2019年5月18日土曜日

沼津朝日新聞コラム昭和四三年一月一日「まど」ことしは明治百年



沼津朝日新聞コラム昭和四三年一月一日「まど」
 ▽一九六八年;:ことしは明治百年。長い封建制に別れをつげる鐘とともに迎えた、近代日本の夜明けに、わたしたちの沼津が果した役割は、あまりにも大きく輝やかしく、誇り高いものであった。ひたひたと迫る封建制度解体の波の中で、あらゆる苦難と闘いながら沼津兵学校、沼津病院という西洋文明の結晶を沼津につくり出した江原素六先生たちの偉業は、日本近代化の原動力となった。
 ▽兵学校はその真価を中央政府がとりあげて、後の士官学校、幼年学校となり、その付属小学校は日本最古の歴史をもっていまの沼津市立第一小学校として残されている。沼津病院は頭取杉田玄端が兵学校移転後も済生救民の初志を貫き、経営難と闘いながら、地元の人たちの保健厚生につくし、会社組織、郡立、私営と変せんしながら昭和二十年まで駿東病院としてその存在を誇り日本の社会福祉の先べんをつとめたのである。
 ▽一方、没落士族の生活救済のための経済活動として江原先生らによっておこされた「沼津商社会所」は、蒸気船を持って回漕業を営なみ、金融と保険の元祖としての成果をあげ、また、牧畜、養蚕、製茶、製紙、製靴等の産業開発が計画的にすすめられた。養蚕は近代において故名取栄一翁の手で日本の生糸相場をきめた沼津繭市場にまで引きつがれ、牧畜は「牧牛社」によって生産から加工まで営まれ、明治六年牛乳が東京にまで売り出され、バターも製造された。
 ▽このように、百年前、教育、社会福祉経済にわたって、日本近代化の開発始動のボタンを押し、国民総生産世界第三位という今日の日本の繁栄を築きあげた沼津の、現在の姿はどうだろうか。そこには、いま、先覚者の誇りなどみじんもなく、戦後の見通しの誤りと政策の貧困の累積が、市民を不安と苦しみに追いこんでいるようだ。明治百年を期して、ことしこそ、百年前の誇りをとりもどし、勇気と英知と努力をもって百年の未来と真剣にとりくまなければならないと思う。
(沼津朝日新聞社長 井上章久)(平成二年一月十五日出版「まど 沼津朝日」より)

昭和43年10月23日コラム↓

沼津朝日新聞コラム「まど」昭和四三・一〇・二三
 ▽きょう、明治百年記念式典が行われる。百年前近代日本の夜明けにわたくしたちの沼津が果たした誇り高い輝かしいその功績をかえりみながら、いまの沼津の姿をみると、無量の感にうたれるのは私ひとりではあるまい。
 ▽百年前の沼津にうちたてられた沼津兵学校、沼津病院沼津商社会所は、教育と社会福祉と経済の広い分野にわたって、日本近代化へのたくましい始動ボタンとなった。しかも、この偉業は、崩壊と没落の中に打ちひしがれた徳川家の人たちが、あらゆる苦難の中に闘いながら、ひたすら将来への光明を求めてやりぬいたものだけに、心から頭のさがる思いがする。
 ▽この至難の業をやりとげたものは、勇気と英知と将来への希望をかけた努力だったと考えるが、いまの沼津でも指導者たちが勇気と英知と努力をもてば、すぐにでも苦難を打開し、明るい将来を見出すことができるはずである。沼津の現状が、都市問題で行きずまり、繁栄への道がふさがれているとはいうものの、発展し繁栄する都市としての条件には恵まれている。ただ、勇気と英知と努力が不足しているだけなのではあるまいか。
 ▽沼津の当面する問題は、都市開発と都市改造をいかにすべきかであるが、現在に於けるその方向づけが、沼津の将来の明暗を決定するものだげに異常な勇気と英知が必要である。開発については市議会も積極的な協力推進体制を打ち出すようだが、単に陳情のお先棒だけでは役に立たない。
 ▽開発については、市長の諮問機関的なものとして民間の知織を集めた懇和会というものがあったはずだが、これもつくっただけで、全然生かされていない。この際、民間、市、議会の力を結集した開発審議会をつくり、沼津の総知総力をあげて計画し、推進する体制をつくるべきではあるまいか。百年前の沼津をかえりみて、新たにした勇往邁進が欲しいものである。

(沼津朝日新聞社長 井上章久)(平成二年一月十五日出版「まど 沼津朝日」より)


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