2013年5月23日木曜日

沼津倶楽部について




沼津倶楽部について
 社団法人沼津倶楽部は、沼津市内外の方たちとの交流を図りつつ、産業文化の向上発展について研究協議し、地域の振興に寄与することを目的として、昭和21年に設立された公益法人です。
 その歴史を振り返ると、明治から大正にかけて、沼津市(当時沼津町)が別荘地として貸し出した土地(約3千坪)を茶人でもあったミツワ石鹸の三輪善兵衛氏が借用して、本格的な数寄屋造りの別荘を建てました。千人茶会を催したいとの思いがあったと伝えられています。
 太平洋戦争が勃発すると、陸軍省がこの建物を接収し、将校たちの休息所として利用しました。
 昭和20年7月16日夜半の空襲によって、沼津の街は焼土と化してしまいました。
沼津市長勝亦干城は、戦災復興を協議する場の必要性を痛感し、戦災を免れ、戦後、陸軍省を経て大蔵省に移管されていたこの建物を取得して、その拠点にしようと考え、有志に出資を呼びかけて、社団法人の設立を計画し、昭和21年11月8日商工大臣(星島二郎)の許可を得ました。社団法人沼津倶楽部の発足です。
 社団法人沼津倶楽部は、収益事業としての割烹「沼津倶楽部」を経営しつつ、地域の復興と発展に寄与してまいりました。
 駿河湾の潮騒につつまれ、富士を望む千本松原の一角にある「沼津倶楽部」は、地域の人々の交流の場としても注目され、数寄屋造りの瀟洒な和室、大正モダンの面影を色濃く残す洋間、京都より移築された3畳台目の茶席など、そこに流れる匠の心、洗練された気品は、訪れる人々に広く親しまれてまいりました。
 先人たちは、この松籟の風情が漂う3千坪の広大な庭園と貴重な木造建築を後世に残すべく努力を重ねてまいりましたが、近年、老朽化が進み、この歴史的な建物を長く存続させるための大修理が必要となり、平成18年秋、篤志者「栄光ゼミナール」の創業者北山雅史氏の協力を得て、大修理に着手し、宿泊施設も建てられ、平成20年11月、装いも新たに再開いたしました。
 社団法人沼津倶楽部は、地域の産業文化の向上発展に寄与するための事業を展開しつつ、「株式会社プロジェクトN」(代表北山雅史氏)に施設の管理を委託し、懐石料理の「割烹沼津倶楽部」からフランス料理の「LERESTAURANT」と名称も新たに、沼津の食材を生かした素敵な食事処を営業しております。
 なお、社団法人沼津倶楽部の歴代理事長は、勝亦干城、真野為雄、竹内鉄次郎、岡田吾一、林輝彦、諏訪健次郎、名取寛二郎、宇野紳七郎、山本安彦の諸氏です。
現在の会員は、宇野統彦、大古田一郎、勝亦一強、佐藤一宏、武田吉之助、名取正純、永倉敬久、林茂樹、山本豪彦です。
 公益法人制度改革に伴い、平成24年5月1日付けで一般社団法人としての認可を静岡県知事から受けました。
 平成25年5月
 一般社団法人沼津倶楽部
 理事長 林茂樹

2013年5月19日日曜日

武田家臣末裔の「武田家旧温会」

武田家臣末裔の「武田家旧温会」
 今年度、土屋誠司さん(牛臥)が会長に

 戦国時代有数の名将として知られる武田信玄。信玄は「人は石垣、人は城」という言葉を残し、人材を何よりも重視したとされ、その下には「武田二十四将」と呼ばれる優れた家臣が多く集まった。大名としての武田氏は天正十年(一五八二)に滅亡したが、その家臣の末裔は今も独自の結束を保っている。その象徴とも言えるのが、家臣末裔によって構成される団体「武田家旧温会」(本部・山梨県甲府市)。会員の一人で牛臥に住む土屋誠司さん(83)が今年度から、同会の会長に就任した。
 先祖は勇猛な伝説残る土屋昌恒
 勝頼の最期と運命を共に
 同会は昭和四十六年の設立。先祖の遺徳を偲ぶため武田氏関連の郷土史研究や慰霊祭参加などを行い、信玄の次男、龍芳の子孫で武田家十六世、元商社員の武田邦信さんが最高顧問を務めている。現在、約百三十人の会員がいる。
 土屋さんは昭和五年生まれ。実家は富士宮市(旧大宮町)で、富士宮北高を卒業後同市のボーリング調査技術員や沼津工業高技術研究所で地質調査技術職員を務めた後、昭和三十三年に地質調査会社の富士和ボーリング(現富士和)を設立。現在は会長職にある。これまで沼津ライオンズクラブ会長や、沼津商工会議所監事なども務めている。
 信玄が残した数々の名言のうち、「凡(およ)そ軍勝、五分を以て上と為し、七分を以て中と為し、十分を以て下と為す」という言葉に特に感銘を受け、経営や処世の上でのモットーにしている。「要するに、勝ち過ぎて驕(おご)るのはいけない。勝って兜の緒を締めよ、ということです」
 土屋さんの先祖は、土屋昌恒(まさつね)という武将。土屋惣蔵(そうぞう)、土屋右衛門尉(うえもんのじょう)などとも呼ばれる。一回目の川中島の合戦の三年後、弘治二年(一五五六)に生まれ、武田家が滅亡した天正十年(一五八二)に没した。
 昌恒の兄は武田二十四将の一人として知られる土屋昌続(まさつぐ)で、昌恒より十一歳年長の昌続は、信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとされる永禄四年(一五六一)の四回目の川中島の合戦で活躍したが、信玄没後の天正三年(一五七五)の長篠の合戦で戦死した。
 昌恒達兄弟は、元から土屋氏を名乗っていたのではなく、実家は甲斐の名族、金丸氏で、次男だった兄の昌続は川中島の合戦の功績により、土屋氏の名跡を継いだ。
 昌恒が土屋姓を名乗るのは、それより遅れて、信玄が今川氏を攻めて駿河国を奪った元亀元年(一五七〇)。初めて海のある土地を領有した信玄は、それまで今川氏の家臣として水軍を率いていた岡部貞綱という武将を家臣として迎え入れ、新設された武田水軍の幹部として厚遇。貞綱に土屋姓を名乗るよう命じた。貞綱は土屋貞綱と改名するとともに、昌恒を養子として迎えた。
 長篠の合戦では、兄の昌続だけでなく、餐父の貞綱までもが戦死したため、昌恒が、すべての土屋氏の後を継ぐことになり、領地や家臣団を継承。土屋氏当主となり、信玄の跡を継いだ勝頼の側近として武田氏を支えた。
 天正七年(一五七九)、武田勝頼は沼津に三枚橋城を築くが、武田氏の事績を記した書物『甲陽軍鑑』によると、その翌年、勝頼は小田原の大名、北条氏政と戦うために軍勢を率いて三枚橋城に入り、昌恒も、この軍勢に従軍していたという。
 その後も、東の北条や西の徳川家康と戦い続けた勝頼だったが、次第に情勢は不利となり、天正十年、織田信長が武田氏を攻めるため大軍を派遣すると、これに敗れて最後は自害に追い込まれた。
 この間、武田家臣の中には武田氏を見捨てて裏切る者も現れた。特に、小山田信茂という武将は、勝頼と、その家族を保護すると申し入れ、勝頼一行を自分の城に招いたが、実際は勝頼一行を襲う側に回った。
 この時、昌恒は勝頼を見捨てるようなことをせず、逃げ落ちる勝頼一行を護衛した。僅か数十人の一行に織田軍が襲いかかった時、昌恒は大いに奮戦。狭い山道で、滑り落ちぬように片手で蔓を握りながら、もう片手で刀を振るい、多くの敵を倒したという伝説があり、俗に「片手千人斬り」と呼ばれている。
しかし多勢に無勢で、勝頼一家が自害すると、昌恒もまた、自害して果てた。享年二十七歳。一方の小山田信茂は、卑劣な振る舞いを批判され、後に織田軍によって処刑されている。
 土屋さんに「片手千人斬り」伝説について尋ねると、「刀は人を斬ると歯こぼれしますから、千人斬りというのはありえないでしょう」と話す一方、「腰元など多くの女性も含む僅か数十人に大軍が押し寄せてきたわけですから、敵から残酷な仕打ちを受けるくらいなら自害を選ぶような、そういう凄惨な状況だったのでしょう」と、かつての悲劇を悼む。
 また、織田信長の印象について土屋さんは「やはり好きにはなれないですね。嫌いです」ときっぱりと答えたが、小山田信茂については「小山田は、もともとは独立した勢力で、後になってから武田の支配下に入った。生き残るためには仕方なかったのではないですか。それに、(勝頼一行が)仮に小山田の城に保護されたとしても、織田は大軍。生き延びることができたとは思えません」と理解を示す。
 武田家旧温会では、土屋さんが会長に就く直前、武田信玄の末裔を名乗る女性タレントについて、武田家との関わりを否定する声明を出している。
 こうした中で、先祖と子孫のあり方について土屋さんは「末裔を名乗る人は多くいます。しかし、本当に大事なのは、祖先を敬い祭る気持ちがあるかどうかではないでしょうか」と話す。
 土屋さんの家には、岡部氏の家紋「左三つ巴」の旗印と、柄に家紋の細工が施された短刀が残されている。土屋さんは、昌恒の子で現在の富士宮市で帰農した八之丞(はちのじょう)の子孫に当たるが、昌恒の義父だった岡部貞綱についても強い思いを抱いている。
 貞綱が開基となった現在の静岡市清水区の寺院榜厳院(りょうごんいん)を訪れた際、貞綱の位牌が無いことを知った土屋さんは、位牌を作って奉納。また、岡部氏の本拠だった旧岡部町(現藤枝市)へもたびたび足を運び、貞綱の子孫として神社の祭礼に出席している。
 土屋さんは、子や孫など自身の家族に対しては信玄や昌恒について語ることはあまりないというが、「人間は年を取れば、過去を振り返るようになります。いずれは自然と関心を持つようになるでしょう」という気持ちでいる。
《沼朝平成25年5月19日(日)号》

2013年5月18日土曜日

国宝指定を答申された鑁阿寺本堂

足利氏の氏寺、国宝に…文化審議会が答申



国宝指定を答申された鑁阿寺本堂

 文化審議会は17日、東日本を代表する中世の密教寺院である鑁阿寺(ばんなじ)本堂(栃木県足利市)を国宝に、旧加賀藩主が昭和初期に建設した旧前田家本邸(東京都目黒区)など建造物9件を重要文化財に、それぞれ指定するよう文部科学相に答申した。

 一方、昨年12月に全焼した金山寺(きんざんじ)本堂(岡山市)の重要文化財指定を解除することも求めた。

 鑁阿寺は、後の室町将軍につながる足利氏の氏寺。現在の建物は、鎌倉時代の1299年に当時最新の建築様式だった「禅宗様(よう)」をいち早く採り入れて建てられた。軒下を装飾し、強度も高める建築構造「組物(くみもの)」に特徴がある。

 また、島根県津和野町の津和野地区、岡山県津山市の城東地区の2地区を、重要伝統的建造物群保存地区に選定することも求めた。

(2013年5月17日22時02分 読売新聞)

2013年4月26日金曜日

マヤ文明最古の建造物 グアテマラ

マヤ文明最古の建造物 グアテマラ
 紀元前1000年ころ
 学説200年さかのぼる

 メキシコ南東部から中米で16世紀まで繁栄したマヤ文明は、従来の学説より約200年早く、紀元前1000年ごろには発展し始めていた可能性が高いことが分かった。国際調査団がグアテマラのセイバル遺跡を発掘し、当時の中央広場や祭祀(さいし)施設の跡を発見した。団長の猪俣健・米アリゾナ大教授や青山和夫茨城大教授らが26日付の米科学誌サイエンスに発表した。
 遺跡は発掘調査が2005年、約40年ぶりに再開された。自然の地盤に突き当たるまで深く掘削したところ、最も古い紀元前1000年ごろの地層から、当時の人々が集められた中央広場や、大小三つの「基壇(きだん)」と呼ばれる土造りの舞台のような祭祀施設の跡が見つかった。
 基壇では王侯貴族が祭祀を行ったとみられる。祭祀施設はこれまで、紀元前800年以降に建てられたと考えられていた。小さめの基壇二つは中央広場の東西に配置され、太陽の運行方向が配慮されたと推定される。南東に少し離れた大きい基壇は幅が34㍍超もある四角形で、敷地には後代、石造りの巨大な「神殿ピラミッド」が築かれた。
《静新平成25年4月26日(金)夕刊》

2013年4月17日水曜日

唐人お吉こと斉藤おきち

図書館で調べものしてたら。
唐人お吉こと斉藤おきちの写真発見。本名斉藤おきちという美人。

2013年4月11日木曜日

縄文人がサケ煮炊き?土器に料理跡世界最古

縄文人がサケ煮炊き?土器に料理跡世界最古
 1万年前の「焦げ」分析 北海道、福井で出土

 北海道や福井県の遺跡から出土した1万1千~1万5千年前の縄文式土器の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを日英などの研究チームが見つけ、11日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。チームは料理に使われた世界最古の土器としている。
 農耕が始まる前に発明された土器は、氷河期を乗り越えるため食料の貯蔵などに使っていたとみられていたが、栄養価の高い魚類を料理していたことも示すという。縄文人の暮らしぶりの一端を明らかにする成果。
 チームは北海道や新潟、福井、長野、鹿児島の13遺跡から縄文式土器計101個を集め、焦げ跡を分析した。
 このうち鳥浜貝塚(福井)と大正3遺跡(北海道)の土器片の内側に付着した成分を詳しく調べたところ、鳥浜貝塚では35個のうち17個、大正3遺跡では2個のうち1個から魚の油分が劣化したとみられる脂肪酸を検出。海の魚か川魚かは分からないが、深鍋の土器を300度近い高温の状態に熱し、煮炊きした証拠と判断した。
 チームは、詳細に分析していない他の遺跡でも、焦げ跡の炭素や窒素の同位体比から、ほとんどの土器は煮炊きに使われたとみている。素材はサケの可能性が高いという。
 研究に参加した総合地球環境学研究所(京都市)の内山純蔵客員准教授(景観考古学)は「この時代の土器の量は際立って少なく、煮炊きして日常的に食べたとは限らない。儀礼に使った可能性もある」とみている。
 遡上のサケやマスか
 中村俊夫・名古屋大教授(年代学)の話日本や中国、ロシアなどの極東は土器の発祥の地と考えられているが、いつ、何のために作られたのかは良く分かっていなかった。その解明につながるとても面白い研究だ。(調査対象の)遺跡はサケやマスが遡上(そじょう)する途中にあるところが多く、縄文人がこれらをたくさん捕って煮炊きし、油や食物にしたと考えてもおかしくない。これまで一般的に考えられていたことが、科学的に裏付けられた。
 儀式に使った可能性も
 研究に参加した福井県立若狭歴史民俗資料館の鰺本真友美主任(考古学)の話 氷河期の時代に、魚介類を料理するために土器が使われた可能性があると分かった。土器が生まれた理由を知るために一歩前進といえる。検出された脂肪酸は、海や川の生物を煮ると出てくるものなので、煮炊きに使ったのではないか。皆で温かい物を食べるという実用面以外に、神様への供え物や儀式などに使われた可能性もある。今後、さらに解明が進むと期待している。
《静新平成25年4月11日(木)朝刊》