2019年8月25日日曜日

沼津あれこれ塾「伊豆石の行き先と使われ方」講師 原田雄紀(沼津市文化財センター)





江戸城や寛永寺に伊豆石
 沼津あれこれ塾で文化財センター職員が解説
 NPO法人海風47は24日、郷土史講座「沼津あれこれ塾」を市立図書館で開催。市文化財センターの原田雄紀さんが「伊豆石の行き先と使われ方」と題して話した。約30人が参加した。
 伊豆石は伊豆半島一帯で採掘された石のことで、硬い安山岩と柔らかい凝灰岩の2種類がある。安山岩は伊豆北部、凝灰岩は南部と沼津市の一部(静浦、内浦、大平)に主に分布している。こうした地域には丁場(ちょうば)と呼ばれる採石場が古くからあった。
 伊豆石は、古くは古墳石室の材料として使われ、後には三枚橋城の石垣にも使われた。
 江戸時代には、徳川家康による江戸城の造営に使われ、現在の戸田地区などには造営に協力する諸大名の丁場が設けられた。丁場跡に残された石には、採掘者を示すための印が刻まれたものがあり、江戸城の石垣にも同じ印が刻まれた石があることが分かっている。
 江戸城が完成した後も、臨時の需要に備えるために丁場は維持された。駿府城の修築工事や、寛永寺の将軍墓所の灯寵(とうろう)の製作などで伊豆石が使われている。後に寛永寺の灯籠の一部は各地に譲渡されており、その一つが市内の日緬寺(下香貫牛臥)に現存している。
 この灯籠は11代将軍徳川家斉の墓所にあったものだった。原田さんによると、戸田産の石が使われている可能性があるという。
 市内南部にあった諸大名の丁場は、当初は公用のために使われていたが、18世紀以降は商業化し、大名と商人によって石材が江戸に運ばれた。採石作業は地元の漁民が副業として行った。
 幕末以降は、市内一帯で産出された伊豆石が品川台場や横須賀ドックの石材として使われた。戸田地区の井田では近代になっても多くの石工が暮らし、採石業が盛んだったという。
 最後に原田さんは、西浦地区のミカン畑の石垣の写真を見せ、これらが農家自身の手によって造られたことを紹介し、市内南部は石材と身近な地域であった、とまとめた。
【沼朝令和1年8月28日(水)号】

0 件のコメント:

コメントを投稿