2019年12月19日木曜日

建切網漁の伝統を引き継ぐ内浦湾最後のマグロ漁内浦長浜


建切網漁の伝統を引き継ぐ内浦湾最後のマグロ漁内浦長浜 菊地敬二さんの話

 今回は、昭和308月末に内浦長浜で行われたマグロ漁について、菊地敬二さん(昭和6年生まれ)から聞き取りを行った内容をご紹介します。
 1.戦後1回きりのマグロの群れ
 戦後(第二次世界大戦後)にマグロの群れが来たのは、昭和308月末の1回きりだった。マグロが10年以上来ていなかったので、当時は戦前のマグロ建切網漁で使ったオオアミ(大網)は使っておらず、魚群を見張る魚見小屋のあるオオミネにも誰も登っていなかった。
 このときのマグロ漁で使った網は、戦前のマグロ建切網漁で使っていたシメアミ(締網)だった。シメアミは、マグロの群れが来なくなった戦後も、バショウイカ(アオリイカ)・ウズワ(マルソーダガツオ)・シブワ(ヒラソーダガツオ)などを捕るために使っていた。網代の締網場(しめあみば)のそばに専用の網小屋があり、引っ張り出せばすぐに浜へ出すことができた。このシメアミを使った漁は、漁期になると、建切網漁でマグロを捕ったときと同じ網代の締網場で行われ、昭和3738年頃まで続けられた。
 この昭和308月末のマグロ漁は、建切網漁と同じシメアミを使ったことから、建切網漁の伝統を引き継いでいたが、このような漁法は、内浦湾全体をみてもこのときが最後といってよいだろう。昭和30年は、自分が4月に結婚した年でもあり、50年以上たった今でも、この年に起こった出来事は忘れられない。
 2.マグロの群れの発見
 オオミネに漁師が登っていなかったのにマグロの群れを発見できたのは、自分の父(傳治郎)のマグロ漁の経験に基づく感覚によるものだった。
 父から聞いた話では、この日の朝、小沢の網干場で年配の漁師2人と一緒にイワシ網の補修をしていたところ、岸の近くでゴションという音がしてマグロが跳(ねたのではと感じた。そこで、小峰台(こんめんであー) にあった2階建ての資料館(現在の伊豆三津シーパラダイスのラッコ館のところ)の屋根に上がり、マグロが来たことを確認して、仲間に指示を出した。
 それから、マグロが来たと村中が大騒ぎになり、前夜のイワシ漁から帰ってきて家で寝ていた漁師たちも起こされて、網代の締網場に集結した。父は、このときにマグロを発見し、網代のミネ(12m)で漁の指示を出したことを亡くなるときまで誇りに思っていた。
 3.初めてのマグロ捕り
 この日、自分たち仲間3人は、前夜の漁で捕れたイワシを沖でイケスに入れた後、そのまま発動機船でイワシを活かしたまま引っ張ってきて、昼前後ぐらいに内浦長浜前のイケス係留場に着いた。そのとき、いつもイケスをつなぐためにあったロープが外されていたので、おかしいなと思ったが、まさかマグロ漁が始まっていたとは知らず、当番の家でイワシの大漁の祝い酒を45人で飲んでいた。すると、年配の漁師から、「マグロが来ているのがわからないのか。」と怒鳴られたため、席を立ち、網代ですでに始まっていたマグロ漁に加わった。イケスをつなぐロープが外されていたのは、マグロの通り道になっていたからだった。
 6075kgぐらい(体長:1.52m)の大型のキハダマグロが、5本、8本、10本というように次々と来たので、2艘の船で交互にシメアミを使った。先の網を締め終わると同時に、次の網を建てるといったように、繰り返して行った。
 網で締め込まれたマグロを捕るときには、シビカギとカケヤを使った。自分はマグロ漁が初めてだったので、シビカギの使い方は、先輩の菊地茂晴さんが手本を見せてくれた。
 腰丈ぐらいまで海に入ってマグロが来るのを待ち、マグロが泳いできたところを、鼻面がかわった時点(構えたシビカギのカギの上を鼻面が通った瞬間)でシビカギを上に向けて引き上げると、ちょうどシビカギでマグロのノドを引っ掛けることができた。マグロは泳いでいるので、ノドが来た時点でシビカギを上げると、タイミングが遅れて腹の方に引っ掛かり、人間が逆に沖へもっていかれるため危険だった。
 シビカギをノドに引っ掛けた後も、マグロはそのまま泳いでいて勢いがあるので、シビカギを引っ掛けられたままで浜まで上がってきた。
 シビカギを使うのはベテランでないとできなかったが、自分の場合は、菊地茂晴さんが見ていてシビカギを上げるタイミングを教えてくれたので、初めてだったがうまくノドに引っ掛けることができた。
 マグロが浜に上がってくると、浜にいる仲間の漁師がカケヤで眉間を一発バーンとたたいた。たたいてパッと一気に仕留めないと、体に血が回ってしまい、鮮度が落ちて値段が下がってしまうためであった。
 4.沼津市場への運搬
 マグロが盛んに捕れ始めると、自分は発動機船のエンジンの係だったので、マグロを沼津の市場へ運ぶ役に回った。発動機船は2隻あり、1回に1隻あたり1020本ぐらいを56人で市場へ運んだ。
 10数年ぶりでマグロが捕れたので、意気揚々として船に大漁旗を立てて市場へ運んだが、すでに妻良・子浦(南伊豆町)で捕れたマグロもたんと上がっていた。マグロの全体数が多かったので、思ったような値段がつかなかった。
  市場に着くと、マグロを船から下ろして競り場まで
運んだ。その後、競りで仲買人に買われたマグロは、ハラワタ(内臓)を抜かれ、長細い箱へ入れられ氷をいっぱい詰められて、東京の築地市場へ貨物列車で直送された。
 5.夕方と翌日のマグロ漁
 最終便の運搬が終わって夕方帰ってきたら、マグロは見えなくなっていたので、これで今日の漁はおしまいだということになり、網代の浜でマグロのハラワタを鍋で煮て、これを肴にマグロが捕れたお祝いをしようということになった。
 自分たち一番年下の漁師(下番士〉が、45人でハラワタを煮ていたところ、海でコシャンという音がした。すぐに「マグロが入った。飛び込め。」という号令がかかり、自分たちは海に飛び込んだ。このときに捕れたマグロは、10本だった。この10本は、発動機船のカメ(船槽)の中に氷と一緒に入れておいて、翌日の朝に市場へ持っていった。
 翌日は、マグロが続けて来るだろうということで、網を張り、早くからオオミネにも登って待っていたが、前日のように大型のキハダマグロは来ず、4㎏ぐらいの小さなキハダマグロが来た。
 前日からの2日間で捕れたマグロの合計は200本ぐらいになったが、この後、再びマグロの群れが、網代の締網場に来ることはなかった。
 6.マグロ漁を見た菊地昭代さんの印象
 この年に菊地敬二さんと結婚した昭代さんは、1日目のマグロ漁が始まった頃に見に行った。
 マグロが来たと村中で大騒ぎをしていたので、内浦長浜の人たちはほとんどが見に行った。漁師がみんな海に飛び込んで、マグロを横に抱えて浜へ上げるところが豪快で、今でも一番印象に残っている。
(「沼津市歴史民俗資料館だより」2012325発行通巻193号)

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