2019年5月18日土曜日

石橋湛山と名取栄一



「対談:湛山を支えた沼津:田中秀征・林茂樹」↓




名取栄一翁小伝「石橋湛山を立てる」の章↓




ラジオカルチャー石橋湛山↓




カルチャーラジオ石橋湛山2↓



石橋湛山動画↓



その時歴史は動いた「石橋湛山」↓



その時歴史は動いた「石橋湛山」2↓



その時歴史は動いた「石橋湛山」3↓



昭和34年9月訪中記念の手ぬぐい↓




沼津朝日新聞コラム「まど」昭和四九年十一月二日
 ▽沼津に育ったーというより"沼津を育てた"偉大な人・名取栄一翁が亡くなったのは、昭和三十三年十一月五日。きょうはその十七回忌の法要が営まれる。
▽甲州に生まれた翁が、はじめて沼津の土を踏んだのは、若冠十七歳、明治二十二年の秋だった。それから八十六歳で亡くなるまでの七十年間、沼津の大地に根をおろし、腰をすえてすごしたその生涯は、まさに、沼津の近代史そのもの。苦難と栄光を織り交ぜながら、明冶・大正・昭和の三代にわたっての激しい変遷の中に、常に前向きの逞しい姿勢で、新しい道をきり開いてきた先達者だった。
▽多彩にいろどられた、その輝かしい足跡の中でも最も偉人な遺業といえば、沼津の名を日本中にそして世界中にとどろかせた春繭初取引所の創設だろう。沼津は名取さんの英知と努力で、後進資本主義国日本の産業革命の波に乗り、生糸王国の中の王座におさまり、春繭の出る五月は〃沼津の月”といわれ、名取商会のつくる相場は日本だけでなくロンドンやシカゴの市場まで動かしたのである。
▽沼津に春繭の初取引所をつくろうという翁の遠大の理想を達成するまでには、底知れぬ苦労と苦難に満ちた険しい道のりと時闇がかかったが、それは、私心のない誠意と熱意によって大正六年みごとに結実した。そして、胆っ魂のすわった大きな勇気は、悪徳ブローカー的な存在だった繭の仲買人を全部排除し、生産者と市場を直結するという、驚くべき流通機構の改革を断行し、東静地方の繭を名実ともに世界一のものにしたのだった。
▽大正はじめから昭和のはじめにかけて、日本一の繭を育てた翁は、敗戦後にも、もうひとつの日本一をつくった。戦後の政界でもっともスジの通った清廉な総理大臣石橋湛山を沼津から生み出したことである。不幸にも短命に終わったが、石橋さんが金脈だの人脈だのと微塵もいわれずに政治生命を全うしたのも、翁が私財をはたいてまで応援した賜であり、石橋さんが自ら本籍を大手町八四の名取邸に移したのも、その男気に感銘した所以だろう。
▽私は、若いころから、翁にお世話になったひとりだが、そのスケールの大きな偉さの中で、特に感じいっているのは、八十歳をすぎても、衰えなかった、時代の先取りに見せた高邁な英知と鋭い感覚である。亡くなる二年ばかり前「これからの沼津がかかえる難しい問題は」とお尋ねしたとき「まず道路だね。特に東海道線で分かれている南北の交通。放っておくと、いまにつまってしまうよ」とズバリ言われた。
▽この予言が適中したことは言をまたないが、私にとってこの一言は痛いくらい胸の中に突きささって、二十年もたった今でもうずく思いがする。沼津朝日が、全国にさきがけて都市問題をとりあげ、都市対策に取り組んできたのも、この一言の教訓によるものだが、当時、この感覚と見通しのひとかけらでも、市政担当者が身につけていたらーと果てしない悔みがにじみでてくる。
▽名取のおじいさんのように、沼津の土を踏み沼津の土に埋もれるまで、七十年もの長い間、これほどひたすらに沼津を育て沼津を愛した人はないだろう。また、悲しいかな、こんな人が再び現れることもないだろう。まさに、沼津における不世出の偉人である。十七回忌に当って、その偉業を偲ぶとともに、その深い英知と温かい心を、これからの沼津にぜひ生かしたいものである。
(沼津朝日新聞社長 井上章久)

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