2015年6月6日土曜日

沼津から一つの日本の宝が消えようとしている。

沼津に残る始期と終期の古墳
 稀有な存在、一方が取り壊しの運命
 沼津から一つの宝が消えようとしている。「ぬまづの宝」どころか、日本考古学協会の専門家が「日本国民共有の文化遺産」だと指摘する東熊堂の高尾山古墳。千八百年の時を超えて蘇った威容は、その大部分を道路が取って代わるという。この古墳の「東日本最古級」という位置付けは、単体の古さだけでなく、古墳時代の掉尾(とうび)を飾った、もう一方の古墳、足高の「清水柳北遺跡I号墳」によって、古墳時代の幕開けと、その終焉を告げる存在が同じ地域の極めて狭い範囲から出土したという希少価値につながっている。都市計画道路沼津南一色線の予定通りの建設決定に伴い、少なくとも主体部を含む主要部分が削り取られることになる高尾山古墳。最頂部の地下に眠った時の権力者は、どんな思いで成り行きを見守っているのだろうか。二つの古墳を振り返ってみた。
 【高尾山古墳】 規模東熊堂の高尾山穂見神社の移転跡から出土。平成二十年五月に始まった本格調査で「前方後方墳」(前方部、後方部共に方形)であることが確認された。
 古墳規模は南北全長が約六二㍍、前方部の最大幅(東西)が推定で二四㍍、後方部は推定三五㍍。前方部が低く、後方部の盛り土高は約四㍍。前方部は祭祀を行う場所だといい、後方部最頂には被葬者を埋葬した主体部があった。

 築造年代 前方後方墳は県内に他の出土例がないわけではないが、高尾山が注目されるのは、築造年代。発掘調査時、周辺で確認された土器の古さから、西暦二三〇年説も出て、国内最古級の見方もあった。
 その後の分析で現在は、築造は二三〇年ごろ、埋葬が二五〇年ごろということで落ち着いているが、考古学関係では、埋葬をもって築造年代とされる。卑弥呼の墓でないかとされる奈良県桜井市の箸墓古墳が、ほぼ同時代だと言われている。
 出土物 主体部をはじめ周辺から多くの土器が出た。廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる古い段階の土師器(はじき=素焼きの土器)の中でも、前半の時期に属するのではないかというものや、沼津から全国に送り出された「在地土器」、さらに、北陸地方産の土器も出土していて、交流の様子を見せている。
 このほかにも鉄鏃(てつぞく=やじり)や鉄製の槍、刀、勾玉などが確認され、また、棺を納めた場所には朱色が残る部分が残っていたが、これは水銀朱と言われ、現在でも大変貴重なものだといい、この古墳の被葬者の力が強大なものであったことをうかがわせるものだという。
 さらに注目されるのが青銅製の鏡。「浮彫式獣帯鏡(うきぼりしきじゅうたいきょう)」と言われ、この形式の鏡の古い時代に属するものではないかとされるものが出土している。中国後漢時代に大陸で作られたものではないかといい、畿内の中央とは別に、これを手に入れることのできる存在が沼津にあったのではないかとされた。

 日本考古学協会の会長声明 高倉洋彰会長は、高尾山古墳の保存を求める声明の中で、この古墳の価値について、次のように指摘している。
 ①古墳時代最初頭(三世紀)の時期として日本列島屈指の規模を持つ、②初期古墳の多くが丘陵上に築かれるのとは異なり平地に構築されたために墳丘盛り土がよく保存されている、③埋葬施設の朱塗り木棺から青銅鏡(後漢未)など豊富な副葬品が出土した、④墳丘や周溝から北陸や近江系の土器が出土して他地域との交流が確認できる。以上から畿内の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長墳と考えられる。

 【清水柳北遺跡I号墳】 沼津工業団地造成に先立ち、昭和六十一年から二年間にわたって行われた埋蔵文化財発掘調査で出土した。

 当時、全国で二例目、東日本では初めてという「上円下方墳」(下部が万形、上部が円形)で、規模は下方部の一片が一二㍍、高さ一㍍、上円部は直径九㍍。
 築造年代は八世紀(西暦七〇〇年代)の半ばまでには造られたのではないかと考えられている.
 この上円下方墳以降、古墳は造られなくなるので、I号墳は古墳の「最終の形態」を示したもので、「最古級」の高尾山に対して「最も新しい時代の古墳」だと言うことができる。
 高尾山古墳の出土によって沼津には現在、新旧の形態を持った二つの古墳が存在しているが、上円下方墳の類例が少ないだけに、新旧が並ぶというのは全国的に見ても稀有な存在だと言える。
 その一つが、今後再び行われる予定の発掘調査によって消えようとしている。
 なお、清水柳北遺跡I号墳は、出土した場所からほど近い所に移築復元されている。

(沼朝平成27年6月6日号)

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