2019年8月11日日曜日

「野方(のがた)・浜方(はまかた)と甲州街道・古道」加藤雅功



地図から見た沼津⑤「野方(のがた)・浜方(はまかた)と甲州街道・古道」加藤雅功
天保6(1835)の『本町野方絵図』を基本として、天保8(1837)の『沼津本町絵図』や明治5(1872)の『東間門(まかど)村縮図』などを比較しながら、開発の過程や景観の変遷を追ってみたい。
野方(農地側)浅間神社の西、乗運寺(じょううんじ)や東方寺(とうばうじ)の間を通る「千本浜道」の南側には下田(げでん)など評価の低い水田や畑地が広がり、旧字汐入や三反深(さんたんぶか)・五反田、竹之後や沓形(くつがた) 砂原囲(かこい)・妙見前(みうけんまえ)など不整形な区画をなしていた。弥生時代後期から古墳時代の常盤町(ときわちよう)遺跡(永明寺〈ようめいじ〉領の畑と塚)のある字「砂原」の北側、字二反田の西側(旧字妙見林)の妙見塚(みょうけんづか)は、独立標高点(4.2m)の表記から円墳と推定され、現在の常盤町2丁目付近と見られる。常盤町1丁目の旧字如来堂(によらいどう)には、北側から如来堂、如来堂畑、妙海寺(みょうかいじ)旧地があり、現在では妙海寺墓地となり、妙覚寺(みょうかくじ)とともに八日堂の聖地である。かつて字天王小路(てんのうこうじ)には天王社(祇園〈ざおん〉社)があった。
観音川(子持川とも)の左岸側、下一丁田(しもいっちのだ)付近では字前田の南側、乗運寺後に百姓家が後に形成される。出口町には沼津宿西見付の見附番所や松月院(しょうげついん)(十王堂)があった。子持川橋(五反田橋・幸橋)の西、街道の松並木と市道(いちみち)(五反田)の南側は草刈川の灌漑による「松下耕地」であり、松下八幡給から松下藪鼻(やぶはな)、松下下舞台(ぶたい)、松下五反田から浜寄りの字松下にかけて、比較的評価の高い水田が広がる。街道の南側では西の妙傳寺(みょうでんじ))浜道から子持川に至るまでの耕地が全て「松下」を冠し、畦(あぜ)の両側に溝を巡らす特異な水田であった。

浜方(千本(せんぼん)松原側〉長谷寺(はせでら)観音堂は、長谷寺(浜の観音)と呼ばれ、砂丘上に立地した。寺の東側の旧字浜道下には永明寺(ようめいじ)の旧地があった。狩野川の洪水被害で下河原から不動堂明星寺に仮寓(かぐう)し、その後、出口町の大聖寺(だいしょうじ)脇に寺は移転している。かつて字不動塚には不動院があり、円墳の不動塚は消滅した。御林(おはやし)側(旧八角池の東)には火防(ひぶせ)の神を祀(まつ)った秋葉(あきば)社があった。塩の道の甲州道(甲州街道)沿いには首塚があった。
中世に「千本(ちもと)の松」「千本(ちもと)の松原」の古称があり、千本郷林(ごうりん)も千本御林(ごりん)から転訛した。「千本砂礫州」には並列の砂丘が覆い、高潮や風害・塩害を防ぐ松原が、沼津公園や千本浜公園となった。観音川右岸、松下七反田の水田に対し、畑地側は後に「緑町」が誕生する。松原寄りには牢屋や役人(非人)の居住地があった。
 東間門の妙傳寺(みょうでんじ)西側の本町境で、網場(あんぼ)への浜道近くで甲州街道の北側、字松林の妙傳寺墓地と現在の東間門区有墓地の東側に「六代(ろくだい)松旧跡」がある。六代松碑が残る地で、絵図では平(たいら)六代に因む六代君旧跡と記す。

 草刈川と放水路

「沼川」は大川とも呼ばれ、愛鷹山麓を流下する谷戸(やと)川・中沢川・西川などのほか、支流の高橋川を合わせて原・浮島方面に西流する。又井(またい)から分水する灌漑用水路の「草刈川」は東間門と西間門の大字の境界となっている。字向田付近で新たに分水した放水路は『沼津本町絵図』では、「悪水払い」の堀割(排水路)の先、甲州道に接した字松林(山神社の西)に「悪水溜(だまり))」の溜池が構築されていた。
また、近世中頃の『御城下三町壱紙麁絵(そえず)図』には街道の南側(字久保)に「悪水吸込」が3か所掘られていた。「吸い干し」とも呼ぶ排水溜め池で、東側の草苅川の分水で、藪鼻の松原にも小規模なものがあった。『東間門村縮図』では「尻無(しりなし)川」と呼ばれ、掘削技術が未熟で、直接駿河湾に放流できなかった頃は「尻無し」の状態であった。「千本砂礫州」の砂礫層に深い穴を掘削し、溜め池で調整し、かつ自然に浸透するのを待つ故に滅水効果も低かった。三味線(しゃみせん)の棟(さお)と胴の形状に似て「三味線堀」とも呼ばれた。戦中の一時期、土木工事に囚人が動員された関係から「囚人堀(しゅじんぼり)」の別名が付き、現在では「新中川」として整備されている。

東海道以前の古道『本町(ほんちょう)野方絵図面』から古道を確認していく。沼津本町の大門(だいもん)町から旧正見寺(しょうけんじ)の北、上士分であった八幡町の旧本光寺の南側の大字境を経て、郷蔵(ごうぐら)、触れたならば瘧(おこり)に罹(かか)ると忌(い)むヲコリ石(姥石うばいし)や小社の先で子持川橋となる。字山神道(やまがみどう)の畑地に山神社(後に末広神社に合祀)や沼津城主の大矢保忠左(ただすけ)の供養墓の道喜塚(どうきつか)(第一小学校校庭内)があり、当時まだ水田が広がっていた字西之城(後に西条町)の北側、字阿宅丸(あたけまる)(安宅丸)へは「根方道」が延び、東西には米ツキヤ之道・西之城之道が記されている。
 子持川橋の西側は南に蓮池、北に祢宜(ねぎ)ノ後・郷地(ごうち)の畑地を過ぎ、山ノ神・釈迦堂(慈光院)の裏から西側で東海道に出る。東海道の間道だが、中世の有力な古道ルートである。字犬塚の北側、丸子前・堂舗免(どうしきめん)(堂敷免)には古社の丸子(まりこ)神社が鎮座していた。また、橋の北側の子持川沿いには、沼津新田(現本田町)へと「新田道」が延びる。幟道や登道の字が後に用いられるが、道ではなく「登り堂」からの転訛と見られる。
子持川の、より上流側の本町溝(登道用水(のぼりみちようすい))は「三枚橋分か去れ」と分岐後、「本町分か去れ」側は本町溝(大溝)となる。字七反田を流れる東側の「大溝」の分水はガトロ用水(我通路(がとろ)川)と呼ぶ。カトロやガトロの当て字を解釈し、「我歩(あゆみ)を通す。此(こ)の路(みち)可なり。」として、元暦頃の伝承とする古道説は否定する。
(沼津市歴史民俗資料館「資料館だより」2182018625日発行)

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