2019年8月22日木曜日

群青の海 四方一彌


群青の海 四方一彌
 八月六日、長らく続いた梅雨の空は一点の雲もなく晴れ渡っている。忘れていた海への想いに駆られ海岸へ急いだ。足を速めて松林を駆け抜けると、湿気の残る林の砂は軋(きし)む音を立てながら後を追ってくる。
 砂丘の堤防に立って冨士山に目を向けると、先日まで松林越しに見えた残雪も今日はスッカリ消えて、濃い紫いろの山肌を浮き彫りにしている。言葉も忘れて、しばらく富士山に見入っていると、林の奥から一声、二声小鳥の囀りが聞こえてくる。
 夜明けの空は雲が多いが、この日、西の空には碧い空が広がっている。波打ち際に立つと田子浦、蒲原、薩唾峠、興津を経て三保の松原、日本平に続く海辺沿いの家々が一望のうちに見渡せ、海辺の家々は簷(のき)を連ね、朝餉(あさげ)の仕度に立ち働く女衆の声が伝わってくるようだ。
 明かりの点き始めた浜辺の家々の上には朝の光を受けて連なる簷から頭を西に向けるとその上には毛無、天子の山々、七面山、十枚の峰を際立たせて甲斐身延の山脈が連なり、赤石の山と二重、三重に重なり合って北から南へと延びる。
 三保の松原から目を左に移すと、まだ明けやらない伊豆の山懐に抱かれた海辺の村々は大瀬の岬から江梨、久料、足保、立保、久連、木負、重須、三津の入り江の浦々の朝霧が掛け軸の軸をゆっくりと捲き上げるように夜明けを告げる。
 一方、大瀬崎の白亜の灯台から伊豆の山々の稜線は真城、金冠、葛城と東に延び、田方平野を横切って箱根に連なる。
 海辺には釣り人の数も増している。しばらくして波打ち際にいた女性が、こちらに向かって歩いてきた。堤防に腰を下ろしていた私は、「どちらからお出でになりましたか」と尋ねると、その女性は「新宿から参りました」と明るく応えた。朝の六時ということもあって、「では昨日、お出でになったのですか」と改めて尋ねると、「いいえ、今朝、出て来ました」と、海辺で釣り竿を投げ込んでいる若い男性を指さしながら爽やかに応えた。
 「そうですか。私も東京には二十年、沼津から通いました」と応えると、「そうですか」と親しげに応えてくれた。
 気がつくと沖には群青の海が広がっている。遅い夏が、そこに来ていた。
(松下町)
【沼朝令和1年8月22日(木)「言いたいほうだい」】

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