2013年5月19日日曜日

武田家臣末裔の「武田家旧温会」

武田家臣末裔の「武田家旧温会」
 今年度、土屋誠司さん(牛臥)が会長に

 戦国時代有数の名将として知られる武田信玄。信玄は「人は石垣、人は城」という言葉を残し、人材を何よりも重視したとされ、その下には「武田二十四将」と呼ばれる優れた家臣が多く集まった。大名としての武田氏は天正十年(一五八二)に滅亡したが、その家臣の末裔は今も独自の結束を保っている。その象徴とも言えるのが、家臣末裔によって構成される団体「武田家旧温会」(本部・山梨県甲府市)。会員の一人で牛臥に住む土屋誠司さん(83)が今年度から、同会の会長に就任した。
 先祖は勇猛な伝説残る土屋昌恒
 勝頼の最期と運命を共に
 同会は昭和四十六年の設立。先祖の遺徳を偲ぶため武田氏関連の郷土史研究や慰霊祭参加などを行い、信玄の次男、龍芳の子孫で武田家十六世、元商社員の武田邦信さんが最高顧問を務めている。現在、約百三十人の会員がいる。
 土屋さんは昭和五年生まれ。実家は富士宮市(旧大宮町)で、富士宮北高を卒業後同市のボーリング調査技術員や沼津工業高技術研究所で地質調査技術職員を務めた後、昭和三十三年に地質調査会社の富士和ボーリング(現富士和)を設立。現在は会長職にある。これまで沼津ライオンズクラブ会長や、沼津商工会議所監事なども務めている。
 信玄が残した数々の名言のうち、「凡(およ)そ軍勝、五分を以て上と為し、七分を以て中と為し、十分を以て下と為す」という言葉に特に感銘を受け、経営や処世の上でのモットーにしている。「要するに、勝ち過ぎて驕(おご)るのはいけない。勝って兜の緒を締めよ、ということです」
 土屋さんの先祖は、土屋昌恒(まさつね)という武将。土屋惣蔵(そうぞう)、土屋右衛門尉(うえもんのじょう)などとも呼ばれる。一回目の川中島の合戦の三年後、弘治二年(一五五六)に生まれ、武田家が滅亡した天正十年(一五八二)に没した。
 昌恒の兄は武田二十四将の一人として知られる土屋昌続(まさつぐ)で、昌恒より十一歳年長の昌続は、信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとされる永禄四年(一五六一)の四回目の川中島の合戦で活躍したが、信玄没後の天正三年(一五七五)の長篠の合戦で戦死した。
 昌恒達兄弟は、元から土屋氏を名乗っていたのではなく、実家は甲斐の名族、金丸氏で、次男だった兄の昌続は川中島の合戦の功績により、土屋氏の名跡を継いだ。
 昌恒が土屋姓を名乗るのは、それより遅れて、信玄が今川氏を攻めて駿河国を奪った元亀元年(一五七〇)。初めて海のある土地を領有した信玄は、それまで今川氏の家臣として水軍を率いていた岡部貞綱という武将を家臣として迎え入れ、新設された武田水軍の幹部として厚遇。貞綱に土屋姓を名乗るよう命じた。貞綱は土屋貞綱と改名するとともに、昌恒を養子として迎えた。
 長篠の合戦では、兄の昌続だけでなく、餐父の貞綱までもが戦死したため、昌恒が、すべての土屋氏の後を継ぐことになり、領地や家臣団を継承。土屋氏当主となり、信玄の跡を継いだ勝頼の側近として武田氏を支えた。
 天正七年(一五七九)、武田勝頼は沼津に三枚橋城を築くが、武田氏の事績を記した書物『甲陽軍鑑』によると、その翌年、勝頼は小田原の大名、北条氏政と戦うために軍勢を率いて三枚橋城に入り、昌恒も、この軍勢に従軍していたという。
 その後も、東の北条や西の徳川家康と戦い続けた勝頼だったが、次第に情勢は不利となり、天正十年、織田信長が武田氏を攻めるため大軍を派遣すると、これに敗れて最後は自害に追い込まれた。
 この間、武田家臣の中には武田氏を見捨てて裏切る者も現れた。特に、小山田信茂という武将は、勝頼と、その家族を保護すると申し入れ、勝頼一行を自分の城に招いたが、実際は勝頼一行を襲う側に回った。
 この時、昌恒は勝頼を見捨てるようなことをせず、逃げ落ちる勝頼一行を護衛した。僅か数十人の一行に織田軍が襲いかかった時、昌恒は大いに奮戦。狭い山道で、滑り落ちぬように片手で蔓を握りながら、もう片手で刀を振るい、多くの敵を倒したという伝説があり、俗に「片手千人斬り」と呼ばれている。
しかし多勢に無勢で、勝頼一家が自害すると、昌恒もまた、自害して果てた。享年二十七歳。一方の小山田信茂は、卑劣な振る舞いを批判され、後に織田軍によって処刑されている。
 土屋さんに「片手千人斬り」伝説について尋ねると、「刀は人を斬ると歯こぼれしますから、千人斬りというのはありえないでしょう」と話す一方、「腰元など多くの女性も含む僅か数十人に大軍が押し寄せてきたわけですから、敵から残酷な仕打ちを受けるくらいなら自害を選ぶような、そういう凄惨な状況だったのでしょう」と、かつての悲劇を悼む。
 また、織田信長の印象について土屋さんは「やはり好きにはなれないですね。嫌いです」ときっぱりと答えたが、小山田信茂については「小山田は、もともとは独立した勢力で、後になってから武田の支配下に入った。生き残るためには仕方なかったのではないですか。それに、(勝頼一行が)仮に小山田の城に保護されたとしても、織田は大軍。生き延びることができたとは思えません」と理解を示す。
 武田家旧温会では、土屋さんが会長に就く直前、武田信玄の末裔を名乗る女性タレントについて、武田家との関わりを否定する声明を出している。
 こうした中で、先祖と子孫のあり方について土屋さんは「末裔を名乗る人は多くいます。しかし、本当に大事なのは、祖先を敬い祭る気持ちがあるかどうかではないでしょうか」と話す。
 土屋さんの家には、岡部氏の家紋「左三つ巴」の旗印と、柄に家紋の細工が施された短刀が残されている。土屋さんは、昌恒の子で現在の富士宮市で帰農した八之丞(はちのじょう)の子孫に当たるが、昌恒の義父だった岡部貞綱についても強い思いを抱いている。
 貞綱が開基となった現在の静岡市清水区の寺院榜厳院(りょうごんいん)を訪れた際、貞綱の位牌が無いことを知った土屋さんは、位牌を作って奉納。また、岡部氏の本拠だった旧岡部町(現藤枝市)へもたびたび足を運び、貞綱の子孫として神社の祭礼に出席している。
 土屋さんは、子や孫など自身の家族に対しては信玄や昌恒について語ることはあまりないというが、「人間は年を取れば、過去を振り返るようになります。いずれは自然と関心を持つようになるでしょう」という気持ちでいる。
《沼朝平成25年5月19日(日)号》

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