2019年8月11日日曜日

沼津ふるさと講座「第一部本因坊丈和 講師菅沼毅・第二部狩野川右岸仲町河岸ダシ」

第一部本因坊丈和資料動画↓



当日第一部PPT資料↓




第二部狩野川右岸仲町河岸ダシ動画↓





当日第二部PPT資料↓




本因坊丈和の顕彰活動など
ふるさと講座で菅沼毅さんが講話
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は10日、郷土史講座「沼津ふるさと講座」を図書館講座室で開き、約40人が参加した。西浦木負出身の囲碁名人・本因坊丈和(1787~1847)の顕彰活動について日本棋院沼津支部長の菅沼毅さんが話した。
 丈和は、囲碁が幕府からの保護を受けていた時代の名人で、長らく出身地が不明だったが、近年は西浦木負説で定着した。これを考証した書籍『本因坊丈和出自考』(大沢永弘著)に出合った菅沼さんは丈和顕彰の機運を盛り上げるため、約10年前に日本棋院沼津支部を立ち上げた。
 その後、菅沼さんは西浦出身説を日本棋院に認定させたり、顕彰碑を建立したりなどの活動を続けた。顕彰碑は多くの寄付を集めて2017年12月に除幕式が開かれ、故大沼明穂市長も出席した。囲碁タイトルを競う本因坊戦の誘致にも携わったという。
 こうした活動を振り返った菅沼さんは「中国には琴棋書画という言葉がある。棋は囲碁のことであり、囲碁は音楽や書画と並ぶ文化や教養の大きな柱の一つだった」と述べ、これから市内でも丈和や囲碁に対する理解が深まることを願った。

 狩野川右岸の「出し」
史談会会長らが紹介
 講座ではこのほか、狩野川右岸の仲町に残る「出し」と呼ばれる石積みについて史談会会長の匂坂信吾さんと同会会員の長谷川徹さんが話した。
 この石積みは江戸時代後期の絵地図にも描かれていて、当時は狩野川を渡る船の船着き場などとして使われていたという。
 ◇
 同会は10月26日に開催の「秋の史跡探訪バス旅行」の参加者を募集している。東京都立谷中霊園など沼津兵学校関係者の墓地を巡る。東大の構内や巣鴨とげぬき地蔵なども見学する。
 参加費は会員6000円、非会員6500円。
 問い合わせは同会研修部長の上柳晴美さん(電話090―1418―0435)。
【沼朝2019年(令和1年)8月15日(木曜日)号】

ダシ資料↓

「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功
  ●河川の港湾をなす「河岸」は船の荷物の積み下ろしをする岸であり、古くに北側の上土(あげつち)のほか、「魚町(うおちょう)」から「仲町(なかちょう)」にかけてがその中心で、問屋・仲買の人々が活躍する場でもあった。大正から昭和初期の絵葉書や新版画に描かれた蔵の連なる倉庫街と「河岸」の風景は、今もその片鱗(へんりん)をわずかに残している。
狩野川右岸では「河岸」の景観だけではなく、「川除(かわよけ)」の機能が重要であり、古くから洪水制御を目的に「出し」が築かれていた。下流側へ斜めに突き出す「石突き出し」(石出し)は単に「出し」と呼ばれ、細い河岸道(かしみち)の先に構築されて、普段は船の係留に役立てられていた。長さは6間程度、幅も5間前後あったが、基礎の材木に太い松などを矩形(くけい)の格子(こうし)状に組み、間に捨て石を置くために堅固で、新旧の堤防工事ではその撤去に難儀した。なお、明治末期には、宮町から下河原町にかけて7つの「出し」があったことを知る。
 これらの「出し」のほか、「河岸」に降りる坂や階段、舟繋(ふなつな)ぎの松、石垣・擁壁(ようへき)等から、川に依存する河港(かこう)の機能だけでなく、洪水災害常襲地の護岸の特異さを反映し、生活に根差した文化的景観をなしていた。

(沼津市歴史資料館「資料館だより」2019325日発行第221号)

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