2023年8月11日金曜日

保養地沼津 沼津御用邸 駿豆電気鉄道

 





「街道の日本史22」-2

沼津御用邸駿河湾の内浦に面した楊原村島郷の御料林周辺には、御用邸設置以前に政府要人の別荘が設けられていた。たとえば、徳倉山の西側には、一八八五(明治十八)年内閣発足とともに初代陸軍大臣となった大山巌の別荘があり、青い松原の間に白い砂浜が左右に展開する静浦には海軍大臣西郷従道邸・枢密院議長大木喬任邸・元海軍卿川村純義邸があった。なお、大山・西郷・川村家はそれぞれ姻戚関係にあり、ともに薩摩藩出身であった。

その内の川村邸に東接する形で、一八九三(明治二十六)年七月に東宮別殿として沼津御用邸が竣工する。その名の通り、皇太子明宮や昭憲皇太后の長期滞在を目的としたリゾート施設であった。静岡御用邸を天皇・皇后が西日本へ行幸する際に休憩所として利用したのと対照的である。沼津御用邸の石垣には江ノ浦の石を用い、また、用材の一部にはわざわざ深川の木場から取り寄せた材木を使用したという。その直後、沼津駅には一般客用とは別に行幸・行啓用の乗降口が設けられることになった。

一八九五年、御用邸には新御殿・侍医局・臣下詰所などが増築され、また、一九〇〇年には車寄.洋館・玉突所などが増設された。このとき、新御殿の裏側に沼津垣が取り付けられたとされる。一九〇三年には赤坂離宮の東宮大夫官舎を東附属邸として移築した。この東附属邸には教室や実験室があり、大正時代には滞在中の皇太子(昭和天皇)の学問所として利用されることになる。さらに、一九〇五年には隣接する川村邸を買い取り、西附属邸とした。これは、迪宮(昭和天皇)や淳宮(秩父宮)の養育主任でもあった川村純義が前年死去したため、遺族が宮内省へ売却したことによる。一九六九(昭和四十四)年、御用邸は沼津市に無償貸与され、御用邸記念公園となる。

保養地沼津と政治家・文人沼津は古くは三枚橋城などの城下町であり、さらには東海道の宿場町として栄え、近代になっては静岡県東部の政治・経済・文化の中心地として発展してきた。千本浜から牛臥・三津へと長くつづく海岸線や愛鷹山・富士山・駿河湾の美しい眺望など、山海の自然と温暖な気候に恵まれた沼津は明治以来多くの政財界人・文人が保養に訪れ、近代文学とのかかわりも深い。狩野川河口の牛臥・島郷から江浦へかけての静浦海岸は、気候が温暖で風光が優れているうえに、一八八九(明治二十二)年東海道鉄道が開通して京浜方面との交通の便がよくなると、政治家や軍人・華族など海辺に別荘を建てるものが多かった。なかでも大山巌や西郷従道の別荘は有名で、今も「西郷島」と呼ばれる島がある。一八九三(明治二十六)年には島郷の松林の中に御用邸が造営され、当時の皇太子をはじめ皇室一族がしばしば訪れたが、これは結果として保養地沼津の名を広めることになった。

沼津の名が全国に知られるようになるもう一つの背景に、東京・大阪の歌舞伎が「伊賀越道中双六」の「沼津の段」をしばしば上演したことがある。伊賀越道中双六は「忠臣蔵」「曽我兄弟」とともに歌舞伎における三大仇討ちとして広く知られている。全一〇段から成り一八八九(明治二十二)年以来中村雁治郎によって上演されてきたが、なかでも「沼津の段」は好評で、「伊賀越え」といえば「沼津の段」だけを独立して上演するのが普通のようになった。名優中村鷹治郎の演ずる「沼津の段」の宣伝力は大きく、都会の人びとに沼津来遊の思いを大いにかき立てることとなった。のちに大蔵大臣になる渋沢敬三は学生時代の明治末から大正七・八年ごろまでの一〇年ほど、毎夏静浦へ来て一ヵ月位滞在したという。渋沢がその内浦で発掘し、蒐集整理して一九三七(昭和十二)年に刊行したのが『豆州内浦漁民史料』である.この史料は内浦長浜の津元である大川四郎左衛門家伝来の古文書で、戦国時代から明治に至る四00余年間の漁村の生活の発展を示す基礎史料であるこの書は日本の社会経済史の研究に大きく貢献し、その結果、「豆州内浦」の名は広く内外の研究者に知られるに至った。渋沢敬三は周知のように明治期の政商として日本資本主義の発展に大きくかかわった渋沢栄一の孫である。

沼津の名勝の一つに千本松原がある。浮島ヶ原とともに古来多くの旅人の心をとらえ、歌にも詠まれてきた。近代において千本松原を最も愛して歌にも詠み、松原の保存に努めたのが歌人若山牧水である。旅と自然の風光を愛する牧水は各地を遍歴したのち、一九二〇(大正九)年沼津に移住し、一九二五年には千本松原に新居を建てて引越した。ところが一九二六(昭和元)年静岡県が千本松原の一部を伐採処分しようと計画したので、沼津市民の問に反対運動が起こった。牧水は反対運動の先頭に立ち、各種の新聞紙上に千本松原擁護の文章を寄せ、千本松原が如何に名勝であるかを説いてそれが伐採されることを嘆いた。牧水らの反対もあって伐採は中止されたが、牧水の作歌と松原擁護の運動は大正期の青年たちの心に千本松原の名を強く植え付けた。

芹沢光治良は一九〇二(明治三十五)年沼津に生まれた。生家は狩野川河口の漁村である我入道の津元(網元)であったが、三歳のとき父親が天理教に入信し家族を連れて村を出たため、祖父母とともに残された光治良は苦難の少年時代を送ることになった。村人に白眼視されながらも漁師にならず中学校に進み、窮乏と虚弱な体力に苦しみつつ一高・東大を経て農商務省に入った。しかし農政に対する考えの違いから退官して渡仏したが、現地で結核に倒れて闘病生活を余儀なくされ、そこでの作家たちとの交友から文学への道に入っていった。大河小説『人間の運命』の第一・二巻には、光治良の分身である森次郎の生い立ちから一高に合格するまでの沼津での生活や、多感な少年の姿が余すところなく描かれている。

 

東海道鉄道の開通新橋~横浜間に日本最初の鉄道が開通したのは明治五(一八七二)年九月のことである。富国強兵・殖産興業政策を推進するためには幹線鉄道の建設が急務であると考えた明治政府は、一八七七(明治十)年東京~京都間を結ぶ鉄道を中山道経由で建設する準備に入った。しかし中山道の測量を行ったところ山岳地帯の難工事が予想され工事費も巨額になることが判明したので、一八八六(明治十九)年、中山道案を廃し新たに東海道に鉄道を建設することを決定した。

こうして同年二月横浜~酒匂間から建設工事に着手したが、東海道鉄道建設に立ちはだかる最大の難関は箱根山であった。神奈川と静岡の県境は国府津~沼津問に箱根トンネルを掘るか、または国府津~山北~御殿場~沼津のルートをとるかの二案があったが、当時の土木技術ではトンネルの掘削が困難なことからけっきょく御殿場ルートに決定した。また佐野(現、裾野)~沼津間は三島を経由せず、約ニキ。西方の下土狩を通って沼津に直行するルートがとられた。当時の三島は宿場町として賑っており、鉄道の建設によって通過客は多くなっても町に立ち寄る客は減少して、町の発展は妨げられると考えて鉄道建設に消極的な空気が強かったといわれる。

静岡県下で最初に鉄道が敷設されたのは一八八七(明治二十)年三月に試運転された蛇松線(のちの沼津港線)である。蛇松線は東海道鉄道の建設資材を輸送することを目的とした路線であり、沼津港から沼津停車場に通ずる貨物専用線として敷設された。鉄道建設資材は横浜港や清水港から海路で輸送されて沼津港陸揚げされ、蛇松線で建設現場まで輸送したのである。東海道鉄道開通後は沼津港線として存続したが、一九七四(昭和四十九)年に廃線となった。一八八九(明治二十二)年七月に東海道鉄道の新橋~神戸間が全通した。当時の時刻表によれば新橋~神戸間は下り二〇時間五分、上り二〇時間一〇分で、表定速度は毎時三〇・ニ㌔。であった。また新橋~沼津間は四時間五分を要した。鉄道の開通によって旧東海道箱根越えの貨客は全く跡を絶ち、三島町の旅籠には泊まる客もなく町はすっかりさびれてしまったという。町民有志の再三にわたる請願の結果、裾野~沼津間の下土狩に三島停車場が開設されたのは一八九八(明治三十一)年のことである。

一八九五(明治二十八)年、官設鉄道線路名称が制定されて東海道鉄道は東海道線と改称した・御殿廻りの東海道線は勾配が急なうえ、山間地を走るため雨が降れば線路が崩れるなど自然災害も多発した。また日露戦争後、重工業の発達にともなう貨物輸送量の増大に対応する必要もあって、御殿場廻に代わる別のルートの建設が求められた。その結果、国府津から小田原~湯河原~熱海を経て丹名トンネルを抜け、三島から沼津至るルートを新設することになった。小田原から沼津に抜けるためには多くのトンネルを掘らなければないが、この地域は地質が悪く掘削に困難がともなうなど技術的に多くの問題があった。約年かけ一九二五(大正十四)年に国府津~熱海間(熱海線)が開通した。丹那トンネルが開通して国府津~沼津間四八・九㌔。が熱海経由で結ばれたのは一九三四(昭和九)年十二月のことである。丹那トンネルの工事には六七人の犠牲者と一六年の歳月を要した。この開通により熱海線は東海道線に編入されて函南・三島両駅も同時に開業し、御殿場経由の旧東海道線は御殿場線伊豆箱根鉄道と駿豆電気鉄道一八九三(明治二+)年に設立された豆相鉄道株式会社は東海道鉄道沼津停車場を起点とし、三島~南条(現、伊豆長岡)を経て大仁に至る軽便鉄道を敷設する計画を発表した。当時、東海道鉄道に対して下土狩に三島停車場を設置するよう陳情を繰り返していた三島町はこの鉄道計画を聞くと直ちに豆相鉄道に対し、鉄道の起点を沼津ではなく下土狩に変更するように陳情した・三島町有志が鉄道用地を無償で提供することになり、下土狩を起点とすることが決定した一八九九(明治三+)年七月三島停車場(現、下土狩駅)~大仁間一七.・一キロが開通した。静岡県下で最初の民営鉄道あるが、運賃は三島停車場~大仁問が一六銭で他の物価と比較すると高い乗り物であり庶民は安い乗合馬車の方を多く利用したという。一九〇七(明治四十)年、豆相鉄道は名称を伊豆鉄道と改称した。静岡県下初の電灯会社である駿豆電気株式会社は、自社の電力を動力もて鉄道業に乗り出すことを決定し、一九〇五(明治三十八)年沼津停車場と三島広小路を結ぶ軌道線に着工して翌年十一月に開通した・架線電圧六00ボルトのシングルトロリー式で全線四五㌔を四〇分で運転した。静岡県では最初の電車であり、全国でも九番目であった。大正時代はバスとの競合もなかったので軌道線の黄金時代であった。昭和初年ごろには広小路~沼津間を二四分で走り市民の足として大いに利用された。

一九一七(大正六)年、伊豆鉄道と駿豆電気鉄道の両営業権を譲り受けて新たに駿豆鉄道株式会社が発足した。駿豆鉄道は全線の電化に取り組み、一九一九(大正八)年には電化工事が完成し、大仁~修善寺間の延長路線も一九二四年に開通した。一九三四(昭和九)年、丹那トンネルが開通すると広小路と東海道線三島駅を結ぶ線路を新設し、広小路~下土狩間を廃止した。

沼津~三島問の軌道線は戦後昭和三十年代に入るとバス路線との競争が激化し、一九六三(昭和三十八)年に廃線となった。一方の三島~修善寺線は戦後国鉄の湘南電車「いでゆ」「いこい」などが東京から直通で乗り入れて多くの観光客を運んだ。一九六一年には伊豆箱根地方の観光を重視して社名を伊豆箱根鉄道株式会社と改めた。一九六九(昭和四十四)年、東海道新幹線三島駅が開業すると、中伊豆観光の玄関である三島駅に降り立つ観光客は一段と多くなり、伊豆箱根鉄道を利用する乗客も増加していった。


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