2023年5月9日火曜日

黄瀬川(きせがわ) (東街便覧図略)

 




黄瀬川(きせがわ)

 東路記に。此川は富士の裾野の方より出る。川の西に黄瀬川と云町有。源九郎義経、始て此所にて頼朝と兄弟対面有し所也。

 東鑑巻之第一(治承四年十月之条)曰。廿二日令レ遷宿ニ黄瀬河給。中略今日。弱冠一人。御旅館之砌。称下可レ奉謁ニ鎌倉殿之由。實手宗遠義實等催之不レ能ニ執啓。移レ剋之処。武

衛自令レ聞ニ此事給。恩ニ年齢之程奥州九郎與支。早可有ニ御対面者仍實平請彼人。而果而義経主也。即参ニ進御前。互談往事。催ニ懐ニ旧之涙。云 是は富士河合戦に頼朝公にぐる平家を追つめんとし給ふを、常胤義経廣常等か諌申して、常陸国佐竹等平氏にしたがふ者先東夷を平け関西に至るへきよし申。是によつて此宿に遷り給ふ其時の事也。又義経と不和になり給ひし時も此宿に逗留ありて都の様子を聞給ふよし、東鑑巻第五文治元年十一月之條に出たり。爰に略す。

昔は名高き旅宿にして遊女も有し所也。建久四年の頃、亀鶴といふ名代の女有し事は普く世に知る所にして、東鑑巻之十三に。愛祐経王藤内等所令交会之吐女手越少将黄瀬河の亀鶴等。と有。此亀鶴は工藤左工門か二心なく契し遊女なりしが、祐経討れて後、尼となりて彼菩提を弔ひける其寺を亀鶴山と号し、同塚も有由。順覧記、白拍子亀鶴が守本尊行基の作なりと誅せり。此亀鶴観音迄は海道より脇にして往還(おうかん)よりは見へす。

門之奥に読さるなり。

東鑑巻之二十五(承久三年七月之条)曰。十三日今日。入道中納言宗行過駿河国浮鳥原。荷眉(ママ)疋夫一人。泣相ニ逢干途中。黄門レ門之。按察卿僅昨日梟首之間。拾ニ主君遺骨帰洛之由答。浮生之慈悲漲他上弥ニ消魂。中略察ニ其意。尤可レ憐事也。休ニ息黄瀬河宿之程。依レ有ニ筆硯之次書付傍。

 旦此辺よりは富士の東西を見る也。黄瀬川橋の上よりは此山の洞真正面に見へたり。実に東海道を通行の旅人は富士山の麓を迫りて行がごとし。続後拾遺

『 黄瀬川は木瀬川とも書く。この川は富士山、金時山、箱根湖水、愛鷹山などから流れ出る水が合流し、ここで街道と交わり、七町程下流で狩野川に合流する川である。『駿河記』には「川幅凡二十間水流二十間合四十間許」とある。また橋は「寛文六年(一六六六)午、長十二間ずつ刎橋に掛く。貞享元年(一六八四)甲子より長四十四間幅三間石垣築立、享保十年(一七二五)より土橋、安永七年(一七七八)より板橋とす。長三拾八間、幅一丈五尺、東橋台六間築出、(下略)」とある。

 図の橋は、その安永七年の板橋で、橋の左手が西で木瀬川村である。橋のすぐ西の街道の南に立場があった。左端に見えるのはそれかも知れない。先方の富士の手前に見えるのは愛鷹山で、この辺りからは険しさは見られない。橋の上流の河原を洗濯を終えた母子が帰って行く。橋の下では老婦が釜を洗っている。橋の挟で飛脚らしい男が立ち止まって見ているのは何のためだろうか。橋の右手は長沢村で神社は知(千・智)方大明神で末社が六社ある神社であった。詞書に見られる」義経・頼朝の対面石のある八幡社はこの神社の東北約五百㍍の所にある。また、妓女亀鶴の墓のある亀鶴山観音寺寿命院は、橋の西の木瀬川村にある。(東街便覧図略)


0 件のコメント:

コメントを投稿