2020年6月28日日曜日

統計学の祖 杉亨二 浜悠人


統計学の祖 杉亨二 浜悠人
 昨秋十月、沼津史談会は史跡探訪として東京都立染井霊園を訪ねた。霊園の一画には日本の統計制度の基礎を築いた杉亨二(こうじ)の墓があり、「枯れたればまた植置けよ我が庵」の辞世の句と「法学博士杉亨二・之墓大正六年十二月四日卒行年九十歳」と刻まれていた。
 彼の略年表をたどれば、一八二八(文政一一)年、肥前国(現長崎市)に生ま.れ、一八四九(嘉永一)年、大坂の緒方洪庵の適塾に入門。一八五三年、勝海舟を知り彼の私塾の塾長となり、一八五五(安政二)年、老中阿部正弘に仕え待講となる。
 一八六四年、幕府開成所教授に就任、一八六八(明治元)年、徳川家と共に静岡に移り、翌明治二年、沼津兵学校員外教授に就任。この年、沼津奉行阿部潜と府中奉行中台信太郎を説き、新しい領地である静岡藩を治めるためには領民の人口調査が必要であること、そして、それを古い「人別調(にんべつしらべ)方式」で行うのではなく西洋の統計学に基づく方法で実施したい旨を伝え、了解を得た。
 だが、同年六月、版籍奉還(各藩主が天皇に領地と領民を返上)となり、静岡藩だけ調査を実施するのは新政府に対して憚(はばか)られるとの憶測から調査は中止した。しかし、沼津宿と原宿は既に調査が完了して結果がまとめられ、「沼津政表」(沼津人口調査表)「原政表」(原人口調査表)として残された。
 このことにつき後年、杉は沼津と原については漸(ようや)く政表が出来たので記念になった、と述べている。
 それまで江戸時代の人別調が、もっぱら百姓の移動防止やキリシタン禁制、賦役を目的に作成されたものだったのに対し、「沼津と原政表」は武士身分の者が調査対象になっていないなど不十分な点もあるが〉住民の実態を総合的に捉えた我が国初の人口調査と言えるものであった。
 一八七一(明治四)年、太政官正院大主記(現総務省統計局長)に就任。日本初の統計年鑑「辛未(しんぴ)政表」を発行した。これは現在の「日本統計年鑑」の前身にあたる。
 一八七八(明治十一)年、「甲斐国現在人別調」を実施した。甲斐を選んだ理由は、一県にしては人口が少なく、管内の人口移動も比較的少なく、また東京に近く、指導連絡等が便利であることからだった。
 調査員二千人、費用五千七百六十円で一八七九(明治十二)年十二月三十一日午後十二時現在、甲斐国の人口は397416人と判明した。
 一八八五(明治十八)年、統計院が廃止されたのを機に五十八歳で官界を引退し、「政表社」等で統計に関する研究などの活動を継続し統計の普及に努めた。一九一七人大正六)年、九十歳で永眠。その後三年を経、我が国で第一回の国勢調査が実施された。
 国勢調査は五年に一度、国内の人口、世帯、産業構造などについて全国的な調査をすることで国の礎を知る最も重要かつ基本的な統計調査である。英語でセンサス(census)と呼ばれる。その歴史をたどれば、第一回一九二〇(大正九)年十月一日実施。第二回一九二五(大正十四)年から…第六回一九四五(昭和二十)年は終戦のために中止し、翌々年の一九四七(昭和二十二)年、臨時に実施。第七回が一九五〇(昭和二十五)年に実施され、以下五年ごと行われてきた。
 二〇二〇(令和二)年の本年度は第二十一回となる国勢調査の実施予定年度にあたるが、新型コロナウイルスのため、どうなることか判然としない。国中が、その成り行きを見守っている。
(歌人、下一丁田)  浜悠人
 【沼朝令和2628日(日)寄稿文】

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