2020年4月20日月曜日

沼津本町表絵図解説


沼津本町表絵図解説


 これは、浅間町の丸子・浅間神社に所蔵されている沼津本町の絵図です。
 浅間神社は、かつては宮町の西光寺境内に鎮座していたと言われ、宮町の名称も浅間宮に由来します。
 現在の浅間神社地には、かつては相馬神社があり、相馬の森と呼ばれていました。これは、東京の神田明神と同じく平将門の霊を祀った神社で、沼津宿の本陣間宮氏の祭神でした。浅間神社の遷座、社殿の改築等の結果、相馬神社は他の末社と同様に合祀されることになったのかもしれません。
 この絵図は天保八年(一八三七)に幕府の命令で作成され、当時の領主である水野出羽守に提出された絵図の写しのようです。清水助右衛門控とあることから、もうひとつの本陣清水氏が所有していたことが明らかですが、浅間神社に伝来する理由は不明です。
 絵図には本町の寺社、船手高札、人馬会所などが記され、沼津宿の中心地である本町の様子を彷彿とさせています。狩野川河口には「蛇松」が描かれ、現在西光寺墓地の清水家旧墓石群の中にある「おこり石」も、本来の位置である永明寺の北に記載されています。また、明治維新後、四民平等の理念から、今後の繁栄を願って「栄町」と改名された「穢多」居村も見ることができます。
 現在では市民の記憶から消え去っている地名の中に「我通路川」がありますが、これが絵図右下に「ガトロ用水」として記されています。また、「幟道(のぼりみち)ガード」命名の元となった「登道(のぼりど)耕地」が式内丸子大明神の東に書かれており、大変興味深く見ることができます。
 千本浜には、元禄元年の沼津宿絵図にはなかった長谷寺が登場し、市道にある慈光院は釈迦堂と記されています。また、本絵図上端の東間門村大宝院は、既に廃寺となり今はありません。
 なお前述の元禄元年沼津宿絵図で確認できる本光寺は、上土町分のため描かれていません。
(平成11331日発行「沼津市史だより」第10号)

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