を許してもらうというパターンである。奥羽や箱館で敗北、新政府に降伏した者たちも、赦免(しやめん)後は静岡藩に引き渡された。箱館戦争降伏人には、その後、静岡・沼津の藩校で教鞭をとったり、他藩への御貸人(かしびと)となるなど、静岡藩で有能さを発揮した者もあった。
 明治三年に静岡藩の静岡病院医師坪井信良(つぼいしんりぬう)がつくった「示帰参朝臣連」という題の漢詩がある(宮地正人『幕末維新風雲通信』、一九七八年、東京大学出版会)。本領安堵(ほんりょうあんど)
説を妄信し朝臣になって東京に留まったものの、新政府の方針変換によって禄を失い、家財を売り尽くし食うことにも困り果て、藩士への扶持米を増加したと聞いて、家族を引き連れ静岡藩への帰参を希望しているという元旗本たちの存在を皮肉った内容である。一度は徳川家を見限って白ら去ったものの、今度は旧主家にすり寄ってくるその白分勝手な態度を辛辣(しんらつ)に批判したものだった。同じ帰参者であっても、箱館戦争からの復員兵たちは好意をもって藩内に迎えられた一方、帰農・帰商や朝臣からの帰参者は白眼視されたに違いない。

 周縁の人びとのその後
 幕臣といっても大身の旗本から微禄の御家人までピンからキリまである。下級の旗本や御家人は核家族といってもよかったであろうが、大きな知行地を持つ領主としての旗本の場合、当主とその家族のみならず、家臣・奉公人を多数抱えており、小さな藩と同じだった。知行所の維持・経営が不要となった静岡藩士は、移住前に家臣を解雇し、身軽になった。
 五千石を領した蜷川親賢は、数十人いた家臣たちに暇を出し、家族のほか、家来二名と下男・下女数名、合わせて二十数名で移住した。駿河国では大変な住宅難が引き起こされていたが、蜷川家は庵原(いはら)郡の農家で住居を借りることができた。それは江戸の家財を整理し多額の現金を有していたから可能だったことらしい。明治五年時点の戸籍には、家族六名、家臣とその家族八名(二家分)が記されていたというので(坂井誠一『遍歴の武家』、一九六三年、吉川弘文館)、廃藩にいたるまで家臣を雇っていた。
 いち早く新政府に帰順した元旗本には、家臣たちからなる兵隊を「官軍」に参加させ関東・奥羽に出兵したり、江戸市中の警備を担当させたりした者もあった。朝臣となった彼らは、本領を安堵されたこともあり、しばらくは家臣を雇用し続けることができたのであるが、明治二年十二月の禄制改革によって家禄(かろく)が蔵米(くらまい)で支給されるようになると、所領とともに家臣たちをも手離していった。静岡に移住した者と朝臣になった者の「喪失」の時問差は、わずか一年ほどにすぎなかった。
 旗本の家臣、すなわち陪臣(ばいしん)たちのその後も、すぐに解雇された者ばかりではなく、主家とともに静岡へ移住したり、主人とともに官軍・賊軍として戦ったりと、さまざまであった。江戸に進駐した新政府軍の指揮下に入り、市中取締隊長の任にあたったほか、下野での戦闘や上野戦争にも参加した経歴を持つ、旗本大久保与七郎の家来、匝瑳胤常(そうさたねつね)(郷輔・六郎)という人物は、その後、東京府の府兵局掛、権典事(ごんみてんじ)などをつとめ(『市中取締沿革』、一九五四年、東京都)、官吏として生き、士族の身分も得たらしいが、報いられるところが少ないことに不満を抱いていたのだろう、明治三十一年、陳情書を政府に提出、戊辰時の功績を根拠に持ち出して叙位を求めている(国立公文書館蔵)。
 旗本小出家の家臣である大島貞薫(おおしまよさだか)・貞恭父子が洋学者としての能力を買われ陸軍兵学寮(りくぐんへいがくりよう)で地位を得たように、新政府のなかで活躍した者は極めて少なかった印象である。主家の零落とともに職を失ったその他多くの旗本家臣たちは、その後どのようになったのだろうか。
 徳川幕府という巨大な組織に身を置いたのは、正規の旗本・御家人だけではない。士分とはされない、代官手代(だいかんてだい)のような本来庶民身分の者もいたし、幕末に加わった陸軍の兵卒や海軍の水夫たちも膨大に存在した。能役者・絵師・碁将棋士など幕府から禄をもらっていた御用達町人(ごようたしちょうにん)も一時は朝臣に組み入れられたが(静岡に移住した者もあり)、のちに平民籍とされた。
 その後を生きた旧幕臣たちの背後には、周縁にいた者たちの後の人生も多様な形で広がっていたのである。
《歴史読本2013年3月号「幕末戊辰戦争全史:特集論考:岐路に立った旧幕臣・樋口雄彦」》

2014年1月9日木曜日

新生・沼津史談会

 新生・沼津史談会 匂坂信吾


 平成二十五年度は、沼津史談会としては初めての市民公開講座「沼津ふるさとづくり塾」を三年間の計画でスタートし、昨年六月から市史講座を三回、地域講座を四回、計七回を実施してまいりました。
 初回は六月九日、岡野久代氏(史談会会員、日大短大講師)が満を持して臨まれた地域講座「明石海人ー文学の原風景」でした。
 海人の祥月命日に当たるこの日、会場には百二十人を超える人が訪れ、"岡野氏は"明石海人を世界記憶遺産に"と主張され、多くの参加者の共感を得ました。
 その後も毎回、平均二十人近くの新たな聴講者が加わっており、現時点での参加者名簿登録録数は二百三十五人、延べ参加者数は五百人近くに上っており、一回平均では約七十人となっています。
 講座は毎回、講師の皆様の尽力により、塾開設の趣旨に沿った有意義な内容になっています。主催者としては、その成果を後世につながる形で、できる限り生かしていきたいと考えています。
 そのためのヒントは、昨年十月十九日に開催された第5回購座「歴史を生かした沼津のまちづくり」の講師・勝亦眞人氏(経済産業省OB、沼津市出身)による講義の中にありました。勝亦氏の主張は"沼津は恵まれた歴史資産をもとに世界第一級の観光都市を目指すべき"という具体的な提案でした。
 また、十二月二十一日開催の第7回講座「白隠とその時代」では、講師の国立歴史民俗博物館名誉教授・高橋敏氏からも"白隠顕彰のための地元沼津での取り組みが必要"だとして、同様の発言がありました。
 そこで沼津史談会としては、今年の夏ごろまでには本会から独立した新たな組織を作り、こうした”ふるさとづくり・まちづくり"を進めていくために、これまでの垣根を超えて関係者の皆様と協働で活動することといたしました。
 そのテーマの一つとして、以前から本会が念頭に置いてきたのは「沼津兵学校開設百五十周年記念事業」です。五年後の平成三十一年は、明治二(一八六九)年一月の兵学校開校から百五十年という節目の年に当たります。
 沼津兵学校開設記念事業については、明石海人に関する活動や、三年後の白隠禅師二百五十年忌関連企画と共に、勝亦氏指摘のように"沼津を国内はもとより世界に訴求できる存在とする"具体的な取り組みが必要と考えます。
 さて、来たる一月十八日(土)午後一時から市立図書館四階の視聴覚ホールで、皆様おなじみの国立歴史民俗博物館教授・樋口雄彦氏を講師に迎え、第8回沼津ふるさとづくり塾「幕末沼津の国学・洋学」の市史講座を開催します。
 その中では"草莽(そうもう)の国学者たち""洋学と海外への関心"など、城下町・沼津での学問がどのように行われていたのか、そして沼津兵学校等、その後の時代への影響はどうだったのか、といった興味深い講義内容が期待されます。多くの皆様の参加をお待ちしています。(資料代五百円が必要)
 なお、四月からは新年度の講座や旅行、交流の場などを楽しく、充実した形で提供できるよう計画していますので、こちらも大いにご期待ください。
(沼津史談会・企画担当副会長、小諏訪)
《沼朝平成26年1月9日(木)言いたい放題》

2014年1月3日金曜日

昭和黄金時代の沼津商店街:沼津駅前商店街(現在主に大手町商店街)沼朝元旦特別記事より

 昭和黄金時代の沼津商店街
 第四回「沼津駅前商店街」 仙石 規
 一、「チンチン電車」が走っていた街

 「チン、チーン」と警鐘を可愛らしく鳴らしながら、沼津駅と三島広小路間を行き来していた路面電車に乗った記憶のある人たちも、今や少なくなってしまったようです。
 明治三十九年に開通した静岡県初の民営電気鉄道「駿豆電気鉄道(後に伊豆箱根鉄道が吸収)」は、「チンチン電車」の愛称で親しまれ、井上靖も大正十一年から数年、三島の下宿先から旧制沼津中学(現沼津東高)への通学に使っていたのです。
 父と乗った記憶は昭和三十六年春の頃、まだ僕が四歳の時だったので、レールの軋る音や車掌さんが切符に挟みを入れたことなどが、霧の彼方の景色のようにポーッと思い出されるだけです。この年六月の豪雨で、電車の通る黄瀬川橋が流され、その後は自動車交通量増加などの理由で同三十八年に全線廃線となり、チンチン電車が沼津駅を発車することは二度となくなってしまったのです。
 電車乗り場は、現在の「南口再開発ビル」東前にあるバス停付近にありました。沼津駅前から発車した電車は駅前通りを南下、大手町交差点を左折し、旧国道一号線に入り三島に向かっていました。
 沼津停車場は、明治二十二年に開設されました。昭和九年に「丹那トンネル」が開通するまで、東海道本線は現在の御殿場線を経由していたので、大きな機関区が構内にあり、特急列車もすべて停車し、機関車の取り換えなども行われていた大ステーションだったのです。
 戦前まで、沼津駅には一般の玄関の外、西側に皇室専用の玄関もあり、お召し列車で到着した皇族方は、馬車・自動車などで「御成橋」を渡って「沼津御用邸」にと向かわれたのです。
 さあ、六年前に南口再開発ビルが出来て消え去ってしまった区域の紹介から、思い出散歩を始めましょう。
 チンチン電車停留所西には「日興証券」の大きなネオンサインを屋上に輝かせていた背の高い「タカラビル」、その南には、グリル・スズタケ(ちょっとお洒落な駅前食堂で、地下「長崎飯店」のチャンポンも名物でした)が入っていたビルが建っていました。
 西に向かうと、その名も上品な喫茶店「プリンス」「クローバー洋服店」、「つたや洋品店」「イソヤ果実店」「大川自転車」「CBカレースタンド」と小さな店が並んでいました。CBカレーは、いつもお腹が空いていた高校時代、よく立ち寄った店でした。
 この一画に近づくとカレーの匂いに釣られて店の中に吸い込まれてしまうのでした。店は再開発ビルが出来た後、南側に移っていましたが、一昨年、移転してしまいました。この店の東隣には「タイピスト・スクール」への階段がありました。パソコンの台頭でタイプライターも無くなってしまった現代です。美しい指でキーを打っていた花形BGさん(OLのことです)は、昔の映画の中でしか、お目にかかれなくなってしまいました。
 二、ネオンサインが夜の街を照らし、「丸井」と心躍らせる喫茶店があった頃
 沼津駅前通り入口西角は、「明治チョコレート」のネオンが屋上に輝いていた「小島ビル」から始まります。「小島屋タバコ店」は「駿河銀行駅前支店」と共に健在ですが、二階にあった「喫茶力ーネギー」は昨年、閉店してしまいました。ビルの南隣は「パチンコ丸星」、お茶の「小松園」(最近は靴屋さんが入っていましたが現在は空き店舗)、ラーメンや丼物などが人気だった「丸新食堂」(現在はSMBC日興証券)と続いていました。そして今も釜飯で盛業の「蒲焼とり宇」、沼津土産定番「小田原屋干物店」が並びます。
 干物屋さんの店先で、子どもの頃、見るのが楽しみだったのは、蝿よけの扇風機が五色の紙リボンをなびかせていた光景です。続く角地には、「千円饅頭」で有名だった「松屋菓子店」がありました(現在は「Rui洋服店」)。
 南の小路を渡ったところには、「丸井沼津店」が、昭和四十一年から平成十六年まで営業していました。「月賦屋が出来た」と、沼津の人々は開店当時に囁きました。月賦販売のデパートは珍しく、低い視線で見られていた時代でした。
 「丸井」は、その後、お洒落なデパートに変身し、沼津店もまずまず賑わって来たのですが、狭い建物の老朽化もあり、撤退してしまいました。建物南には、地下に通じる階段があり、「アート・コーヒー」「うしほや酒場」などが営業していました。
 明治生まれの祖父はコーヒーが大好きで、アート・コーヒーで豆を買い求め自宅で挽いておりました。豆を買いに行く時には、お伴に僕を連れて行き、ホット・ドックをご馳走して貰ったことも懐かしい思い出です。
 丸井の南隣はワシントン靴店支店で、鞄専門店だった時期もありました(現リーガル・シューズ)。続く「鮪小屋」の場所は、「太陽堂カメラ店」で、上土の「大阪屋カメラ店」と共に沼津を代表する写真屋さんでした。経営者は、松崎町生まれで写真師として活躍した鈴木忠視のお孫さんだったのですよ。
 次は「アメリカ屋靴店」でしたが、現在は制服店「しらゆり」です。その南隣「名取ビル」地下の階段を下りると、青春時代最愛の喫茶店「シネマ・ハウス」がありました。映画マニアの高校生時代、この店が出来た時には、嬉しくて踊り出したい気持ちでした。メニューの品名はすべてが「ある愛の詩」「ライム・ライト」といったように、洋画のタイトルだったのです。奥にあったジューク・ボックスの中は、映画音楽レコードだけといった凝りようでした。「今宵シネマ・ハウスで」という題名で、初めての短編小説を四十年前に書いたことも甘酸っぱく想い出されます。
 「沼津駅前・大手町、靴ならやっぱりワシントン♪」このコマーシャルソングを流しながら沼津市内を回っていた宣伝力ーも、懐かしい想い出になりました。
 このブロック角の「ワシントン靴店」は、市内屈指の靴専門店です。「シカゴ」「アメリカ屋」に「ワシントン」、なぜ靴店は米国所縁の名前が多いのでしょうね?建物上には「ナショナルラジオ」のネオンサインが、遅くまで賑わいが絶えなかった沼津の夜を明るく照らしていました。
 三、『クマさん応援団長」がいたオモチャ屋さん、名カメラマンが店主だった肉屋さん
 三つ目のブロック角は「丸天ビル」です。ビルのオーナーが、「丸天」という名の蕎麦屋さんを昭和四十年代の初め頃まで開いていました。このビルの西地下には青春のシンボルとも言えるスパゲッティ屋「ボルカノ」が一昨年まで入っていました。
 蕎麦屋さんが店をやめた後、ビルの地下から二階までは、戦前に沼津の絵葉書を多く発行していた老舗書店「蘭契社」が昭和五十年代まで入っていて、本の虫だった僕も「マルサン」と並んで通い詰めた日々でした。ビル四階にあった和紙の人形作り教室には、明治生まれだった祖母も通っていました。
 続く店は「エビスヤ玩具店」。店先には「トントントン、ピッピッピー」と、笛と太鼓を鳴らすクマさん応援団長の人形が子ども達の眼を釘づけにし、暑い沼津の夏が訪れると、水鉄砲や鮮やかな色のビニール・プールが並んだものでした。今は、お洒落なギャラリーとカフェにその名を残します。
 続いて松浦酒店、おくむら果実店、都寿司が並んでいた一画は「三井住友信託銀行」になっています。南隣の「川村酒蔵」は健在で、続く「富士食堂」は、現在は「イコシ」です。「富士食堂」が奥地に移動して「天心画廊」が開いていた時代もありました。沼津にも、まだ文化の香りが漂っていたのでした。画廊の場所に昨年、呉服屋「かのう」が開店しました。その南には「中野精肉店」がありました。店主の中野勇夫さんは、沼津屈指のアマチュア・カメラマンで、僕が愛する「御成橋」戦前の勇姿など、貴重な記録を残されました。花街でもあった「本町」に雨が煙る光景を写した一枚は、しっとりとした、良き時代の沼津を偲ばせる名作品です。
 一時期は二階で、ステーキ・ハンバーグが評判だった食堂も営業し、繁盛していました。ウインナー・ソーセージを買いに、子どもの頃、お使いでよく訪れたものです。「ウインナー二百㌘お願いします」と注文すると、秤に載せた後、繋ぎの紐を鋏で切って紙に包み、渡してくれたことも思い出されます。
 「ナカノ・ビル」は、その後「コマキ・ビル」になり、一階には「近畿日本ツーリスト」が入っていました。一昨年からその場所に、スパゲッティ屋「ボルカノ」が「丸天ビル」地下より移転して来ました。地下のレトロな旧店舗から、モダンで明るい店に変身しましたが、相変わらずの人気を誇っております。
 南隣には「大平屋玩具店」があり、「エビスヤ」と共に店頭に座り込む子どもの姿が絶えませんでした。現在は一階に、イタリア料理「イル・パリオ」(ホテルアリアから移転)が入る「ワールドビューティ・ビル」が建っています(「イル・パリオ」の前は、軽食屋さん、その前には「ジャーマン・ドッグ・ハウス」が入っていました)。南に「スミ洋装店」「加藤靴店一(昨年閉店)と老舗が続き、角地は「石井カバン店」でしたが、現在は駐車場になっています。
 四、試験管とビーカーが並んでいた「理化学店」、消えたデパート「長崎屋」
 駅前通り西側最終ブロックの北角には、「真田理化学店」がありました。亡き父は、根っからの理数系の頭脳を持っていて、この店で化学薬品、試験管、ビーカーなどを求めては、化学実験を行っていました。幼い僕にも興味を持つようにと、目の前で白煙が立つ実験をして見せたのですが、文系にしか興味を持っていなかった僕を変えることはできませんでした。この「真田ビル」一階には昨年、新しく婦人服店「ラ・クルール」が入りました。
 南隣には「甲州屋履物店」が佇んでいましたが、現在は「AQUAビル」になっています。続く和菓子屋「村上屋」さんは手堅く商売を続けていて、あんみつなどが人気です。
 次の場所は「磯辺靴店」「カギヤマ洋服店」でした。その後、この区画にビルが建ち、数年前までアニメ専門店が入っていましたが、空きビルとなってしまいました。その南には「森田歯科医院」が開業していましたが、今は「森田ビル」となり、「メガネスーパー」が一階で営業しています。
 旧国道一号線前の角地は、昭和三十年代前半には、映画の看板がずらりと並び、競輪の場外売り場が存在していた頃もありました。その後、「東海銀行沼津支店」が建ちましたが、銀行の統廃合で、今は駐車場になっています。
 さあ、駅前商店街東側区域に移りましょう。南角地には「エッソ」のガソリンスタンドが営業していました。
 大好きだったミュージカル映画「シェルブールの雨傘」の、雪が降りしきるガソリンスタンドで元恋人同士が再会するラストシーンの背景に「エッソ」の看板が大きく登場するので、おませな映画少年だった僕は、このスタンドに来るたびにロマンティックな空想に酔いしれていました。
 北隣は「高村洋服店」(その後、角地に移動)、そして「松浦酒店」でした。続く区画に昭和四十年代初期に開業したデパート「長崎屋沼津店」も、今や懐かしい存在です。小規模なデパートでしたが、食堂のランチが安かったので、よく通いました。館内に入っていた「東京堂菓子店」と傘や帽子を扱っていた「フジカワ傘店」は、前からこの場所で営んでいた商店でした。
 この一画には、平成十八年に大きなマンションが建ち、風景は一変してしまいました。マンション一階には、「松浦酒店」とブライダル衣裳店が入り、角にはマンション完成後に大手コンビニエンス・ストアがしばらくの間入っておりましたが、この数年は空き店舗になったままで、寂しい状態が続いています。大きなマンションやビジネス・ビルが商店街に建ってしまうと、「店の顔」が消えてしまうことが残念です。
 五、空襲をくぐり抜けた「郵便局本局」、「シースルーシヨップ・横濱屋」とは?
 さあ、沼津駅に向かって北へと戻りましょう。次のブロック南には「ニチイ学館」が一階に入った大きな「ニッセイ・スタービル」が建っていますが、昭和四十年代初めまでは、ここに「沼津郵便局本局」があったことを覚えている方々も多いでしょう。
 大正時代まで、本局は旧国道一号線東南角にあったのですが、大正十五年十二月十日に発生した「第二次沼津大火」で焼失してしまったのです。昭和四年に位置を変えて鉄筋コンクリート造りで竣工した本局は、昭和二十年七月の「沼津大空襲」にも耐えた数少ない沼津中枢部の建物の一つでした(周辺では旧沼津商工会議と旧警察署が焼け残りました)。
 郵便局は二階建てで、大きなファサードを持ち、天井が高く、エキゾティックな雰囲気が漂うモダンな建物でした。まるでアメリカ映画に登場する建物に来たような、わくわくした感じを味わえました。「沼津郵便局本局」は、その後、昭和四十四年に市場町に移転し、平成二年に寿町に再移転しました。
 その北隣「清水銀行沼津支店」の一角は、かつて「駿東郡役所」が建っていた由緒ある場所です。大正十二年七月一日に沼津町と楊原村が合併して市制となった後も、郡役所の建物は、「第二次沼津大火」で焼失するまで存在していました。大正時代の絵葉書などに、柵に囲まれた中庭があるお洒落な洋風建築であった郡役所の写真が残されています。
 このブロック北角には現在、「みずほ証券」が入っているビルが建っていますが、昭和時代は「横濱屋」という大きな家貝屋さんでした。
 「横濱屋」には、懐かしくも恥ずかしい思い出があります。僕が中学一年生だった昭和四十四年夏、「シースルー・ルック」という、肌が透けて見えるセクシーなファツションが話題になった時期がありました。日本では「スケスケ・ルック」などと呼ばれていましたが、沼津では、そんな大胆な服を着る女性はいませんでした。
 そんな時、当時の沼津タウン誌「狩野川」の広告に「話題のシースルーショップ横濱屋」の文字を見付けた自分は、早熟な心を躍らせました。「シースルー・ルックを着た店員さんが店内で客を待っているのだ」と思い込み、私服(制服だと補導されるかもしれないと思ったので)で、こっそりと店に向かいました。ドキドキしながら店内を見回ましたが、店員さんは普通の服を着ているだけでした。
 店の入り口やショー・ウィンドウをガラス張りにして、外から見えやすく改装しただけだったことが、「シースルーショップ」の正体だったことを後に知りました。
 六、駅前旅館があった頃、賑わう蕎麦屋さんにメルヘン溢れるお菓子屋さん
 駅前通りには、旅館が必ずあった昭和時代です。沼津駅前には、「沼津西武本館」があった場所には、戦前まで「山本旅館」という大きな旅館がありました。経営者は旅館廃業の後、駅前東にレストラン・ビル「沼津軒」を開業していましたが、七年前に閉店してしまいました。
 駅前通り東第二ブロック南には「大平館」という名の立派な旅館が開業しておりました。平成三年「大手町町制百周年」記念事業として、旅館東裏の「城岡神社」が改築され、大きな「マイロード駐車場」と「さんさんホール」が旅館跡地に建設されました。
 旅館の北隣は「柴田薬局」で、店の前には薬品会社のゾウのマスコットが置かれ、子どもが鼻を触って揺すらせていたものです。三年前、薬局は消え去り、「日専連ソニックビル」が建てられました。一階は「りぐる」という和物を扱う店になっています。
 その北は、かつては洋品店があり、その後、書店「蘭契社支店」が一時入っていましたが、昭和五十年代から「ランチショップ・アイアイ」が営業していました。三年前に「アイアイ」は東の小路に移転し、居酒屋「串ざる」になりました。北に続く「アカシヤ洋傘店」(今はバッグ店)「愛光堂時計店」は地道に商いを続けられています。その隣には「ダブル洋品店」「マトバ・スポーツショップ」と二軒が並んでいましたが、平成に取り壊され、大きな宝石店「安心堂沼津店」になりました。それも沼津南口商店街衰退のためか宝石店は移転し、数年前に居酒屋チェーン「和民」に変身しました。
 この辺りに来ると、お腹を鳴らせる良い匂いが漂って来ます。沼津屈指の老舗蕎麦屋さん「幅田屋」の匂いです。亡き父や祖母も、ここの蕎麦が大好物で、家族でよく訪れて、熱々の天婦羅そばなどをすすったものです。大晦日には、年越し蕎麦の持ち帰りで店頭が賑わうのも年の瀬の風物詩です。
 北角地の「ドルセ」は、永く人気を誇る洋菓子店です。通りを見渡せる二階の喫茶部でケーキと紅茶を楽しんだ思い出があるカップルも多いことでしょう。ショー・ウィンドウの飾りもクリスマスやハロウィーンが近づくと凝ったものとなり、季節を感じさせてくれる店です。「ドルセ」になる前は、「フクヤ洋菓子店」という名前だったことを覚えている方は少ないでしょうね。
 七、食べ物屋横丁とお土産物屋さんがあった「沼津西武新館」誕生前
 駅前商店街東第一ブロックの南角地には、「野村証券沼津支店」のビルが建っています。昭和四十年代、この区画には「フジワラ時計店」「沼津電化社」「えぞや」(その前は「平松玩具店」)などが並んでいました。南の「和光アクセサリー」は、今でも営業を続けています。
 昭和四十六年、北東角地に「沼津西武新館」が開業しました。この区画北側には、ラーメンと餃子の店「崑崙」「大黒寿司」「桜寿司」などが並ぶ食べ物屋横丁があったのです。
 小学生の頃、家族と「大黒寿司」で食事をした際、「サビ抜きにしないでください」と言ったら、イガグリ頭の主人が「坊や、通だね」と笑ったことが思い出されます。「大黒寿司」と「崑崙」は、その後、西武新館の食堂街フロアに移って賑わっていました。「崑崙」の、塩味がきついけれど美昧しかったタンメンやパリッと焼かれた餃子の味は忘れられません。
 このブロックの角には、「太田製菓」「大橋屋土産物店」「中川土産物店」が並んでいました。
 土産物屋さんの店頭には、紙で出来た電車車掌さんのカバンの玩具(中には、切符切りや切符などが入っていて、電車ごっこに欠かせないものでした)、特大ミルキーの箱、形だけのカメラや八ミリ映写機の玩具など、子どもが欲しがるようなものが、ずらりと吊るしてありました。
 その下には、山葵漬や干物・ペナントに絵葉書といった土産物も並んでいました。まだ沼津も立派な観光地だったのですね。これらの一角と八億パチンコの区域が、「沼津西武新館」に生まれ変わったのです。
 中学~高校時代には、何度も西武新館に通いつめました。他のデパートより冷房の効きも良く、エスカレーターも上下共にあり、若くて綺麗な女店員さんも大勢いました。食堂フロアに出来た「トレビ」という喫茶・軽食店で、アイスクリームを注文すると、花火がキラキラと点火された状態で、アイスに刺し込まれて運ばれて来てびっくりした体験、屋上にあったビア・ガーデンで、父母とハワイアンを聴きながら食事をした夏のタベの想い出。すべてが彼方に遠ざかってしまった「沼津の青春」の記憶です。
 「青春」という言葉は、学生時代の僕には、気恥ずかしく感じられて大嫌いでした。もはや二度とそこには戻れないと判って、この言葉の切なさを感じるこの頃です。
 西武本館の屋上に行くと、文鳥におみくじを取りに行かせる「文鳥くじ」のおじさんがいたこと、大食堂でソフトクリームを頬張った夏の日、一階にあった「お菓子のベルトコンベアー」からスコップで菓子をすくい取った想い出、玄関横にあった「ジュース自動販売機」に十円を入れて、鮮やかな色のジュースを飲むことも楽しみだったこと、すべてが「夢の城」と感じた子ども時代の「沼津西武」での想い出です。
 「夢の城」は、僕が東京から戻ってきた二十五年前には、かなり色褪せた城になっていて、昨年一月、「砂の城」のようにすべてか追憶の彼方に流れ去ってしまいました。
 駅前商店街は、その街の顔です。物心がついてから、こんなに表情と夢を失ってしまった「沼津の顔」を見ることになるとは、思いもよりませんでした。
 明日は初夢にて、「明るい沼津の夢」を見たいと念じます。賑わう駅前、子どもからお年寄りまでが、美味しいものを食べられ、欲しいものを買えるようなデパートも再び現れるような楽しい夢を。
(絵地図のイラストと文字は「石山コンビ」が描いてくださいました)

(郷土史家 医師、市場町)
《沼朝平成26年1月元旦号》