2019年8月12日月曜日

2019年8月11日日曜日

「野方(のがた)・浜方(はまかた)と甲州街道・古道」加藤雅功



地図から見た沼津⑤「野方(のがた)・浜方(はまかた)と甲州街道・古道」加藤雅功
天保6(1835)の『本町野方絵図』を基本として、天保8(1837)の『沼津本町絵図』や明治5(1872)の『東間門(まかど)村縮図』などを比較しながら、開発の過程や景観の変遷を追ってみたい。
野方(農地側)浅間神社の西、乗運寺(じょううんじ)や東方寺(とうばうじ)の間を通る「千本浜道」の南側には下田(げでん)など評価の低い水田や畑地が広がり、旧字汐入や三反深(さんたんぶか)・五反田、竹之後や沓形(くつがた) 砂原囲(かこい)・妙見前(みうけんまえ)など不整形な区画をなしていた。弥生時代後期から古墳時代の常盤町(ときわちよう)遺跡(永明寺〈ようめいじ〉領の畑と塚)のある字「砂原」の北側、字二反田の西側(旧字妙見林)の妙見塚(みょうけんづか)は、独立標高点(4.2m)の表記から円墳と推定され、現在の常盤町2丁目付近と見られる。常盤町1丁目の旧字如来堂(によらいどう)には、北側から如来堂、如来堂畑、妙海寺(みょうかいじ)旧地があり、現在では妙海寺墓地となり、妙覚寺(みょうかくじ)とともに八日堂の聖地である。かつて字天王小路(てんのうこうじ)には天王社(祇園〈ざおん〉社)があった。
観音川(子持川とも)の左岸側、下一丁田(しもいっちのだ)付近では字前田の南側、乗運寺後に百姓家が後に形成される。出口町には沼津宿西見付の見附番所や松月院(しょうげついん)(十王堂)があった。子持川橋(五反田橋・幸橋)の西、街道の松並木と市道(いちみち)(五反田)の南側は草刈川の灌漑による「松下耕地」であり、松下八幡給から松下藪鼻(やぶはな)、松下下舞台(ぶたい)、松下五反田から浜寄りの字松下にかけて、比較的評価の高い水田が広がる。街道の南側では西の妙傳寺(みょうでんじ))浜道から子持川に至るまでの耕地が全て「松下」を冠し、畦(あぜ)の両側に溝を巡らす特異な水田であった。

浜方(千本(せんぼん)松原側〉長谷寺(はせでら)観音堂は、長谷寺(浜の観音)と呼ばれ、砂丘上に立地した。寺の東側の旧字浜道下には永明寺(ようめいじ)の旧地があった。狩野川の洪水被害で下河原から不動堂明星寺に仮寓(かぐう)し、その後、出口町の大聖寺(だいしょうじ)脇に寺は移転している。かつて字不動塚には不動院があり、円墳の不動塚は消滅した。御林(おはやし)側(旧八角池の東)には火防(ひぶせ)の神を祀(まつ)った秋葉(あきば)社があった。塩の道の甲州道(甲州街道)沿いには首塚があった。
中世に「千本(ちもと)の松」「千本(ちもと)の松原」の古称があり、千本郷林(ごうりん)も千本御林(ごりん)から転訛した。「千本砂礫州」には並列の砂丘が覆い、高潮や風害・塩害を防ぐ松原が、沼津公園や千本浜公園となった。観音川右岸、松下七反田の水田に対し、畑地側は後に「緑町」が誕生する。松原寄りには牢屋や役人(非人)の居住地があった。
 東間門の妙傳寺(みょうでんじ)西側の本町境で、網場(あんぼ)への浜道近くで甲州街道の北側、字松林の妙傳寺墓地と現在の東間門区有墓地の東側に「六代(ろくだい)松旧跡」がある。六代松碑が残る地で、絵図では平(たいら)六代に因む六代君旧跡と記す。

 草刈川と放水路

「沼川」は大川とも呼ばれ、愛鷹山麓を流下する谷戸(やと)川・中沢川・西川などのほか、支流の高橋川を合わせて原・浮島方面に西流する。又井(またい)から分水する灌漑用水路の「草刈川」は東間門と西間門の大字の境界となっている。字向田付近で新たに分水した放水路は『沼津本町絵図』では、「悪水払い」の堀割(排水路)の先、甲州道に接した字松林(山神社の西)に「悪水溜(だまり))」の溜池が構築されていた。
また、近世中頃の『御城下三町壱紙麁絵(そえず)図』には街道の南側(字久保)に「悪水吸込」が3か所掘られていた。「吸い干し」とも呼ぶ排水溜め池で、東側の草苅川の分水で、藪鼻の松原にも小規模なものがあった。『東間門村縮図』では「尻無(しりなし)川」と呼ばれ、掘削技術が未熟で、直接駿河湾に放流できなかった頃は「尻無し」の状態であった。「千本砂礫州」の砂礫層に深い穴を掘削し、溜め池で調整し、かつ自然に浸透するのを待つ故に滅水効果も低かった。三味線(しゃみせん)の棟(さお)と胴の形状に似て「三味線堀」とも呼ばれた。戦中の一時期、土木工事に囚人が動員された関係から「囚人堀(しゅじんぼり)」の別名が付き、現在では「新中川」として整備されている。

東海道以前の古道『本町(ほんちょう)野方絵図面』から古道を確認していく。沼津本町の大門(だいもん)町から旧正見寺(しょうけんじ)の北、上士分であった八幡町の旧本光寺の南側の大字境を経て、郷蔵(ごうぐら)、触れたならば瘧(おこり)に罹(かか)ると忌(い)むヲコリ石(姥石うばいし)や小社の先で子持川橋となる。字山神道(やまがみどう)の畑地に山神社(後に末広神社に合祀)や沼津城主の大矢保忠左(ただすけ)の供養墓の道喜塚(どうきつか)(第一小学校校庭内)があり、当時まだ水田が広がっていた字西之城(後に西条町)の北側、字阿宅丸(あたけまる)(安宅丸)へは「根方道」が延び、東西には米ツキヤ之道・西之城之道が記されている。
 子持川橋の西側は南に蓮池、北に祢宜(ねぎ)ノ後・郷地(ごうち)の畑地を過ぎ、山ノ神・釈迦堂(慈光院)の裏から西側で東海道に出る。東海道の間道だが、中世の有力な古道ルートである。字犬塚の北側、丸子前・堂舗免(どうしきめん)(堂敷免)には古社の丸子(まりこ)神社が鎮座していた。また、橋の北側の子持川沿いには、沼津新田(現本田町)へと「新田道」が延びる。幟道や登道の字が後に用いられるが、道ではなく「登り堂」からの転訛と見られる。
子持川の、より上流側の本町溝(登道用水(のぼりみちようすい))は「三枚橋分か去れ」と分岐後、「本町分か去れ」側は本町溝(大溝)となる。字七反田を流れる東側の「大溝」の分水はガトロ用水(我通路(がとろ)川)と呼ぶ。カトロやガトロの当て字を解釈し、「我歩(あゆみ)を通す。此(こ)の路(みち)可なり。」として、元暦頃の伝承とする古道説は否定する。
(沼津市歴史民俗資料館「資料館だより」2182018625日発行)

沼津ふるさと講座「第一部本因坊丈和 講師菅沼毅・第二部狩野川右岸仲町河岸ダシ」

第一部本因坊丈和資料動画↓



当日第一部PPT資料↓




第二部狩野川右岸仲町河岸ダシ動画↓





当日第二部PPT資料↓




本因坊丈和の顕彰活動など
ふるさと講座で菅沼毅さんが講話
 沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は10日、郷土史講座「沼津ふるさと講座」を図書館講座室で開き、約40人が参加した。西浦木負出身の囲碁名人・本因坊丈和(1787~1847)の顕彰活動について日本棋院沼津支部長の菅沼毅さんが話した。
 丈和は、囲碁が幕府からの保護を受けていた時代の名人で、長らく出身地が不明だったが、近年は西浦木負説で定着した。これを考証した書籍『本因坊丈和出自考』(大沢永弘著)に出合った菅沼さんは丈和顕彰の機運を盛り上げるため、約10年前に日本棋院沼津支部を立ち上げた。
 その後、菅沼さんは西浦出身説を日本棋院に認定させたり、顕彰碑を建立したりなどの活動を続けた。顕彰碑は多くの寄付を集めて2017年12月に除幕式が開かれ、故大沼明穂市長も出席した。囲碁タイトルを競う本因坊戦の誘致にも携わったという。
 こうした活動を振り返った菅沼さんは「中国には琴棋書画という言葉がある。棋は囲碁のことであり、囲碁は音楽や書画と並ぶ文化や教養の大きな柱の一つだった」と述べ、これから市内でも丈和や囲碁に対する理解が深まることを願った。

 狩野川右岸の「出し」
史談会会長らが紹介
 講座ではこのほか、狩野川右岸の仲町に残る「出し」と呼ばれる石積みについて史談会会長の匂坂信吾さんと同会会員の長谷川徹さんが話した。
 この石積みは江戸時代後期の絵地図にも描かれていて、当時は狩野川を渡る船の船着き場などとして使われていたという。
 ◇
 同会は10月26日に開催の「秋の史跡探訪バス旅行」の参加者を募集している。東京都立谷中霊園など沼津兵学校関係者の墓地を巡る。東大の構内や巣鴨とげぬき地蔵なども見学する。
 参加費は会員6000円、非会員6500円。
 問い合わせは同会研修部長の上柳晴美さん(電話090―1418―0435)。
【沼朝2019年(令和1年)8月15日(木曜日)号】

ダシ資料↓

「下河原町(しもがわらちょう)と河岸(かし)」 加藤雅功
  ●河川の港湾をなす「河岸」は船の荷物の積み下ろしをする岸であり、古くに北側の上土(あげつち)のほか、「魚町(うおちょう)」から「仲町(なかちょう)」にかけてがその中心で、問屋・仲買の人々が活躍する場でもあった。大正から昭和初期の絵葉書や新版画に描かれた蔵の連なる倉庫街と「河岸」の風景は、今もその片鱗(へんりん)をわずかに残している。
狩野川右岸では「河岸」の景観だけではなく、「川除(かわよけ)」の機能が重要であり、古くから洪水制御を目的に「出し」が築かれていた。下流側へ斜めに突き出す「石突き出し」(石出し)は単に「出し」と呼ばれ、細い河岸道(かしみち)の先に構築されて、普段は船の係留に役立てられていた。長さは6間程度、幅も5間前後あったが、基礎の材木に太い松などを矩形(くけい)の格子(こうし)状に組み、間に捨て石を置くために堅固で、新旧の堤防工事ではその撤去に難儀した。なお、明治末期には、宮町から下河原町にかけて7つの「出し」があったことを知る。
 これらの「出し」のほか、「河岸」に降りる坂や階段、舟繋(ふなつな)ぎの松、石垣・擁壁(ようへき)等から、川に依存する河港(かこう)の機能だけでなく、洪水災害常襲地の護岸の特異さを反映し、生活に根差した文化的景観をなしていた。

(沼津市歴史資料館「資料館だより」2019325日発行第221号)

2019年8月8日木曜日

昭和5年6月15日発行「静岡懸下御巡幸記念畫報」




慰霊の旅・グアム島 浜悠人




慰霊の旅・グアム島 浜悠人
 昭和十八年夏、義兄土屋寿次大尉は神奈川県相模原で自動車の将校教育を受けていた。当時、国民学校(現小学校)六年生だった私は、夏休みを利用し、沼津から神奈川県相武台の軍官舎に出掛け、宮舎で義兄の軍刀を握り締め、いつの日か憧れの軍人になる日を夢見ていた。
 そんな私に無言で二十四色入りの色鉛筆を渡し、義兄は満州(現中国北東部)へ征った。文学や芸術を重んじた義兄の思いが私への色鉛筆のプレゼントになったものだと後になって分かった。
 昭和十九年春、義兄は満州の遼陽に駐屯していたが、戦況急を告げ、連隊と共にグアム島に向かっていた。アメリカ機動部隊はマリアナ沖海戦で日本の連合艦隊に勝利し、同地域の制空権、制海権を奪い、昭和十九年六月から七月にかけアメリカ軍はサイパン、テニアン、グアムの三つの島に猛攻撃をかけて上陸、日本軍は玉砕の道をたどった。義兄もグアム島で華々しく戦死した。
 昭和四十七年、玉砕の地、グアム島の密林に二十八年間潜んでいた元陸軍軍曹の横井庄一さんが発見された。彼は長年のジャングル生活にもかかわらず健康に留意し、元気に、その年の二月二十日、「恥ずかしながら」と故国の土を踏んだ。
 そして、隊長だった義兄の「生命を粗末にするな」の言葉を胸に生き永らえてきた、と語った。私は義兄の名に驚くと同時に、その人間味ある言葉に胸を打たれた。
 私は二年後の昭和四十九年、義兄の慰霊のため、グアム島に渡った。島の東南にある白浜の海岸で戦死したとの情報を頼りにジープを雇って出発した。
 タロホホ川を過ぎた辺りに白浜の入江があり、渚はアメリカ人のプライベートビーチになっていた。片言の英語で事情を話すと分つたらしく案内してくれた。
 家内と二人で、持参した線香、米、酒、沼津の水を波打ち際に供え、義兄の冥福を祈った。アメリカ人は不思議そうに私達を遠巻きに眺めていた。
 帰途、グアム空港で、みやげ物を沢山買い込んだ観光客に接すると、国のため、同胞のために戦死した義兄や兵達の思いが胸を突き、なんともやるせない思いがした。
 それから三十八年を経た平成二十四年、名古屋に横井庄一記念館があることを知り、訪ねた。記念館は横井さんの自宅を改装したもので、グアム島で二十八年間を送った地下壕の生活で使った数々の道具が展示されていたが、いずれも横井さん自身が作り、再現したものだった。
 この時、横井さんは既に亡くなっていて、生前の横井さんにお会いすることはなかったので、奥様に話をし、仏壇に慰霊の線香をあげさせていただいた。
 定年後、私は今次大戦、各地で戦死された方々のご冥福を祈る旅を続けて来たが、これからも続けたいと思っている。
 (歌人、下一丁田)
【沼朝令和188日(木)寄稿文】